「母さん! 香澄って何してるの?」
 家に帰ると僕は手を洗うのも忘れ、母さんに尋ねた。
「何? 学校にいなかったの?」
「不登校らしい」
「私はそんなこと知らないわよ」
「ちょっと行ってくる」
 俺は荷物を玄関にほったらかして香澄の家へと自転車を走らせた。
 背後から「渉、病院は?」という母さんの声が聞こえたけれど、手放してはいけないものを手放す羽目になるくらいならそんなこと一つや二つ欠けるぐらいお安いご用だ。
 完全に治ったわけではない。だから、あまり心臓に負荷をかけてはいけないからゆっくりと自転車を走らす。そのつもりなんだけれど、ペダルを思いっきり踏んで受ける風が涼しい。
 自転車は激しく揺れる。自ら出すこのスピードになんとか耐えようとタイヤが跳ねるもののそれは心臓に響く。
 誰もいない路地で自転車が倒れた。
 そこには人が乗っていて、自転車に足を挟まれている。
「あと、もう少し……」
 挟まれた足が痛い。気がついたら、こんなことになっていた。
 なんとか自転車をどかした。少しの隙間からどうにか足を捻る。
 自転車はもう使い物にならない。
 自転車から抜け出せたもののはさまれた足の痛みは今も痛い。だけど、そんなのは知らない。
 俺がなぜここまで頑張ってしまうのかわからない。
 だけれど、香澄が不登校なのに俺が関わっていないことは考えられない。
 痛みなんか吹き飛ばせ!
 体全体が痛みなんか緩和してくれる!
 放課後の夕焼けは誰かを応援しているように燃えていた。声援だって聞こえてきた。
 "如月"の表札。
 俺はすかさず家のインターホンを鳴らした。
 チャイムの音は他の音にかき消されて聞こえなかった。それが己の心臓と知っても、へこたれることはなく目の前のドアを見ていた。
 やがて、ガチャンと音が鳴るとそれは開いた。
「渉……くん……?」
 香澄がドアから顔を覗かせた。

「この時間は両親は共働きで家にいないんだよね」
 せっかくだし、と家にあげてもらい今俺はお茶をご馳走してもらっている。お茶菓子としてもなかまであって疲れた体を癒してくれた。
「久しぶり、だけど、どうしたの? おまけにかなり急いでいたみたいだけど……」
 言おうと思った。「どうして、君が不登校になっているのかを知りたくて」と今すぐにでも言いたかった。
「あはは。元気そうで何よりだよ」
 耳に入った笑い声を聞いて笑ったと思って顔を見た。目元だけは明るい、昔の小学生の笑い方だ。それに釣られて俺も何度か笑ったときがあった。
 口は開いたままだ。
 だから俺は笑えない。
「なんか、大変そうだけど。大丈夫か?」
「大丈夫、大丈夫! 何もないし気にしなくていいよ」
 昔とは違った。およそ一年ぶりの再会でこうも俺らは変わるようだった。
 途切れた会話。それで生まれる、気まずい空気をあの頃の俺は吸っても特に居心地さは変わらずで、次は何を話そうかなみたいな能天気だった。
 今はもう違う。
「久しぶりにあの公園に行かないか?」
 一見香澄の顔を見て俺の提案に前向きそうではなかった。ダメかなと、時の流れと心の成長に恐ろしさを感じる。
「いいよ」
 それをいう表情はやはり死んでいる。

