僕が退院したとき、日向夏葵の葬儀はもう終わっていた。
 彼女の死を知ったときには、なにもかもが遅すぎたんだ。
 多くの人に涙で見送られたお通夜も終わり、彼女の遺骨は自宅へ帰っているとのことらしい。
 彼女の死を知らされた日の夜、僕はしばらく自室にうずくまったまま動けなかった。
 ひたすら日向さんとやりとりしていたメッセージを最初から見返して、最後のメッセージに既読がついているのを確認して。
 そしてまた一番上までスクロールして、初日から見返すのを繰り返し続けた。
 日が暮れても電気すらつけず暗い部屋に座ったままの僕をみても、母さんはなにもいわない。
 心が追いつかない僕を一人にしてくれた。
 母さんは、日向さんやその両親とも交流があると聞いている。
 きっと彼女の死を知っていたんだ。
 だからあえて入院中は日向さんのことを話さず、スマホも病院へもってきてくれなかったんだろう。
 極めつけは、退院後の車内でいわれた『感謝は行動でしめすのよ』という言葉だ。
「……日向さんに導いてもらった感謝を、行動にしろってことか。……前向きに生きろって」
 いい写真を撮る。
 その目的のために、彼女には旅に付き合ってもらったり、たくさん支えてもらった。
 その感謝を返すためには、やっぱり前を向いていい写真を撮れってことなんだろう。
 でも――。
「……『人が捉える抽象的な解像度』、僕だけじゃわからないよ。……採点してもらわなきゃさ」
 日向さんが亡くなったと電話で聞いた日の放課後、すぐに川崎君と樋口さんが僕の家にきた。
 僕がそれまで一体なにをしていたか、なぜ入院していたのか。
 それを伝えると二人はやつれた笑顔で、
「治ってよかったな。……おめでとう」
 と祝いの言葉をくれた。
 でも、快復した僕の身体より……もっと大切な話がある。
 葬儀の日に日向さんの両親へ声をかけようとしたらしい。
 だけど憔悴した顔で忙しそうに大勢の人と挨拶をして、頭を下げている姿をみたそうだ。
 そんな状態の両親になんと声をかければいいのかわからず、なにも聞けなかったらしい。
 日向さんになにがあって亡くなったかは結局よくわからなかったそうだ。
 でも、彼女が亡くなったことは事実らしい。
 川崎君と樋口さんからは、
「焼香にいけなかったんだから、望月はお線香だけでもあげにいくべきだろ。ちゃんと夏葵に挨拶してこい」
 と言われた。
 僕は日向さんの家族の連絡先を知らない。
 そもそも、彼女が亡くなったと言葉で聞いても、僕は受けいれられてないんだ。
 だから断ろうとしたけど、「その目で確かめてこい」といわれ、頷いた。
 幸いにも樋口さんが日向さんのお母さんの連絡先を知っていたようで、
「お線香をあげたい同級生がいる」
 と伝えると、土曜日の午後からなら大丈夫だという返事をすぐにもらえた。
 そして土曜日。
 今日は三人で日向さんへお線香をあげにいく日だ。
 ちょっと前までの予定だったら、友人三人が僕にお線香をくれる予定だったのに。
 僕の脳内は真っ白で、なにもかもが理解できない。
 ほら、全身に力が入らないし視界だってぼやけている。
 ここは夢の中で、目が覚めれば集中治療室のベッドの上か、あの世にいるはずだ。
 カーテンを閉め切った部屋でそう考えていると、部屋の扉が開き、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「……耀治、お友達が迎えにきたわよ」
「……うん」
「耀治、立ちなさい」
「……うん」
 言葉に反して、僕の身体は動いてくれない。
 明け方、制服に袖を通して一度座ったら……身体に力が入らなくなった。
 思考で現実逃避していても、現実で時間は過ぎていくんだな……。
 僕はふわつく身体に力をこめてゆっくりと立ち上がり、玄関に向かい歩く。
「……よう」
「望月、いくよ。……あんた、ちゃんと食べてる?」
 玄関で待ってくれていた二人に顔をみせると、さっそく樋口さんに心配されてしまった。
 そんなに、今の僕はヒドい顔をしてるのかな。
 ……しているのかもしれない。
 もう四日ぐらいになるかな。
 食べたものをすべて嘔吐してしまうのを繰り返しているんだから。
「……ねぇ。この世界はさ……夢じゃないのかな?」
 僕の問いかけに、二人は辛そうに目を逸らした。
「僕の心臓が治ったことも、日向さんが亡くなったことも……。ぜんぶ、現実感がないんだ。目が覚めたら、僕はまた集中治療室のベッドの上なんじゃないかって……そう思うんだ」
 川崎君も樋口さんも、泣き出してしまった。
 それなのに、僕は涙もでない。
 やっぱり、ここは現実じゃなくて……死ぬ前の幻想世界なんじゃないか。
 落ちきった心が揺れない、情報量が少ない世界にいるんだ。
 感動も感触もない、全てがセピア色に染まって、新たな魅力が生まれない世界に僕はいる……。
 日向さんのお宅へ向かうと、お母様が「いらっしゃい。よく来てくれたわね」と力ない笑みで迎え入れてくれた。
「この和室に後飾りがあるの。――ほら、夏葵。舞ちゃんたちが会いにきてくれたわよ」
 和室前の廊下、一番後ろにいる僕からはまだ見えないけど……。
 そこに日向さんの遺骨や遺影が安置されている、後飾りという祭壇があるらしい。
 お母様が祭壇に話しかけた後に「ほら、入って」と促し、僕たちも順々に和室へと入っていく。
「夏葵……きたよ」
「久しぶりだな。……会いたかったのに、遅れて悪かった。今日は望月も連れてきたからな。ほら、望月」
 川崎君に手を引かれ、僕も前に出された。
 僕は、彼女の遺影や遺骨に……なんて声をかけるべきなんだろう。
 ……やっぱり、謝罪からかな。
 まずは箱根の旅で怒ってしまったことをお詫びすることから始めないと……。
 それから、僕に色々な世界を見せてくれたお礼を言おう。
 話すことを決めてから俯いていた顔を上げ――彼女の遺影をみた。
「……え?」
「せっかく心臓が治ったのに。お前がそんなこと言うなよ。夏葵が聞いたら、悲しむだろ……!」
「望月……。夢ならよかったって、ウチらだって何度もそう思ったよ。でも、ウチらは棺に入った夏葵をみてるんだよ。白装束の夏葵に花を添えてるんだよ……」
 掠れた声で言う二人が、この世界は現実だと教えてくれた。
 ……そうか、実際にご遺体をみた人と、言葉で亡くなったと聞いただけの僕では……現実感が違うんだ。
「……僕は、日向さんの棺にいい思い出の花を……たむけられなかった」
「情けない声で、後ろ向きなことばっか言うなよ……! これから、夏葵に会いにいくんだろ」
「そうだよ、仏壇にはまだ夏葵がいる。……ちゃんと、感謝して笑って送ってやりなよ。あんたがそう送られたいって願った最期を、夏葵にもしてあげなよ」
 人の死を、笑って見送ってくれというのは……こんなにも、無茶な願いだったのか。
 僕は今まで、友人たちになんて無茶なお願いをしていたんだろう。
「望月、また殻に閉じこもるなよ。……せっかく治ったのに、前より暗い顔してんぞ?」
「そんなの、夏葵だって望んでないからね」
「日向さんの……望み」
「……ほら、ちゃんと前を向いて歩け。お前、なんて目……してんだよ」
「……いくよ、望月。目の焦点、あわせて」
 僕は目の焦点が合っていないのか。
 よく見えないと思ったら、そうか……どうりで。
 ピントがズレて、視界がぼやけているはずだ。
 左から樋口さん、右から川崎君に腕をくんでもらい、僕は引きずられるようにして日向さんの家まで連れていってもらった――。

