四月の第一土曜日、時刻は朝の十時だ。
オシャレな格好でやってきた日向さん。それとは対極的に鞄一つ持たないラフな格好の僕は、川越駅を出る電車に座った。
「望月君、早く着くといいね! 水着はどこ? もしかして中に着てるのかな?」
電車の窓から外に視線を向け、興奮気味に話しかけてくる。
上は白い長袖シャツにゆったりした黒いニットベスト、下は膝丈の白いケーブルの入ったスカートという綺麗な服装だ。黒ソックスの上に履いたヒールは歩きにくくないのかな。
海を意識したのか、肩掛けのかごバッグを斜めがけしてポンポン叩いている。まさか、泳ぐ気で用意してきたのか。
「着てるわけがないでしょ。この旅に必要なのは、撮影に使うスマホだけだよ」
というか、バッグを斜めにかけるのはやめて欲しい。胸が強調されていて、嫌でも視線がいきそうだ。
「もう、真面目だなぁ。望月君ってさ、デパートとかで目的の場所しかみないタイプでしょ? 色んなとこをみたり体験するのがいいんじゃん!」
話し合いの結果、毎月のお小遣いで行ける範囲で、だいたい月に一回。土日祝の連休どれかで旅をしようと決まった。
だから僕たちは、予算的に新幹線のように高額な移動手段は使えない。基本は電車とバスで移動だ。
第一回目の撮影旅は、静岡県の熱海へといくことになった。
「あ~、お尻痛かった……」
「座ってる時間が長かったからね」
「でも電車からみえた海、綺麗だったね! ね、早く海にいこうよ!」
「待ってよ。坂が多いんだから、走ると心臓が」
「それは仕方ないね。よし、ゆっくり急ごう!」
熱海駅を下りた僕たちは、駅前のお土産通りを横目に坂をくだり海を目指す。くだり坂でも、以外にキツい。帰りはのぼり坂だと考えると、頭がクラクラしてくる。観光地のガイド本って、こういうしんどいことは書いてくれないよね……。
「――みて、凄い綺麗! 広い海だよ!」
坂をくだり住宅地を抜けると――一面の水平線が広がっていた。
どこまで見渡しても、太陽を反射する青い海。ざざぁ、ぽちゃと鳴る波打ち際。鼻腔をくすぐる潮の香りと、四月のすごしやすい陽気。太陽はのぼりきり、これから徐々に沈んでいくんだろう。被写体として完璧だと思った。
「完璧だ。撮影場所を探さなきゃ」
「もう、もっと感動してよ! 海だよ、埼玉県にいたら絶対みられないんだよ?」
埼玉県には海が面していない。やっぱり、内陸県だからふだんみられない海で興奮する傾向にあるのかな。
日向さんのはしゃぎっぷりがすごい。
綺麗なショートカットの髪をなびかせ、腕をいっぱいに広げて潮風を受け止めている。
「晴れ渡る蒼い空、碧い海に、風が運んできた潮気まじりの香り。すごいなぁ……。他の季節だったり、雨だったらまた変わるのかな?」
「わからないよ。でも、よかった。海水浴シーズンとはズレてるから、観光客もそんないないし」
「そう、だね」
一瞬、日向さんの表情が曇った気がした。でも今の僕は、スマホを構えて撮影に忙しい。気のせいかもしれない天敵の表情変化なんかで、動きは止められない。
「誰もいない。私たちで独り占めだね!」
時期が夏なら人がいたはずだ。この時期でよかった。僕の風景写真に、人は邪魔だ。
「二人で来てるから、それをいうなら独占じゃない?」
「細かいよ! よし、海だ海!」
靴を脱いで裸足で海まで走ろうとするが、すぐに止めた。日向さんはヒョコヒョコと何かを避けるように進んでいき、こちらを振り向いた。
「望月君、砂浜にゴミが多くて痛い!」
近づいて砂浜をよくみれば、箸やビニール、プラスチックの欠片などが散乱していた。
「海辺だから、波に運ばれてきたんだろうね」
「冷静にみてないで、助けてよ!」
「無茶いわないでよ。ケガしないように気をつけてね」
僕の声が聞こえていたのかはわからない。もう海面に突っこんでいた。季節外れの波を膝まで浴びた日向さんは、「冷たい!」と叫んですぐに帰ってきた。息を切らせて、楽しそうだ。
「すっごい冷たかった! あと、足の裏が砂だらけ!」
「四月の海だしね。そのままじゃ靴下はけないんじゃない?」
「あ~、本当だね。どうしよ、コンビニのベンチ借りて砂とってこようかな」
「それがいいよ。僕はこの辺で撮影してるから」
「わかった。じゃあ、私はついでに散歩してくるね。望月さん、お飲み物買ってきます!」
「パシリに使うつもりとかないんだけど。そんな頭をペコペコしないでよ。お金も払うし」
テンションが上がっているのか、嫌な先輩にごまをするキャラを演じる日向さん。日向さんは僕に「楽しんでいこうね」と快活に笑いかけ、裸足でコンビニへ向かいだした。
「……本当、元気な人だな」
背をみながらボソリと声が漏れるが、すぐに視線をきった。今は彼女より風景だ。大きな海、山々やホテルなど被写体がたくさんある。ここでしか撮れない綺麗な風景を、僕はたくさん撮りたい。
「浜を越えた先にある白いホテル、そして山。いいね、いい写真だ」
浜辺を歩きながら遠くまで眺めて構図を決め、写真を撮っていく。そして沖に目線を向ける。
「吹き上がる波のしぶき……。これも絵になるな」
海上に顔を出す頼もしい離岸堤に強い波がぶつかり、沖へ戻ろうとする波の威力を受け止める。波のしぶきが雪のように空を舞い踊り、落ちる。その様はまるで、スノーボードハーフパイプを滑る選手のようだ。芸術的な姿がすごく絵になる。これは、すばらしい風景だ。
