八月中旬。

 僕たちは熱海の地へふたたびきていた。
 正式にカウントされる撮影旅としては、四回目になる。

「今日こそは日向さんの言う、『人が抽象的に捉える解像度』の答えを当ててみせる」
「おっ。いいね、やる気あるね! ちなみに、前回と同じ浜辺にきたのはどういうプラン?」

 今日、熱海駅についた僕は日向さんを連れて前回と同じ浜辺にきていた。
 多分だけど、日向さんが熱海にもう一度いこうと言ったのには理由がある。僕なりに、そのあたりの理由も考えた。

「解像度までつなげちゃうとわからないんだけど、人が捉える抽象的なものって、心じゃないのかなって予想したんだよ。前回、人が写りこんで十点はもらえたわけだし」
「ほうほう! それで?」
「風景って、目に映る自然な様子とか眺めのことをさすよね。だったら人そのものじゃなくて、撮る人がどんな気持ちでその風景をみているのか、それをフレーム内に収めることが大切なんじゃないかって思ったんだ」
「なるほど。うんうん、楽しみになってきたよ!」
「正解……だった?」
「それは写真をみてからだなぁ。答えを知っては欲しいけど、耀くんは悩むことで成長してきてると思うし」
「……やっぱり、いじわるじゃない?」
「言ったでしょ。少し厳しくいくって! それにさ、教科書を読むみたいにこれだよって上から目線で教えられるより、悩んでだした答えのほうが納得いくと思うんだ」
「まぁ、それはたしかに……」
「だから、できれば自力で答えをみつけて欲しいの。それに、この間の躍動感みたいに、素人の私なんかじゃ思いつかないような、素敵な改善点もみつかるかもじゃん」

 素敵な改善点といわれて思わず小さくガッツポーズをしてしまった僕は、相当にいきづまっている。
 寝ても覚めても、どうすればいい写真を撮れるかと悩みに悩んで、やっと綺麗だね以外の感想をもらえた。
 SNSにはまだ反応がないけど、いい写真に近づいているのかもしれない。

「そんじゃ、また私はお散歩して色んな風景をみてくるね」
「うん。また帰り時間に間に合うよう集合ね」

 あまり帰宅が遅くなっても親に迷惑をかけてしまう。
 前回と同じぐらいの時間に帰れるよう、帰りの電車時刻も決めておいた。
 その時間まで、たっぷりと撮る。

 歩道を歩いてどこかへ消えていく日向さんの背を見送りながら、僕は砂浜に視線をむける。

「目に映るものをみて、自分の心を意識する……。夏の砂浜、観光客でいっぱいだ。波は前よりも弱いかな」

 ここで素直に僕が感じた心は……人が被写体として邪魔だなということだけど。
 でも、そうじゃない。
 もっと考えるんだ。

 真夏の堤防の上に汗がしたたり落ちていくほど考える。

 何を考えて撮りたいか。どうすればいい写真になって、人が笑ってくれるのか。

 海をみつめ、肌が痛いほどに焼かれても、ずっと考え続けた。

「……例えば日向さんや川崎君、樋口さんにどんな写真を撮ってみせたいかって考えたらどうだろう?」

 海を眺めながら、ハッと気がついた。

 だれかの心をとか大きすぎる目線じゃなくて、友達ならどういうものを喜ぶか。
 もっと狭いところをみていけば、なにかちがう気づきもあるんじゃないだろうか。
 そうだ。僕が小学生の時に風景写真で感動したのは、自分がみたいと願っていたものだったからだ。

「日向さんは、直接この風景をみている。なら、自分では見えないものとして……。海の中とか? そういえば、最初から海で泳ぎたがってたし」

 塩水でスマホがダメにならないよう、コンビニへ透明なジップパックを買いにいった。
 両親から買ってもらった大切なスマホを握りながらパックをかぶせ、海水に濡れないようそっと浸ける。
 ちゃぷちゃぷと揺れる波にあわせて自分の手も上下させ、海中を撮影してみた。

「……濁っていてなんにも見えない。これはダメだ、消そう」

 撮影した写真は海中の泥でなにも見えなかった。
 知らない人がみたら、これはなにを撮った写真なのかすらも判断できない。

 いきなり日向さんのためになにをどう撮ればいいのかわからなくなった。いったん、日向さんへの写真という考えはおいておこう。
 川崎君、樋口さんならどうだろう。二人はこういう景色をみながら遊んだり、散歩とかが好きそうだ。だったら、観光ガイドのように楽しそうな場所を撮ってみようかな。

「よし。遊べそうな自然を探してみようかな」

 熱海は海だけでなく、山もある。
 自然のレジャーを探してみるのもいい。
 二人が喜ぶかもって考えると、僕の撮りたいものが具体的になってきた気がした――。


「――耀くん、靴も顔も泥だらけだけど……どうしたの?」
「レジャーになりそうな自然を探して、森に入ってきた」
「息まで切らして……身体は平気なの?」
「たぶん、大丈夫」