 公園について、昔のようにお互いベンチに腰がける。いや、もう昔の俺らはいない。俺に"僕"はない。
 "儚い"
 これの後に続く言葉を思いつくなら何があるだろう。
 "儚い命"
 これなら、よく耳にする。若者向けの物語として彼らの心をもグッと掴んでくる光景が目に浮かぶ。
 "儚い足"
 頭の中に"?"が浮かぶだろう。今見る現場を表し、心に残す言葉としたらまさしくこれしか見当たらない。
「びっくり、したよね。足を切断したんだ。今はこうやって義足がついている」
 公園に向かうときの違和感を口にしてしまった。最低だ。男なら最後まで、喉の奥で耐えておいておけ。
 何を言ったんだ?
「靴に何か入ってた?」だったか。陳腐でありきたりなおせっかいだ。
 ロボットみたいだ。俺と同じ人間じゃない、希少な人種。まるで、「渉とは何もかもが違う」と大きく主張している。
「どうして……?」
 俺が言う言葉なんか限られている。何かを言って、香澄の足が生えてくることはないし、かといって香澄の過去が今と同じになるわけない。
 俺らは知らないうちに成長するんだ。
 誰にも言われないのはお互いが一緒にそれを歩んでいるから。だから、気づかない。
 だけど、こんな気づき方はおかしすぎる。
「見てお分かりの通り足がおかしかったみたいなんだ」
 俺の顔なんか見ようともしない。流石に呆れた。
「そして、その足を切ったんだー」
「苦しくないのか……」
「苦しいって何が?」
「嘘なんだろ! それもこれも全部嘘なんだろ! だから、これもきっと夢で、俺が学校に行ったのも全部夢だ!」 
 ほっぺを捻った。嫌な場面を目の当たりにする心の閉塞感はなんとも否めない。辛い現実だ。
「え! 渉くん学校行ったの?」
「ああ、行ったさ。香澄に会えると思ったさ。いないと思ったらなんで、こんなことに……」
「いつ言おうか悩んでたし、なんかありがとうだね」
 その顔が……。
「なんだよその面は! 悔しくねえのかよ、苦しくねえのかよ! 諦めるんじゃねえ!」
 俺は叱咤した。その勢いで腰掛けていたベンチから立ち上がった。
「それは死ぬのか? 俺みたいにもうすぐ死ぬためのレールを進むのか? なあ、教えてくれよ」
 香澄は何も言わない。言えないが一番しっくりくる表情だ。
「俺は後数年後に死ぬ。数十年じゃないし、その数年が大きい数じゃない……」
 膝に入っていた力がスウっと抜けていく。膝が地面に付くと涙が地面に溢れていく。
「俺は悔しいし、苦しいし! 今まで生きているのが普通だと感じてた過去の俺を殴りたい。明日死ぬかもしれない思いを、どこにぶつければ……」
 気分を害した。それは俺、そして香澄も。
 無言でベンチから離れる香澄を見て、一目瞭然だ。久しぶりの再会を感動じゃなくて鬱憤で弾き飛ばす俺をどう思う。
 俺はこの先孤独になると感じた。
 香澄は今までで最高の親友だ。どこかで歯車を狂わせた。けれど、それも自分。
 夜を導く暗闇に駆ける香澄の背中を見送る俺を表する題名なんてない。

 気持ち的に行けるときは行く。行けないときは行かないと自分に決めて学校に通った。最初はなんともなかったはずだ。
 普通に声をかけて、周りの話題に耳を傾ける。そして、周りのテンションに合わせて盛り上がる。
 俺の発言の権利はなかったのに等しい。
 何か発言をしろ。会話は続くが二往復もそれは続かずに、他の会話、話題へとすり替わる。
 俺は声はあまり大きい方じゃなかった。だからかもしれないが、無視の回数も増えていった。
 声が聞こえていないから、と自分に言い聞かせるが普段の会話もこの声量。異常に小さい訳でもない。
「完全に舐められてるな……」 
 それを零す、放課後の通学路。 
 社会まで持たず、学校はそれほど寛容じゃなかったみたいだ。
 それでも、俺は学校を不登校になることはなかった。せっかくの交流の場を自分から引き離すのはおかしい。
 これは意地でもの対抗だ。
 自体は急変する。
 俺はいじめの対象になってしまった。
「不登校の如月っているだろ。不登校の原因は、あいつだよ」
 これはあくまでも、発祥源となった元の会話をいじったもの。教室の端で特に目立ってもいないメンツがこれらをこそこそと呟いていた。彼らはそれを聞いて俺に何もすることはなかったからひとまずは置いておいた。
 発端は彼らでもないことはわかっている。それは噂だと前置きする会話を耳にした。
 ネットで言うアンチコメントの手紙版が自分の下駄箱を占領した。男女問わず、名前を小学校のときから知るやつもいれば、中学校から始めましてのやつもいる。
 だから、名前も顔も知らない赤の他人でしかない。
"おまえが不登校になれや!"
"人の人生を粗末にするな!"
"頭がいい奴は何かしら起こすし嫌いだ!"
 俺への罵倒。俺への挑戦状。
「上等だ」
 こんな柄じゃない。僕が僕を話す瞬間。
 僕を常日頃支えたのは誰だ。
 僕を離さないために手を繋いだのは……。
「知るか、俺は俺だ!」
 下駄箱にあった靴を思いっきり下へと叩きつける。
 俺はまだ動ける。

