ゆらりゆらり。くゆりくゆり。
晴れた日に地面から炎のような揺らめきが立ち上る。
強い日射で地面が熱せられて通過する光が不規則に屈折するとゆらゆらと揺れて見える現象を陽炎という。
人の命のはかなさは、まるでカゲロウのようだ。
カゲロウは風に舞うかのように空中を浮遊する。
カゲロウという名前は空気がゆらめいて見える陽炎が語源らしい。
はかなく弱いカゲロウは、成虫になって数時間で死んでしまうらしい。
なんと短いのだろう。
しかし、数時間というのは成虫となってからの命だ。
意外にも、幼虫の期間は昆虫の中では長い方らしい。
幼虫の時は何度も脱皮する。私たちも脱皮して成長してきたような気がする。
成虫の姿は生ある時の一瞬の姿だ。
カゲロウの幼虫から羽化したものは、亜成虫と呼ばれているらしい。
翅があって空を飛び、成虫と似ているのだが、まだ成虫となってはいない。
亜成虫は、まるで私たちみたいだ。
ゆらゆら揺れる心。大人になりかけているのに、大人ではない。
この微妙な時期。
無色透明な翅。私たちは見えない翅を持っている。羽ばたく準備をしている。
もうすぐ私たちは高校を卒業する。
気づくと高校に通学して過ごすことが当たり前になっていた。
当たり前だったことが卒業すると当たり前ではなくなってしまう。
まず、この高校の生徒ではなくなる。
毎日聞いていたチャイム。毎日通学していた道。毎日歩いていた駅。毎日会っていたクラスメイト。
学校の香りもチョークの粉にまみれた黒板も。窓から見える空も、もう見ることはないだろう。
卒業とは、全ては過去になってしまうこと。もう、二度と味わうことはない当たり前の毎日。
当たり前が当たり前ではなくなるということ。
言ってしまえば、卒業とは、今までとは違う毎日がはじまることなのかもしれない。
高校に入ってから、私の心はネガティブに拍車がかかってしまった。
屋上から無意識に飛び降りようとしていた。
本当に決意も何もなかった。
いつのまにか屋上のフェンスを飛び越えてあちらの世界にいた。
疲れていたというのもあったし、この世界に希望がなかったからかもしれない。理由は考えれば色々ある。
家族のこと、学校のこと、勉強のこと……親の束縛の呪縛。
言い訳になるかもしれないが、自分はそんなに強い人間ではない。
だから、自己処理できないだけだったのかもしれない。
頼れる友達もいなかった。
「死ぬ前に、俺と友達にならない?」
優し気な声が背中越しに聞こえる。
声の主は同じクラスの同級生。
顔だけは知っている程度の存在。
飛び降りようとしている同級生に向かって平然と笑顔で手を差し伸べてくれた。
彼は不思議な光に包まれているように見えた。天使のように救いをあたえてくれる存在に思えた。
温かなぬくもりを全身に纏ったような人。
こんな状況なのに驚くこともなく、笑顔で対応する同級生の名前は羽多野空。
華奢で透き通るような肌色で中性的な雰囲気の少年だった。
サラサラした色素の薄い髪の毛は染めているわけでもないのに茶色だった。
太陽の光のせいで余計茶色く見えたのかもしれない。
今思えば、なぜあんなに天気のいい日に屋上から飛び降りようとしたのか。
今となっては自分でもわからない。
高校に入って大好きな友達ができた。
その人は、初めての親友となった。
男子なのに、柔らかな物腰で今までの男子という印象とは少しばかり違う。
男子なんて未知なる野蛮な生き物だと思っていた私には新鮮な出来事だった。
「今、死ぬ必要ある?」
彼は穏やかな物腰でそう言った。
「なんか疲れちゃって」
フェンス越しの会話だった。
「俺は生きたくても長生きできないから、人生の長さを選択できる人が羨ましいよ」
「生きられないの?」
演技ではない言葉に耳を傾ける。
優し気な口調だけれど、どこかさみし気で諦めが入っている言葉。
「こっちにおいで」
まるで小さな子どもを呼ぶかのように優しくフェンスの内に入るようにいざなう。
その後、彼の病気について話を聞いた。
「生まれつき病弱で成人まで生きられないと言われている。いつ、人生が終わるかわからない毎日を過ごしている」
空を見上げながら、初めて話す少年の身の上話を聞いた。
自分より不幸な人が身近にいることは意外なことだった。
不幸の度合いが違う。
違う世界の人間。
でも、隣で話していると自然と心は解け込んだ。
自分が一番不幸だと思っていた。でも、そんなことはないんだと感じる。
長い人生があるのに、命を投げ出そうとする私と、いつ死ぬかわからないから毎日を大切に生きる彼。
真逆の考え方だった。
「人生の長さをある程度選べる私は幸せなのかもしれないね」
彼と話していて価値観が変わった。
ずっと親の干渉が厳しいことに悩んでいた。
どうして私だけ? 自問自答の日々だった。
「親の干渉が辛いんだ。価値観を押し付けられてさ。コミュ力がないから、友達もできないし。スマホは親が持ってはいけない悪いものだと洗脳されている。勉強も一日中しろと監視されている。自由がないの」
「そーいうの、毒親っていうのかもね」
あっけらかんと笑いながら話を聞く彼と一緒にいると、そんなにたいした悩みじゃないのかもしれないと思える。
そういう不思議な包容力というのか不思議な雰囲気を持つ人だった。
「いつか自分も親も死ぬ日が来る。だから、そんなに急いで死ぬ必要ないよ。勝手に親が死ぬ日は来るからさ」
勝手に死ぬ日が来る。当たり前のことを私は気づけないでいた。
この日々がずっと続くような気がしていた。
親の干渉が永遠に続くような気がしていた。
「あなたは、病気で死ぬことは怖くないの?」