 はぁはぁと荒く息をしている僕を、堤防の上で合流した日向さんが心配してくれる。

 ただでさえ坂も多かったのに、自然の中を歩いてくるのはキツい。急な坂道はさけて慎重に進んだけど……。それでも、心臓への負荷は強かったみたいだ。だけど今は僕の身体より、写真を採点して欲しい。

 スマホを取りだし、遊べそうな森のツタやテトラポットを撮った写真をディスプレイに映す。

「この写真、どう思う?」
「ん~、ツタとテトラポッドだなぁって……。なんでこの写真を撮ろうと思ったの?」
「まずは『だれかの心を』なんて曖昧なものじゃなくて、身近な人が喜んでくれそうな写真を撮ることかなって思って」
「なるほど、いいことだよね!」
「川崎君とか樋口さんみたいに活発な二人が遊びたがるかもっていう、風景の写真を撮ってみたんだ」
「そっかぁ。……それなら、二人に送ってあげるといいんじゃないかな? 多分、二人の反応でわかると思うよ?」

 日向さんは苦笑している。
 心なしか突き放すような口調にも聞こえた。
 とにかく、いわれた通り僕は二人に写真つきでメッセージを送った。
 二人が特に好きそうな写真を厳選して。

 返事はすぐに返ってきた。
 ちょうど夏期講習の休憩時間だったのかな。

『スゲぇいい写真だな。旅の報告、サンキュー。夏葵と楽しくやれよ。来週あたり休みがありそうだから、遊ぼうぜ』
『なんでツタとテトラポッドなん? でも、夏休みも楽しそうでよかったよ。ウチらは二人して塾にこもってるからさ、四人でもいけたらいいね』

 川崎君と樋口さんからの返事をみて、僕はしばし動けなかった。

「二人からの返事、どうだった?」
「……僕が間違っていたとわかった。というか、冷静になって見返したら……恥ずかしくなってきたよ。僕、完全に迷走してるね」
「やっぱりかぁ……」

 苦笑を浮かべながら、日向さんはカリカリと頭をかいていた。

 再試に落ちた僕が焦るのはわかる。
 なんで彼女はもどかしそうにしているんだろう。だんだんと理解の悪い僕にイライラしてきたのかもしれない。

「でもね、迷走はしてたけど……考えかたとしては少しだけ私の考える答えに近かったよ。心って大事だと思うし。今回はだいたい、四十点ぐらいかな~?」
「三十点も上がった……。でも、赤点だよね……」

 思わずその場にうずくまってしまう。
 勢いあまって膝に当たった顔の骨が痛いし、肌についていた汗と脂がヌルッとして気持ちがわるい。

 恥ずかしくて顔を上げられない。いよいよ、どうすればいいのか全くわからなくなってきた。
 自分に腹が立つ。少しだけ前向きになれていた心がまた、暗くなっていく。やっぱり、僕には無理なんじゃないかって。
 また弱気になってしまう。

「……ね、耀くん。次の旅なんだけどさ、こんなプランはどうかな?」

 スッと日向さんがスマホのディスプレイを差しだしてきた気配を感じて、僕はゆっくりと顔を上げる。

 『箱根』という文字がまず第一に目に入った。

 神奈川県の箱根といえば、温泉が有名だ。
 観光スポットとしても有名な自然があると、何かでみたことがある。「いいんじゃないかな」と返事をしようとして、言葉が止まった。

「――一泊二日……。これ、宿の予約画面?」

 え、泊まり?

「そう。泊まりこみで、答えを集中的に探さない? 私たちなりの夏期講習みたいな……ね?」

 少し恥ずかしそうに微笑みながら、日向さんが言う。

 え、同級生の女の子と一泊旅行?

「いやいや、それはダメでしょ」
「あ、ちなみに日向家の両親と、耀くんのご両親の許可はとってあります」

 親の許可済みで女の子と宿泊旅行ってなに。
 というか、なんで僕の両親はそういう大切なことを僕に話してくれないんだろう。日向さんに関することを聞いてみても、ほとんど口を濁してばかりだし。

「親の許可があっても……」

 川崎君の顔が頭に浮かぶ。
 彼はまだ日向さんへの未練を捨ててないように思う。そうでなくとも、二人に秘密で宿泊旅行というのは……気が引ける。
 でも、いい写真は撮りたい。
 今までは日帰りで、大半は移動時間に使っていた。
 それがたっぷり時間があって、日向さんが集中的に探すのに協力してくれるというなら、それを逃す手はない。

「川崎君と樋口さんが来週、休みがありそうなんだって。そこで二人にも説明するよ」
「それ、いいよってことだよね!? やった! じゃあ、予約の確定ボタン押しちゃうよ?」

 妙にいそいそとディスプレイを隠そうとしている。
 なんだか怪しい。
 僕は「ちょっと待って」と彼女の腕を握り、ディスプレイを覗きこむ。

「ダブル……? ダブルベッドって、シングルベッド二つ分の大きさってことだよね。――これ、もしかして二人で同じベッドで寝るってこと!?」
「あちゃあ……バレちゃったか。残念」
「いや、残念って……! こんなこと、親が許可したの!?」
「いやぁ、ここまでは話してないかなぁ。……二人だけの秘密とか、どう?」
「そんな首を傾げながら聞いてきてもダメだよ! 無理、この話はなかったことにしよう」
「待って! わかったよ、ツイン部屋にするから!」
「それ、結局は同じ部屋じゃないか! 付き合ってもいない高校生がそんなの、絶対にダメだってば!」
「だって、一人用の旅館とかホテルなんてほとんどないんだよ!?」

