八月末。

 昼は暑く、朝と夜が冷え出し季節の移り代わりを感じる。
 夏休み終了の三日前。
 それが箱根旅への出発日だった。

「移動だけでも、けっこう疲れるな……」
「東京に出てから箱根湯本駅につくまでに、三時間近くもかかったからね」

 時刻は十三時すぎ。
 僕たちは荷物だけフロントに預かってもらい、さっそく撮影旅にでた。
 今は大涌谷へとむかっている。『箱根フリーパス』という、鉄道やケーブルカー、ロープウェイが何回でも乗り降り自由というお得なチケットを購入しての旅だ。
 今日のプランは箱根湯本から大涌谷、桃源台まで撮影にいって戻ってくるというプランだ。
 鉄道、ケーブルカー、ロープウェイを乗り継ぎ、移動だけで片道一時間はかかる。

 往復すると考えると撮影時間は少なく、一時たりとも気が抜けない。一枚一枚に全身全霊をかけて集中しなければ。……そのためにも、移動時間はゆったりしたい。
 だというのに――。
「――ね、ね! 窓から見る山も花もメッチャ綺麗だよ!」
「……ごめん、撮影のときまで体力を残しておきたいんだ。あと、車内で騒ぐと迷惑だよ」

 鉄道の車内でも元気いっぱいに声をかけてくる日向さんに注意する。

 ただでさえ、病状悪化でこのところは体調が万全と言いがたい。
 今回の撮影集中旅で絶対に答えをみつけなきゃいけないことは、彼女もわかっているだろうに。

 今回の旅は遊びじゃない。
 それは、出発前にも確認しあった。

「ん~。でも、もったいないじゃん! 色んなとこみようよ」

 日向さんの言葉に、僕は苦笑だけ返して目をつむった。

 好奇心の塊にして、元気なひまわりが人間に変身したような彼女だ。
 元から遊ぶなというのが無理だったのかもしれない。
 でも彼女には心から期待しているし、信じている。
 だって――
『心を鬼にして、答えをみつけてもらえるように全力で頑張る』
 病状が悪化して病院で処置を受けたときに、彼女はそう言ってくれた。
 だから僕は、今回の旅で絶対に答えへ至るヒントをくれると信頼しているんだ。
 いい写真を残せなければ、僕はこの世に心残りを残してしまう。

 病院で医者にもいわれた。
『前に宣告したときより、余命は短くなる可能性が高い』
 その言葉は病院に付き添ってくれた彼女も聞いている。
 だから今はこんなふざけていても、いざ撮影となれば真剣になるはずだ。 
 一緒に楽しんであげられないのは申し訳ないけど、今は体力を温存させてもらおう。

 一時間の移動を終えて大涌谷駅でロープウェイをおりた瞬間に、ツンとした強風が襲ってきた。

「うわ~、硫黄の臭いがすごい! めっちゃ鼻がツンとするよ!」
「大涌谷は硫化水素とか二酸化硫黄みたいな人体に有害な火山ガスが多いんだってさ。……心臓にも悪影響だから、僕は長居はできないよ?」
「うん、それなのに旅プランに盛りこんで……ごめんね?」
「別にいいよ。どうしても行きたかったんでしょ。それに、心臓に悪影響って知ってても日向さんが連れてくるってことは、ここがいい写真には必要なんだなって考えてるし」
「耀くん……ありがとう。わかった、じゃあパッと撮って戻ろうね!」

 少し寂しそうに笑いながら、彼女は弱々しく僕の指を引いていく。
 いたるところから空にのぼっていく噴煙が舞っている。
 山風に身体を押され僕たちはふらついてしまう。
 煙の吹きだす山肌が展望できる場所までは、少しだけ傾斜のある路面を歩く必要がある。

 心臓のバクンバクンという音を感じながらも、僕は彼女に手を引かれて――。

「これは、たしかにすごい光景だ……」

 葉の緑がより一層濃くなる真夏なのに、はるか下に見える谷底で木々は茶色く枯れている。
 そして山肌の土は薄黄色く染まり、まるで古代遺跡のように見える。
 炎もないのに大地から吹き出す煙が風に揺られて消えていく。
 轟々と鼓膜に吹きつく風の音。
 呼吸を浅くしても鼻から入りこむ火山ガスは化学実験室の臭いに似ている。

 隣へ視線をうつすと、日向さんのショートウルフの黒髪が風に揺られている。
 彼女は指で前髪をかきわけて視界を確保すると、微笑みながら声をかけてきた。

「耀くん、早く撮影しよっか!」
「ああ、うん」

 そうだ。
 僕の身体ではここに長居できない。
 これ以上は進めないという柵のギリギリまで近づいて構図を考え、写真を一枚撮ると――。

「よし、次にいくよ~!」
「え。まだ一枚しか撮ってないよ。僕はまだ大丈夫だから」
「ダメ! ほら、お土産屋さんによって、次は桃源台にいこう!」

 なんのためにここまできたんだろう。
 そう思うぐらいあっという間だった。
 彼女は僕の手を握ってグイグイと強く引っ張っていく。……それだけ僕の身体を心配してくれているということか。

 そう納得してお土産屋さんに連れていかれる。

「すいません、寿命がのびる黒たまごをください!」

 寿命がのびる黒たまご……?

 日向さんは商品を受けとり、僕たちはロープウェイへ戻るために歩きだした。

「ほら、みて。みんなが記念撮影している黒いたまごの銅像!」
「大涌谷って書いてあるね。なんでみんな、あそこで撮っているんだろう」

 噴煙が吹きだす薄黄色の土をした山という珍しくて素晴らしい風景が目の前にあるのに。
 あの銅像に地名が書いてあるからかな。ここにきたという証明写真なんだろうか。

「これね、一個食べるだけで七年寿命がのびるっていわれてるの。大涌谷の名物なんだよ」

「ああ、そういえば観光サイトでみたかも」
「なんか温泉熱とここのガスとかが反応するとできるらしいよ! はい、一個食べて」
「……塩をつけないで殻をしっかりとれば、いけるかな」

 今さら七年も寿命がのびるわけない、それは日向さんも知っているじゃあないか。
 心ではそう思っても、口にはださなかった。
 楽しそうな顔で笑う日向さんに、水をさしたくなかった。

「うん、美味しい」
「でしょ!? でも、殻をむいたら手が硫黄臭いね~。桃源台についたら、どっかで手を洗おっか!」
「そうだね」

 桃源台へと向かうロープウェイ乗り場へ歩く途中で、そんな会話を交わした。

 大涌谷ではヒントをもらえなかったうえに、一枚しか写真を撮らせてもらえなかった。
 だけど、日向さんは全力でいい写真が撮れるよう協力してくれるとたしかに言った。

「ねぇ、目をつむってちゃもったいないよ! ほら、見渡す限りの山、緑が綺麗だよ!」

 だから、ただ旅を楽しんでいるだけではないはずだ。
 この後こそが本番なんだろう。
 そのときに全力で考えて結果をだせるように、僕は微笑みながらも目をつむって深呼吸する。