「慣れたかな。短命なことも病気のことも幼少期からわかっていることだったから、覚悟みたいなものは自然と身についていたと思うよ」
だからこんなに落ち着きがあるのだろうか。
飛び降りようとする人に友達になろうなんて普通言わないと思う。
しかも、必死に説得するとかそういう感じが全くない。ゆるりとした話し方。
常に死と隣り合わせで生きていると、こういう感じになれるのだろうか。
同じ歳なのに尊敬する。
独特なふんわりした雰囲気に呑まれていた。
当たり前だと思って過ごしていた毎日。
でも、その人は成人の年齢、十八歳になってすぐに亡くなってしまった。
まるでカゲロウのようだ。
亜成虫の時期を共に過ごしていたのかもしれないと思う。
彼の見た目は華奢で色白で、たしかに体が丈夫そうには見えなかった。
結局、病気で彼は亡くなってしまった。
この世からいなくなってしまった。
勝手に死ぬ日が来る、それは本当だった。
今まで身近な人間が死ぬことはなかったから、死に対して現実味がなかった。
彼の印象はカゲロウみたいにどこか透き通っていて、はかなさのあるつかみどころのない人。
独特な雰囲気を持つ人。そんな彼に惹かれた。
出会ったのは高校一年の時。高校三年生の時に、彼の病状は徐々に悪化した。
彼の誕生日を一緒に祝って、それから程なくして、彼はこの世から姿を消した。
まるでカゲロウのように、成虫になってすぐに死んでしまうかのように――。
それからの受験期は正直きつかった。
でも、空の親友であり、同じ高校の同級生の魅影凛朗がいたから何とかなったような気がする。
幼い時から空は彼と仲がよかったらしい。私達はリンローと呼んでいた。
彼らは幼少期からの腐れ縁。とても仲が良かった。
真逆なタイプなのに性格がぴったり合う。
でも、心根が優しかったり、素直なところは似ていた。きっと内面が似ていたのだろう。
友達のいない私に空くんは親友のリンローを紹介してくれた。
空とは全然違う体育会系。ザ男子という感じで、色黒の脳筋というのが第一印象。
髪の毛は短めで重力に逆らっているかのように空に向かって逆立っていた。
優し気で中性的な空とは真逆の鋭い目つき。なんとなく目元も鋭い。
なぜ二人が仲がいいのか最初は甚だ疑問だった。
最初こそ苦手なタイプと思ったけれど、空の親友というだけあって、裏表のないタイプだった。
だから、時間と共に素を出すこともできたし、信頼を置いていた。
三人で一緒にいる時間はかけがえのない戻らない想い出。
絵に描いたような青春だったように思う。
二人とは高校で知り合ったので、カゲロウに例えると、亜成虫の時期しか知らないような感じだ。
空に関しては、私が特別な感情を持っていたけれど、ひた隠しにしていた。
空の顔立ちが好みだったのもあるし、優しい性格に惹かれたというのもある。
リンローと空は真逆だった。リンローは体育会系のおおざっぱ男子。
空は神経質で繊細男子。でも、真逆の二人なのに、なぜか気が合った。
お互いないものを持っている同士、新鮮だったのかもしれない。
優しいふんわりした雰囲気を纏う空のような男子は新鮮だった。
高校一年生の時に、リンローと空と同じクラスになって、飛び降りようとした時に、空と初めて話をした。
そんなことは嘘だったかのように、夏の頃にはすっかり私は二人と仲良くなっていた。
三人はいつも一緒だった。夏休みは花火大会、海に行き、一緒に宿題をした。
塾に行くと嘘をついて、色々なことをしていた。
スイカ割りをして、大きなスイカのジュースを飲んだり、花火を買って夏を満喫した。贅沢な時間だ。
何気ない毎日が楽しかった。
髪型にも気を配るようになったし、私服にもこだわるようにもなった。
親は相変わらずだったけれど、無視する力も身に着けた。気を遣うことは辞めた。
気にしない。悪いことなんてしていないのだから。
楽しい時間が三年生の前半くらいは続いたと思う。
彼が死ぬまでは。
リンローは私の気持ちに気づいていたのかもしれない。
いつもどこか気を遣う姿勢があった。わざと二人きりになるように仕向けるときもあった。
空は先が長くない自分が恋愛をしてはいけないとよく言っていた。
まるで自分に言い聞かせるかのように。
そして、私たちに周知させるために。
だから、空は人を好きにならないということはわかっていた。
友達としての好きならありだけど、恋愛としての好きは無しだと。
空としては、相手を悲しませたくないからという理由らしい。
彼らしい選択肢だ。いつも相手を気遣う人。
世界の中心は決して自分ではないと自覚している人。
もしかして、私の気持ちに気づきながら、その気持ちをうまくかわしていたのかもしれない。
クリスマスは三人でパーティーをしたり、年末年始も、初詣に行ったり、心地いい時間を過ごしていた。
結局冬のイベントは、二年生までしか三人で楽しい時間を過ごすことはできなかったけれど。
親がうるさいから、寝たふりをして、深夜に出かけたこともあった。
幸い私の部屋が一階だったので、窓からこっそり抜け出すことは可能だった。
私の密かなる恋心に気持ちに気づきながら、リンローは見守ってくれていたと思う。
ロマンティックなのシチュエーションもリンローがプロデュースしてくれた。
二人きりで空と出かけるときは、さりげないアドバイスをくれた。
体育会系で口は悪いけど、一番優しく温かく見守ってくれていたように思う。軽口叩くけれど、いつも周囲に気を配れる人だ。
的確なことを言うリンローは裏表がなく、人を思いやるが故に、きつい言葉になることが多い。
それは、空と私のことを大事に思っていたからだと思う。
三人というバランスがちょうどよかったのかもしれない。