 中止だという僕に、拗ねた目をむけ抗議してくる日向さんに根負けした。
 結局、なんとかシングル二部屋のホテルをみつけて予約が完了した。
 日程は夏休みが終わる本当にギリギリ。
 八月末だ。
 これは九月分の前借りということになった。

 なんだか、すごく息と胸が苦しい。もしかしたら、僕は日向さんに……いや、それだけは絶対に心残りになる。
 いい思い出だったなんて割りきれない。

 僕はこれ以上、考えるのを止めた。


 改めて泊まりがけの旅を意識したのか。
 帰りの電車では日向さんと目が合っては逸らしてを繰り返した。

 僕が救いを求めるようにある人へ状況を説明した相談のメッセージを送ると、『家に帰ったら連絡して! 絶対に詳しい話を聞きにいく!』とのことだった――。

「――お、きた! 望月、お帰り!」

 玄関前に樋口さんが座りながら待っていた。片手に参考書を持って。

 自宅に着く予定の時刻をメッセージしたはついさっきなんだけど……早すぎる気がする。

「ただいま? えっと……早いね」
「電車乗ってるってメッセージで言ってたじゃん? そんで、到着予定時刻的にそろそろかなって待ってたんよ!」
「えぇ……」

 なにその行動力と洞察力は……。
 ちょっと引いてしまった。

「引かないでよ! こっちは毎日塾に缶詰で、刺激に飢えてんの! こないだの花火だって勇司は二人に会ったのに、ウチだけ勉強してたし……。もうストレスがやばいんだって!」
「そ、そっか。それは……ごめん。とりあえず、上がってよ」

 本当にストレスがたまっているんだろうな……。

 僕はポニーテールを揺らして荒ぶる樋口さんを自室へと招き入れることにした。
 夜遅くにきてくれたし、僕もちょっと疲れてるはいるけど、相談に乗ってほしいと言ったのはこっちだから。

「――んで、お泊まりってどういうこと!? 二人は付き合ったの!?」
「ちょ……! 違うから身を乗りださないで、近い近い」

 机越しに座り、樋口さんは顔をグッと目の前に近づけてきた。
 キラキラした目からは、面白くて仕方ないといった感情が伝わってくる。

「いやほら、ウチの恋愛相談にはのってもらってたけど……望月から相談って初じゃん!? なんか、嬉しくってさ!」
「それは……相談することがなかったから」
「なんでもいいんだよ、愚痴でもさぁ……。まぁいっか。これでウチらの距離も、近づいたもんね! あ、友達としてだかんね?」
「それはわかってるよ。……ありがとう」
「お互い様っしょ。んで、相談内容は『夏葵が何を考えて一緒の部屋でのお泊まり旅を提案したか』だっけ?」
「うん。女の子の気持ちとか、わかんなくて。……ただの撮影旅なら、最初から別部屋でいいし。やっぱり、宿代を安くしたかったからとかなのかなって。でも男と同室なんて、女の子は怖いんじゃないかなとか……」

 考えすぎて頭がぐるぐるしていたことを樋口さんに話してみる。
 口にしてみても、日向さんの考えが全くわからない。
 そんな僕をみて――樋口さんが深くため息をついた。

「え、なに?」

「あんさぁ……。三人とか四人で同じ部屋ならまだわかるけど、男女二人っきりでだよ? そんなん、一つしか答えはないじゃん。――そんなん、好きな男じゃなきゃ無理だって」
「……それはあり得ないでしょ。僕じゃあ、釣り合わないし……日向さんは、先の短い僕の撮影に、心から協力してくれてるんだから」

 そう、あり得ないし……。
 恋愛感情なんて、一番よくない。
 心残りができてしまう。
 そんなことは、日向さんだって分かっているはずだ。

「……望月」

 値踏みするようにジッと僕の顔を眺めていた樋口さんが、優しい声音で口を開いて――。

「あんたの自己評価を、他の人もそう思ってると思わないでね」
「え……?」
「ウチも勇司も、夏葵だってあんたといたいんよ。……望月は、今でもウチらといたくない?」
「それは……そんなことはない。今はむしろ……一緒にいたい」

 最初は嫌だった。
 でもみんなと付き合っていくなかで気持ちが変化していって……気がつけば、こうして困ったときに頼りにしたくなるぐらいになっていた。
 一緒にいたいと思うようになっている。

「そう、それが感情の変化ってやつよ。ウチらは望月に魅力があるって感じてるから、一緒にいたいと思うの。それが恋愛にまで変化しないって、決めつけらんなくない?」
「それは……。でも日向さんの周りにはもっと格好いい人とかいるし」
「自分に自信を持て!――ってケツを蹴りとばしたいけど……。まぁ夏葵の気持ちはわかんないから、今は止めとく。実際、好きは好きでもどういう好きなんかは、まだわかんないからね」
「……お尻が守られてよかったよ」
「でもね、望月。これだけはいっとくよ。――本気で人を好きになるのは、理屈じゃないこともあんだよ」