「――いらっしゃい。今日は夏葵のために、ありがとうね」
「おばさん、急にすみません。この度は、その……なんと言っていいか」
 一軒家のドアを開け、疲れた顔に笑みを浮かべる五十歳前後の女性が出迎えてくれた。
 知り合いの樋口さんが代表して挨拶をしているが、故人の家族にどう接すればいいのかわからないらしい。
 言葉に詰まりながら挨拶をしている。
「無理に他人行儀にならないでいいのよ。前遊びにきたみたいに笑って。多分、あの子もそれを望んでるから……」
 光のない目で薄く笑っている日向さんのお母さんに、僕たちもなんて返せばいいのかわからない。
「ごめんさいね、玄関先で。お線香をあげてくれるんでしょ? お茶入れるから、まずは中に入って」
「ありがとうございます」
「すんません、お邪魔します」
「……お邪魔します」
 僕たちは促されるままにリビングへ通された。
 四人用のリビングテーブルの上に、次々アイスコーヒーが並べられていくが――。
「望月君は、どっちの子かしら?」
「……僕です」
「そう。それなら、あなたは緑茶ね」
 そういって忙しなくキッチンへと戻っていった。
 なんで僕だけ緑茶……。あ、もしかして僕の心臓が治ったことを知らないのか。カフェインは心臓に悪いからって控えるようにいわれていたから。
 日向さんがお母さんに僕の心臓病について話していたんだろうな。
 今さら、「もう心臓は治ったからコーヒーでも飲めます」とは言いにくい。
 結局、僕はお母様がお茶をいれてくれるのを待った。
 僕の前に湯気がたちのぼる緑茶がだされ、お母様も目の前の席に座りコーヒーを飲み始めた。
 上品にカップを持ち、音をさせずにソーサーへおろして微笑んでいる。
 ……こう言ってはなんだけど、日向さんのお母さんっぽくないなと感じた。
 日向さんなら、グイッと飲んで『美味しいね!』と快活に笑いそうだ。
 それか、『ちょっとまだ私には早いみたい……!』と言って苦い顔をするかもしれない。
 ……みたい。
 本当はどんな反応をするのか、みてみたい。
「今日はきてくれてありがとうね。家は駅から離れてるから、遠かったんじゃない?」
「いえ、その……俺らがきたかったんで」
「そうです、お焼香のときは全然お話できなかったんで」
「そうね。お通夜にはたくさんの人がきてくれたからね。本当、驚いちゃったわ。あの日はろくにお話もできなくて、ごめんなさいね」
「いえ、全然です!……夏葵はウチらとちがって友達が多いですからね。ウチらも夏葵がいなきゃ友達ができなかったんで」
「そうです。俺、夏葵……さんに救われなかったら、道を踏み外してました。だからずっと、今でも感謝してるんです」
「そう、あの子がね……。そんなことを言ってもらえて、本当に喜んでると思うわ」
 こらえられなくなったのか、お母様の目に涙が浮かびあがった。
 樋口さんや川崎君はオロオロとしている。
 僕は……なにもいえない。
 僕にとっての日向さんという存在を語るには、できごとが多くて関係が複雑すぎる。
 一言で『お世話になった友達です』なんて片付けられるような関係じゃあない。
 川から流れてきた日向さんと出会って、旅に連れ回されて……。
 暗い殻から引きずりだしてくれたんだ。
 天敵だと思っていたのに、いつの間にか大切になってしまった人を、たった一言でまとめたくなかった。
「……ごめんなさいね。涙なんて枯れたと思ってたのに。水分を飲んだからかしらね」
 お母様なりに僕たちを笑わせようとした冗談だったんだろうな。
 でも、僕たちはそんな心境でじゃなかった。
 僕の隣に座る川崎君も、唇を噛み締めてなにかを堪えている。
 辛さが滲みでているお母様をみて、笑えるはずがない……。
「叔母さん……あの、聞きづらいんですけど。ウチら、夏葵になにがあったかも知らなくて」
「そうだったの……。夏葵はね、病気で亡くなったのよ。脳の病気で……突然、本当に突然だったわ」 
 樋口さんが目線をさまよわせ、身体を横に向け隣のお母様へ話しかけた。
 お母様の嗚咽まじりの声が悲痛すぎて……。
 川崎君は、樋口さんや僕に目配せをしてから口を開いた。
「そうだったんすね……。あの、辛いことを話してくれてありがとうございます。あんま長居してもアレなんで……。その、今日は夏葵にお線香だけあげられないかなって……」
「ああ、そうね。ごめんなさいね……。仏間はこっちよ。ついてきて」
 慌ただしくお母様が席をたち、リビングから廊下へでて先導してくれた。
 後ろを続いて歩く僕たちは小声で「叔母さんも精神、まだ不安定みたいだし早めにおいとましよう」、「ああ、わかってる。夏葵の死因が聞けただけで充分だ。望月もいいよな?」と会話をした。
 その意見には僕も同意だから、小さく頷いて返した。
 お母様の姿をみて、病院で医者が話してくれたことを思い出す。
 大切な家族を亡くした遺族が負う心の傷をなめていた。
 僕は自分が移植手術を受けた代わりに不幸になった人がいることを……真剣に考えられていなかった。
「この和室に後飾りがあるの。――ほら、夏葵。舞ちゃんたちが会いにきてくれたわよ」
 和室前の廊下、一番後ろにいる僕からはまだ見えないけど……。
 そこに日向さんの遺骨や遺影が安置されている、後飾りという祭壇があるらしい。
 お母様が祭壇に話しかけた後に「ほら、入って」と促し、僕たちも順々に和室へと入っていく。
「夏葵……きたよ」
「久しぶりだな。……会いたかったのに、遅れて悪かった。今日は望月も連れてきたからな。ほら、望月」
 川崎君に手を引かれ、僕も前に出された。
 僕は、彼女の遺影や遺骨に……なんて声をかけるべきなんだろう。
 ……やっぱり、謝罪からかな。
 まずは箱根の旅で怒ってしまったことをお詫びすることから始めないと……。
 それから、僕に色々な世界を見せてくれたお礼を言おう。
 話すことを決めてから俯いていた顔を上げ――彼女の遺影をみた。
「……え?」
「……どうした、望月?」
 固まっている僕をみて川崎君が声をかけてくれる。
 それでも、僕は目の前にある写真に目が釘付けで……動けなかった。
 だって、その遺影に写っているのは……ここ数日、ずっと見ていた日向さんの笑顔とまったく同じだったから。
「なんで……」
 この笑顔は……箱根の遊覧船で笑っていたときのものだ。
 つまり、僕が撮った写真だ。絶対に間違えるわけがない。
「望月……。落ち着け、ゆっくりでいいからな」
「ウチらも夏葵の棺を見たときは放心状態になったから……。まずは深呼吸しな」
 立ちつくしたまま動けない僕の背をポンと叩き、川崎君や樋口さんが先にお線香をあげ遺影と遺骨に手を合わせている。
 彼女の死に直面した僕に気を遣ってくれたみたいだ。
 もちろん、彼女が亡くなったのが現実だと突きつけられショックだけど……頭がパニックで、涙もでない。
 なんで遺影に僕の写真が使われているのかと呆然としてしまう。
 僕の写真が……なんでここにあるんだ?
 普通、遺影に使われるのは生前でもっともその人らしい姿が写っているお気に入りの写真だ。
 式典とかの記念写真とか、そういうのが多いはず。
 間違っても……風景にまぎれるような写真を使うものじゃない。
「望月……いける?」
 手を合わせ終えた樋口さんが声をかけてくれた。
 僕は小さく頷き、白い布で覆われた祭壇の前に正座する。
 震える手で線香をつかみ火をつけると、畳の香りがたちまち線香の落ち着く匂いで上塗りされていった。
 チーンと鳴る鈴の音の中、僕はゆっくりと両手を合わせ……遺影に写る日向さんへと手を合わせた。
 後飾りの祭壇には彼女の遺骨もある。
 でもそれが日向さんだなんて、僕には信じられないし、まったく現実感がない。
 脳内では、あの日――箱根でふざけていた日向さんの笑顔が浮かんでは消えていく。
 僕の心臓が治ったことも含めて、全部夢に思える。
 最期を迎える僕が病院のベッドでみている夢なら……こんなのは、悪夢だ。早く覚めてほしい。
 彼女がいなくなってやっとわかった。
 天敵だと思ってた彼女は――僕にとって、なにより大切な想い人だったんだ。
 感情の動力源と言い変えてもいい。
 セミや鳥が片翼では空を飛べず地を這うしかないように、彼女がいたから……僕は前向きに生きることができたんだ。
 暗闇の殻から飛びでることができたんだよ。
 ポッカリと心に空いたこの隙間には、後悔がどんどん入りこんでくる。
 なんで彼女にあんな冷たいことを言ってしまったんだろう。
 謝りたい、また君と一緒に笑いたいよ。
 こんな状態でも、前向きに生きていけっていうの……?
 理屈ではそうすべきだってわかってる。でも、感情がついてきてくれないんだ。
 心を明るくしてくれるひまわりがいないと、僕は暗闇で動けない。
 彼女と出会い変わっていく前の嫌いな自分に……また戻ってしまいそうだ。
「……おい、望月。大丈夫か?」
「立てる?」
 正座して手を合わせたまま仏像のように動かない僕をみて、友人たちが声をかけてくれた。
 僕は小さく頷き立ち上がろうとしたが――。
「お、おい!」
「大丈夫!?」
 転びそうになった僕の脇を二人が支えて立たせてくれた。
 長い時間、正座をしていて脚が痺れたせいだ。
 でも、友人たちはそう思わなかったみたいで……。
「お前、やっぱまだ心臓が……!」
「病院いく?」
「いや、大丈夫……」
 心臓に問題があるんじゃないかと心配してくれた。
 でも、ごめん。
 違うんだ……ただ、頭がぐるぐるして、力が上手く入らなかっただけなんだ。
 そんな僕の様子をみてお母様も勘違いしたのか――。
「望月君は心臓が悪いのよね。少しリビングで休んでいって。川に落ちた夏葵を助けてくれたお礼もしてなかったし。……最近、あの子は望月君の話ばっかりしてたのよ。私もゆっくりとお話がしたいわ」
 お母様も心配そうに近寄ってきてくれて、リビングで休むように促した。
 友人二人は僕一人だけ残すのはどうなんだろうというような戸惑った表情をしている。
 お母様が僕とゆっくり話したいと言ったから、自分たちも残るとは言い出しづらいと悩んでいるのかもしれない。
「……お願いします。僕もお母様と二人で話をしてみたかったので」
 僕がそう言うと二人は心配そうな表情を浮かべながらも、ゆっくり支えていた僕の脇から手を離した。僕の意思を尊重してくれたらしい。
「……おばさん、じゃあ少しだけお願いします。もし、望月の体調が悪くなったらすぐにウチらにも連絡ください」
「望月も我慢しすぎんなよ。辛かったら、素直に言うんだぞ? 俺らに連絡くれたら、すぐ出られるようにしとくかんな。……俺らは、友達なんだから。キツいときは支え合うもんだかんな?」
「わかった。……二人とも、心配してくれてありがとう」
 僕はお母様と一緒に、二人が玄関からでていくのを見送った――。