空に告白はしなかった。好きだとは伝えなかった。
あくまで命の恩人であくまで友人だというスタンスは崩さなかった。
恋愛はしないという彼の言葉が私の心にブレーキを与えていたのだと思う。
穏やかな印象の空は意外と初志貫徹なタイプだ。
だから、絶対に恋愛はしないのだろう。それはわかっていた。
フラれて関係が悪化するよりも、彼が生きている間仲良くしていたい。だから、友達でいよう。
彼がこの世からいなくなって――そのバランスが崩れてから、私の心はからっぽになっていた。
多分、リンローの心にもヒビが入っていたように思う。
未だに死を受け入れられないのが本音だった。
もっと高校生をしていたいというのが本音だった。
あの頃にもどりたいと思うのが本音だった。
入学当初、友達もできない私は、行きたくないなと思いながら重い足取りで歩いた通学路。
もう、この道を通ることもなくなる。
黒板のチョークがなかなか取れない黒板消しも、いつもチョークで汚れている黒板も、教室の香りも全てが想い出となる。
もしかしたら、機会がなければ、二度と教室に来ないかもしれない。
久しぶりに校舎に来るとしたら、道のりも校舎も学校全てが懐かしく新鮮に感じるのだろう。
ここに居場所がなくなること。それが卒業だ。
春の足音を感じながら私たちは歩く。
少しばかり春の温度を感じながら、温かくなった風を感じる。
受験もあり、空がいなくなってからリンローと出かけることはなくなった。
学校で話したり、一緒に帰る程度。
帰り道の途中に空くんのお墓がある。時々二人でお墓参りをして帰る。
今日も二人で近況を語りに行く。
二人での学校帰りのお墓参りももうすぐ無くなってしまう。
大学へ進学すれば、帰り道も変わる。
卒業とは――変化すること。終わること。無くなってしまうこと。
そこにあるのは、寂し気な言葉に感じる。
何となくマイナスな言葉しか浮かばない。
今の私たちには変化することは怖いことでもあった。
今まで高校生という立場で社会に守られてきた。
卒業すれば責任がつきまとう。責任は自由と引き換えに現れるもの。
自己責任の元、将来の道を選ぶ。
卒業と同時に家を出ることにした。
県外の大学で一流の偏差値の高い大学を受けることにした。
親から逃れるためには一番いい方法だった。
もちろん成人すればスマホだって自分で契約できるし、アルバイトもできる。
自分でできることが増えていく。
教育熱心な親が大学の偏差値やブランド名に食いつかないはずはなかった。
だから、すんなり県外の大学受験の話は進んだ。
ずっとこの町にいるような気がしていたけれど、二人と仲良くなって価値観が変化した。
違う町に行って、知らない場所で自立した生活を送りたい。
いつまでも親の視線にくすぶっているなんてもったいない。
自分がどこまでできるのか可能性を試したい。
ずいぶんと前向きな自分がいた。
友達だってできるとも限らない。
知らない町で孤独になるかもしれない。
でも、幸いリンローも同じ大学の違う学部に進学するということで、心強かった。
夕暮れの香りがする。懐かしいけど寂しい香りだ。
「卒業の先に何があるんだろう。私、何か変わるのかな?」
一瞬後ろ向きな気持ちが芽生える。この町への未練なのかもしれない。
「卒業の先なんて今の延長線上に過ぎないと思うぞ。俺は、大学に入ってからも部活でサッカー続けるしな」
相変わらず真剣味のない答え。言っていることは正しいとは思うけれど。
「私、自分を持ってないような気がする。これといった将来のビジョンもないし」
正直な感情をぶつける。
「それもまたひとつだと思う。この歳で、明確な将来のビジョン持ってる方が少ないと思う。おまえは、親から逃れるために県外の大学に行く。これも立派な選択だよ。俺は、生物学を学びたいと思ってるんだ。カゲロウってすごく面白い昆虫なんだよな。他の生物にはない亜成虫という幼虫と成虫の間の時期があってさ。地球上で初めて空を飛んだ生物なんだよ」
彼の瞳は生き生きしている。
「体育会系なのに、生物については、相変わらず博識だよね。私は、とりあえず文学部。やりたいことも見つからないし、何かになれるのかもわからないけど」
「そういう人も多いと思うぞ。とりあえず前に進めば、何かは見つかると思うけどな。おまえは本が好きだから文学部、それでいいじゃん」
相変わらずの単純な理屈を述べる彼を見ているとほっとする。そんなに悩む必要なんてないのだと。
「リンローらしい単純明快な答えだなぁ。でも、大学に進学しても、何もみつからないかもしれないよ」
やっぱり後ろ向きな考えの私。
「みんな将来の夢とか言うけどさ。大人になったら何になりたい? じゃなくて、どこの大学や会社に入ったの? って所属先を聞かれるんだよな。幼稚園の時は、職業を聞かれるのにな。やりたい仕事でなくて、人生でやりたいことが見つかったらそれだけでラッキーだと思うんだ。それが趣味で金にならなくてもいいと思うし」
ずっと聞きたくても聞けなかったことを言葉にする。
卒業したら今までみたいに会えなくなってしまう。
こんな会話をする機会もなくなるかもしれない。
「空くんって私のことを恋愛対象に見てなかったってことかな?」
リンローを見上げる。彼ならきっと答えを知っているだろう。
一瞬黙る。そして、口を開く。
「空はおまえのことが好きだったと思うぞ。だから、あんなに恋愛を拒否していたんだよ。自分がこの世界からいなくなることがわかってたからな。優しいからこそ、気持ちを伝えなかったんだろうな」
わかったふうな口ぶりだ。彼は空のことをどの程度理解していたのだろうか。