 俺はその日から、挑戦状と黒板の筆跡を合わせて深く観察し始めた。ときには、授業の板書として使うノートを見たり、掲示板にある自己紹介カードを見た。
 俺は今ここで気づいたのだ。
 通常、一クラスに生徒は三十八人。だがしかし、このクラスは四十人いる。
 自己紹介カードが掲示されるスペースに隙間がない。どこもかしこもパンパンだ。
 そもそも先生が俺を不登校と扱っていた。学校に来ない、自分とは生涯関わらない生徒。

 何もできない。それが現実だと知らされた。
 先生に言えばいじめの軽減に働くかもしれないけど、先生自体俺をなんとも思っていない。
 終わりだ。
 今では先生の感心が全て向こうに傾いている。
 犯人に突き止めたのだ。
 やはり、海二だ。
 そして、面白いものも発見した。
 海二の机の引き出しに特に変わりもないノートがあった。だからこそ、俺はそれにありつけたのだ。
 "香澄へ"
 そこから綴られて文章は、見ているだけでも嗚咽やため息、馬鹿馬鹿しさが止まらない。
 "田中山なんかより俺の方がかっこいいぞ"
 "あんなやつのどこが良いんだよ"
 限界でもここまでだった。まだまだ、香澄へと向けらてた言葉は多々あった。それもご丁寧に箇条書きで綴られていて非常に自信がみられた。
 もちろん、あれが俺を侮辱しているのはわかっている。だから、ノートを早めに閉じたのかもしれない。
 自己防衛のためにその判断は正しかったといえよう。

 けれど、決心はついた。
「俺はもう、袋のねずみだ……」
 負け惜しみを吐くかのように、その言葉を誰もいない教室で吐いた。

 クラス替えが終わった中学三年。
 この時期には何があるかわからない。
 今後の一年を大きく左右する。
 俺はそれがある意味分岐点だ。
「渉ってさ、ゲームとかしないの?」
 名前はもちろん知らないし、顔をこのとき初めて見た。
 その声は低く、落ち着いていて話し相手を包み込んでくれそうだ。
「特にしないけど、どうした?」
「いや特に。普段ボーッとしてるけど、何考えてるんやろうって疑問で」
 俺は一部のみんなからそう見られているのかもしれない。もう少し笑顔でいるべきか。
 とにかく、少し笑ってみた。
「いや、無理に笑わなくてもいいよ」
 なんか気まずい。
「友達いないんだから、なってあげるよ」
「大きなお節介だ。俺には友達なんていらない。一人が好きなんだ」
「変わってるなー」 
 そいつは目を丸くして俺を凝視した。
「仲良かった人とかいないの?」
 嘘をつこう。
「いない」
「話したことある人は?」
「何も業務連絡」
「好きな人は?」
「───」
 その質問はタブーだけど何も知らないのだからしょうがない。
「女には興味があるみたいで良かった」
「なんだよ、その物乞いは」
「なんとなくだよ、なんとなく」
 どこかで見た光景だ。この空気と、そのからかう笑顔。
「名前、聞いても良いかな?」
「お、男にも興味が出てきたか! 関心関心!」
「それはなんだか良くない。友達だよ、友達。話してみてなんだか楽しかったから」
 体は少しの僕を覚えている。身体中に一瞬染み渡った。その感情がぼんやりと体を包み込んでいく様を僕は……って。
「───大輝って言います!」
「大輝ね。今日からよろしく」
「苗字はなんでしょう?」
「俺は田中や───」
「違いますよ。俺のです。何大輝でしょう?」
 完全に聞き逃して、紡ぐ言葉が見当たらない。
「───」
「渉のこと殴っていい?」
「一回なら……」
 苗字は木村だそうだ。木村大輝。残り一年もないのにと、せっかくの機会をあまり喜ばない自分はなんなのだろう。

 ちなみに、この日の放課後に俺はしっかりと頬を殴られた。
 これが、俺らが初めて交わした挨拶なのかもしれない。
 (一方的で強引だけど、まあ仕方ない)
 