 実際に体感している樋口さんだからこそ、その言葉には重みがあった。

 だけど彼女は、僕の願いをきっと理解してくれている。僕は樋口さんの助言を受けとめながらも、日向さんを信じることにした。

 心残りになるような恋愛のためじゃなくて――いい写真を撮るのに、同じ部屋が効率的だったんだろうって――。


 熱海から帰ってきた翌朝。

「……まだ疲れてるのかな、心臓がバクバクする。身体が重い……」

 昨日はSNSに写真をあげることもなく、少しシャワーを浴びてすぐに眠ってしまった。

 机の上に置いてあったスマホを見ると日向さんから、
『おはよう。今日、なんか予定ある? もし撮影にいくなら、一緒にいこうよ』
 と連絡がきていた。

 顔ぐらい洗ってから返事をしよう。
 そう思いスマホを片手に一階の洗面台まで降りてきて、僕は驚愕に目を見開いた。

 鏡に映るなにかをみて、言葉を失いかけた。

「……顔が、むくんでる? いや、全身が?……これは、もしかして」

 心臓が悪化して循環が悪くなると、全身がひどくむくんでしまうことがある。

 過去の経験から、これは無理をしていい状態ではないとわかる。自分の顔を指で押すと、指のあとがへこんだままもどらない。

 相当によくない状況だ。病院でもらっている薬を飲んで身体の水分をだし、安静にしているしかない。

 誘ってくれた日向さんに悪いとは思いつつも、
『ごめん。今日は体調悪いから、撮影にはいけない』
 と返信をした。

 顔を洗うより、まずは薬だ。リビングまで歩いて薬がしまってある戸棚へとたどりつく。薬を一粒手にとり飲みこもうとして――。

「ぁぁ……はぁ……はぁ……!」

 あまりの息苦しさに、フローリングに突っ伏してしまう。

 まずい、これは本当に苦しい……。
 ふだん飲んでいる利尿剤のように、家で薬を飲んで安静にしていればよくなるという感じではない。

「タクシーを……。配車アプリを」

 救急車を呼ぶと朝から近所迷惑になってしまう。
 タクシーの配車アプリを使えば今の住所と、目的地の病院を入力するだけできてくれる。過去にも何度か利用した。
 玄関まではいずりながら、なんとか入力を完了する。

 息を深く吸いたくても吸えない。
 なにかに邪魔されているように突っかって、ほとんど息を吸いこめない、苦しい。
 なんとか靴だけでも履いて、玄関の外にでなくちゃ……。

 壁を伝ってよじ登るように立ち上がり、ガチャリと戸を開けると――。

「――耀くん、おは……え、なにその顔!? 大丈夫なの!?」

 輪郭しか見えない程にぼやける視界は、みなれたウルフカットの女性を映した。
 悲鳴のような声に、ドサリとエコバッグが落ちる鈍い音が聞こえた。
 日向さんが訪ねてきたことに驚き、膝がガクッと折れて崩れそうになるが。

「ねぇ! しっかりして、救急車よばなきゃ!」

 温かい温もりだ。
 崩れないように日向さんが支えてくれたらしい。

 華奢な彼女に重たさをあずけて申しわけない。これ以上、迷惑はかけられない。

 僕は根性をふり絞って足に力をこめる。

「立てるの!? 無理しないで、横になりなよ!」

 残念ながら、横になるほうが辛いんだ。
 座っていたほうが、肺が下にさがって呼吸が楽になる。
 ふらつきながらも、なんとか日向さんにタクシー配車アプリの予約完了画面をみせた。

「え、もしかしてタクシーで病院いくの!? 救急車のほうがいいって!」

 小さく顔を横にふったところで、ちょうどタクシーが到着した。
 運転手さんも心配したのか、おりてきてくれる。

「――ちょっと、ええ。だ、大丈夫ですか? 救急車呼びましょうか!?」
「運転手さん、私が付き添いますので、どうかお願いします! この人、頑固なんで!」

 息もろくに吸えないということは、声もでない。
 つまり、いつもマイペースで自分勝手な彼女に反論することすらできないということで。

 僕は大人しく後部座席に座らされ、タクシーで病院まで運んでもらった――。

 どうやら、胸に水がたまりすぎて呼吸が難しくなっていたらしい。
 胸に管を入れて水を取りだし、数時間後には、自宅へ帰ってくることができた。

 ただ、帰る前に医師からは辛い言葉が告げられた。
 日向さんには刺激が強い言葉だったみたいで――。

「……耀くんの残された時間は少ないって。余命は、前に言ったときより短くなるだろうって……」

 元々白い顔からさらに血色が引いた表情で、ボソボソと口にした。
 むしろ、僕からすると日向さんのほうが心配だ。

「うん、まあ覚悟はしてたよ。ずっと昔から……。突然死もあるっていわれてたんだからさ」
「そう……なんだよね。でも、これは私のせいだよね」
「……は?」
「私が無理に連れ回したから、だから心臓が悪化しちゃったんじゃないの……?」