 旅は明日も続くんだ。
 彼女の心に後悔という傷をつけないよう、呼吸を整えなきゃ。いい思い出として覚えてもらいたいから、倒れるなんてのは最悪だ。


 そうして桃源台へとたどり着いた。
 ロープウェイからおりてすぐ目に入ったのは、巨大な湖だった。

「……これが芦ノ湖か。すごい大きさ……綺麗だ」
「ね、すっごく大きい湖! まるで海みたいだね!」
「うん、波みたいなのもあるし……。これは写真の撮りがいがあるよ」

 湖に近づきながらそんな会話を交わし、目の前には――巨大な船がとまっていた。

「すっごい大きい! 綺麗な海賊船だね!」
「立派なマストに、赤と金の塗装……本当に綺麗だね。僕たちもこれに乗るんだっけ?」
「ん~。そうなんだけど、次の便に乗ろうか。まずはここから芦ノ湖を撮ろう?」
「わかった。――いよいよだね、全力で撮るよ」

 巨大な芦ノ湖を遊覧する船、それが海賊船だ。
 いくつか船の種類もあるらしい。
 僕たちは停泊していた船が出航するのを見送り、芦ノ湖をまわる遊歩道を歩きながら撮影スポットを探した。

「うん、ここがいい景色だ。ここで撮影してもいい?」
「うん。耀くんが決めていいよ」
「わかった」

 芦ノ湖がはるか奥までみわたせる場所をみつけた。
 海でもないのに小さくて穏やかな、ササンササンという波音が聞こえる。
 潮風のようにべたつかない、本当に清らかな音と風だ。

 僕がスマホを構えながら、湖と太陽の位置やたまに通りかかる海賊船をいかに美しい構図へ収めるか、一生懸命に考えながら集中していると――。

「――ね、耀くん。なんでこんな山の上にデッカイ湖があるんだろうね?」

 後ろから僕の肩をつかんでユサユサと揺らしてくる日向さんのお陰で、構図が乱れた。
 とぎすませていた集中までとぎれてしまう。

「……ふぅ。日向さん、なにしてるの?」
「なんでこんなとこに綺麗で大きい湖ができたのか、すっごい気になってさ!」

 無邪気な笑みでみながら首を傾げる日向さんに、少しだけ不満を抱いてしまう。

「知らないよ。……それってさ、もしかしてヒントなの?」
「ん~。さぁ、どうだろうね?」
「……湖ができるってことは、川がせき止められたりかな」
「そうだよね。でも、みた感じだと芦ノ湖周りは川があんまり見えないから、なんでかなぁって」
「じゃあ、火山活動の後に水がたまった火山湖ってやつじゃない?」
「そっかぁ。なるほどね~……」
「え、それだけ?」
「うん、それだけだよ」
「……ごめん、今は真剣に撮りたいんだ。僕には残された時間が少ない。ただでさえ撮影時間が短いんだし、少し集中させてくれないかな?」

 納得している様子の日向さんから湖に視線を戻して撮影を再開する。

 『人の捉える抽象的な解像度』という問いへのヒントかもしれないと思ったが、関係なさそうだ。
 単純に興味があっただけみたいで、そういう雑談は後日すればいい。
 この絶景での撮影時間は、本当に貴重なんだから。

 そうして次の船がくるまでの短い時間で懸命に撮影し、遊覧船乗り場へと早足で戻った。

 船上とはいえ、湖を観光するための大きな船だ。
 思ったほど揺れることもなく、僕たちをのせゆっくりと芦ノ湖を周り始めた。

 爽やかな森林と綺麗な水の香りを含んだ風がスルッと肌をなでていく。
 清い香りは、あの硫黄臭い大涌谷と近い場所とは思えなかった。
 彼女と一緒に撮影スポットをキョロキョロ探しながら船の上を歩き回っていると、芦ノ湖の広大さが見えつつ、湖に突き刺さる鳥居がある場所をみつけた。「いい風景だ」とスマホをかまえ撮影ボタンを押す。
 構図を変えてもう一度撮影ボタンを押すと――。

「いぇーい!」

 満面の笑みを浮かべた日向さんがフレーム内に写りこんできた。

「……何してるの?」
「ね、撮れた? みせてみせて!」

 日向さんは僕のスマホを奪いとるように写真フォルダを開いた。

「わ! よく撮れてるね、さすが上手い! メッチャ盛れてる~!」
「……あのさ」
「これ、私とのメッセージに送っておいてね? 共同管理のSNSに顔さらす勇気はないから!」
「……わかった、旅が終わった後にまとめて送る」
「やった! 前は後ろ姿だったから、ちゃんと正面から撮ってくれたのは初めてだよね」
「……ひまわり畑で正面から写ったじゃん」
「ん~、あれじゃ小さすぎてダメかなぁ……」
「何が?」
「……秘密」

 また秘密か。
 ここまできて、なにを秘密にするんだろう。
 今回の旅で絶対に目的を果たす覚悟なのに。
 僕の最期までに、日向さんは秘密を明かしてくれるのかな。

 嬉しそうに左右に揺れる日向さんは、本気で旅を楽しんでいるようだった。
 僕だってこれが撮影旅じゃなければ、同じように笑っていたかもしれない。――だけど寿命が間近で、いい写真を残さなければと追われていては……とてもそんな気持ちにはなれなかった。

「……ねえ。お願いだからさ、真剣にやろうよ」
「あ……ごめん。でも、ここにきてからずっと張り詰めた顔してるからさ。そんな心じゃ、いい写真とれないんじゃない?」
「……なるほど。たしかに、そうだった。心が大切だったよね。ごめん、言い過ぎた」
「ううん、私こそ。ふざけてるように見えたよね。やっぱり、楽しむのって必要かなと思って」
「……そうだよ、ね。じゃあ、撮影する時だけは真剣になるから。それ以外のときは、少し息をぬいて楽しもうか」
「うん!」

 日向さんは僕にいい写真を撮らせる気がないんじゃないかと少しイラッとしてしまったが、早とちりだったみたいだ。
 熱海の撮影旅で、僕は写真を撮るのにも心が大切というヒントをもらっていた。
 時間のなさに焦っていて、せっかく教えてもらったヒントを忘れるところだった。

「……僕は最初、日向さんのことを天敵だと言ったよね」

「あ~、言ったねぇ。苦手ならわかるけど、なんで天敵なの?」
「僕とは対極的すぎるぐらい輝いていたから。でも、日向さんのおかげて友達ができて、少しずつ変われて……わかってきたんだ」
「ん……。なにがわかってきたの?」
「僕は、君に憧れていただけなんだって。自分がなりたくても、なれないような人だって決めつけてたから。だから……天敵だと思ったんだ」
「そっか~。それはなんとも、光栄な天敵だね!」
「でも、俯いて殻にこもってるのはもうやめた。残りの短い寿命、いい写真を撮るって目標に向かって一生懸命に頑張るよ。そうすれば、少しでも日向さんみたいに――」