「……望月君、娘が川で溺れたときに助けてくれてありがとうね。……おかげであの子は、半年も長く生きられたわ」
「いえ……。僕はそんな、賞賛される行動なんてしてないんです」
 リビングに移動したお母様と僕は、改めて机を挟んでお茶を飲んでいる。
 お母様がお礼を言ってくれるけど、本当に僕はなにも賞賛されることなんてしていない。
 あのときの僕は自分には未来がないと決めつけて、目の前に流れてきた意味ある死へ飛びついただけだ。
「それでも、あの子は楽しそうだった。あなたが抱える病気のことを知ったときは、すごく嬉しそうだったわ」
「嬉しそう……ですか?」
 僕が余命宣告をされるような病気だと知って、それで嬉しいと思ったのか。いつもひまわりのように笑っていた彼女が、裏では僕が病気だと喜んでいたなんて……。
 ことあるごとに秘密と言っていたけど、やっぱり、僕は憎まれていたのか。
 初対面で怒鳴って、ウジウジとできない理屈ばっかり並べてる男だったもんな。
 少し残念だけど……それも仕方ないか。
「ああ、勘違いしないでね。あなたのことが嫌だったわけじゃないと思うから。むしろ、その逆よ」
「逆……ですか?」
「ええ。嬉しかったのは、自分と同じような境遇の人と会えたからでしょうね」
「僕と日向さんが、同じ境遇……?」
 なんだろう。
 さっきからお母様との会話が噛み合ってない気がする。
 僕と日向さんが同じ境遇って、どういうことだろう。
「……もしかして、夏葵からなにも聞いてないの?」
 少しだけ目を丸くしたお母様に、
「……彼女の口癖は、『秘密』でした」
 彼女が僕になにも話してくれなかったことを伝える。
 僕は、彼女のことを何も知らない。『人が捉える抽象的な解像度』も、彼女がなぜ不気味なほど僕に付きまとってくるのかも……。
 すべて秘密のまま彼女はこの世を去ってしまった。
「そう……。きっと、最期まで笑って過ごしたかったのね。……夏葵らしいわ」
「……あの、大丈夫ですか?」
 小さく何度か頷きながら、お母様は涙をあふれさせてしまう。
 僕が声をかけると、お母様はハンカチで目元をぬぐった。
「ええ、大丈夫よ。……あの子がもういない以上、私から秘密を伝えていいものなのかしら……」
 お母様は考えこみ、二人の間はカチカチと時計の秒針が動く音に支配された。
 気まずい沈黙がながれている。
 たしかに、故人の秘密を言うのはためらわれるだろう。
 それでも、僕は――。
「――それでも、僕は知りたいです」
「……夏葵から聞いていたよりも、ずっと自分の意思をいえる子なのね。望月君は……」
「それは……すべて、彼女が成長させてくれたおかげです」
 どんな秘密が出てくるかはわからないけど、僕は知りたかった。
 なんで日向さんのように明るい人気者が、僕みたいなやつのそばにいてくれたのか。
 いや、それだけじゃない。
 大切な人だと思う今――彼女の、どんなことだって知りたかった。
「夏葵はね……成人年齢ぐらいには寝たきりか、亡くなるような病気だったの」
「……え?」
 あまりに予想外の言葉が聞こえた。
 あの日向さんが……病気だった?
 元気という言葉を体現したような彼女が?
 全く考えが追いつかない。
 だって、いつも彼女は快活に飛び跳ねて、満面の笑みで笑っていて……まるで――、
「元気なひまわりのような……彼女が?」
「そう。先天的に脳の血管に異常があってね。何度も手術したけど……複雑で危ない血管が多すぎたの」
「……え」
「あの子が元気になったのは、小学校の高学年かしら。急に『私は残った寿命、絶対に無駄にしない。動けるうちに、楽しく明るく過ごす』って言いだしたの」
「……それは」
 同じように……身体に爆弾を抱えているのに。
 彼女が選んだ余命の生き方は……僕と真逆だ。
「昔は人生に絶望して、ずっと部屋にこもって泣いていたのよ」
「その姿は……たしかに、想像できません」
「強がりな子に成長したからね。いつも通り朝早く散歩にいったと思ったら、橋から落ちたって。小さい頃からね、脳の血流が悪くなると、ひどい目眩がして失神してたのよ。それで目を覚ますたびに隠れて泣いて……。親として、これほど辛いことはないわ」
「……そうなんですか」
 日向さんが親に心配をかけないように隠れて泣いていた気持ちは……よく理解できる。
 心臓で苦しんだあと、両親に『こんなもんでしょ』って言っても、僕はトイレやお風呂で泣いていた。
 僕の両親も……いつも辛そうに笑っていたな。
 だからこそ心配をかけた後、親が隠れて泣く姿をみたくない。
 その思いで人に迷惑をかけることは絶対にしたくないと心に決めたんだ。
 人格を作るのは、環境だと思っていた。
 でも日向さんは――。
 同じような環境でも、僕とはちがうように成長していったんだ。
 明るく前向きに、自由に生き抜いて最後を迎えてやるって。
「前向きになってからは、鏡の前で笑顔の練習をしていたのよ。明るく振る舞って友達がたくさんできるようにって。こんな友達がいたらいいなって理想に自分がなるんだって言ってたわ」
「……目標をもって、生きてたんですね」
「そうね。嫌だとか負の感情を覆い隠すように笑っていたみたいだけど……正直、親からするとバレバレでね。むしろ、無理している八方美人な子に見えたわ」
「親って、すごいんですね。……僕には、彼女の笑顔は本物に見えてました」
「もちろん、ずっと演技してたわけじゃないわよ。自由を愛す子だったからね。自分の気持ちに素直で、周りを誘導していたと思うわ。……ただ、どんなときでも笑うように心がけていただけで」
「なんでいつもこんなに笑顔なんだろうって、僕はずっと思ってました」
「そう……」
「ずっと、それが疑問だったから……今日、お母様から彼女の謎だった部分が聞けて、よかったです」
 頭を下げて立ち去ろうと思った。
 遺影に使われていた僕の写真といい、突きつけられる現実に思考が追いつかないから。
 ――でも、お母様の話はまだ終わりじゃなかった。
「望月君、あなたの前では多分……ずっと隠さない素の表情だったと思うわよ?」
「え……」
「親の目からみてだけどね。最初は作った笑顔もあったと思うの。でも……四月かしら。熱海に日帰り旅行にいったじゃない? あれから望月君のことを話す笑顔に、ほとんど嘘を感じなくなったの」
「熱海旅行……」
 一回目、彼女と初めて旅をした場所だ。
 僕に今まで知らなかった、食べ物の美味しさを教えてくれたときだ。
「そう。それからどんどん自然に笑っていって……。一番スッキリした顔をしていたのは――八月末に、箱根旅行から帰ってきたときかしら」
「……そんなわけが……」
「……どうかしたの?」
「あ、いえ……。それは、さすがに気のせいだと思います」
「あら、なんでそう思うの?」
「だって……。あの旅行で僕は彼女と喧嘩して、ひどいことを言ったんです。ずっと謝りたかったのに。それなのに……直接謝る機会すらなくて」
 情けなくて俯いてしまう。
 大切な恩がある人に謝罪もできず、入院していたなんて。
 せめてもう少し、あのときの心臓がもってくれたら。
 日向さんが脳に抱える爆弾が爆発するのが、もう少し遅ければ……必ず仲直りしようと努力していたのに。
 そう思わずにはいられなかった。
「ああ……。そうだったの。ごめんなさいね、それならお互いに仲直りしたかったでしょうに……。――あの子、箱根から帰ってきた翌日に……死んじゃったから」