「そんなわけないじゃん。私、かわいくないし」
自分が好みではない顔立ち。目の形。スタイルも良くはない。そんな私を好きだというはずはない。
「相変わらずおまえは鈍感だな。俺、この気持ちから卒業しようと思って、今日こそはちゃんと話そうと思う。空が気持ちを伝えなかったのは俺への配慮もあると思うんだ」
珍しく真剣な顔をする。いつもひょうきんなことを言うのにこんな顔は珍しい。いつもとの違いに少しばかり戸惑ってしまう。
「ずっと……瑠理香のことが好きだった。だから、おまえの幸せのために一番いいであろうことをしてきたつもりだ。空のことが好きだと気づいたから、空と瑠理香のために協力もした。それは、おまえの幸せを一番に考えていたからだ」
突然の告白。卒業式間近での墓参りの時に、相当長い間秘めていたであろう気持ちをリンローは私に伝えた。それは、空への許可を取るかのように、正々堂々とした宣言のようだった。
その告白は青天の霹靂で、私にとってはかなりの衝撃だった。
最初こそ鋭いきつい目つきだと思っていたけれど、笑うと目じりが下がる優しい笑顔を持ち合わせた人。
背も高く、筋肉質な男らしい人。マイナスなイメージは嘘のようにプラスのイメージになっていた。
「瑠理香の親はかなり厳しい親だろ。だから、交際なんてもってのほかだと思ってた。でも、十八歳は成人だ。そして、同じ大学に進学するわけだ。真剣に付き合おう」
握手する姿勢でお辞儀をする。礼儀正しいのはリンローらしい。
「もちろん、将来を見据えて真面目に付き合うつもりだし、浮気なんてしない。瑠理香を大切にする」
贅沢な言葉のシャワーに涙があふれる。優しい人だということを改めて感じる。
この人の心にたくさんの愛が秘められていたんだ。
この人に守られていたんだ。
でも、同時に申し訳なく思う。
「でも、私は空くんが好きだった。そんな私でいいの?」
一応確認する。鈍感な私はリンローの気持ちをわかっていなかった。
「そんなことはわかってる。その気持ちをひっくるめて全部俺に託してほしい。実は、空からメールをもらってるんだ」
スマホに映る文字には羽多野空という懐かしい文字と、文章が存在していた。
たしかに彼はこの世界にいたんだと改めて思う。
この世にいた証を突きつけられた感じがする。
久しぶりに触れる空くんの感触が文字から伝わる。
『リンローへ。俺の命は長くない。だから、リンローに瑠理香のことを託したいと思っている。俺は二人のことが大好きだ。瑠理香のことを恋愛対象として見ていたこともあった。でも、いなくなる俺よりも長生きできるリンローと共に歩んでほしいと思った。彼氏が死んだら悲しむのは必須だろ。どうせなら、来世は二人の子どもとして生まれ変わって大好きな二人と共に生きたいな。瑠理香をよろしく頼んだぞ。』
その文章には空の本当の気持ちが書いてあって、空の声が聞こえるような気がした。
優しくてはかなくて透き通るような人。
まるで翅が生えてそのまま死んでしまったかのようだ。
もう絶対に会えない人。記憶の中で生き続ける人。
「私たちは空くんを忘れないようにしないとね」
自然と涙は流れ続けていた。空の気持ちが伝わる。心がじんわりする。
「これから、私と一緒に生きて。一度空くんに救ってもらった命をあなたと共に生きていきたい」
故人の遺志と自分の気持ちを考えた結論だった。
空のことを好きだったけれど、リンローのことも好きだった。そのことに気づく。それは二つの恋愛感情だったのかもしれない。同時に違うタイプの二人のことが好きだという贅沢な気持ちだった。
「私は人生を選択できる贅沢な人間だって空くんが言ってた。だから、リンローと一緒に生きたい」
リンローは驚いた顔をしたが、次に嬉しそうに抱きしめた。
空の墓に交際のことを報告する。
「私、親の束縛から卒業するね。リンローと付き合うよ。ありがとう、空くん。大好きだったよ」
空への想いから卒業した瞬間だったように思う。いつも無意識に気になっていたリンローへの想い。
初めて気づいたリンローへの思い。
視線の先にリンローがいる。きっとこれからの当たり前の景色になるのだろう。
一瞬春風が吹く。まるで、私たちのことを空が祝福しているかのような花舞う暖かで優し気な風だった。
薄紅色の桜の花びらが頬に当たる。まるで花のシャワーのように一瞬だけ私たちを囲む。
空くんなら笑顔でおめでとうと言うだろう。彼はそういう性格だ。
いつもにこやかで穏やかで優しい。
人の幸せを心から喜ぶことができる人。
そんな彼だから、友達がたくさんいたのだと思う。慕われていた人間だった。
お墓にはお花やジュースやお菓子が供えられていて、クラスメイトなどが墓参りに来たであろう痕跡があった。
彼はたしかに生きていた。この世界に存在していたんだ。
「死んだら無になるなんて思えない。きっと天国なる場所があって、私たちはそこでまた出会えると思うんだ。私たちにできることは、最期の日までどう生きるのかということだよね」
「そうだな。空がいなかったら、俺たちはこんな風に仲良くなれなかった。またあの世で三人で笑いたいな。最終的に、元いた場所に戻るだけだよ」
「それまでは私たちがこの世でたくさん笑わないと天国に行けないと思う。一度投げ捨てようとした命を救ってくれた。空くんはいいことをたくさんしたから、きっと天国なる場所で幸せに生きていると思うんだ」
あるかもわからない天国へ思いを馳せる。
きっと彼の魂は。どこかで生きていると信じたいから。
逃げたくなるときもあるけれど、死が終わりではないと信じたいから。
共にわかり合えるリンローとならば、先の未来を歩むことができそうな気がした。