 ――輝けるかもしれないから。

 そう言う前に、日向さんが口を挟んで止めてきた。

「――あ、ほら。富士山が見えるよ! さすがに雪はないけど、でっかいね!」
「……新鮮だね。やっぱり、富士山って言ったら山頂のほうに雪が積もってるのが映えるよね」
「そうだね、浮世絵とか写真で見る富士山とかは、雪化粧されてるもんね! あれも風情があると思うんだけどね~」
「うん、富士山って直接みたことなかったから……。雪が積もってなくても、みられてよかったよ。この旅のおかげだ」

 船のモーター音と湖をゆっくりかきわけるザザザという音のなかで、なんともいえないもの悲しさに襲われる。
 あまり綺麗じゃないけど、一応は記念にと一枚だけ写真を撮影しておく。

 その後は楽しそうに笑う日向さんと談笑しつつ、撮影スポットをみつけたら集中して写真を撮る。
 そうしているうちに芦ノ湖の遊覧は終わった。

 事前に聞いていた今日のプランとしては、もうホテルに戻るだけだ。
 正直、移動と撮影時の集中でかなり疲労している。
 船からおりてすぐ、ホテルがある箱根湯本駅いきのバスに乗ろうと歩きだすと、日向さんに止められた。

「せっかくだからさ、ロープウェイで強羅までいこうよ! 強羅からでも、ロープウェイと箱根鉄道で箱根湯本駅に戻れるじゃん?」
「……え。でも、それだとまた一時間以上かかるんじゃない?」

「うん。バスなら四十分だけど、私の言ったルートだと一時間半ぐらいだね!」
「それなら、バスのほうがいいんじゃ……」
「……もしかして耀くん、体調悪い?」

 それまで笑顔だった日向さんの表情が、急に心配げな弱々しいものになった。
 強くてハリのある声も一転して、固く低い響きが混じるようになっている。

「――いや、大丈夫だよ」
「本当? 無理……してない?」
「もう一回、大涌谷までのぼるのはキツいと思う。でも途中の強羅まで、ただ座ってるだけなら大丈夫だよ。……そのほうが、フリーパスのプラン内で移動できるからお得だしね」
「……わかった。じゃあ、いこうか!」

 僕の手を弱々しくキュッと握り引いていく日向さんの細い指が、少しだけ汗ばんでいた。

 のぼっていくロープウェイの中、僕は目をつむりなるべく深く呼吸をしていた。
 気圧の変化や酸素の薄さは少しこたえるけど、意識して呼吸をすればそこまで苦しくはない。
 視界を閉ざすと、かわりに音がよく聞こえる。
 ゴウンゴウンというロープウェイの音、そして――。

「ね、耀くん。目を閉じてて……本当に辛くない?」
「うん、大丈夫だよ。ただ、体力を温存しているだけだから」
「――そっか。じゃあさ、ちょっと外をみてよ!」

 芦ノ湖の波音よりも爽やかで耳心地のいい日向さんの声が、僕の耳によく聞こえる。
 正直にいえば目を開けて呼吸に集中できないのは辛いけど、くだりのときと合わせて二回も彼女の声かけを拒否したくない。
 さすがに僕も目を開けて、ガラス窓から外を見る。

「……夕陽が沈んでいく山だね」
「うん、綺麗でしょ? 一つの山じゃなくて、大きさもバラバラの山がたくさんあるの!」

 テンション高く言う日向さんだが、僕は特になにも感じなかった。
 たしかに、綺麗な風景だなとは思う。
 でも芦ノ湖で山はたくさんみた。
 高いところから見下ろしても特別感や感動はそこまで大きくない。

「そうだね、綺麗だと思う」
「もう、それだけでまた目をつむっちゃうの?」

 体力を回復させようと再び目をつむった僕の耳に、とがめるような言葉が届く。
 疲れや体調不良もあってか、僕は少しだけ腹が立ってしまう。

「……日向さん。僕はこの旅、観光ではきてないんだ。明日こそいい写真を撮るために、体力を残したい。ヒントをくれるなら別だけど……少し休ませて欲しい。僕のノリが悪くて日向さんが楽しめないんなら、本当にごめん。――でも、僕にとっては遊びの旅じゃないんだ」

 かなり冷たい言葉を言ってしまったと思う。
 僕の手を握っている日向さんの指が小刻みに震え、「……ごめんね」と言う声とともに離れていった。

 その後、ホテルに着くまでの間はずっと二人とも無言だった。

 間違ったことを言ったつもりはないけど、今日一日、僕としてはちょっと裏切られたという気持ちもあったんだ。
 日向さんは、僕がいい写真を撮るために全力を尽くしてくれるって言ってたから――。

 ホテルにチェックインして、各自の部屋に入った。
 僕は備え付けの椅子に前屈みになりながら座って大きく呼吸をする。
 この姿勢で呼吸をすると、かなり楽になるんだ。

 そうしているとスマホから通知音がなった。
 机に置かれたスマホを手にとって確認すると、日向さんからのメッセージだった。

『ここの温泉は胸より下だけで浸かれる露天風呂があるからね。キツくなかったら、絶対に入ってね』

 という内容だった。
 日向さんは人の言うことを忘れているようで、意外に覚えている。

「……僕が胸より下までなら浴槽に浸かれるって言ったこと、覚えてたんだ」

 あれはたしか、七月の暑い日だった。
 ひまわり畑へ撮影旅にいったときだな。
 僕が蒸し暑い空気をお風呂みたいだと例えた会話の中で言った気がする。

『よく覚えてたね。わかった、短い時間だけでも浸かるよ』

 そう返したが、既読はつかない。
 どうやら彼女は温泉に入ったようだ。
 僕も重い身体をなんとか動かして、温泉へとむかう。

 初めて入る温泉は、まずだれかとお風呂に入るということが、ものすごい違和感だった。
 かけ湯というのを先に入った人がしていなければ、そのまま浴槽に浸かっていたかもしれない。

 たしかに家で入るお湯よりも気持ちよかったように思う。
 肌触りもなめらかだし、自分の肌がモチモチと柔らかくなったように感じた。
 でも、長居はできない。
 湯気で満ちた浴室は息がしにくいし、心臓もバックンバックンと自覚するぐらいにキツい。
 常に立ちくらみがしているように感じる。

「倒れるわけにはいかない……。彼女に責任を感じさせちゃう。迷惑を、かけたくない……!」

 壁を伝って歩くように脱衣所に戻って、ドライヤーが並べられている洗面台の前に座って休む。
 ふと、自分の顔が大きな鏡に映ったのが見えて――。

「……むくんできてる。首の血管の盛り上がりはなんだ……?」

 つい最近、病院で処置をうけた時ほどではないけど身体がむくんできていた。
 それだけじゃない。
 首の血管が膨らんでいる。
 これは、心臓の状態が悪いからだろう。

 まずい、絶対に……今は病院にいくわけにいかない。
 せめて日向さんと別れる明日の夜までは、隠し通さないと……。

 今日は早く寝て、明日の撮影にそなえよう。
 倒れないように、そしていい写真を絶対に残す――。

 そう心に決めたとき、またスマホの通知音が鳴った。
 日向さんからのメッセージだ。

『ご飯どうする?』

 という簡潔なものだった。
 チェックインのときに、夕食は大食堂でビュッフェがあるといわれた。
 でも僕は食事制限があるからいけないだろうと思って、日向さんはメッセージをくれたんだろう。