 喉の奥がキュッとしまって――呼吸が止まったかと思った。
 指先が痺れ、視界がぼやける。
 箱根から帰ってきた翌日に、彼女が亡くなった?
「日向さんは……彼女は、箱根から帰ってきた翌日に亡くなったんですか?」
 だとしたら、彼女の最期の記憶は……僕に怒鳴られて、一人箱根に残されたことだ。
 そんな思い出を抱えて棺に入るのが……幸せな最期のはずがない。
 気を失いそうなほどにゾワッと血の気が引くのを感じたあと、心臓がドクンドクンと鳴りだして、全身の血管が脈うつ。
 そして、狂っていたピントを合わせたように視界のぼやけが消える。
 僕の身体に入った新しい心臓は、失神して現実から逃げることを許してくれない……。
「そう。印刷したての写真をね、大切にアルバムにはさんでいたのよ。『将来の有名カメラマンの写真だから、ファン一号として大切にしなきゃ』って言ってね。……望月君、あなたが撮った写真よ」
「彼女が、僕の写真を印刷してた……?」
「もらった写真とか、共同管理のSNSにあがった写真はすべて印刷してるって。……亡くなる日、自分を撮ってくれたんだって、『三枚印刷したうちの一枚だよ。よく撮れてるでしょ』って嬉しそうに見せてきて……」
「……そんな」
「だから遺影に使わせてもらったの。夏葵が……喜ぶと思ったから」
「僕の写真を好きなところなんて……まったくみせなかったのに。そもそも、彼女は体調が悪い素振りすら僕には……」
「脳の血管が出血するのは、突然なのよ。……夏葵はね、夏休み最終日のお昼に突然ふらふらし始めた思ったら、片手で頭を抑えてソファーに倒れこんだの。最初はふざけてるんだと思ったわ。すごく幸せそうに目を閉じていたし……。でも冷や汗と顔色の悪さから、ただごとじゃないと思って。大声で話しかけてもゆらしても、全く反応がなくなって……。急いで大学病院に運んでもらったけど、ダメだったの」
「大学病院に……」
 同じ時期、同じ病院で僕は集中治療室に入っていた。
 すぐそばまで……彼女はきていたのか。
 タイミングが合っていれば、彼女の最期に会えたのかもしれない。
「夏葵との約束でね……。脳死状態になった夏葵は、臓器提供ドナーになったわ」
「――ぇ」
「川に転落したあと、急に真剣な顔をしてね。私達に臓器提供のドナー登録をしたいってお願いしてきたの」
 胸の心臓が、ドクンと跳ねた。
「夫と一緒に悩んだけど、理解したわ。……だって、だってね、あの子が真剣に望んだことだったから……!」
 お母様がボロボロと涙を流し始めた。
 嫌な予感がして指先が震える。
 新しい心臓がドッドッドと暴れ始めた。
 涙を流しているお母様の言葉に――まさか、まさかと思う。
 いや、でも……。
「……あ、あの……」
 僕は、喉から言葉を絞り出した。
「……日向さんの血液型は……?」
「……AB型の、RHマイナスよ。すっごく珍しい血液型だけどね。でも……適合する人がいたみたいなのよ。夏葵の遺体は、心臓がない状態で火葬されたわ……! 綺麗に隠してあったけど、心臓がない夏葵を見るのは、すっごく辛くて……!」
「――ぁ……ぁあ」
 嘘だろう、まさかそんな――。
 AB型のRHマイナスで、あの日、あの大学病院で心臓移植を受けた人間なんて……。
 そんなのは……。
 全身から血の気が引いていく。
 心臓が早鐘を打ちすぎて、吐き気がする。
 あり得ない、信じられない、そんな偶然が起きるのは陳腐な物語の中ぐらいだ……。
 よりにもよって――僕の胸に、日向さんの心臓が移植されたなんて。
「ごめんなさいね、望月君。あなたは夏葵を救ってくれて、本当の笑顔までくれた恩人なのに……。親の私が、こんな風に泣いて接するなんてダメよね……」
 ちがう、ちがうちがうちがう。
 僕は恩人なんかじゃない。
 お母様を泣かせている原因の一部は……僕だ。
 僕が臓器移植を受けたせいで……。
 医者が言った言葉が、何度も頭の中でこだまし始める。
『大切な家族が亡くなって、まだ受けいれられない遺族が「あなたの家族の臓器を提供してくれてありがとうございました」と言われたらどう思うか』
 言えない、そんなことは……言えるわけが無い。
「……どうしたの?」
「あ、いえ……。なんでも……ありません」
 そのあと、僕はずっと上の空で……。
 心配してくれたお母様が車で送ると言ってくれたけど、僕は断った。
 とてもじゃないけど、日向さんの家族と一緒にはいられない。
 このままじゃ罪悪感に押しつぶされそうだ。
 僕には、お母様と一緒に彼女の死を悼む資格なんてない。
 僕は、逃げるように日向家を去った――。
 夕暮れどきになっても、頭はこんがらがったままだ。
 気がつけば、僕が風景写真を撮ることが多かった川沿いにきていた。
「……また、流れてきてよ」
 ここは、初めて日向さんと会った川だ。
 上流を眺めても、サラサラチャポチャポと流れる水音しか聞こえない。
 川上から人なんて、流れてくるはずもない。
「嘘でしょう、神様。……なんでだれからも愛される日向さんが死んで、僕みたいに暗くて……。自分ですら自分が嫌いになるようなやつを、生きながらえさせるんですか……!」
 服にシワがつくぐらい強く、左胸をギュッとつかむ。
「そんなの、間違っているじゃないか。――君こそが生きるべきだったのに……! なんで、なんでなんだよ……!?」
 叫んだところで、答えは返ってこない。
 胸に手を当てて聞いても、答えはない。
 新しい心臓が――日向さんの心臓が……ドクンドクンと一定のリズムで鳴っているだけだ。
「こんなの……ないよ」
 川沿いをふらふらと歩くと、一本のひまわりが――枯れていた。
 種をだれかが運んできて、植えたのか。
 夏に生命力溢れて咲きほこっていた姿が嘘のように、茶色くしおれていた。
 哀しい秋の心と書いて、哀愁。
 常に太陽をみていた元気なひまわりの心まで、秋には哀しいものに変わってしまうのか。
「……そんなとこまで、ひまわりに似なくていいじゃん。君は、秋も冬も活力にあふれてよかったんだよ。……僕が日向さんのことをひまわりみたいって言ったのは、笑顔だったのに……! そんなところまで、似ないでよ……!」
 こぼれでてきた涙で、ひまわりがにじむ。
 そっとひまわりに触れると――ポロポロと崩れてしまった。
 ピントがまたずれていくように視界がにじみ、頬を熱い何かが伝っていく。
 僕は彼女との思い出がある場所を力なく歩きつづけ、夜の蔵造りの街並みで足を止めていた。
 ここへきて、ひまわりの花言葉について知っているのか彼女に言われたことを思い出した。
「僕は……日向さんに憧れて、君をみつめていた」
 あのときは勘違いしないでと言った。
 でも、今は――ひまわりの花言葉は正しく僕の心情を表している。『憧れ、あなただけを見つめている』。僕には分不相応だとはわかっているけど――。
「僕は……日向夏葵を尊敬している。でも、それ以上に――大好きなんだ」
 街角からヒョッコリと、いじのわるい笑みで日向さんが飛びでてくるのを期待して歩きつづけていた。
 ドッキリだよって、でてきて欲しい。
 そんな奇跡を望んでさまよった。
 でも、死にそうなときに大切な人の心臓が移植されるなんて、物語のような奇跡はおきたのに。
 死んだはずの彼女が現れる都合のいい奇跡は、起きてくれなかった――。