 しょげて暗い顔をしている日向さんなんて、初めてみた。
 いつも、ひまわりのようにカラッと快活な表情をしていたから。そんな人に自分のせいだなんて思わせちゃダメだ。僕自身がいい写真が撮りたくて旅をしているんだし。山に入ったり、無理をしたのも自分の責任だ。
 彼女の心に傷をつけて、迷惑をかけたくない。
 彼女には笑っていてほしい。

「もう、旅は終わりにしようか。私の問いの答えは言うから――」
「――待って」
「……え?」
「ネタバレはダメだよ。僕はいい写真を撮る。そのためには、自分で考えながら答え合わせしていくほうがいいんでしょ?」
「耀くん……。でも、私の言いだした旅のせいで悪化してるし……」
「違うよ。前々から言ってたでしょ。僕はいつ突然死してもおかしくないって。今回のも、たまたま時期が重なっただけだよ。病院側の素早い対応、みたよね。こんなのは、しょっちゅうなんだ」
「……そう、なの?」
「うん。日向さんのせいじゃない。自分で加減しなかった僕の自己管理不足だよ。それに、ここで旅をやめていい写真を撮れなかったら――それこそ心残りになっちゃう。だから、予定通りいこう」
「身体、平気なの?」
「適度な運動は先生もするべきて言ってたし。適度に旅をして、またヒントがほしいな」

 何秒間か、僕の目をジッとみつめながら考えていた日向さんの口角が――徐々に上がってきた。

「――わかった! じゃあ、今度の泊まりがけの旅で絶対に答えみつけようね!」
「うん、頑張るよ。まぁ、両親にも迷惑をかけたくないから……程々の運動量でね」
「うん! 私も心を鬼にして、答えをみつけてもらえるよう全力で頑張るから!」

 よかった、花が開いた。
 いつも通り、満開のひまわりのような笑顔だ。
 結局、いまだになんで日向さんがここまでしてくれるのかはわからない。でも、これだけ心配してくれるんだ。
 悪い企みなんてしていないだろう。

 夏休み最後の、僕らの撮影旅という夏期講習まであと一週間だ。
 余命がさらに短くなっているなら、ここで必死にいい写真を残さなければ――。


 僕が病院で処置を受けてから数日後の昼すぎ。

 今日は塾の夏期講習が休みということで、部活を終えた川崎君や樋口さんが家に遊びにくることになった。

「なぁ、望月。心臓は本当に平気なんか? わりぃな、俺……どんなことをすればいい?」
「気にしないでよ、もう普段通りだから。殴られなければね。だから、ふだん通りにお願いしたいかな」
「いや、もう殴らねぇって。あんま俺をイジメんなよ。……あんときはマジで悪かった」
「うん、もういいって。ちょっと気にしてたけど、花火で差し入れももらったし……」
「いや、望月。そんなんで許さないでもっと言ってやってよ。あのときはマジで最悪だったんだからさ」
「そうだそうだ、舞の言うとおりだよ! 耀くん、簡単に許しちゃダメだからね!」
「夏葵まで……」

 ガクリとうなだれる川崎君が少し可哀想になる。
 僕はもう許したのに。僕よりも周りのほうが許してない気がする。

「僕としては、もういいんだけど。今はさ、僕の部屋に二人だけじゃなくて日向さんもいるほうが気になるよ」

 そう、三人と遊ぶのはいい。でも、僕の部屋に日向さんがいるのはなんだか新鮮でちょっと落ちつかない。

「あれ? 夏葵は望月の部屋、入ったことないん?」
「そうなんだよ、舞! 私はいつもリビングまでの女なの。……ずるいよね、二人は部屋に入れてもらってたのにさ」

 両手で頬杖をつきながら文句を言っているけど、二人を部屋に入れたのはたまたまだ。
 リビングで土下座されていて万が一だれかにみられても困るから部屋に入れただけのこと。

「それにしても、本棚には写真関係の難しそうな本がいっぱいだね~」
「それしか頑張ってこなかったからね」
「一つでも頑張るもんがありゃいいだろ。いくつも手を伸ばしたって、中途半端になるだけだ。俺はよ、一つのことに打ちこめる望月が魅力的だと思うぜ?」

 日焼けした顔でニカッと笑いながら、川崎君は僕の肩をポンっと軽く叩いた。

 嬉しい言葉だな。友達にこんなことを言ってもらえる日がくるなんて。
 照れていると、口元に手を当てながら目を丸くしている樋口さんが見えた。

「勇司、あんた……。夏葵にふられたショックで、望月に手をだそうとしてんの?」
「あ、やっぱり!? 男同士のそういうのも、私はいいと思うよ!」
「ち、ちげぇよ! 俺は女が好きなんだ!」
「は? あんた、女好きってこと?」
「そういう意味じゃねぇ!」