 俺はてっきり、大輝はボッチの人間だと思っていた。けど、彼には友達がいて数人のグループを作って集まっていた。
「安心しろって。こいつらは、優しいし寛容だから、渉のことも引き受けてくれるはずだ」
「はずって、それ信用していいの?」
「俺は信用する」
 (お前がしても意味ないんだよ)
「手始めに自己紹介とかどうだ?」
 ここは大輝の家で中にはあと三人いた。全員同級生と言いもちろん俺と同じ中学校在籍だけど、やはり初めてだ。
「近藤茂咲って言います」
「茂咲? すごい名前だね。どんな漢字書くの?」
「野球選手の野茂英雄の茂ってやつと、咲は花が咲くの咲。野球と花の調和って変な感じでしょ」
 そう言って茂咲は自分で笑い始めて、お腹を抱える。どこかしらの想い人を連想してしまう自分が情けない。
「新木晋」
「えっと、それだけ?」
「逆に君は僕にどんな情報を提供する?」
「───」
 こいつとは話が合うことはないだろうと思った。
「まあ冗談で、歴史と好きなんだけど、渉はどう?」
「自分はそれほど。学校で習った知識しか持ってないから」
「それでも十分! ねえねえ、今川義元って渉から見てどう思う?」
「政治とか民のことを考え抜く武将だと思うけど……」
「鋭いねー。なんかめっちゃ話合いそう!」
 ある意味茂咲よりも印象が強かった。自分から捻くれて、それは冗談。
 何が始まるのかと思いきや歴史が好きな同級生。
「これからよろしくね」
 おまけに、顔はなかなかのイケメンと見た。羨ましい。
「大山拓です。この中で一番頭良いから、わからない問題とかあったら教えてあげるよ」
「出た! 拓の頭良いですよアピール」
「僕は君のそういうところが好きじゃない」
「渉、忘れるなよ。こいつこんなこと言うけどいつもテストで二位で一位に勝ててないんだから」
 少しは噂に聞いていた。一位をまた逃したと嘆く奴がいるから見に行こうとクラス内でちょくちょく噂になったのだ。
 多分それが拓なんだろう。
「前のテストの五教科何点なの?」
「四八八点。一位は一体何点取ってるんだよ」
「その十点プラスの四九八点。あそこの数学の問題で珍しく。計算ミスしたんだよなー」
 拓がこっちを振り向く。
「今、なんて言った?」
「え、いや簡単なミスで満点逃したなーって」
「お前か! お前が一位だったのか! なんで、一位がなんでこんなところに!」
 拓は勝手に泣き出し始めた。
「俺は悔しい、俺は悔しい! 聞かせてくれ、どうしたらそんな点数が取れるんだ!」
「中一のときに中学の学習範囲を終わらせたからかな」
「すでに負けていたなんて! みっともない、ギャーー」
 将来、学歴厨にならないことを密かに祈っておくことにした。なんだか恐ろしい。
「面白いメンバーでしょ。なんと中一のときからで今年もなんだけどクラスが全員同じだったんだぜ!」
「それはすごいね」
 この結束力は間違えなさそうに思えた。リーダー的存在の大輝を筆頭に全員が明るく輝いていて誇らしく感じる。
「いつもみんなで何をするの?」
 その中にお邪魔することになるのだから、何かお土産のような、俗に言う恩返しをしなくちゃだ。
 こういうコミニュティは精神的に病む心が晴れやすくなる。包まれるのだ。この周りの盛り上がりに便乗し、活気づけられる。
「特に何もしないけど、何かしたい?」
 俺は答えた。茂咲の件で一つ思い浮かんだ。
「花を摘みに行きたい。親友に調子の良くない子がいるから看病ついでに、送りたい」
 これを聞いて、みんなは感嘆する表情を浮かべる。
「親友ってどんな子?」
 大輝は言う。
「なんで言わなきゃ?」
「知りたいじゃーん。上手くいけば俺らも仲良くなれるかもだし」
 一種の勧誘だけど、このやり方は少し笑える。
「女子なんだけどさ、優しくて一緒にいると凄い楽しいんだ」
 みんなは目を丸くして、俺に視線を集める。
「え? 彼女?」
「まさかの新入りの彼女がいる設定だったかー」
「いずれは利家とまつみたいな婚姻を、うわー羨ましい!」
「頭も良くてモテるとか羨ましいぞ!」
 この場はあれだ。しっかり学生をしていて妬む。
「違うんだ。好きでも、嫌いでもない。多分好きという感情がそこにあるんだとしたら、それは単なる友達としてだし、向こうも俺を恋愛対象なんて……」
「いきなり、ぺちゃくちゃと話すようになりましたね。わたくしは見逃しませんよ。茂咲!」
 大輝は茂咲を呼んだ。
「ホームセンターへ行こう。今の渉とその女の関係はわからないけど、なんとなくその実態は興味がある」
 一語一語がはっきりと聞き取れるのは大輝がそれくらいハキハキと話しているからだ。
「渉! 詳しく聞かせてね」
 追加で目を光らせている。
 (全く、やれやれだ……)
 俺はこの後のみんなの盛り上がりを予想することにした。