 翌日の日曜日。
 一睡もできなかった僕は一人、始発電車に乗って箱根へとやってきた。
 その日は秋晴れという言葉がぴったりなぐらい過ごしやすい天候だった。

 箱根湯本駅から、僕は歩き始める。

 今回は……僕の隣にはだれもいない。

 最初にいったのはあの日と同じ大涌谷だった。
 しばらく硫黄の臭いにさらされたが、もう息苦しくない。
 普通に過ごせて嬉しいはずなのに寂しさを感じて、桃源台へと移動してきた。

「彼女に……日向夏葵に会いたい」

 穏やかな芦ノ湖をみながら、ポツリと心の声が漏れてしまう。

 一緒に巡り歩いたどこかから、「ビックリしたでしょ。いじわるしちゃった」と言って、パッと現れてほしい。
 からかうような笑顔をもう一度、僕にむけてほしいんだ。

 死を間際にした僕を生かしたような、都合のいい神様の奇跡とか、イタズラが起きてくれることにすがっている。
 現実逃避だとは分かりながらも、そんな奇跡が起きて欲しい。
 ……だけど、そんなものはあり得ないと分かっている。
 だってこの旅は……感傷に浸る自己満足の旅だから。

「ここにも、いなかった。……いるわけ、ないよな」

 自嘲気味に一人ボソッと呟く。

 こんなの、日向さんの死を受けいれられない自分の心をまぎらわせているだけだ。

 ここまで写真は一枚も撮っていない。
 写真のことしか考えていなかった今までの僕では、考えられないような一人旅。

 次の場所にいこう。
 ここからは、あの日できなかった旅の続きだ――。


 やってきたのは『駒ヶ岳ロープウェイ頂上駅』。
 標高は千三百五十六メートル。

 以前の僕の心臓では、決してたどり着けないことができないほど酸素が薄い場所だ。
 そんな場所で普通に過ごせるだけで、これは夢じゃない。
 彼女はもういなくて、僕の中に彼女の心臓があるんだろうなと実感させられる。

 その事実がどうしようもなく苦しくて……認めたくない。
 あり得ないことだとは分かっているけど――。

「一番のお気に入りと言っていたこの場所に……日向さんがいてほしい」

 頭が現実を見るのをこばんでいる。
 まるでふわふわと空を歩いているような気持ちだ。
 徹夜が続いて、意識がもうろうとしてるときの感覚に近いかもしれない。

「ここが……山頂広場か」

 駅からおりてすぐ、山頂広場からは芦ノ湖が見渡せた。
 少し前まで真横からみていたものとおなじとは思えない。
 山で囲まれたくぼみの中に、広大な水たまりがあるように見える。

 しっかりみようと思い歩いていると――ポケットに入れていたスマホから通知音が鳴った。

 メッセージがきた音とも違う、初めて聞く音だ。

「……なんだ、このメッセージは?」

 ディスプレイを見ると、ポップアップ通知に『動画が届きました』と書いてある。

 原因のアプリは、『スポットメッセージ』というものらしい。

「もしかして……あの日、日向さんが大量に入れたアプリかな?」

 箱根に泊まった夜、僕のスマホにとんでもない量のアプリを日向さんがインスト―ルした。
 あれから、消したり整理する気力もなくて放置していたけど……。

「動画……」

 詐欺に誘導するあやしいものだったり、ただの広告動画かもしれない。

 でも、『スポットメッセージ』というアプリ名と――今、僕がいるのは彼女が『一番のお気に入り』だと言っていたスポットだ。
 そんな場所についたこのタイミングで動画が届いたことに、なにか意味があるんじゃないか。

「……普通に考えれば、スポットのPR動画とかだろうな。……でも、日向さんと関係がある動画かも」

 そう、あわい期待を抱いてしまう。

 震える手で通知をタップして、動画の再生を許可すると――。

『ヤッホー、耀くん! ちゃんと届いてるのかな、このメッセージ動画!』

「――日向……さん」
 声が脳まで届いた瞬間、身体の芯から震えた。
 モヤに覆われた心を一瞬で吹きはらう、風鈴のように美しく澄んだ救いの声。

 幽霊でもいいから会いたかった彼女が――そこで動いている。

 スマホのディスプレイでは、日向さんが動いているんだ。
 生きて笑っている彼女が、またみられた。

 おそらく、日向さんがなにかにスマホを固定して撮影したんだろうな。
 動画の中で手を振る彼女は――今、僕もいる山頂広場に立っていた。
 ドクンドクンと、ものすごいスピードで心臓が鳴る。
 感覚も鈍く、灰色の雲に包まれていたような僕のいるこの世界が――急に鮮明に見えてきた。

 秋の心地よい風を感じる。
 美しく力強い彼女の笑顔が――しっかりと見える。

 たった一人、君がいるだけで……世界は明るい色彩をおびるんだ。
 やっぱり、日向さんは――すごいな。

『勝手にアプリインストールして怒らせちゃって、ごめんね。……でも、万が一のためにどうしても残しておきたかったの』

 なんて嫌な万が一だ。
 でも、日向さんもいつどうなるか分からない身体って言ってたから……。
 だから、このアプリをインストールしていたのか。

『このアプリはね、決めたスポットに相手がたどりつくと、動画を共有できるんだって! 私が撮るこの動画が、耀くんに届いていますように』

 なんでよりにもよってこんな高い場所を指定スポットなんかに……。
 僕の心臓が移植手術を受けていなければ、絶対に動画がみられないじゃないか。
 いや、今はそんなことは関係ない。
 過去に撮った動画でもいいんだ。
 もう一度……日向さんの姿が見られるなんて……。
 彼女の声が、また聞けるなんて――。

『私になにかあって、耀くんは身体がよくなったからこの動画をみてるんだよね。耀くんが身体の悪いまま、私以外の人とは旅にでないことはもう聞いてあるもんね。あ、嘘ついてて、私が無事なのに一人で山を登ってこのスポットで動画を見てたら……恥ずかしくて泣いちゃうかもだよ?』

 嘘なんてつけなかったよ。
 僕は旅なんて二度とできないぐらい病状も悪化してたから。
 ……日向さんがいなければ、そのままだったよ。

『……私、どうなってるんだろう、寝たきりなのかな。それとも……死んじゃったのかな』

 死んじゃったんだよ。
 動画の中で跳ね回る日向さんがこの動画を撮った翌日に亡くなったなんて思えないし、僕は信じたくないけど……。

『耀くん、ここがどこだかわかる? 駒ヶ岳の山頂広場だよ!』

 知ってるよ。
 だって、この場にこないと動画を受信できないんでしょ。
 本当に、日向さんは……どこか抜けていて、癒やされるな。……君の心臓のおかげで、ここにたどりつけちゃったんだよ。

『自力で山にこられるぐらい、身体よくなったんだよね?……耀くんの心臓がよくなる奇跡、起きててください!』

 どうせ祈るなら、自分の身体がよくなる奇跡を祈ってほしかった。
 せっかく空に近い場所なんだから……。
 空にいるだろう神様にも届きやすいだろうに。

『身体がよくなってるなら、私の分まで来年の夢とか将来をみて笑えるよね! もうこんなこと言っても怒らないよね? あ、これは怒鳴られた日の翌日だよ。……耀くんにひどいことしちゃって、ごめんね』