『自分で用意してきたお弁当を食べるよ。気にせず楽しんできて』

 そう返して、僕は前屈みで椅子に座りながら荒い呼吸を整えつづける。
 食欲なんてあるわけがない。
 安静にしているうちにトイレにいきたくなり排泄をすると、いくらかマシになった。

 よかった、これで明日もなんとか撮影できそうだ……。

「絶対に……いい写真を残してみせる。あと、倒れて迷惑はかけない……!」

 日向さんは人生に一度しかない高校二年生の夏を、僕のいい写真を撮って心おきなく最期を迎えたいという目標に協力してくれている。

 そんな日向さんに恩返しするような写真を撮りたい。
 ――そして、迷惑はかけずに終わりたい。ここは耐えどきだ。大丈夫、あと一日ならなんとかなる。

 そうやって自分の決意を何度も確認していると、部屋の戸をノックする音が聞こえた。

「はい……?」
「やっほー!」

 本当ならすぐにでもベッドに横たわりたい身体を動かして扉を開けると、浴衣姿の日向さんが立っていた。
 髪の毛は少しだけ湿っていて、ドライヤーをしっかりかけていなかったのかと気になる。

「どうしたの? 明日の予定確認?」
「うん、そう。あとは今日の反省会とか、耀くんと色々な話をしたいなぁって! 入ってもいい?」

 そういうことなら、拒むわけにはいかないし、休みたいなんて言ってられない。
 僕は彼女を部屋に招き入れた。

「う~ん、やっぱり同じホテルだからかね。部屋の作りは変わらないな~」

 彼女は一通り部屋の中をみて、ベッドに腰かけた。僕は椅子を少しベッドに寄せ、そこへ座る。

「それで、明日の予定はどうしようか?」
「うん、この観光ガイドをみてよ!」

 そう言って、彼女は一冊の雑誌を開いて指さした。

「駒ヶ岳の、山頂?」
「そう! 実はね、私は箱根に何回かきたことがあるんだ。それでね、ここから眺める景色がもう最高なの!」
「そう……なんだ」

 僕は雑誌に書いてある文字を見るうちに、どんどんと気持ちが沈んでいくのがわかった。
 標高千三百五十六メートル。
 どう考えても今日いった場所より高くて、酸素が薄い。
 僕の心臓では、耐えられないだろうな……。

「富士山展望台に相模湾展望台、そして何よりも駅をおりてすぐの山頂広場! ここが一番のお気に入りにして、耀くんにもいってほしいところなの!」
「……それは、なんで?」
「今まで旅でいったところを遠くからみられるじゃん? 感慨深いと思うなぁって。でも……やっぱり、私の一番お気に入りの場所だからかな?」

 ヒントにつながるものじゃあないのか。
 そうなってくると、僕のなかで少しずつ怒りがわいてくる。
 遊びじゃないって言ったはずなのに。
 それに、僕の身体ではこんな標高が高くて、傾斜がキツい場所を歩き回るなんて無理だ。
 紹介写真を見るだけでわかる。
 現地にいったことがある彼女なら、なおさらわかるはずだ。

「……明日のことはまた後で話すとして、今日撮った僕の写真はどうかな?」
「あ、そうだよね。写真みせてよ!」
「はい、これ」

 僕が写真フォルダを開いてスマホを渡すと、彼女は一瞬動きを止めて――。

「ね、せっかくだからさ。次々と連続した動きでみたいな。手動じゃなくて勝手に流れるやつ」
「ああ。そういうアプリもあるけど、どれだっけな……」
「私、いいアプリ知ってるよ。それインストールしたいからさ、パスワード教えてよ」
「パスワード?……それって、人に教えるものじゃなくない?」
「ん~、そうだよね。でも私、課金したりとか悪用しないよ?」
「いや……そういう問題じゃないような」

 何秒か考える。
 たしかに、日向さんは悪用なんてしないだろう。それぐらい信じられなくて、何が友達だというのだろうか。

「わかった」
「やった! ありがとう、信じてくれて!」

 僕がパスワードを教えると、日向さんはさっそくアプリをインストールし始めた。

「耀くんは、今日楽しかった?」

 インストールしているアプリの容量が重いのか、それともホテルの通信機能が弱いのかわからないけど、日向さんはしばらく画面を操作した後でそう話しかけてきた。

 インストール中の待ち時間に反省会をしようってことか。

「楽しんでいる余裕は、あんまりなかったかな。いい写真を撮りたい、残したいって気持ちがやっぱり強くて……。本当に、必死で」
「だよねぇ。私にもそう見えたよ」
「……正直、今日撮った写真も全く手応えがないんだ。今までと変わった気がしない。どれだけ悩んでも、日向さんが出した『人が捉える抽象的な解像度』への答えがでないんだ」
「もうちょっと肩の力を抜いて、黄昏れるぐらいの気持ちで堪能しようよ?」
「……それは、ヒント?」
「ん~、どうだろうね?」

 なにか含みがあるような笑みを日向さんは浮かべた。
 本来ならその態度で正解なんだと思う。
 簡単に答えを教えちゃ成長できない。
 ――でも、成長するための試練は未来が残されている人にやるもの。極限まで追い詰められ、あとがない人間からすると……焦りがうまれる。

「僕は、明日中に日向さんの出した『人の捉える抽象的な解像度』への答えを出して、いい写真をとらなきゃいけないんだ」
「うん、耀くんが焦ってるのはわかってる。時間がないことも……」
「そうなんだよ。正直、僕は焦ってる。この旅に今までの全てをかけてる」
「耀くんはさ、私と旅をしてきて、一人で遠出しようって気になった?」
「……付き添いがない一人では絶対に遠出なんて許されないよ。家族も副業があるから忙しくて、一緒には遠出できないし。だから……したいとは思うけど、難しい」

 そう答える僕に対して、日向さんは「そっか、なるほどなぁ」と笑みを浮かべた。
 笑えるような話ではなかったと思うけど……。
 なんだか焦らされているようで、モヤモヤとする。

「……ここまできて、答えを教えてくれなんて言うつもりはないよ。でも、時間がないんだ。甘えかも知れないけど、明日はもっとヒントをたくさんくれると――」
「――お、インストールできた!」

 僕の言葉に口を挟んで止め、日向さんは手に持っていたスマホの操作を始めた。
 人の言うことをあんまり聞いてるように見えないのは、もう個性だろう。
 仕方ない、大人しく採点を待つか。

 でも、日向さんの採点はいつまで待っても始まらない。
 ……長い。
 何分かけて採点してくれてるんだろう。
 それだけ、よくみて考えてくれてるってことか。
 ひたすらニコニコしてスマホをいじってるだけの日向さんをみていると、ドキドキしてしまう。
 僕の撮った写真、どこが弱点って分析してもらえるんだろう。
 とはいえ、これだけジッと待たされると気になってしかたない。