晴れた日に地面から炎のような揺らめきが立ち上る。
強い日射で地面が熱せられて通過する光が不規則に屈折するとゆらゆらと揺れて見える現象を陽炎という。
人の命のはかなさは、まるでカゲロウのようだ。
カゲロウは風に舞うかのように空中を浮遊する。
カゲロウという名前は空気がゆらめいて見える陽炎が語源らしい。
はかなく弱いカゲロウは、成虫になって数時間で死んでしまうらしい。
なんと短いのだろう。
しかし、数時間というのは成虫となってからの命だ。
意外にも、幼虫の期間は昆虫の中では長い方らしい。
幼虫の時は何度も脱皮する。私たちも脱皮して成長してきたような気がする。
成虫の姿は生ある時の一瞬の姿だ。
カゲロウの幼虫から羽化したものは、亜成虫と呼ばれているらしい。
翅があって空を飛び、成虫と似ているのだが、まだ成虫となってはいない。
亜成虫は、まるで私たちみたいだ。
ゆらゆら揺れる心。大人になりかけているのに、大人ではない。
この微妙な時期。
無色透明な翅。私たちは見えない翅を持っている。羽ばたく準備をしている。
もうすぐ私たちは高校を卒業する。
気づくと高校に通学して過ごすことが当たり前になっていた。
当たり前だったことが卒業すると当たり前ではなくなってしまう。
まず、この高校の生徒ではなくなる。
毎日聞いていたチャイム。毎日通学していた道。毎日歩いていた駅。毎日会っていたクラスメイト。
学校の香りもチョークの粉にまみれた黒板も。窓から見える空も、もう見ることはないだろう。
卒業とは、全ては過去になってしまうこと。もう、二度と味わうことはない当たり前の毎日。
当たり前が当たり前ではなくなるということ。
言ってしまえば、卒業とは、今までとは違う毎日がはじまることなのかもしれない。
高校に入ってから、私の心はネガティブに拍車がかかってしまった。
屋上から無意識に飛び降りようとしていた。
本当に決意も何もなかった。
いつのまにか屋上のフェンスを飛び越えてあちらの世界にいた。
疲れていたというのもあったし、この世界に希望がなかったからかもしれない。理由は考えれば色々ある。
家族のこと、学校のこと、勉強のこと……親の束縛の呪縛。
言い訳になるかもしれないが、自分はそんなに強い人間ではない。
だから、自己処理できないだけだったのかもしれない。
頼れる友達もいなかった。
「死ぬ前に、俺と友達にならない?」
優し気な声が背中越しに聞こえる。
声の主は同じクラスの同級生。
顔だけは知っている程度の存在。
飛び降りようとしている同級生に向かって平然と笑顔で手を差し伸べてくれた。
彼は不思議な光に包まれているように見えた。天使のように救いをあたえてくれる存在に思えた。
温かなぬくもりを全身に纏ったような人。
こんな状況なのに驚くこともなく、笑顔で対応する同級生の名前は羽多野空。
華奢で透き通るような肌色で中性的な雰囲気の少年だった。
サラサラした色素の薄い髪の毛は染めているわけでもないのに茶色だった。
太陽の光のせいで余計茶色く見えたのかもしれない。
今思えば、なぜあんなに天気のいい日に屋上から飛び降りようとしたのか。
今となっては自分でもわからない。
高校に入って大好きな友達ができた。
その人は、初めての親友となった。
男子なのに、柔らかな物腰で今までの男子という印象とは少しばかり違う。
男子なんて未知なる野蛮な生き物だと思っていた私には新鮮な出来事だった。
「今、死ぬ必要ある?」
彼は穏やかな物腰でそう言った。
「なんか疲れちゃって」
フェンス越しの会話だった。
「俺は生きたくても長生きできないから、人生の長さを選択できる人が羨ましいよ」
「生きられないの?」
演技ではない言葉に耳を傾ける。
優し気な口調だけれど、どこかさみし気で諦めが入っている言葉。
「こっちにおいで」
まるで小さな子どもを呼ぶかのように優しくフェンスの内に入るようにいざなう。
その後、彼の病気について話を聞いた。
「生まれつき病弱で成人まで生きられないと言われている。いつ、人生が終わるかわからない毎日を過ごしている」
空を見上げながら、初めて話す少年の身の上話を聞いた。
自分より不幸な人が身近にいることは意外なことだった。
不幸の度合いが違う。
違う世界の人間。
でも、隣で話していると自然と心は解け込んだ。
自分が一番不幸だと思っていた。でも、そんなことはないんだと感じる。
長い人生があるのに、命を投げ出そうとする私と、いつ死ぬかわからないから毎日を大切に生きる彼。
真逆の考え方だった。
「人生の長さをある程度選べる私は幸せなのかもしれないね」
彼と話していて価値観が変わった。
ずっと親の干渉が厳しいことに悩んでいた。
どうして私だけ? 自問自答の日々だった。
「親の干渉が辛いんだ。価値観を押し付けられてさ。コミュ力がないから、友達もできないし。スマホは親が持ってはいけない悪いものだと洗脳されている。勉強も一日中しろと監視されている。自由がないの」
「そーいうの、毒親っていうのかもね」
あっけらかんと笑いながら話を聞く彼と一緒にいると、そんなにたいした悩みじゃないのかもしれないと思える。
そういう不思議な包容力というのか不思議な雰囲気を持つ人だった。
「いつか自分も親も死ぬ日が来る。だから、そんなに急いで死ぬ必要ないよ。勝手に親が死ぬ日は来るからさ」
勝手に死ぬ日が来る。当たり前のことを私は気づけないでいた。
この日々がずっと続くような気がしていた。
親の干渉が永遠に続くような気がしていた。
「あなたは、病気で死ぬことは怖くないの?」