 謝るのは、心に余裕がなくて怒鳴った僕のほうだ。

『今から問いの答えと私の秘密、全部言います。まずは――私が考える、人が捉える抽象的な解像度の答えね!』

 僕たちが旅をはじめた理由、もうずっと聞けないと思ってた答えが……ちゃんと君の口から聞けるなんて。

『でも、耀くんは意外と負けず嫌いだから、具体例をださないと認められないよね』

 たしかに……その通りなんだけど、そのからかう顔はやめて。
 素直に認めづらくなる。

『まずね……耀くんは、綺麗なものをみて撮るのは得意だけど……。全体を広くみたり、逆に細かいところをみないよね。……というか、みないように避けてるのかなって思うの。汚いものとか、暗いことを避けてるって言ったほうがわかりやすい?』

 汚いものや、暗いこと……。
 たしかに、無意識で避けてたかもしれない。
 自分がそういう殻にこもり続けてたから、せめて写真ではキラキラ輝く美しいものを撮りたかったのかも。

『熱海で私がふらっとどこかに行ってたのは、観光者むけじゃない汚れた砂浜をみてたの。ゴミがたくさん流れついてて、海も濁ってた。耀くん、知らなかったでしょ』

 そういえば、毎回ふらっとどこかにいってたな。
 海が濁っていたのは、知ってる。
 日向さんにはみせないで消しちゃったけど……一枚だけ、悩みながら海中を撮ってたんだ。

『荒川の川幅は、氾濫した時の最大幅なの。あのサバンナみたいな美しい草原は、土手と土手の間にあったんだよ。荒川が氾濫した時に人が住んでたら大変だから、手を加えられずに自然のままでいられる場所なの。それで、氾濫しやすいのは台風が上陸しやすい八月と九月。だから鴻巣の花火大会は毎年、肌寒い十月にやってるのかもね。想像できる? 学校より高い土手のギリギリまで水がくるんだよ。あんなに人がたくさん座ってた土手の斜面、背の高い雑草が沈むぐらいの濁流が二千五百メートルも続くなんてさ』

 なにげない会話だと思ってた。
 でも、あれが実はヒントだったなんて……。

『ひまわりは土を撮らなかったり、写真に自分が写ってるのに気づかなかったり。綺麗という大きな枠でしかみてなくて、一本一本の細かいところまではみようとしていないよね』

 日向さんの言うとおりだ。
 全体をみて綺麗だと思って、土とか……中央の種が密集してる少し気持ち悪いところは、アップで撮らないようにしてた。

『大涌谷はさ、今でも有害な火山ガスがでてるんだよ。でも、その火山活動のおかげで寿命がのびるって噂のゆで卵ができたり、温泉で人が癒やされてるの。……過去に火山の噴火があったから綺麗な湖ができる。想像した? あんな綺麗な風景ができるためには、怖い噴火が必要だなんて』

 実際に噴火を見ていないから何とも言えないけれど……。
 そうか、そういう過去とか背景とか……。
 そういうものを考えもせず、その場で綺麗な姿しかみていなかったな。

『川越もだけど、観光地じゃないのに情緒感じるなぁって場所もあるよね。一つのことだけを目的にしてると、他のいいものを見落とすことがあると思うんだ』

 たしかに。
 僕がいつも撮影していた場所は、観光名所でもなんでもない風景だった。
 今までの旅でも、同じように素晴らしい風景を見落としていたんだろうな……。
 僕が、目に映そうとすらしなかったから。

『どうだろ。これがね、私が耀くんの写真を綺麗だなって言って、ちょっと惜しいな~って言った理由だよ。それで、私が考えるような人が捉える抽象的な解像度の答え。納得できたかな?』
 
 ビシッとカメラを指さすのはやめてくれ。
 君らしいけど、真面目な話がだいなしだよ。

 なるほど……。
 僕の撮る風景写真が惜しい、なにか足りないと言ってたのは……そういうことか。綺麗なところ以外は撮らないようにしていた。
 みたくない色を入れないから深みが足りなくて、『ただ綺麗なだけ』の浅い写真になるわけだ。
 環境で揺れ動いていて、モノクロやカラーみたいに安定しない……あいまいな人間の心が捉えるような答えだ。
 でもたしかに、その考えだと……僕の写真には色と鮮明さが足りないといえるかもしれないね。
 純粋な解像度というよりは、心のコントラスト……明暗の対比にうったえている気もするけど。

『これはね、自分の在りかたにもいえるの。知ってる? つぼみは栄養の取り合いで、十分に咲けないのもあるんだって。耀くん、言ったよね。私はもう咲いてる花で、自分は咲くこともなく枯れるつぼみだって』

 その話は……日向さんと出会ってすぐのことか。
 川上から流れてくる君を僕がみつけられた原因……あそこで写真を撮っていた理由を聞かれて、梅のつぼみを撮っていたと伝えたときだな。

『普通ってのも、あいまいだけど……普通に咲いて散る未来がないって意味では、二人とも栄養不足でうまく咲けるか分からないつぼみと同じだと思うんだよね』

 そうかもしれない。……出会ったとき、僕たちは二人ともつぼみだった。
 僕は心臓、君は脳に不安を抱えてて……。
 病気がない人みたいに普通に進学して働いて、普通に寿命を終えるというのは難しかったね。
 咲きかたに迷ってたし、散る未来に怯えてた。

『――そういう咲けるかわからないつぼみが並んでるとき、植物だったらどうするか知ってる?』

 植物の咲いた姿ばっかりみてた僕には、わからないよ。

『片方のつぼみを摘むんだよ。そうすると、残ったつぼみに栄養がいって綺麗に咲くの。これも知らなければ、私達は咲いてる花をみてただ綺麗だなって思うだけ。本当はちょっと残酷な話だよね』

 そうなのか……。
 つまり、僕が綺麗だって言ってた花も木々も……色んな犠牲のうえで咲いてたのか。……だからって、日向さんが摘まれる必要はないじゃないか。
 僕は……日向さんが一番綺麗な花だと思う。
 花開くひまわりのような君に、残ってほしかった。

『私は頭の中にある血管がごちゃごちゃでね、ちっちゃい頃に手術はしたんだよ。頭、坊主にされてすごくショックだったけど、頑張った……。でも、完治はできなかったんだよね。耀くんみたく余命宣告とかはないけど、小っちゃい頃はいつ爆発して動けなくなったり、死んじゃうんだろってすごく怖くて。耀くんと同じで、大人しく過ごしてたの。でもね、テレビで環境問題の番組があって……明るく綺麗な景色の裏に、色んな暗いことがあるって知ったんだ。それをみて、私もこう生きたいって思ったの! 怯えて暗いところで、なにもしないで生きるのが嫌になった』

 僕が図書室で風景写真に出会って変わったように、日向さんも変わるきっかけになる環境があったんだね。
 選んだ生きかたは真逆だったけど。

『だから一分一秒を大切に、楽しく笑って自由に生きて散ろうと思ってた! なるべくだれの心にも残らず静かに散ろうとした耀くんと、いい思い出いっぱいに散ろうって動き回ることにした私。そこの決断が、耀くんとは対極だったね。――でも、この決断のおかげで私は自分が成長して咲いてるんだって思える! 散るのが怖くても、毎日心から笑ってみんなと過ごせるんだ……』

 対極だね、本当に……。
 君は僕から見ると毎日、力強く咲いて見えた。
 隣で殻にこもるつぼみに、栄養を与えて咲きかたを教えるぐらい、生命力に満ちて花開いてたよ。

『人間、汚い部分だったり暗い部分なんてだれでもあるけど、良いところもあるはず。しっかり全体を見るとね、暗いとこも個性として魅力的に受けとめられて、人と楽しく過ごせるんじゃないかなって。勇司の感情的で暴走しやすいところも、暴力的な部分もあれば人の身体のために尽くせたり。舞だって考えすぎで感情が安定しない部分もあるけど、一緒になって真剣に悩んでくれたりさ。人間味があって、私は大好きなの。だから、二人と耀くんが仲良くなれてよかったなぁ~』

 前なら鼻で笑ってたかもしれない。
 だけど、川崎君や樋口さんと友達になって……。
 いいところも暗いところもみた今なら、理解できるよ。
 そうか、それを僕に伝えたかったんだね。
 写真と一緒で、視野を広くもって生きろって……。
 たしかに、実感してからじゃないと僕は納得できないで、殻にこもったままだったかも。
 君のおかげで、人と深く関わると迷惑をかけるだけっていうのが間違いだと気づけた。
 いいところも悪いところも受けいれて、楽しく咲く方法を教えてもらえたよ。