 案の定、説明してゴリラみたいに叫ぶ奴はいなかった。
 (良かった、ここが今日限定の動物園にならなくて)
 俺を誘ってくれたところからなんとなく優しいということは知っていた。そして、そう人物だからこそ次の道というなの救いの手はわかる。
 相談とかが主流でいろいろ質問してくるはず。
 彼らについて問題が一つある。心というか行動が読めない。
 俺が先に述べた相談を俺を含まずに四人で行なっている。俺を先に行かして、後ろでこそこそとしている。
「ねえ! 何話してるんだよ」
「秘密だよ!」
 それが不思議でならなかった。
 俺は前に向き直った。
 それにしても、説明があまりにも複雑で彼らの顔の表情が面白くなっていた。
 足の件については、復唱はしないがあの遊園地デートやら、公園での二人だけの時間。
 語り出したらキリがなかった。楽しすぎた。
 この二人の時間が楽しいことは百も承知だ。好きな人と一緒にいて、楽しくないっていうのが自分にとっては考えられない。
 俺は気づいたのだ。
 この楽しさを共有したことは今までにあっただろうか。
 "友達がいない。"
 その一言だけで俺は何もかも片付けてしまっていた。
 ドミノの感覚だ。
 懐かしい。
 まだ自分は小学生にもなっていない。
 ドミノは作るのは至ってシンプルで簡単だ。倒れないように、ただただ並べていく。それは倒れやすいものとかではなく、しっかり、長方形が地面に接して支える。
 だけど、壊れやすい。 
 どこかに、指先がチョンと触れてみろ。
 それは連鎖で次に次にと崩れ倒れていく。
 脆くて、崩れやすいのに俺はただただ並べていった。
「ドミノはなんのためにやるの?」
 自分がドミノをやっておきながら、幼稚園の先生にそう問いかけたのを思い出す。
「楽しいから」
 先生はそう子供に裏を見せない。
「じゃあ、楽しいならなんでもしていいの? 違うでしょ。楽しいで終わらしてはいけないものがあるんだよ」
 もちろん、先生は困る。だって、相手は幼稚園児だ。そんな変な質問をする幼稚園児なんてこの世でもそうそういないだろう。
 今思うとすごい申し訳ない。
 (面倒をかけました。田中山渉。今初めて反省します)
 けれど、その先生はしっかりと答えてくれた。
「努力の身につけ方なんじゃないかな」
 自分だけを包む周りの空気が一変して、軽くなった。
「努力って、まあまだ幼稚園児はしたことないと思うけど、コツコツって音で表したりするのよ。コツコツって何かを積んでいくイメージじゃん。塵も積もれば山となるってことわざがあるんだけどそれなんだよ。一つの目標のために一つ一つに決して手を抜かない。そういうことを教えてくれるんだって」
 この先生は今何をしているのだろう。すごく立派だった。
 だから、今のこの状況でドミノの感覚なんて言葉が出てきたんだ。
 密かにそれは努力だったんだ。
 香澄と話すこと自体がそうだ。
 そもそも、自分は人と話すのがそんなに得意じゃないし、面白い会話もできない。なら、たくさん話すだけなんだ。
 俺は香澄だけど、それができたと思う。
 人と話す力。
 それがしっかりと身についているじゃないか。
 でも、どこかで手を抜いた。
 場所はわからないけど、それは今は続いていない。
 だって、香澄と今一緒にいない。 
 何よりの証拠で、示していた。
 でも、俺は新しいものを積み上げる。
 後ろを振り向いてその姿を拝む。まだ、なんかコソコソと話しているけれど、今は退屈なんかじゃない。
 努力は実るんだ。

 ホームセンターにやっとついた。途中、俺は歩くのが早かったせいか、大輝らとはぐれるアクシデントがあったが、しばらくしたら合流できた。
「何買うの?」
 そう聞くと思う。
「さ、買いに行こう。香澄ちゃんに花束をあげよう!」
 大輝らの行動は本当に読めない。俺を無視して、花を選び始めた。

 しばらくして、俺は茂咲に声を掛けられた。
「これとか良いんじゃないか」
 そう言われた。
 香澄とお花摘みをしたときの記憶が流れるように頭の中で進んでいく。
 "タンポポ"
 "桜"
 これらには、花言葉があって香澄は選んだ。
 その花言葉はどれも美しくて、俺は忘れないように心にそっとしまった。
 