 女性二人にイジられ、川崎君は必死に抵抗している。

 でも、楽しそうだ。それに、日向さんへの失恋もこうして話のネタにできるようになったのか。本当によかった。
 毎日のように樋口さんからはメッセージで川崎君への想いを聞いていたから。
 川崎君に日向さんへの未練が残ったままだったら、どうしようって思っていたんだ。でも、少しでも彼が気持ちを切りかえられているようで安心した。

「菓子が足んなくなってきたな。――よし、買いだしの男気ジャンケンいくぞ!」

「……え? 男気ジャンケンって、なに?」
「望月、男気ジャンケンってのはね、ジャンケンで勝った人のおごりってことだよ。この場合だと、買いだしにもいくことになるね」
「そ、そうなんだ」

 僕の知らない世界だ。
 自分のものは自分で買うか、割り勘だと思っていた。買い物すらゲームにしてしまうなんて、陽キャラの人たちはすごい。

「でも、全員分おごりはキツいかなぁ。私と耀くん、ここでお金を使いすぎるわけにはいかないし」
「あ……そうだね。僕らは、旅の費用がかかるから」
「お、そっかそっか。二人は夏休みは撮影を頑張るって言ってたしねぇ。次の旅はどこにいくん?」
「……えっと、実は一泊二日で箱根に。もちろん、親の許可は得てるし部屋は別々だけど!」

 二人の顔がギョッとしたが、親の許可という言葉が効いたのかな。二人は顔を見合わせると、ふぅと息をついて「楽しんでこいよ」と言ってくれた。

 箱根への撮影旅は数日後だ。
 最低限の交通費と宿泊費はある。
 でも、ここで全員分のお菓子代という予想外の出費があると、旅で使う乗り物の一つや二つは乗れなくなるかもしれない。

 箱根は山が多いから、ケーブルカーやロープウェイを使うらしい。
 乗り物を使っても傾斜がキツい坂を歩く必要があるそうだ。
 数日前に病院送りになったこともある。さすがに無理をするわけにはいかない。

「なら、勝ちは二人にしとくか? そうすりゃ、一人の負担が減るし」
「それなら私たちもいけるかな!」
「うん、僕もたぶん平気」

 頭の中でたぶんこれぐらいだろうという金額を予想して答えた。

「うし、いくぜ。――ちなみに、俺はパーをだすぜ」
「うわ。でたよ、こういう心理戦。それなら、ウチはグーをだすよ」

 え、このノリについていかないといけないのかな。
 戸惑いながら日向さんへ視線をむけると、フッと笑って――。

「――なら、私はお金をだすよ。ああ、だしたくて仕方ないなぁ!」

 そっち側か。まぁ、そうだよね。
 日向さんは友達が多いし、こういうノリにも慣れてるか。

「お、さすが夏葵! 男気あんじゃん」
「いやぁ、俺もだしたくて仕方ねぇわ~。うし、いくぞ! 男気じゃんけん、じゃんけんポン!」

 全くノリについていけなくて、僕はなんとなく思いついた手をだした――。

「……あんさ、望月。いつもメッセージでウチの気持ち聞いてくれてありがとね」
「いや、僕はなにも気の利いたこともいえなくて……。熱海から帰ってきたときの樋口さんみたいにちゃんと色々アドアイスできなくて、逆にごめん」

 部屋には僕と樋口さんが残った。

 川崎君と樋口さんは宣言通りパーとグーをだして、日向さんも宣言通りお金をだすことになった。

 ヒクつく顔で「私、だしたくて仕方なかったし? いやぁ、嬉しいなぁ……」と無理に笑っていた日向さんは最高に面白かった。

「なんもいわないからこそ、話しやすいのかもね。ウチにはあいつへの気持ちを相談できる人が他にいなかったからさ」
「日向さんには、絶対にいえないもんね……」
「そういうこと。今までだれにも話せなくて、気持ちが本当にゴチャゴチャしてたんよ。望月はさ、ウチの話を聞いてアドバイスとかしないじゃん?」
「頼りなくて、ごめん。僕には恋愛経験がないから……」
「違うって、責めてない。ウチは逆に感謝してんだよ」

 樋口さんは、ハハッと笑いながらコップに入った氷をカランと鳴らしてジュースを一口飲んだ。

 どういうことだろう。なんでろくなアドバイスもできないのに感謝されるのか、僕にはわからない。

「話すってことは、聞いてほしいってことなのよ。それなのに求めてないのにアドバイスとかされたら、逆に困るの。人に話すことで、すっごく楽になる。そうすると感情の整理が勝手につくんよ。そこで変にアドバイスとかされても、かえってゴチャつくんだよね……」
「……少し、わかったかも。話すことで感情の整理をしているのに、余計な情報を入れられたら、かえって整理がつかなくなるってこと?」
「そういうこと。面倒臭い性格で、望月には迷惑かけるね」
「いや、僕は全然。迷惑だなんて思ってないから」

 樋口さんが自分の感情に戸惑っていて、ためこんでいたのがよくわかる。だれかに聞いてほしい気持ちも。
 日向さんと初めて会ったとき、思わず話すぎてしまったときの僕もそうだった。