『私は部屋からでる変化をして、成長したと思ってるの。成長って変化……でも、その変化は怖くて勇気がいるものだと思うんだ。今の耀くんは、私と会ったときより変化してると思うんだ』
 
 自分でも、変化してると感じられたよ。
 僕は臆病で……変われたのは、君が殻の中から引きずりだしてくれたから。
 強引な人付き合いとか、旅っていう栄養をあの手この手で僕にくれたからだと思うんだ。

『私が溺れてるのを助けてくれたあの日、耀くんの保険証みちゃったじゃん? 臓器提供の欄に心臓だけ提供したくないってチェックあったのが見えちゃって。なんでかなぁ~って思ってたんだけどね。耀くんのお母さんに聞いて、納得しちゃった。耀くん、自分の悪いところ以外をはだれかに託したいって思ってたんだってね』

 母さん、そんなことまで話していたのか。
 僕の場合、心臓が止まっちゃったら……死後すぐじゃないと臓器提供も難しい。……でも、だれかの未来をてらせるかもって思いながら、最期を迎えたかったんだよ。

『それから私は、こう思ったんだ。だれかに脳以外をたくしたい、眼だったり心臓だけでも生きて、ときめきたい。そうすれば、私の人生もただ散るんじゃなくて、だれかの未来を明るくてらせるって!』
 
 そのせいで、お母様は泣いていたよ。
 娘の遺体に心臓がないって……本当に辛そうにしていた。
 僕は……ろくな影響を与えなかったな。
 日向さんならもっと素敵な散りかたもあったはずなのに。
 それこそ臓器じゃなくて……強く明るく歩んだ生き様とかを語って残せば、美談だったかもしれないのに……。

『私の内臓、だれの中で生きてるのかなぁ。楽しい人生を歩んでくれてるといいなぁ~』

 僕の胸で……生きてるよ。
 ドクンドクンって――強く。
 失神して考えを手放したくても、許してくれないぐらい元気に暴れてる。
 信じられない偶然、物語だとしても都合がよすぎだけど……日向さんの心臓が他の人の胸で動いていたかもしれない。
 そう考えるだけで、少し嫉妬してしまう。
 楽しい人生か。
 ごめんね、まだ……日向さんのいない世界に、楽しみをみつけられてないんだ。
 でも、君がそう望むなら……。
 一生懸命、楽しい未来をつかむために頑張るから――僕と一緒に咲いてほしい。
 命を救ってくれて、身体に栄養を循環させてくれる君と一緒に頑張りたい。

『耀くん、今までありがとう。せっかく助けてくれたのに、先に死んじゃってごめんね。私の棺に、いい思い出の花を添えてくれてありがとう』

 ちがうんだ。
 僕は……君の人生に楽しい思い出の花を添えられなかった。
 日向さんの葬儀にすら出てない。
 この動画を撮った次の日に亡くなっちゃったから……謝罪もできてない。
 もっといい思い出を、散る前の君にあげればよかった。
 
『まさか、笑って見送るのを求めてた耀くんが、泣いてないよね?』

 知らなかったんだよ。
 笑って見送ってほしいという願いが……こんなにも、難しいなんて。
 泣かないわけ……ないだろう。
 今、声をだそうと思っても……きっと掠れて声にならない。
 ディスプレイに映る君の姿を滲ませないだけで、精一杯なんだ。

『泣いたらダメだぞ~! 余命一年だろうと百年だろうと、終わりがあるのは一緒なんだから。短い旅か長い旅か、それだけのちがいだと思うんだよね。……私のぶんまで、笑ってね。来年でも、明日でも、一時間後でもいいから。夢をもって、心おどらせて笑ってね!』

 最初に病院で僕を怒らせた、君のセリフだね。
 夢をもって、心を……胸をおどらせられるように生きるよ。

『動画撮れる時間、そろそろキツいかな。ねぇ、耀くん。殻にこもらないでね。もう、耀くんには友達がいる。だれが一番に寿命を迎えても、笑顔の花を添えてあげてね。自分の番になったら、一人は寂しくて辛いかもだけど……胸にいい思い出を抱いて眠ってね』

 残念だったね。
 僕が寿命を迎えるときは――一人じゃない。
 眠るときは……君の心臓と一緒だよ。

『本当は……もっと、耀くんと旅したかったなぁ……。どこかで私の臓器が耀くんの撮る写真をまたみられますように!』

 僕だって、君ともっと旅をしたかった。
 でも、風景をみて心が揺れるとき……写真を撮るときも。
 君は間違いなく僕と感動を共有してるよ。
 僕の旅は、日向さんのおかげで続けられるから。
 元気に笑いなが日向さんがカメラにむかって手を振った。
 撮影を止めようとしているのか、徐々にカメラに近づいてくる。
 その姿がどんどん大きくなってきたが、ピタリと足が止まった。
 彼女は突然、俯きだし――。

『……死にたく、ないなぁ』
 
 弱々しく震える声がスピーカーから聞こえた。
 顔を上げた日向さんの瞳から、涙がポロリとこぼれていく……。
 薄く笑いながらも、儚い姿だ……。
 君は、そんな顔で泣くんだね。

『ごめんね、泣くつもりなかったのに。心残りじゃないんだよ。ただ、楽しかったなって。もう会えないのが、ちょっと寂しくて。死ぬときを考えたら、泣けてきちゃった』

 いいんだよ。
 日向さんは自分の心を笑顔で覆い隠しすぎなんだ。

『……初めて会った時から、私あり得ないぐらいにウザかったよね。信じられないぐらい失礼なことたくさん言って、挑発してさ! 本当は、怒鳴られるんじゃないかってずっと怖かった。でも、恩人が暗い殻にこもったまま、ウジウジと寂しく散っていくのをみたくなかった』

 今ならわかるよ……。
 あり得ない言動をしてきた日向さんの想いがさ。
 ありがとう……日向さん。

『私は後悔したくない。ウザがられても、寿命まで耀くんにつきまとっていくからね!……そう、できてたよね? 私、そうやって笑って生きられたよね?』

 できてたよ。
 最高にウザくて……。
 最高に綺麗な笑顔だった。

『ひまわりみたいっていわれたとき、すっごくドキドキしたんだよ。真冬の川で冷えた私の手を握って、温めてくれたの覚えてるよね。――凍える私を溶かしてくれたあのときから……耀くんは、私にとっての太陽くんだったんだから!……ずっとみてるのバレたのかなって。嫌われたらどうしようって……!』

 そんな深くて詩的な考え……僕にあるわけないじゃないか。

『耀くん、好きだよ! 会ってすぐは、嫌いだった。本当は寂しいくせに、フラフラと揺れるような芯のない矛盾した言い訳ばっかして、一人でいようとする。その暗くて後ろ向きな考え捨てて素直になれってイライラしてた。思ってたような、強い太陽と違ったなって……。でも、命を救ってくれた恩返しをするまではって付きまとってて……なんか、段々と私の気持ちもかわっちゃった。未来がみえない同じような身体なのに、選んだ考えかたの違いに特別を感じてきちゃって。一緒に旅をしながら成長していく耀くんをみて、恋しちゃった。最初マイナスだった分かな。ちょっとでもいいとこみつけたたら、反動で好きになっちゃいました!』

 僕だって――天敵から、好きになっちゃったんだ。
 いつの間にか……日向さんが大好きだったんだよ!

『だれかを特別好きにはならないぞって、耀くんみたいに私も考えてたの。好きな人を作ったら、残していくときに悲しい思いさせるって……理屈ではわかってたから。――でも、気がついたら好きになっちゃってた。気持ちって抑えられないもんなんだね!』

 恋は理屈じゃなくて、感情らしいよ……。
 僕たちの大切な友達が、そう言ってたよ……!