「慣れたかな。短命なことも病気のことも幼少期からわかっていることだったから、覚悟みたいなものは自然と身についていたと思うよ」
だからこんなに落ち着きがあるのだろうか。
飛び降りようとする人に友達になろうなんて普通言わないと思う。
しかも、必死に説得するとかそういう感じが全くない。ゆるりとした話し方。
常に死と隣り合わせで生きていると、こういう感じになれるのだろうか。
同じ歳なのに尊敬する。
独特なふんわりした雰囲気に呑まれていた。
当たり前だと思って過ごしていた毎日。
でも、その人は成人の年齢、十八歳になってすぐに亡くなってしまった。
まるでカゲロウのようだ。
亜成虫の時期を共に過ごしていたのかもしれないと思う。
彼の見た目は華奢で色白で、たしかに体が丈夫そうには見えなかった。
結局、病気で彼は亡くなってしまった。
この世からいなくなってしまった。
勝手に死ぬ日が来る、それは本当だった。
今まで身近な人間が死ぬことはなかったから、死に対して現実味がなかった。
彼の印象はカゲロウみたいにどこか透き通っていて、はかなさのあるつかみどころのない人。
独特な雰囲気を持つ人。そんな彼に惹かれた。
出会ったのは高校一年の時。高校三年生の時に、彼の病状は徐々に悪化した。
彼の誕生日を一緒に祝って、それから程なくして、彼はこの世から姿を消した。
まるでカゲロウのように、成虫になってすぐに死んでしまうかのように――。
それからの受験期は正直きつかった。
でも、空の親友であり、同じ高校の同級生の魅影凛朗がいたから何とかなったような気がする。
幼い時から空は彼と仲がよかったらしい。私達はリンローと呼んでいた。
彼らは幼少期からの腐れ縁。とても仲が良かった。
真逆なタイプなのに性格がぴったり合う。
でも、心根が優しかったり、素直なところは似ていた。きっと内面が似ていたのだろう。
友達のいない私に空くんは親友のリンローを紹介してくれた。
空とは全然違う体育会系。ザ男子という感じで、色黒の脳筋というのが第一印象。
髪の毛は短めで重力に逆らっているかのように空に向かって逆立っていた。
優し気で中性的な空とは真逆の鋭い目つき。なんとなく目元も鋭い。
なぜ二人が仲がいいのか最初は甚だ疑問だった。
最初こそ苦手なタイプと思ったけれど、空の親友というだけあって、裏表のないタイプだった。
だから、時間と共に素を出すこともできたし、信頼を置いていた。
三人で一緒にいる時間はかけがえのない戻らない想い出。
絵に描いたような青春だったように思う。
二人とは高校で知り合ったので、カゲロウに例えると、亜成虫の時期しか知らないような感じだ。
空に関しては、私が特別な感情を持っていたけれど、ひた隠しにしていた。
空の顔立ちが好みだったのもあるし、優しい性格に惹かれたというのもある。
リンローと空は真逆だった。リンローは体育会系のおおざっぱ男子。
空は神経質で繊細男子。でも、真逆の二人なのに、なぜか気が合った。
お互いないものを持っている同士、新鮮だったのかもしれない。
優しいふんわりした雰囲気を纏う空のような男子は新鮮だった。
高校一年生の時に、リンローと空と同じクラスになって、飛び降りようとした時に、空と初めて話をした。
そんなことは嘘だったかのように、夏の頃にはすっかり私は二人と仲良くなっていた。
三人はいつも一緒だった。夏休みは花火大会、海に行き、一緒に宿題をした。
塾に行くと嘘をついて、色々なことをしていた。
スイカ割りをして、大きなスイカのジュースを飲んだり、花火を買って夏を満喫した。贅沢な時間だ。
何気ない毎日が楽しかった。
髪型にも気を配るようになったし、私服にもこだわるようにもなった。
親は相変わらずだったけれど、無視する力も身に着けた。気を遣うことは辞めた。
気にしない。悪いことなんてしていないのだから。
楽しい時間が三年生の前半くらいは続いたと思う。
彼が死ぬまでは。
リンローは私の気持ちに気づいていたのかもしれない。
いつもどこか気を遣う姿勢があった。わざと二人きりになるように仕向けるときもあった。
空は先が長くない自分が恋愛をしてはいけないとよく言っていた。
まるで自分に言い聞かせるかのように。
そして、私たちに周知させるために。
だから、空は人を好きにならないということはわかっていた。
友達としての好きならありだけど、恋愛としての好きは無しだと。
空としては、相手を悲しませたくないからという理由らしい。
彼らしい選択肢だ。いつも相手を気遣う人。
世界の中心は決して自分ではないと自覚している人。
もしかして、私の気持ちに気づきながら、その気持ちをうまくかわしていたのかもしれない。
クリスマスは三人でパーティーをしたり、年末年始も、初詣に行ったり、心地いい時間を過ごしていた。
結局冬のイベントは、二年生までしか三人で楽しい時間を過ごすことはできなかったけれど。
親がうるさいから、寝たふりをして、深夜に出かけたこともあった。
幸い私の部屋が一階だったので、窓からこっそり抜け出すことは可能だった。
私の密かなる恋心に気持ちに気づきながら、リンローは見守ってくれていたと思う。
ロマンティックなのシチュエーションもリンローがプロデュースしてくれた。
二人きりで空と出かけるときは、さりげないアドバイスをくれた。
体育会系で口は悪いけど、一番優しく温かく見守ってくれていたように思う。軽口叩くけれど、いつも周囲に気を配れる人だ。
的確なことを言うリンローは裏表がなく、人を思いやるが故に、きつい言葉になることが多い。
それは、空と私のことを大事に思っていたからだと思う。
三人というバランスがちょうどよかったのかもしれない。