 大好きだ───。

 香澄のそういうユーモアな知識が大好きだ。
 豆知識のような感覚と、タンポポに関しては俺らを繋いでいた。
 そういうところが大好きだ。
 
「ほらこれ。チューリップ。しかも、綺麗な赤色をして綺麗だよ」
「あほ。赤はダメだ。お見舞いに持って行きたいんだろ? 渉」
「そう。お見舞いに。っても彼女は既に病気治ってるんだけれど」
 足の切断。それで彼女は救われたんだ。
 だから、これはお見舞いに行くべきなのかもなかなかの難しいところで悩んでしまう。
「なら、もうここ全部で良いんじゃないの?」
 晋が言う。面倒くさそうな発言に見えるが、四色のチューリップを眺めて必死に考えている。
「香澄ちゃんって、こういう花言葉に詳しいって言ったよな。それ本当だよね? 信じていい?」
「俺はなんかの事件の容疑者か?」
「ちげーよ。面白いこと言うな」
 茂咲がまた悩み出した。
 決断を下したのと同時にみんなを呼んだ。
 (だから、なんで俺以外なんだよ!)
 集まってまたコソコソと話始める。今回の表情は結構マジなやつだ。たまに大輝がニヤニヤ笑う。
 けれど、最後は引き締まった顔で場を締めた。
「四色買おう。そのうち、赤はお前が持っておくことにするんだ。いいな」
「俺はなんで、それに関係しているのにその場に加わったらダメなんだよ」
「言うかあほ! チューリップ渡し終えたときの、報告待ってるからな」
「ちょ、待って。お前ら来ないの?」
「行くかよ! そこは親友同士久しぶりの再会楽しんでこいよ」
 てっきり行くのかと思っていた。
 このグループに誘うべく、ヘラヘラとした服装とか口調で口説いたりするのかと思っていました。
 なんで四色なのかはわからない。
 だけれど、彼らが必死に考えてくれたんだ。 
「さ、お花を持ってレジに直行だ!」
 赤、黄、紫、ピンク。
 チューリップといえば赤だから、赤だけで良いような気もするけれど、残りの三色も引けを取らないくらいに鮮やかだ。
「今からでも遅くない。香澄ちゃんの家に向かうぞ!」
 わかったことが一つある。
 こいつらは無茶過ぎる。

 ちなみに、香澄との関係のときに自分の病気のことも伝えた。
「特発性拡張型心筋症だよ」
 これを何回繰り返して伝えたことか。
 ただでさえ長い病名なんだからせめて二回くらいで聞き取ってよ。
 けれど、特別驚いた顔をしなかったのがなんか腹立つ。
 せめて、心配の一言は欲しかった。
「それって大丈夫なん?」
「治るの?」
「何かしたいことある?」
 みたいなさ。なんか欲しかった。
 それで、どんな病気なのかの説明。
 これも何回言ったのか、何回も繰り返した。
「寿命がもう長くはない」
 そう言ったものの返ってきた言葉があまりにも心配しなさすぎる。
「え、じゃあワンチャン卒業旅行とか行けない感じ?」
「え、そうじゃん! 長生きしようよ渉!」
 こいつらの能天気ぶりはなかなか面白いけど、俺にはそろそろ限界もある。
 だけど、心がいつもより違う温度を纏っている。
 それがすごい気掛かりだ。
 また、あの病気の症状じゃないのかと不安になる。
 なんか、ここは安全地帯なんだよって、心がそう言ってくれているような気がして、この場が好きになりそうだ。
 冗談は好きなものと嫌いなものがある。
 ただ、他人を侮辱するだけのやつと他人とその周りも幸せにするやつと。
「俺はまだまだ死なねえよ!」 
 そう願う。願うためにも俺は強くならなきゃいけない。
 学校の在り方とは人間をこう導くためにあるのだろうか。
 いずれにしても、今の俺は強い。