『知ってるかな、涙って……恋に水って書いて恋水って読むこともあるんだよ。なにかが恋しいから流れる水って考えたら、すごくロマンチックだよね。……涙ひとつでも、見方や感じかた次第でこれだけ変わる。――私が泣いてるのは、ぜんぶ耀くんのせいだよ。耀くんのことが、恋しいから……!』
 
 そっか……。
 じゃあ、僕が泣いている理由とお揃いだ。
 日向さんのせいで、涙が流れてるんだな。
 僕も――君が恋しいから、泣いているんだ……!
 人間関係って難しくて……すごいんだね。
 こんなにも、心を揺さぶるものだなんて。

『ああ、いえた。これで最後の心残り、なくなっちゃった。私のファーストキスはロマンチックじゃなかったけど……相手が耀くんでよかった。――耀くん、幸せになってね。素敵な写真でみんなを笑顔にしてね! そんじゃ……ばいば~い!』
「――待って!」

 画面に手を振りながら、録画を止めるため更に近づいてきた姿に――思わず叫んでしまった。

「あ、あぁぁ……!」

 周囲の目も気にせず、無意識に声がでた。

「――ぁぁぁああ……!」

 指が変色するほど強くスマホを握りしめてしまう。

「ぁあああ……ひなたさん……!」

 声が漏れ出て……涙が止まらない。
 もう、いいよね。
 視界が滲んでも……涙をこらえなくてもいいよね。
 日向さん、君が散る前日……最期に残してくれたメッセージ動画。
 ちゃんと――受け取ったから。
 泣き止んだら……君の願いを叶えられるように、頑張るから――。

「――おはよう、日向さん。改めてだけど……迎えにきたよ」
「夏葵、俺たちの卒業式だ。……ちゃんと綺麗になったよな」
「こんだけピカピカに掃除したんだもん。夏葵、晴れやかな気持ちで笑っていこうね」

 三月の中旬。
 肌寒い朝早くから、僕たち三人は最愛の友人を迎えにきていた。
 川崎君と樋口さんは瞳に涙をためながらも、爽やかな笑顔を浮かべている。
 僕も、泣くわけにはいかないな。気持ちよく、彼女を連れて行かなきゃ。

 今日は晴れの舞台、卒業式の朝だ。

 太陽が昇って間もなくから『日向家の墓』を掃除していたから、手はかじかみ真っ赤に染まっている。
 綺麗にして、彼女らしい晴れやかな気分になれるよう卒業式に連れていってあげたかった。

「そろそろ時間だな。いこうぜ」
「望月、写真忘れないでよ?」
「うん、わかってる」

 僕たちはお線香の香りを制服につけたまま、最後の登校をする――。

 今の時代、ただ綺麗な風景写真や映像はありふれている。
 現実の風景写真より綺麗な絵画やアニメーションだってある。
 綺麗な風景をフレームに切りとって写すだけで、積み重ねた実績もない高校生が人の心を動かすのは難しい。

 日向さんは写真には詳しくなかった。

 だけど暗いところも明るいところも知っている彼女は――僕に人の心と、新しい視野による可能性を教えてくれた。

 卒業式会場である体育館を前に整列している僕たち。
 様々な思いがつのる場で、川崎君はにこやかに僕に笑いかけてきた。

「望月、なんかキラキラしてるな。卒業式ムードで周りは泣いてるってのに。お前だけかなり楽しそうに笑ってる気がするぜ」
「そうかな?」
「やっぱ、写真集の出版が決まると余裕あるんかね?」
「クラウドファンディングで、なんとか自費出版できたんだけどね。SNSがなければ、出版できなかったよ」

 それも全て、日向さんのおかげだ。
 宣伝に使った動画加工や編集用のアプリも、効果音だって箱根で彼女が大量インストールしてくれたアプリの中にあった。

 クラウドファンディングに使うものだってそうだ。

 彼女がもしものときのためにインストールしてくれたものが活きて、ここまでこれた。

「それでもバズってさ、みんなに写真集化が望まれたんだからいいじゃん。表紙みたけど、いい写真だったよね」
「ああ、あの満開のひまわり畑と、枯れて種を落としてるひまわりの写真だろ。地面に落ちてった種、あの後どうなんだろうな」
「考えさせられる深い写真だったよね。……なんかさ、望月かわったよね。初めて会った頃よりも明るい感じ」
「一年生の頃はぶっちゃけ、教室にいたかもわかんねぇぐらい暗かったかんな」
「最初に僕を殻から引っ張りだして、二人と巡り会わせてくれた日向さんがいなかったら、ずっと僕は暗い殻にいたね」
「そうか、俺たちも夏葵に助けられて卒業できた」
「やっぱ、夏葵はすごいね。敵わないよ」
「でも、二度目に僕を暗い殻から引っ張りだしてくれたのは、川崎君と樋口さんだよ」
「……え、俺ら?」
「日向さんの死を知って、僕は暗い部屋で動けなかった。――でも、二人が左右から肩を支えながら歩かせてくれたから、僕はお母様と話せて……また笑えるようになった」
「ああ、あったな。焦点の合ってない目をしてたときか」
「ウチらはただ引きずってっただけだよ?」
「二人は大したことじゃないと思ってても……僕は救われたんだ」
「……そっか。ウチらは大したことないと思ってても、当人の感じ方は違うんだね」
「僕は二人と友達になれて――本当によかった」
「望月……。お前、本当に変わったな。なんつうか、夏葵みたいに輝いて見えるよ」
「僕は……耀いて見える?」
「うん、そうだね。すごい耀いて見えるよ」
「……知ってる? 月が耀いて目に映るには、照らしてくれる存在が必要なんだよ」
「なんだ、詩的なこと言い出して。芸術家を気取るにしても、気が早ぇぞ」

 日向さん。
 君は僕を太陽だと思ってたみたいだけど、やっぱり僕は――自ら輝く太陽にはなれない。
 僕は、太陽に照らされて輝く月だ。

 ひまわりのような笑顔を浮かべる君こそが――太陽だ。

 ひまわりは、太陽を象徴するその姿から別名で日輪草とも呼ばれてたらしいから。
 僕はおぼろ雲のような暗い世界に隠れながら、明るく花咲く君の笑顔に光を当ててもらって。
 君とセットでようやく耀けて、みんなの視界に映れるんだ。
 日向夏葵がいなければ、僕はつぼみのまま散ってた。
 だれの目にも入らない日陰で、咲けずに散ってたよ。

「ほら、整列だってさ。おしゃべりはここまで。夏葵の写真、卒業式中に落とさないでよね」
「頼んだぞ、望月。お前を信じて額縁を預けたんだ。ちゃんとしろよな!」
「望月なら大丈夫っしょ。多分、夏葵も望月と式にでたいだろうしね。――そんじゃ、また式が終わったあと集合ね」

 体育館前にクラス毎に整列して、卒業生一同は会場へ入る合図を待ち続ける。

 そうして――会場となる体育館の入口が開かれた。

 本日の主役を引き立たせるために、うす暗い館内。
 優しいピアノの旋律が響きだすと、卒業生たちが順番に入場をはじめた。

 左右で起立している在校生や保護者たちが、合唱曲『旅立ちの日に』を歌いながら迎えてくれる。
 そんな中、僕たち卒業生はライトアップされた赤い絨毯の上をゆっくりと歩いていく。

 体育館に響く美声に、すすり泣く声や息づかい。
 細かいところまで注目すれば、色んなことが見えてくる。

 彼女は、人の心を動かすぐらい素晴らしいものをわかっていたんだろう。
 だから、僕の写真に足りない――無意識で避けていた部分をすぐに見抜いた。
 人生の日陰と日向――どっちも全力で生きてきた彼女だからこそ、わかったんだ。

 僕は額縁に入った彼女の遺影を抱いて、会場へと入っていく。

 晴れの場で興奮したのか、胸の奥はドクンドクンと生命力を全身に送り続け
ている。
 心臓の鼓動を邪魔しないようにそっと手を当てる。

 君にも響いているのかな、この歌声が。

「……僕たちも、旅立ちだね。これからも、広い大空の下を自由に駆けめぐろうか」

 今の僕は、まだSNSでちょっと注目されたぐらいの風景写真家でしかない。
 ホタルや新月みたいに儚い耀きだ。
 もっと成長する余地があるからこそ――。

「来年、再来年。いつか……十五夜の満月みたいに耀いて、みんなを笑顔にしたい」

 そうなることを望んでくれた人がいる。
 未来をみて目標をもって、明るく生きてほしいと想ってくれた人がいるから――。

「今年の夏、去年みたひまわりの種は……どんな花を咲かせて、むかえてくれるかな」

 去年みた風景は、今年どんな姿をして写真に写るんだろう。
 来年はどうなってるんだろう。

「夏葵さんのおかげで……心から笑えるんだ――」

 これからも、心が揺れ動くような風景写真を撮ろう。
 僕の身体に日向さん――いや、夏葵さんの心臓があるから……。

 二人でなら、きっと綺麗に咲いていける――。