空に告白はしなかった。好きだとは伝えなかった。
あくまで命の恩人であくまで友人だというスタンスは崩さなかった。
恋愛はしないという彼の言葉が私の心にブレーキを与えていたのだと思う。
穏やかな印象の空は意外と初志貫徹なタイプだ。
だから、絶対に恋愛はしないのだろう。それはわかっていた。
フラれて関係が悪化するよりも、彼が生きている間仲良くしていたい。だから、友達でいよう。
彼がこの世からいなくなって――そのバランスが崩れてから、私の心はからっぽになっていた。
多分、リンローの心にもヒビが入っていたように思う。
未だに死を受け入れられないのが本音だった。
もっと高校生をしていたいというのが本音だった。
あの頃にもどりたいと思うのが本音だった。
入学当初、友達もできない私は、行きたくないなと思いながら重い足取りで歩いた通学路。
もう、この道を通ることもなくなる。
黒板のチョークがなかなか取れない黒板消しも、いつもチョークで汚れている黒板も、教室の香りも全てが想い出となる。
もしかしたら、機会がなければ、二度と教室に来ないかもしれない。
久しぶりに校舎に来るとしたら、道のりも校舎も学校全てが懐かしく新鮮に感じるのだろう。
ここに居場所がなくなること。それが卒業だ。
春の足音を感じながら私たちは歩く。
少しばかり春の温度を感じながら、温かくなった風を感じる。
受験もあり、空がいなくなってからリンローと出かけることはなくなった。
学校で話したり、一緒に帰る程度。
帰り道の途中に空くんのお墓がある。時々二人でお墓参りをして帰る。
今日も二人で近況を語りに行く。
二人での学校帰りのお墓参りももうすぐ無くなってしまう。
大学へ進学すれば、帰り道も変わる。
卒業とは――変化すること。終わること。無くなってしまうこと。
そこにあるのは、寂し気な言葉に感じる。
何となくマイナスな言葉しか浮かばない。
今の私たちには変化することは怖いことでもあった。
今まで高校生という立場で社会に守られてきた。
卒業すれば責任がつきまとう。責任は自由と引き換えに現れるもの。
自己責任の元、将来の道を選ぶ。
卒業と同時に家を出ることにした。
県外の大学で一流の偏差値の高い大学を受けることにした。
親から逃れるためには一番いい方法だった。
もちろん成人すればスマホだって自分で契約できるし、アルバイトもできる。
自分でできることが増えていく。
教育熱心な親が大学の偏差値やブランド名に食いつかないはずはなかった。
だから、すんなり県外の大学受験の話は進んだ。
ずっとこの町にいるような気がしていたけれど、二人と仲良くなって価値観が変化した。
違う町に行って、知らない場所で自立した生活を送りたい。
いつまでも親の視線にくすぶっているなんてもったいない。
自分がどこまでできるのか可能性を試したい。
ずいぶんと前向きな自分がいた。
友達だってできるとも限らない。
知らない町で孤独になるかもしれない。
でも、幸いリンローも同じ大学の違う学部に進学するということで、心強かった。
夕暮れの香りがする。懐かしいけど寂しい香りだ。
「卒業の先に何があるんだろう。私、何か変わるのかな?」
一瞬後ろ向きな気持ちが芽生える。この町への未練なのかもしれない。
「卒業の先なんて今の延長線上に過ぎないと思うぞ。俺は、大学に入ってからも部活でサッカー続けるしな」
相変わらず真剣味のない答え。言っていることは正しいとは思うけれど。
「私、自分を持ってないような気がする。これといった将来のビジョンもないし」
正直な感情をぶつける。
「それもまたひとつだと思う。この歳で、明確な将来のビジョン持ってる方が少ないと思う。おまえは、親から逃れるために県外の大学に行く。これも立派な選択だよ。俺は、生物学を学びたいと思ってるんだ。カゲロウってすごく面白い昆虫なんだよな。他の生物にはない亜成虫という幼虫と成虫の間の時期があってさ。地球上で初めて空を飛んだ生物なんだよ」
彼の瞳は生き生きしている。
「体育会系なのに、生物については、相変わらず博識だよね。私は、とりあえず文学部。やりたいことも見つからないし、何かになれるのかもわからないけど」
「そういう人も多いと思うぞ。とりあえず前に進めば、何かは見つかると思うけどな。おまえは本が好きだから文学部、それでいいじゃん」
相変わらずの単純な理屈を述べる彼を見ているとほっとする。そんなに悩む必要なんてないのだと。
「リンローらしい単純明快な答えだなぁ。でも、大学に進学しても、何もみつからないかもしれないよ」
やっぱり後ろ向きな考えの私。
「みんな将来の夢とか言うけどさ。大人になったら何になりたい? じゃなくて、どこの大学や会社に入ったの? って所属先を聞かれるんだよな。幼稚園の時は、職業を聞かれるのにな。やりたい仕事でなくて、人生でやりたいことが見つかったらそれだけでラッキーだと思うんだ。それが趣味で金にならなくてもいいと思うし」
ずっと聞きたくても聞けなかったことを言葉にする。
卒業したら今までみたいに会えなくなってしまう。
こんな会話をする機会もなくなるかもしれない。
「空くんって私のことを恋愛対象に見てなかったってことかな?」
リンローを見上げる。彼ならきっと答えを知っているだろう。
一瞬黙る。そして、口を開く。
「空はおまえのことが好きだったと思うぞ。だから、あんなに恋愛を拒否していたんだよ。自分がこの世界からいなくなることがわかってたからな。優しいからこそ、気持ちを伝えなかったんだろうな」
わかったふうな口ぶりだ。彼は空のことをどの程度理解していたのだろうか。