 思えば、日向さんがあのとき黙って聞いていてくれたから、僕は感情の整理が徐々にできているのかもしれない。暗い殻から出てこられたのは、彼女のおかげだ。

「日向さんに話せたら、楽だったのにね」
「あいつが恋してる当人じゃねぇ。さすがに相談は無理だわ」
「……だよね」

 考えこんでしまう。
 僕が樋口さんの立場になって、同じような状況にいると想像してみる。そうすることで、心というものが写真にも反映されるのかもしれない。

 何分間かわからない程に考えこんで、樋口さんの人生を想像してみると――。

「幼馴染みに恋をするって……難しいんだろうね」
「そうなんよ。ましてや、何か好きになる理屈があったわけじゃない。徐々に好きになっていった感情の話だからさ……」
「好きって言うタイミングも、難しいんだろうね」
「本当にそう。言ってどうしたいのか、勇司と付き合いたいのかも結局わからな――」

 ガサッと、何かが入ったビニール袋が落ちる音がした。
 ――僕の部屋の前から。

「…………」

 しばらく、無音の時間が続いた。
 震える樋口さんが、おそるおそる立ち上がって扉を開くと――。

「……ごめん。その、私たちね。急に帰ってきて二人を驚かそうと思って」

 玄関を開ける音や足音に気がつかなかったのは、それでか。

 気配をさせないように、川崎君と日向さんは戻ってきた。それで部屋の中で話す僕らの声が聞こえてしまったんだ。

「……舞、俺は――」
「――……!」
「お、おい! どこいくんだよ!?」

 川崎君が止めようとする手を振り払って、樋口さんは走って外へと出ていってしまった。

「勇司、追いかけよう! 今の舞を一人にしちゃダメだよ!」
「お、おう!」

 日向さんと川崎君も走って家を出ていく。

 僕は自分の発言がこんな事態をまねいてしまったことを深く後悔していた。微妙なバランスで成り立っていた三人の関係を――僕が壊してしまった。
 迷惑をかけてしまった。

「僕も、樋口さんを探さなきゃ……!」

 迷惑をかけて、かけられてを繰り返すのが友達だ。
 そう樋口さんが言っていた。

 僕は、迷惑をかけたままではなく、この失敗をなんとかしなきゃならない。友達として、そうしたい。

 電動自転車を取りだし「最期まで友達であるために、そうしたいんだ」と呟きながら、僕は川越の街を走りだした――。

 それから約一時間後。

 僕は、
『舞をみつけた』
 という川崎君のメッセージをみて現場にむかった。

「おう、望月……」
「耀くん……。ごめんね、私たちが足音を忍ばせたりしたからこんなことになって。心臓、平気?」
「僕は大丈夫だよ。それより、樋口さんは?」

 夕暮れの陽射しが入りこむ公園を前に、二人は申し訳なさそうに俯いた。

「舞は、中のベンチに座ってる。俺が話しかけにいったら、『あとで戻るから、今は話しかけんな』ってむっちゃキレられてさ」
「お財布とか、耀くんの部屋に置いてきたからね。私が言ってもダメだった。『今は一人にして。じゃないと八つ当たりしちゃう』って……」

 二人とも、話しかけようとはしたんだな。
 でも、樋口さんは拒絶した。
 別に二人が嫌いになったわけじゃないんだとは思う。
 たぶん、今は心の整理がついていないんだろう。
 ましてや、好きになった人とその想い人だ。
 自分でもどうなりたいかわからないと言っていた。
 今の樋口さんの感情はゴチャゴチャなんだろう。
 だったら――。

「……僕も、いってみるね」
「望月、お前……。わりぃ、頼む。俺も、ちゃんとあいつに返事はするから」
「それを舞が望むか、そこを耀くんが聞いてからだよ。感情で暴走しないでね、勇司」
「お、おう……」

 自転車を止め、公園に入る。
 木々にとまるセミの声があちらこちらから聞こえる広い公園だ。
 でもベンチに座っているという情報があったから、迷うことなく彼女はみつかった。
 背もたれに体重をあずけ、力なく俯いている。