「あ、そうだ。渉!」
 茂咲は俺を呼ぶと手招きをして近くを誘う。
「赤のチューリップって綺麗だろ。チューリップの象徴みたいな色してさ」
「そうだね。確かに綺麗だ」
「そこでだ、これだけ渉が持って帰ると良い」
 みんなは一斉に俺の顔を覗く。
 ニヤニヤとした表情で、何か企みを持ってそうな顔つきだ。
「何もないって。ああそれと、赤のチューリップにはこんな花言葉があるんだ。ちょっと耳貸して」
 耳にこそこそと小さい声でそれを伝えた。
 聞き間違えかと思った。
「赤と血は同じ色。それを知っている香澄ちゃんならそれを回避せずにはいられないはずだ。どうだ、告白とかできないなら、向こうからの報告を待てば良いじゃないか」
「茂咲名案でしょ! これなら渉にもできる!」
「ああ。やってこいよ! 俺たちは信じてる」
 勝手に信じられて、ああ、そういうことだったのか。だから、さっきから後ろで集まってこそこそと。
「ちなみに、チューリップを選んだ件については花言葉に詳しい友達と選んだって伝えてくれ。怪しがられるのもあれだから、聞かれたらでいい。それと、もしもの会話の話題に困ったら使ってくれ」
「ありがとう」
 装飾もなしにありきたりな言葉だと思う。
 だけど、人はときにはシンプルなものを好むときがある。
 無駄に派手になって、本来の趣旨をつい忘れてしまようなものはこの場にいらない。
 だから、"ありがとう"。
「期待に絶対に応えて見せる!」
 みんなの心は共鳴した。
 みんなの視線が見えてしまう不思議な気持ちになった。
 みんながいる。
 それを強く思わす何かが俺の心に寄り添ってくれる。

「大輝は用意周到だなー」
 拓はそう言いながら座席を倒して寝ようとする。
 いきなり香澄の家に行けと言い出した大輝だが、事前に自分の母の車を手配していたようで、「これで間に合うやん」と言う。
 俺のためにとか思ったけれど、仲間いわく大輝はそもそも母の車に乗って家に帰るからちょうど良いとのことらしい。
「渉君。どこまで送ればいい?」
 大輝の母が丁寧な言葉遣いで話しかけてきた。
「隣町にある小学校近くのスーパーわかりますか? そこに降ろしてください」
「あそこら辺に住んでいるのね」
「いや違うよ母ちゃん。こいつは今から好きな子に───」
「おいおいちょい待ち!」
 大輝は助手席に座って、俺はその後ろの席。
 暴れる口を落ち着かせようと抑えてやった。
「こーらこら、渉君の嫌がること言うんじゃないの」
 車は右に曲がった。
 シートベルトは一応しているが、席から離れるのは少し危険だ。暴れる大輝が少し心配だが、手を離ししっかりと席に背中をつけることにした。
「けどー良いなー。青春ってあっという間だからさ、君たちも好きな子がいるんならすぐにアタックしなよー!」
「俺は嫌だよ。てか、いないし……」
「大輝ママ! こいつ気になっている人いるの知ってる?」
「おい! やめろよ茂咲!」
 車内は若い声に包まれた。
 笑って、笑って、笑って。
 だから、気がついたら自分も笑っている。
 病気のことなんか他人事のようになって忘れて、今の幸せを噛み締める。
 これから、どんなことが待っていようとも乗り切れる気がしてきた。
「渉君。そろそろ着くから準備しな。要件はよくわからないけど上手くいくことを我らは願っているよ!」
「そうだそうだー!」
 笑いは次に応援と姿を変える。その応援が俺宛てとなるわけだ。
 口角が上がって、多分微笑む。
 
 しばらくして、車はそのスーパーに到着した。
「さあ、頑張ってこい!」
「チューリップ枯らすなよー」
 他にも聞こえる応援。でも、もうお腹いっぱいだ。
「ご馳走様。それじゃあ行ってきます!」
 一歩、また一歩と足を進める。決して走るな。
 この暗闇に、俺は今光を帯びて溶け込んでいく。

「どなた様ー?」
 インターホンを押して出てきたのは、香澄の母親だ。
「あら、渉君じゃないの。久しぶりだね。香澄にようかしら?」
「はいそうです!」
 いつにも増して今の言葉には何かが込められていた。
「ちょっと待っててね。聞いてくるから。よかったら、汚いけど中でお待ちになって」
「はい。ありがとうございます」
 汚いと言っていたけど対して汚いと思う箇所はなく香澄らしい家だなと、この前来たとき同様に感じてしまう。
 香澄の匂いがする。
 夜の公園とか、一緒に遊んだときとか。
 いろんな記憶と思い出が回想する。
 懐かしいから泣きたいのだろう。
 そうだよ。きっとそうに決まってる。
 思い出に自分がつけた価値があるから、代償に涙が出るんだ。
「久しぶりー、渉って、え?! なんで、なんで泣いてるのー!」
 今のこの状況で思い出に浸るのはいけないんだと学習した。