「……そんなに、今回の採点は時間がかかるの?」
「ん? 違うよ。スマホのトップ画面、整理してたの」
「……は?」

 何を言ってるのか、全く理解できなかった。
 僕のスマホに入ってるアプリはメッセージアプリやSNS、あとは写真撮影や加工、タクシー配車や乗り換えに関するものぐらいしか入っていない。
 今さら一つアプリが増えたところでそれほど整理が必要だとは思えなかった。

 ベッドで女性の隣に座るのはよくないかなとは思ったけど、椅子からではスマホが見えない。
 そっと彼女の隣に座って――驚愕した。

「なに……これ?」

 両親に買ってもらったスマホのトップ画面には、ありえない量のアイコンがあった。

「あ、耀くん知らなかった? アプリをね、こうしてフォルダにわけてまとめられるんだよ。アイコンがたくさん並んでると何がなんだか――」
「――そうじゃなくて。なんで、こんなにアプリが入ってるの?」

 彼女はたしかに言ったはずだ。
 流れるように写真が表示されるアプリをいれると。

「写真を流れるように表示させるアプリをいれるだけじゃ、なかったの?」
「それもいれたよ。でも、やっぱ先々のことを考えたらもっと必要でしょ。宣伝のために動画加工したり、その動画を投稿するアプリとか」
「いやいや、ちょっと」

 彼女はなにを言っているんだ?

「それから、人気がでてきたらクラウドファンディングで電子出版とかもできるようなアプリをいれたんさ!」
「……何を言ってるの?」

 日向さんの楽しそうな声が、僕の耳をすり抜けていく。

「もしものときの話だよ?」

 もしものときだって?
 ありえない。
 だって日向さんは、医者から僕の余命がさらに短くなったという話も直接聞いていた。
 それを悲しんでいたじゃないか。
 だから、この旅でいい写真が撮れるよう心を鬼にして全力で臨んでくれるって……。

「あ、動画作りたくても容量がオーバーになっちゃうかも。――ねぇ、消していい写真ある?」

 その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かが切れた。

「――耀くん……?」

 気がつけば、僕は日向さんからスマホを奪いとっていた。
 荒い息をしていて、眉間には痛いほど力が入っている。

「……ふざけないでよ」
「ごめん……ふざけては、いなかったよ」
「ふざけてなければなんだって言うんだよ! 僕は写真だけには本気だって言った! その写真を消してまで、未来がない僕に不要のアプリを勝手に入れるとかさ……! これがふざけてなければ、なんだっていうんだよ!?」
「……」
「日向さんも聞いてたでしょ、僕の寿命はもう目の前だって! 冬に会ったときより、もっともっと縮まった。後悔はしてない、だけど……それはいい写真を撮るために、必要だと思ったから!」
「……」
「今日だって、すごく期待してた……信じてた! 日向さんは別に遊んでもいいさ。でも、必要なときにはちゃんとアドバイスをくれるって、僕は信じていたんだ。絶対にいい写真を残してみせるって。そのためになら命をかけるって……僕は死ぬ覚悟で旅にきたんだ! 必死だったんだよ!」
「……耀くん、怖いよ」

 泣きだしそうな声に、僕はハッと正気に戻る。

 改めていまの状況をみると、声を荒げる僕が怖かったのか、後ずさった日向さんはベッドに横たわって震えている。

 目に涙をためながら。

 僕は怒りがサッと引いて、代わりに自分が情けなくて……惨めになった。
 力の入らないフワフワとした身体を動かして、椅子に移動した。
 そして片手で顔を掴みながら――。

「ごめん……。全部、僕の身勝手な願いだったね。日向さんを僕の我がままに付き合わせちゃって、悪かったと思ってる」
「そんなこと……私だって、耀くんといい写真を――」
「――今日はもう、寝ようか。部屋に戻りなよ」
「耀くん……。私は……」
「……本当に、ごめん。怖い思いをさせちゃって、今は日向さんにみせる顔がないんだ」
「……わかった。今日は戻るね。……私こそ、勝手なことして本当に、ごめんね」

 隣のベッドがきしみ、静かになる。
 そしてカーペットを動くスリッパのパタパタという音が遠ざかっていく。

 ガチャと扉が開いたが――閉まる音が聞こえない。

「耀くん……。また、明日ね」

 涙ぐんだ言葉の後、ドアが閉まった。
 なんの音もしない静寂が戻ってきた。

 僕は……またやってしまった。
 また、日向さんに声を荒げてしまった。
 前回のように怒りにまかせて怒鳴りつけるというよりは、悔しすぎて訴えかけるような声音だったと思う。

 ……それでも、また日向さんを怖がらせてしまった。

 いくら身体がキツくて、それを理解してもらえない発言をいわれたとしても絶対にしていいことじゃない。
 いい写真を撮れるように全力を尽くすって約束を無視して、遊んでいてもいい。
 現実逃避するように、未来のない僕に未来をみせるようなアプリを入れたって我慢できる。

 ただ、どうしてもたった一つだけ――僕が勇気をだして撮ってきた写真を消していいかって軽く聞かれたこと。
 それだけが、どうしても許せなかった。
 写真だけは、僕が譲れないところだったから。

「ああ……このままじゃ、日向さんの心に傷を残してしまう。これ以上の迷惑を、かけちゃう」

 それだけは絶対に避けないといけない。

 『また明日ね』と彼女は言って戻った。

 明日は開口一番、謝ろう。
 心からの謝罪をして、楽しい思い出をつくりなおしてもらおう。

 そう思っていたが……胸が、息が苦しかった。
 自分の身体の限界を感じる。
 薬を限界まで飲んで、時間ギリギリまで体調の改善を祈った。

 でも、現実は残酷で……僕の体調が朝までによくなることはなかった。

 胸がバックンバックンと音をたてているのに、ずっと立ちくらみしているような状態だ。
 ベッドに横になれば息苦しくて、呼吸音がヒューヒューとできの悪い笛のように鳴る。
 あまりの苦しさに咳がでると――。

「……痰が、ピンク色?」

 自分でも初めて感じるほどに身体の状態は悪かった。
 間違いなく、この状態で旅をしたら倒れる。
 下手をしたら――彼女の目の前で最期を迎えてしまう。

 そう考えて、朝一番にチェックアウトをした。

 始発の駅までのタクシーを手配してもらい、川越までの電車に乗りこんだ。
 おそらく日向さんがもう起きるだろうという時間に、メッセージに添えて彼女と約束していた写真を送った。

『昨日は本当にごめん。それと、今日もごめん。少しだけ体調が悪くて、始発で帰る。日向さんを一人にして申し訳ないけど、楽しんできて。またあさって、学校で会おう』

 そこまで送って、荒い息をしながなら目をつむる。
 途中、乗り換えに間に合わなくて予定よりだいぶ遅れたけど、なんとか川越の駅に着いた。
 タクシー配車アプリを使おうとスマホを取り出したけど、バッテリーがない。

「だから……日向さんからの返事の、通知がなかったのか」

 マナーモードで、返事が気がつくように設定していたけど、スマホは静かだった。
 怒っているのか、無視されてしまったのかと思いつつ、呼吸と乗り換えに必死で確認できないでいた。