「そんなわけないじゃん。私、かわいくないし」
自分が好みではない顔立ち。目の形。スタイルも良くはない。そんな私を好きだというはずはない。
「相変わらずおまえは鈍感だな。俺、この気持ちから卒業しようと思って、今日こそはちゃんと話そうと思う。空が気持ちを伝えなかったのは俺への配慮もあると思うんだ」
珍しく真剣な顔をする。いつもひょうきんなことを言うのにこんな顔は珍しい。いつもとの違いに少しばかり戸惑ってしまう。
「ずっと……瑠理香のことが好きだった。だから、おまえの幸せのために一番いいであろうことをしてきたつもりだ。空のことが好きだと気づいたから、空と瑠理香のために協力もした。それは、おまえの幸せを一番に考えていたからだ」
突然の告白。卒業式間近での墓参りの時に、相当長い間秘めていたであろう気持ちをリンローは私に伝えた。それは、空への許可を取るかのように、正々堂々とした宣言のようだった。
その告白は青天の霹靂で、私にとってはかなりの衝撃だった。
最初こそ鋭いきつい目つきだと思っていたけれど、笑うと目じりが下がる優しい笑顔を持ち合わせた人。
背も高く、筋肉質な男らしい人。マイナスなイメージは嘘のようにプラスのイメージになっていた。
「瑠理香の親はかなり厳しい親だろ。だから、交際なんてもってのほかだと思ってた。でも、十八歳は成人だ。そして、同じ大学に進学するわけだ。真剣に付き合おう」
握手する姿勢でお辞儀をする。礼儀正しいのはリンローらしい。
「もちろん、将来を見据えて真面目に付き合うつもりだし、浮気なんてしない。瑠理香を大切にする」
贅沢な言葉のシャワーに涙があふれる。優しい人だということを改めて感じる。
この人の心にたくさんの愛が秘められていたんだ。
この人に守られていたんだ。
でも、同時に申し訳なく思う。
「でも、私は空くんが好きだった。そんな私でいいの?」
一応確認する。鈍感な私はリンローの気持ちをわかっていなかった。
「そんなことはわかってる。その気持ちをひっくるめて全部俺に託してほしい。実は、空からメールをもらってるんだ」
スマホに映る文字には羽多野空という懐かしい文字と、文章が存在していた。
たしかに彼はこの世界にいたんだと改めて思う。
この世にいた証を突きつけられた感じがする。
久しぶりに触れる空くんの感触が文字から伝わる。
『リンローへ。俺の命は長くない。だから、リンローに瑠理香のことを託したいと思っている。俺は二人のことが大好きだ。瑠理香のことを恋愛対象として見ていたこともあった。でも、いなくなる俺よりも長生きできるリンローと共に歩んでほしいと思った。彼氏が死んだら悲しむのは必須だろ。どうせなら、来世は二人の子どもとして生まれ変わって大好きな二人と共に生きたいな。瑠理香をよろしく頼んだぞ。』
その文章には空の本当の気持ちが書いてあって、空の声が聞こえるような気がした。
優しくてはかなくて透き通るような人。
まるで翅が生えてそのまま死んでしまったかのようだ。
もう絶対に会えない人。記憶の中で生き続ける人。
「私たちは空くんを忘れないようにしないとね」
自然と涙は流れ続けていた。空の気持ちが伝わる。心がじんわりする。
「これから、私と一緒に生きて。一度空くんに救ってもらった命をあなたと共に生きていきたい」
故人の遺志と自分の気持ちを考えた結論だった。
空のことを好きだったけれど、リンローのことも好きだった。そのことに気づく。それは二つの恋愛感情だったのかもしれない。同時に違うタイプの二人のことが好きだという贅沢な気持ちだった。
「私は人生を選択できる贅沢な人間だって空くんが言ってた。だから、リンローと一緒に生きたい」
リンローは驚いた顔をしたが、次に嬉しそうに抱きしめた。
空の墓に交際のことを報告する。
「私、親の束縛から卒業するね。リンローと付き合うよ。ありがとう、空くん。大好きだったよ」
空への想いから卒業した瞬間だったように思う。いつも無意識に気になっていたリンローへの想い。
初めて気づいたリンローへの思い。
視線の先にリンローがいる。きっとこれからの当たり前の景色になるのだろう。
一瞬春風が吹く。まるで、私たちのことを空が祝福しているかのような花舞う暖かで優し気な風だった。
薄紅色の桜の花びらが頬に当たる。まるで花のシャワーのように一瞬だけ私たちを囲む。
空くんなら笑顔でおめでとうと言うだろう。彼はそういう性格だ。
いつもにこやかで穏やかで優しい。
人の幸せを心から喜ぶことができる人。
そんな彼だから、友達がたくさんいたのだと思う。慕われていた人間だった。
お墓にはお花やジュースやお菓子が供えられていて、クラスメイトなどが墓参りに来たであろう痕跡があった。
彼はたしかに生きていた。この世界に存在していたんだ。
「死んだら無になるなんて思えない。きっと天国なる場所があって、私たちはそこでまた出会えると思うんだ。私たちにできることは、最期の日までどう生きるのかということだよね」
「そうだな。空がいなかったら、俺たちはこんな風に仲良くなれなかった。またあの世で三人で笑いたいな。最終的に、元いた場所に戻るだけだよ」
「それまでは私たちがこの世でたくさん笑わないと天国に行けないと思う。一度投げ捨てようとした命を救ってくれた。空くんはいいことをたくさんしたから、きっと天国なる場所で幸せに生きていると思うんだ」
あるかもわからない天国へ思いを馳せる。
きっと彼の魂は。どこかで生きていると信じたいから。
逃げたくなるときもあるけれど、死が終わりではないと信じたいから。
共にわかり合えるリンローとならば、先の未来を歩むことができそうな気がした。