「へー、プレゼントにチューリップか。綺麗だねー!」
 俺が掲げた花束を見て、香澄は言う。
 ボーッと見た後、彼女は話し始めた。
「四色あるけど、これ全部私の?」
「いや、この赤色だけ俺が貰っていこうと思う。なんか綺麗だしさ、それにこれこそチューリップって感じじゃん?」
「そうだけど……」
 香澄の言葉が語尾に近づくにつれて潰れる。
 茂咲の言った通りだ。
 香澄はこの赤色のチューリップに食いついた。
「私、それもらいたいな。チューリップもみんな一緒がいいと思うし」
「えー、でもなあ」
 わざとらしい拒み方でバレないかが心配だが、ひとまずこれで様子を見る。
「多分だけど、あのとき渉が言おうとした言葉そのものだと思うの」
 僕の心を貫く。けれど、安心して欲しい。遠慮の気持ちを込められて、貫くものが心を貫いたとき痛みは全くなかった。
 それはむしろ、他のものを暗示させた。
「ダメかな? 私それ欲しいな」
「血でしょ」
「えっ───」
 戸惑う香澄の表情と感情に申し訳ない。
 全部知ってのことだ。
 全部こっちのシナリオ通りの会話だ。
「それもある。だけど、私が求めてるのはそれじゃない」
「茂咲は他に何も言わなかったよ」
「茂咲って子は誰かわからないけど、多分そのチューリップたちを一緒に選んでくれた友達かな。実は血の他にもう一つ意味があるの」
 わからない。"血"というワードが頭にこびりつく。
 この固定観念のような付着物は頭からなかなか取れそうにない。
 これは俺は完全に敗北だ。
「一回それに想いを込めて、私にちょうだい。もし、違ったら返すから」
 手を差し出す。たかが、チューリップ一本にこんないざこざが待っているなんて。
「お願い。あのときに、絶えてしまったときに抱いていた想いをこのチューリップに込めて、渡して───」
 言われるがままだ。
 俺は観念した。
 何をしたら、このやりとりは終わるのだろうか。
 渡すまで終わらない気がした。
 手に握るチューリップに想いを込める。
 絶えたとき。
 そのワードはただ一つ。
 観覧車。
 俺は香澄が大好きだという気持ちを込めよう。
 でも、血となんも無関係だ。
 絶対に違う。
 もっと命に関わる。
 無事を祈るのか。
 だめだ……、考えすぎて頭がパンクしそうだ……。
「はい、どうぞ」
 そっと赤いチューリップを渡す。
 香澄の顔はこのときに戻った。通常じゃない。
 昔の笑顔だ。
 観覧車で見たかもしれない。
 観覧車……、絶えたときの想い……。
  
 途切れた線が一つの直線になる。それは綺麗な直線だ。どこかに曲がることもなく己の道と言わんばかりに真っ直ぐに突き進む。
 何かが繋がった。
 その何かは重々承知だ。
「私も渉のことが大好きです! 私から言いたかったんだけど、あれからなかなか言えなくて、けど今みたいな滅多にない機会があったから。こんな変なことを……」
 俺は観覧車で告白をするんだった。だけど、できなかったんだよね。
「花言葉、多分"告白"なのかな?」
「いや違うよ」
 首を横に振る。自分の思い違いはかなり恥ずかしい。
 でも、ニアピンだ。
「花言葉は"愛の告白"。どう? 私にそれはある?」
 あるとかないとかじゃない。
 もうそれは植え付けられたかのように、俺は君とならという想いがあった。
「質問には応えれない。けれど、否定的な答えじゃないよ」
 香澄と目が合う。
 この瞬間が素晴らしいのだ。
 グラスに入れた氷が周りの暑さによって溶けて、カランっと音を鳴らすみたいに一瞬で目に留まらない。
 大事な一つのものだ。
「俺、まだ生きてて良かったと思う。香澄とはもうダメだって諦めていた。こうして、会うことも、本心を語り合うこともなかった」
「そうだね。とりあえず、その茂咲って友達に感謝だ!」
「まだいるんだよ。大輝に晋に、拓に。今日出会った友達なんだ」
「すごいじゃん! 私が学校に行ってない間に一人で青春してるんじゃないそ! このー羨ましい!」
 嫌がるような素振り、悔しい素振り。今はなんでも可愛い。いや、ずっと可愛いと思う。
「これも青春じゃないのかな? この世に一人しかいない親友といるんだし」
「ね! それも久しぶりの再会。でも、もう親友じゃないよ」
 香澄は笑った。
 共鳴しよう。
 この巡り逢えた縁に感謝の意を込めて、俺は香澄という人と出会えた。
「恋人」
 香澄の口からそう溢れる。
 まだ止まらない。
 俺はまだ慣れていない言葉を口に出した。

「香澄、大好きだ───!」