「すみません……ここまで」

 なんとか駅のタクシープールでタクシーに乗り、自宅の住所までいってもらう。

 午後十二時前。
 たどりついた自宅には、だれもいなかった。
 それも当然だろう。
 両親に夏休みはないし、そもそもこの時間に帰ると連絡すらしていない。

「せめて、自宅用の充電器につないで……日向さんに一言、電話でもいいから、謝りたい」

 旅用の鞄から充電器を取りだす力はもうない。
 頭がふらつき、ずっと視界が白い。
 壁をこするように寄りかかって進み、なんとか自室の机へとたどりついた。
 スマホを机の上におき、片手で机につかまって支えにする。
 残った片手で、床に落ちているはずのライトニングコネクタを手探りで探して――ついに全身の力が抜けて崩れ落ちた。

「……ぁ」

 もう声も出せない。
 冷たい床に横たわった僕の目の前には――ディスプレイがヒビ割れ壊れたスマホが微かに映った。
 横には、机の上に置いておいたはずのセロテープや文房具が散乱している。

 力尽きたとき、僕の腕が机の上をなぎ払って落ちたのか。
 それで、スマホの上に落ちたとか、そういうことか。
 ……なんて不運だ。
 両親が……無理して僕に買ってくれた宝物。
 僕の、大切な思い出……。

「ごめ……。ひな……たさ」

 最期まで言い切ることもできず――僕は胸の痛みがスッと消えた。
 全身をゾワッと伝わるなにかが頭まで駆け抜け……視界は完全に白く染まった。

 次に目覚めたとき、眩しすぎる光のなかに僕はいた。ピッピッピッと規則正しい音が聞こえる。
 ここは、集中治療室だ。
 何度もきているからわかる。
 幼い頃に手術が終わった後や、急変の危険が高いときに運ばれるところだ。

「――望月さん、目が覚めましたね。状況はわかりますか?」

 感染予防らしいエプロンやマスクに手袋、髪全体を覆うキャップをつけた人に聞かれた。
 もう見慣れてしまった看護師さんの姿だった。
 看護師さんの問いかけに、僕は頷くことで返事をする。

「ご家族様がいらしてますが、面会できそうですか?」
「……は……い」

 声が出にくい。呼吸が上手くできないから、吐く声も掠れているのかな……。

 声が聞こえたか不安だったけど、ちゃんと聞こえたようで看護師さんが扉を開き出ていった。
 おそらく、僕の両親を呼びにいったんだろう。

 その間に、僕は改めて自分の状況を確認する。

 身体は重いけど、呼吸はいくらか楽だ。
 鼻に変な痛みがあると思い、触ろうと手を動かすと点滴の管が何本も腕に刺さっていた。
 鼻には穴奥まで入って抜けないようになっている管がある。
 医療映画とかでよく見る酸素を送る道具みたいだ。
 これが、僕の呼吸を楽にしてくれてるのか。
 腕を動かすだけで胸に激痛が走って……思わず顔をしかめてしまう。

「――耀治!」

 看護師さんと同じ格好をした母が小走りで寄ってくる。
 父は周りに迷惑をかけないよう声こそあげなかったが、目が真っ赤になっていた。

「かあ……さん。……とう、さん」
「ああ……。なんだ? 無理しなくていいぞ、ゆっくりでいいからな」

 優しく手を握ってくれた父がゆっくり促してくれる。
 ゴツゴツとしていて頼もしく、温かい手だ。

「めい……わく。かけて……ごめん」

 絞りだした僕の言葉に、父も母も瞳から涙をこぼしてしまう。

「馬鹿息子……! 父さんたちはな、一度たりとも耀治を迷惑だなんて思ったことはないんだぞ」
「そうよ、母さんたちは……どんな耀治でもいいの。いてくれることが、幸せなんだから……!」

 涙で濡れた父さんと母さんの声音に、僕はなんと言っていいかわからなくなる。

 ただ、どうしても一つだけ……。もう最期かも知れないなら、叶えたい心残りがあった。

「……スマホ、ごめん」

 いい写真を残したかった。
 無理して買ってくれたのに……なにも残せず壊しちゃって、ごめん。

「いいのよ、耀治が生きていてくれるだけで……それで満足なの。壊れたら修理できるスマホとちがって、耀治の命は一つなんだから」
「ああ、フラフラの耀治が家に入ってくのをお隣さんがみていなかったら……。間に合わなかったかもしれないからな。後でお礼をいわないと」

 そうか。
 なんで僕があそこから助かったのかわからなかったけど……辛そうに家に入っていく僕の姿をみたのか。
 それでインターホンとかを鳴らしても返事がないから、心配して両親へ連絡したってところだろう。
 でも……僕が気になっているのは、僕が助かった理由じゃない。

 スマホが壊れていたからすぐには無理だとわかったけど――日向さんに謝りたい。

「ひ……なた、さん」

 苦しい息でそれだけ伝えると、母さんは理解してくれたらしい。

「夏葵ちゃんには母さんから連絡しておくわ。よくなったら会いにきてねって」

 よくなったら……か。
 それがもういかに難しいのかは、僕自身が一番わかっている。
 もう、まともに声をだす力すらない。
 痛む身体にムチをうって小さく首を横に振った。
 頼む、この状態でもいい。
 迷惑をかけてしまったことを謝罪させて欲しいんだ。
 彼女と仲直りがしたい。そうでないと僕は……いい思い出の花を抱いて、棺に入れない。

「……すいません。今日はこの辺で」

 看護師さんが申しわけなさそうに面会を止めた。
 僕の状態をみて、このあたりが限度だと見抜いたんだろう。
 でも、僕は生きながらえることよりも……後悔を消したい。

「……わかりました。じゃあね、耀治。また来るからね」
「今はゆっくり治療するんだぞ」

 遠ざかっていく両親に、僕の本心を――彼女と仲直りしたいと伝えることすらできない。

 なんてもどかしいんだろう。
 ……悔しい。
 泣きたくても、泣けない。
 泣こうとするとそのたびに呼吸が荒れて、身体を刃物で突き刺されるような痛みが走るった。
 謝罪もできず、仲直りもできない。
 泣く自由すらないなんて……。
 なんて、僕はぶざまなんだろう。

 夜遅くになって、医者がやってきた。
 僕の身体の状態をわかりやすく説明してくれて、一つの選択を聞かれた。

 それは、医療用麻薬を使うのを希望するかどうかだ。

 僕は医療用麻薬を使う意味はどういうことか、知っている。
 厳重な管理下におかれて、使用にはいくつもの制限があるもの。
 使われる理由として多いのは――終末期の痛みや恐怖の緩和。
 つまり、なるべく痛みや苦しみがなく、最期を迎えさせてあげようというものだ。