 僕は樋口さんに気持ちを話してもらえた。
 複雑な心について教えてもらえた。

「…………」

 だから僕は、同じベンチの横にただ座った。
 何も声をかけることなく。

 それから数分間、無言の時間が続いたころだった。

「……今は一人にしてって言ったの、あの二人から聞いてないん?」

 樋口さんが話しかけてきた。

「……聞いたよ」
「だったら、なんで横にくるわけ?」
「……なんでだろうね。そうしたいと思ったからかな」

 また樋口さんが黙りこんでしまう。

 失敗したかなと思った。
 本当は、開口一番に謝りたかった。
 でも、そんな言葉を今の樋口さんは望んでいない気がした。
 感情がグチャグチャな状態だと思ったから。

「本当、ウチってなんなんだろうね。最悪だよ、こんな告白ないわ」
「……」
「そもそも、どうなりたいのかもわかってないのに。付き合いたいのか、だれよりも近くにいる親友でありたいのか……とかもさ。ウチが女で勇司が男とか、本当に嫌。なんで性別なんかあんだろ」
「難しい感情、だね」
「難しいよ。わけわかんないし。そもそもさ、あり得なくない? よりによって、タイミング悪すぎっしょ。気配を忍ばせて戻ってくるとか」
「うん、あれは気がつかなかった」
「だよね。ウチが思い描いてた告白ってさ、どっか人気のないところで『好きです、付き合って下さい』みたいな、そんなんだと思ってたんよ」
「物語だと、そういうのが多いよね」
「なのに、勇司とウチの告白はなに? あいつはキレた勢いで告白して、ウチは好きってのが漏れ聞こえちゃったとか。二人してムードの欠片もないわ」
「……改めて聞くと、そうだね。ちゃんとした告白って感じがしない」
「そうだよ。ちゃんとした告白にもなってない。好きってバレちゃった。たったそれだけなんだよ」
「うん。僕もそう思うよ」

 愚痴のような言葉に同意すると、樋口さんはまた黙りこんでしまった。
 重苦しい空気が続くけど、最初にこのベンチに座ったときほどじゃない。
 樋口さんはゆっくり顔を上げてくれた。

「あんさ、ウチって昔から男といるほうが楽って話……したじゃん?」
「たしか一年生の三学期だったっけ。廊下で首に手を回されたときだよね」
「そう。あんとき、ウチは自分のことを男っぽい性格だとか言ったの覚えてる?」
「忘れられないよ。怖かったし」
「怖かったんだ。まぁ、明らかにウチをさけてたもんね。……ウチは大雑把だけど、ちゃんと女っぽいところあったみたい」
「……どこ?」
「胸じゃないかんね?……よくさ、男女の脳の違いとか言うじゃん。あれで『女の人は言葉にしなくても察して欲しい』とか書いてある記事をみたことあるんよ」

 そう言うと、樋口さんはスッと立ち上がった。

「ウチもさ、勇司に察してよって無意識に思ってた。でも、こんなどっちつかずな自分は嫌いなんだ。――だから、女らしくとかじゃない。ウチらしくいくわ」

 僕へむけて微笑みながらそう言って、公園の入口――いや、二人のところへズカズカと歩いていく。
 僕も樋口さんの後ろからついていった。

 今の樋口さんは、堂々としていて格好いい。

「おう、舞……その、俺はさ」
「待った。ウチから言うわ」

 うなじあたりに手を当てながらうつむく川崎君の言葉を、樋口さんが止めた。

「――勇司、あんた鈍すぎ。中学でも高校でも同じ陸上部についていって、おまけにこんだけ毎日近づいてんだよ。自分に好意あんのかなとか、少しは思いなよ」
「お、おう……すまん」
「あんたが夏葵に未練たらたらでも――ウチは、あんたのことが好きだ! だから、いつかあんたにウチが一番好きっていわせてやる。今日は決意表明の日だから、返事とかしないでよ」

 川崎君がポカンとした表情をしている。
 日向さんは、嬉しそうに微笑んでいた。

「だから、これからも今まで通り一緒にいて、いつか好きだなってなったら返事ちょうだい。いい?」
「お、おう」
「それから夏葵」
「なに?」
「ウチも夏葵のことが大好きで、すごい大切だから。だから――これからも、勇司が変なことしたら一緒にボコボコにしてやろう」

 片手は腰に当て、片手で鼻の下をこすりながら微笑む樋口さん。
 そんな樋口さんの胸に、タックルのような勢いで日向さんが両手を広げながら飛びこんだ。
 樋口さんのポニーテールがフワッと揺れた。

「舞~、もうメッチャ好き! 勇司になんか絶対に渡さないからね!」
「俺になんかって……」

 複雑そうな表情で苦笑する川崎君とは正反対に、日向さんは心から嬉しそうな笑みを浮かべていた。
 樋口さんに「よしよし、夏葵は可愛い子だねぇ」などといわれながら頭をなでられ、気持ちよさそうにしている。

「樋口さん、遅くなったけど……僕もごめん。不用心だったね」

 僕の謝罪に、一瞬キョトンとして顔を浮かべたが――。

「いいよ。これからも話を聞いてもらうからさ。もう、前みたいに怖がって逃げないでよ?」

 心の黒いモヤが消えたような、晴れやかな笑みで言ってきた。
 どうなるのか心配なほど、いびつに維持されていた三角関係も落ち着いた。

 これで、隠さなければいけない秘密はもうない。友人として、前よりも自然にみんなと話せそうだ。

 夕陽が沈み、あたりも薄暗くなってきた。

 セミと勤務を交代したようにスズムシの『リーンリーン』という鳴き声が聞こえる。ずいぶんと日も短くなり、半袖は少し肌寒いとすら感じた。
 もうすぐ夏が終わる。
 僕がこの世で過ごす、おそらく最期の夏が終わりを迎えてしまう。
 僕は絶対にいい写真を撮って、両親や人を感動させてみせる。
 僕にとって最期のチャンスかもしれない、一泊二日の箱根撮影旅。
 絶対に、『人が抽象的に捉える解像度』の答えをみつけて、結果を残してみせる――。