耳を澄ませば、波の音も聴こえそう。

 教室の窓から外を眺める。住宅街の向こうで、夏の太陽に照らされた海が、白い波間を散らしていた。山の中腹にある校舎は、登校するときは息が切れて困るけど、見晴らしがいいのは加点ポイントだ。

《楽しみ》《期待》《緊張》《そわそわ》

 教室の中にある、たくさんの感情がジャマくさい。

「はーい、じゃあ配役きめまーす」

 海に集中していたわたしの意識は、その声に教室の中へと引きもどされた。黒板には「文化祭二年一組 影絵劇《銀河鉄道の夜》」と大きな字で書かれている。

 ――けっきょく、影絵になったんだ。

 カフェとか、お化け屋敷とか色々案が出ていたけど、地味なものに落ち着いたらしい。

「ねえ、のどかはなにやりたい?」

 前の席に座っていた美里が振り返って、あ、と口をとがらせる。彼女がぐいと身を乗り出せば、白いセーラー服に影が落ちた。

「のどかってば、ぼーっとしてる。ダメだよー、ちゃんと参加しないと」
「なに優等生ぶってんの、美里。キャラじゃないじゃん」

 笑えば、美里もいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「そだね、優等生はのどかのキャラだった。で、どうすんの?」
「裏方の仕事あるよね?」
「うん。影絵のための紙人形つくったり、脚本用意したり」
「じゃあ、紙人形づくりにしようかな」

 わたしには表の仕事は無理だ。裏方でひっそり生きていたい。

「主役級のジョバンニとカンパネルラ、このふたつから決めるよー。劇って言っても影絵だから、声当てるだけでいいし。だれかやらない?」

 黒板の前で進行する実行委員の子には申し訳ないけど、また窓の外を見る。わたしはべつに、筋金入りの優等生ってわけじゃない。話し合いをさぼって外の景色を見つめるくらいする。ざわざわとする教室。でもざわめくだけで、なかなか決まらないのは、予想どおり。立候補なんて、だれもするわけない。わたしも嫌だから、なるべく関わらないように、そっぽを向く。

「でも、よかったよね。文化祭中止にならなくて。一応は、だけど」

 美里もわたしと同じで、話し合いには参加しないと決めたらしい。

 ――そういえば、そんな話あったっけ。

「放火魔ね。迷惑なことしてくれちゃって」

 この小さな海沿いの町で、春から連続放火魔が出現していた。幸いボヤ騒ぎぐらいで済んでいるけれど、もう三件発生している。最初が小学校で、つぎ二件は中学校。そのせいで、うちの高校では、文化祭がなくなるかもしれないピンチに陥っていたのだ。

 一応、いまのところは開催予定だけど、もともと二日間の開催予定が一日になるかもしれなかったり、はたまた中止になったりする可能性は、まだある。

「中止になったら、どうしてくれんのって感じ」

 美里がそう言って、心底嫌そうにため息をつく。

「まあ、わたしたちにはどうしようもないよ。放火魔のご機嫌と、先生の判断次第だね」
「のどかってばクールだなあ」

 あきれた美里が肩をすくめたとき、「はーい」と須川さんの声がした。

「ジョバンニ役、彩がいいんじゃないかなって思いまーす!」

 あ、と教室中、みんなが察した顔になる。一気に全員の視線が、ショートカットの女子に集まった。

「……あ、あの、あたしは」

 彩――遠藤彩さんが、ふるえた声でつぶやき、うつむいた。

「あー、いいんじゃない?」
「ね。彩、やりなよ」

 須川さんに賛同するように、何人かの女子がうなずく。遠藤さんは、ますます視線を下におろしてしまう。

 ――嫌だろうな、遠藤さん。

 たとえばここで、「やめなよ、困ってるじゃん」なんて言ったら、助けてあげられるだろうか。……まあ、無理なんだけどさ。海を見つめる。きらきら輝く水面に、すこしは気が紛れる気がした。

 けっきょく、ジョバンニを遠藤さんが、カンパネルラを須川さんがやることになった。「わたしがカンパネルラやってあげるからさ、彩もやりなよ」と須川さんが押し切ったのだ。教室の上下関係ははっきりしている。須川さんは強い。だから仕方ない。

「あれ、のどか? 体調悪い?」

 美里が、わたしの顔を覗き込んだ。
 やば。どんな顔してたんだろう、わたし。
 あわてて笑顔をはりつける。

「ううん、なんでもないよ」
「そ? あ、人形づくりグループに、のどかの名前も書いてきてあげるね」
「ほんと? ありがとー」

 いつのまにか、脇役のキャストも決まって、裏方のメンバー決めに移っていたらしい。美里の丸っこい字で、黒板の「人形づくりグループ」と書かれた横に、三糸(みいと)のどか、とわたしの名前が刻まれていく。わたしはもう一度、海を見つめた。

 ――感情が。

《楽しみ》《かわいそう》《ああ、愉しい!》《……怖い》

 教室中の感情が、ぐるぐるとわたしを取り囲む。冷や汗が、たら、と頬を伝った。気持ち悪い。意識的に深い呼吸に切り替える。海だけに集中しようとした、そのとき。

「ねえ」

 背中を叩かれた。ゆっくり振り返ると、一湊(いっそう)(みなと)の視線とぶつかった。

「大丈夫?」

 静かな声。すこし長めの黒髪からのぞく瞳は、声と同じで静かな色をしている。黒色だけど、澄んだ硝子のように冷たい。白い肌に、その瞳は目立つ。いつだって、ほぼ完ぺきな無表情。でも不思議と、無愛想じゃない。

「……うん、平気。ありがと」

 彼を見ているうちに、汗はすうっと引いていった。わたしの心にも、静けさがもどってくる。

 湊は何事もなかったように、瞳をすっと黒板に向けた。わたしも息を吸って、湊から目をそらす。教室の感情に呑まれないよう集中して、黒板の前からもどってきた美里に「ありがとう」と手をふった。

 背後にいる彼の気配に、ほっとする。

 一湊湊。

 彼の感情だけ、わたしは、読むことができない。だからこそ、わたしに安息をもたらしてくれるひとだった。