 その選択肢がだされた時点で、いよいよ自分に最期のときがきたんだとわかった。

 僕が「少し……考えたい」と告げると、医者は小さく頭をさげて去った。

「みたい……な」

 僕にとって、いつの間にか大きな存在になっていた。
 たぶん医療用麻薬より強烈で、痛みも不安もふっとばしてしまう。

 真夏に咲くひまわりのような、あの笑顔がみたい。

 暗い殻の中でも一人で明るく変えてしまう――日向夏葵に、会いたい。

「謝りたい……。彼女と仲直り、したい」

 気がつけば、痛みに逆らってでも涙を流していた。
 全身に激痛が走り、異変を検知した機械からけたたましいアラーム音が響きだした。

「い、うう……!」

 それでも涙は溢れてきて、医師や看護師たちが慌ただしく動きだす。

「大丈夫ですか、どこか痛みますか!? 身体のどの辺が苦しいですか!?」

 僕はぐしゃぐしゃになった顔で首を横にふる。

 違うんだ。
 身体のどこかが痛むとか、そうじゃない。
 医療処置でどうにかなる痛みじゃないんだ……。

 胸の奥が……心が痛い。

 日向さんと顔をあわせしっかりと謝りたいのに、僕はもう長くない。
 あの花が開いたような満面の笑みがみたいのに、僕はもう……。
 僕は――最期に心残りを残してしまった。


 それから何日がたったのか。
 ベッドから動けずに強い薬で寝ては起きてを繰り返しているから、よくわからない。
 とっくに時間感覚は壊れている。

 もしかしたら、一日もたっていないのかもしれない。


 あれから両親が面会にきてくれて、「大丈夫だから、すぐに落ち着くからな」と励ましてくれたり、無理に笑っていた。
 僕にとっては、その無理をした笑みを見るのがすごく悲しくて、申し訳ない……。

 たくさん声をかけてくれたが、日向さんの話やスマホの話は一切でなかった。
 よくない話はなるべく聞かせないようにしてるんだろう。

 つまり、機種自体が古いスマホを直すのに苦労していて――日向さんとの仲も、修復がむずかしいんだろう。

 それはそうだ。
 一度ならず、二度までも僕は彼女を怒鳴りつけた。
 その恐怖は半端じゃなかっただろう。
 まして、旅の二日目には一人で先に帰ったんだ。
 許されないのも……無理はない。

 いつ最期がくるのかわからない。
 なるべく川崎君や樋口さん、そして日向さんとの楽しかった思い出だけを考えていたときだった――。


「――望月さん、臓器提供ドナーがみつかりましたよ。これから手術です」
「……え?」
「ご両親も既に、こちらへむかっていますからね」

 医者がなにを言っているのか、僕には理解できなかった。

 十六年間もあらわれなかった、僕の血液型にも合致する臓器提供ドナーがこのタイミングであらわれるなんて。

 物語にしてもあまりにも陳腐で、笑えない冗談だ。

 でも、そんなありふれた……つまらないご都合主義な話が本当だとわかるのに、そう時間はかからなかった。

 何人もの看護師さんがベッドのシーツを持ちあげてて、シーツごと僕をストレッチャーに乗せた。
 そのまま変化のない白い天上を見上げていると、エレベーターに乗り手術室へと入っていく。

 現実感もない言葉だったのに……。
 これは冗談でも口先の励ましでも、なんでもないんだ。

 これから僕は移植手術を受けるんだと理解した。

 僕は質問の一つもできずに、「麻酔をかけていきますね」とマスクをつけられ――。

 あっという間に、次に目が覚めたら……またベッドに戻っていた。

 夢をみていたのかと思った。
 だけど、こんな都合がよすぎることが夢じゃないことは――泣いている両親と、胸から鼻を刺激する血や消毒剤の臭いで理解した――。

 心臓の移植手術を受けてから、数日が経過した。

 落ち着いてからわかったことだけど、僕の手術日は夏休みの最終日だった。つまり、箱根から帰ってきた翌日だったらしい。

 薬で眠って起きてを繰りかえしていたから、本当に時間感覚が狂っていた。
 入院して手術まで、たった一日しかたっていなかったなんて、予想もしていなかった。
 体感では一週間ぐらいたっていたように感じた。

 手術を無事に終えた今となっても、僕はまだ集中治療室で経過観察を受けていて、自由に動く許可もでてない。
 そのうち改善するといわれてるけど、身体を動かしてもすぐ目眩がすることもあって自分が助かるんだという現実感がない。

 僕にとって人生とは、余命までなにをするかというもので、それが突然『もうあなたは悪いところがなくなりました』といわれても、意味がわからない。
 長年付き添ってきて、僕にとっては心臓の制限があるのが当たり前だったのに。

 ひとまず、手術はなんとか成功したとのことであった。
 これから先は三週間ぐらいリハビリをして、定期通院を終えれば通常の人と変わらない生活ができるといわれた。

 でも、通常とは一体なんなんだろう。
 みんなにとっての通常は、僕にとっての異常なんだ。

「……まだ治ったって実感がないのは、身体が動かせないからかな」

 リハビリはまだ始まったばかりだ。

 ベッドに座るところから始めているけど、ほんの少し座っているだけで頭がぼうっとしたり血圧が下がったり、胸がバクバクする。
 プロトコルという退院までの達成目標みたいなものが組まれているらしい。
 症状にあわせてプロトコルを医者と微調整しつつ、手術後何日でこれができるようになっていき、いつ退院という目安があるそうだ。
 予定通りなら、あと三週間後……。
 つまり、九月の下旬には退院できるそうだ。

 両親も仕事が忙しくて、なかなか面会時間には間に合わない。
 着替えだけスタッフに渡して伝言をあずけて、僕がそのスタッフに伝言をあずける。

 親子なのに人伝いに話をする。
 僕の治療費を稼ぐために忙しい両親とこうして話をするのは何度目だろう。一度、なにかを挟んでやりとりするというのは、スマホのメッセージと似ていて少し寂しい。
 ……でも、子供の頃ほど泣きたい感覚にはならない。
 メッセージでのコミュニケーションに慣れたからかな。
 そのスマホも、いまだに直ったという話はない。

 そもそも、
「入院中はスマホが持ち込み禁止だから、ごめんね」
 と母が言っていたらしい。

 看護師さんに聞いてみると、たしかに集中治療室はそうみたいだ。
 でも、一般病棟では談話スペースでスマホを使ってもいいらしい。

「早くよくなって、三人に連絡したいな」

 自分の心臓に制限がなくなったら、きっとみんなと同じようにゆっくりと旅ができる。

 そうして、三週間が経過した。

 常にギリギリを攻めるリハビリで、徐々に負荷をあげていった。
 心臓の数値を測られながらなので、文字通りギリギリだ。
 おかげで今では階段を五階分のぼっても少し息切れするぐらいで済む。
 ジムにあるような自転車に関しては、ペダルを重く設定しても数十分間はこぎ続けられる。
 それでも、心臓に異常な数値はでない。

「やっと動けるようになった、できることが増えたんだって実感してきたな」

 この三週間、リハビリが辛くて心が折れそうになったこともある。
 胸にできた大きな手術痕を触って、しんみりとしたこともある。

 それでも、胸に手を当てれば心臓がバクバクと身体中に血液を運んでいるのがわかった。
 それが嬉しくて、不思議とまだまだ頑張ろうと前向きになれる。
 いや、心臓の音を感じていると、生きているんだと実感できた。

「本当に、ありがとう」

 だれのものかもわからず、本当に適合するのか不安だった心臓に僕は深く感謝している。
 提供ドナーのご遺族に感謝を言いたくて医者に相談をした。

 だが、そのときの会話では少し怒られた。

『提供ドナーがだれかは、例外なくいえない決まりです。……例えば、君の身内のだれかが不幸にも亡くなって、身体の一部をだれかに提供したとしましょう。亡くなった家族からすると、まだ一ヶ月もたっていない身内の死を受けいれられていないでしょう。大切な家族が亡くなって、まだ受けいれられない遺族が「あなたの家族の臓器を提供してくれてありがとうございました」といわれたらどう思うか。怒り、なげく人もいるでしょう』

 という説明だった。
 僕は医者の説明に深く納得した。

 考えてみれば当然のことなのに、教えてもらえるまで気がつかなかった。
 違和感をまったく感じないから、この心臓が他人のものだと実感しないというのもある。

 それでも、僕は人の気持ちを思いやることが足りてなかった。
 僕は、浮かれているのかもしれない。

「退院したら、どこにいこう。撮影しながら、みんなと同じように遊べるのか……」

 川崎君や樋口さん、日向さんとたくさんいい思い出を作れるかも。
 戻って仲直りしたら、彼女たちとなにをしようか。

 今度は四人で旅をしながら写真を撮るのもいいかもしれない。
 熱海や箱根で温泉に入れば、今度こそ温泉を楽しめそうだ。
 海があればあの三人はどんなことをして遊ぶんだろう。
 砂浜を走ったり、波打ち際ではしゃいだりするのかな。
 みんなとするなら、それもすごく楽しそうだ。

「少しのことでもはしゃぎ回ってそうだなぁ。みんなはしゃぎすぎるタイプだから、だれかに危ないって注意されたり」

 秋らしく紅葉狩りをするのもいい。
 京都の街並みに日向さんがいたら、きっと映えそうだ。

「日向さんは浴衣姿も素敵だから、間違いなく似合うよな。川崎君は身長も高くて筋肉もあるから、腕とかまくってそう。樋口さんは髪が長いから、嫌がりつつも日向さんとじゃれて色んな髪型にさせられたりとか……」

 冬休みがきたら、スキーやスノーボードに挑戦するものいいかもしれない。
 みんな受験勉強とかで忙しいかもしれないけど……。
 本格的に身動きが取れなくなる三年生へなる前に、楽しい思い出作りで宿泊旅行とかいけたら最高だろうな。

「僕も雪山だけじゃなく、人物写真を撮るのも頑張ってみようかな。新雪で白銀に輝くゲレンデに、友人たちの笑顔か……。いいな、それ。勉強する写真の範囲は増えるけど、そのときが楽しみだなぁ……」

 こんなにワクワクするのは初めてかもしれない。
 生きることが、明日や未来を考えるのがこんなにも楽しみだなんて。

「早く――日向さんに、会いたいな……。元気になったって言ったら、なんて返してくれるだろう。また色んなことに巻きこまれたり、連れ回されるのかな」

 退院後には、もう心臓の負担を考えなくてもいいんだ。

 そうなれば色んな場所にみんなと撮影にいけて、色んなものを食べられる。
 それで僕の隣にいてくれるのは、あの満開に咲くひまわりのような笑顔をうかべた――。

「それも、いいな……」

 思わず笑ってしまう。
 それも悪くないと思う自分がいた。

 ――そう。
 僕は、間違いなく浮かれていた。


「本当にお世話になりました」

 検査結果も全て安定して、日常生活には全く問題ないぐらい動けるようになり、退院日を迎えた。

 僕は両親と一緒に病院でお世話になった人にお礼を言って、車へと乗りこんだ。
 退院前の医師からの説明で、

「傷口からの感染リスクにはくれぐれも気をつけてください。手術後十年以内に亡くなってしまう人も一割程度いらっしゃいます」

 そういわれたときは、少しだけおそろしくなった。

 だれかに迷惑をかけて死ぬ可能性にまた怯えるのかもと思うと、少し不安にもなった。
 でも、僕が負けそうになったり不安になると心臓がドクン、ドクンと動いて血液を流してくれる。
 手術前には考えられない生命の力だ。
 まるで『大丈夫だよ』とはげましてくれているような強い拍動に元気をもらえる。

「僕のスマートフォンはなおったの?」
「……」

 自宅へ向かう車内。
 母さんは僕の問いに答えなかった。
 ただ、黙っているだけだ。

「耀治の部屋の充電器に刺さっている。……後で確認しなさい」
「そっか、わかった。ありがとう」

 代わりに答えたのは、運転している父さんだ。

 スマホは無事に修理できたのか。
 安心した。

 結局、お見舞いにはだれもきてくれなかった。
 それでも川崎君や樋口さん、日向さんには手術をして退院したと報告をするべきだろうな。
 日向さんには、まず謝罪からか。

 家に帰ってから、やらなければならないことを考えていると――。

「……耀治。感謝はね、自分の行動でしめすのよ」

 と母さんから声をかけられた。
 どういう意図でその言葉を言ったのかは理解できなかった。
 でも、大切なことだなと思い「わかった」と返事をした。

 そうして約一ヶ月ぶりに自宅へと帰ってきた。
 真っ先に向かったのは自分の部屋だ。

「スマホは……ちゃんと机の上にあるか」

 久しぶりにみたスマホは、綺麗になおっていた。
 バキバキに割れていたディスプレイも元通りだ。
 着替えなどがつまった鞄を床におろして、早速スマホを開くと――。

「……なに、これ?」

 信じられないほどの通知がきていた。
 メッセージアプリは表示できる上限の通知件数にまでなっている。
 おそるおそるアプリを開くと、川崎君と樋口さんからとんでもないほど通話がかかってきている。
 少し怖くなりながらも、一番最近連絡がきていた川崎君に通話をかけた。
 呼び出し中という画面が数十秒ほど続いてから、壁掛け時計をみて今は授業中の時間だったと気がついた。
 かけなおそうと思うと――。

『――おい、望月か!? お前、今どこにいんだよ!? なんでずっと返事しなかった!』

 トイレにでもいるのか、なにかに反響する大きな声が聞こえてきた。

「えっと……。ごめん、心臓の手術で入院してて」
『そう……か。それでも、それでもよ! ちくしょう……!』

 怒鳴るような勢いだった川崎君の声が、徐々に苦しみながら絞りだすものに変わってくる。

 僕は何が起きているのかわからず戸惑い、なにも言葉を返せずにいると――通話先から『貸して、ウチが話すから』と言う樋口さんの声が聞こえてきた。

『……望月、きこえる?』
「樋口さん、うん。聞こえるよ。あの……」

 ずっと連絡できなくてごめん。

 そう伝えようとしたとき――。

『――夏葵が……死んだ』
「……え?」
「夏葵が、死んじゃったんだよ……!」

 涙で震える樋口さんの声を聞いて――僕は全身から血の気が引いてふらつき、思わずスマホがするりと手から落ちた。

 立ちくらみのようにクラクラする頭だったが――心臓が勝手にバクバクと血液をおくって身体を揺らす。

 新しい心臓のおかげで、僕は倒れることはなかったけど――頭の中は真っ白だった。