そうして日が傾いていく。太陽のうごきがよくみえる。これも水平線までみえる場所ならではかな。砂浜からの写真はだいぶ撮りつくしたと思う。
「……あそこからも撮ってみるか」
防波堤が目に入った。より高い所からの構図というのも、いいだろう。
さえぎる物がない太陽光を吸収したコンクリート製の防波堤にのぼる。立ち上る蒸気が肌につき、ぬるくべたつかせた。
浜をみると、海辺に足跡を残しては波に消されていく日向さんの背が映った。
誰もいない夕暮れの浜を、後ろ手を組みながら歩く姿はどこか寂しそうで。それが絵になっていて――僕は思わず、撮影ボタンを押してしまった。
「……人を撮ったのなんて、初めてだな」
ディスプレイに映る写真をみて、しみじみと考えた。僕の写真フォルダに人が入りこむ日がくるなんて、と。風景写真に、人がまぎれてもいいのかな。
色々と考えていると、こちらに気がついたのか、日向さんが僕のいる防波堤まで駆け寄ってきた。
「ちょっとぶりだね。はい、これ。温くなったけど、許してね?」
斜めがけしたかごバッグからペットボトルに入ったジュースを取り出し、手渡してくれた。
日向さんが買ってきてくれたペットボトルを受け取り、失礼だとは思うけどラベルの成分表示をみてしまう。これはもう、クセというより習慣だ。
「どうしたの?」
「いや、ごめん。……僕、心臓の関係で塩分制限とかあるから」
「あ、ごめん! 気がつかなくて……買いなおしてこよっか?」
「だ、大丈夫だよ! みた感じ制限は超えてないし、汗で塩分も出てるからね。これぐらいがちょうどいいよ」
慌ててキャップを開け、中身に口をつける。
「今もしかして、私に気をつかった? 優しいね!」
思わず、吹き出しそうになった。むせこむのを耐えるのが苦しくて視界が潤む。なんてことをいうんだ。僕が優しいわけがないじゃないかと抗議の視線を向ける。日向さんは、小首を傾げながらニヤニヤと上目使いをして僕の顔を覗きこんでいた。悪い表情だ。
「いじわる……」
「照れてるんだ? 可愛いねぇ」
はしゃぐ日向さんに、何もいう気が起きなかった。……まぁ、何をいっても勝てなそうだし。
「どう? 初めての遠出……。心臓、つらくない?」
今度は不安げに眉を下げた。表情をコロコロと変える人だな。
まだ心臓は悲鳴をあげていない。でも、遠出自体がほぼ初めてだから、限界はわからない。もし突然、この場で限界がきたら……そうなったら、日向さんの心に笑えない傷をつけちゃうよね。
「平気だよ。でも、海で泳げないとやることもないよね。写真も一通り撮ったし、今日は早めに帰ろうか」
「あ、また気をつかったでしょ。言葉数が多くなって、早口だもん。そういうクセ、あるよ」
気をつかうとき、そんなクセが僕にあるのかな。自分じゃわからない。多分、日向さんの勘違いだと思う。
「視線さまよわせちゃって。可愛いねぇ。そんじゃ、駅前のお土産だけみて帰ろう!」
僕の袖口をつまんで軽く引く。それが、彼女の気づかいなんだとやっと気がついた。
だって、日向さんはふだん元気に駆け回ってばかりなのに、僕の袖口を引く手はすごく弱い。導かれるまま、駅までの道を一緒に歩くことにした。あんまり好意的な感情移入はしないようにしないと。日向さんのことが、心残りになっちゃう。
「医者はさ、軽めの運動はすべきだっていうけど……。どこまでが軽い運動のラインなんだろうね。多分、今日ぐらいなら問題ないんだけど」
ぼそりといってしまったのは、今後も一緒に旅をする日向さんの心に、消えない傷をつけないためだ。軽い運動ならやるべきだと教えておけばいい。そうすれば、旅の途中でなにかあっても運命だって分かるだろうから。もしもだれかに消えない傷をつけたと思ったら、安らかに旅立てない。つまり、これは最終的には僕のためだ。
「そっか、安心したよ。――あ、アーケード街に入ったよ! 凄い、色んなお土産屋さんがある!」
いつの間にか駅前まで来ていたらしい。ガヤつく商店街には特産品がたくさん並んでいて、自分が観光地にきたんだって再認識できた。
「そっか、安心したよ。――あ、アーケード街に入ったよ! 凄い、色んなお土産屋さんがある!」
いつの間にか駅前まで来ていたらしい。ガヤつく商店街には特産品がたくさん並んでいて、自分が観光地にきたんだって再認識できた。
「うわぁ、みて。エビがそのまんまの姿でおせんべいに入ってる!」
エビの身を練るんじゃなく、生きた姿に綺麗な彩りを添えて焼かれたせんべいだ。日向さんは凄く楽しそうな表情で「どうやって作ってるのか」店員さんと話を始めた。僕は会話に入れず、居心地悪く視線をさまよわせ――。
「あ……美味しそう」
一つの看板をみて思わず呟いてしまった。テレビに映るご馳走をみて、ぼつりと漏らすような声だったと思う。
「あのジェラート? うわぁ、桜エビの身が入ってるんだって、美味しそう! 買う?」
「……でも、塩分制限あるから。こういうお菓子とか、買ったことなくて。というか、外食もほとんどしたことなくて」
幼い頃から成分表示がないものは食べられなかった。前はもっと塩分や水分にも厳しかったし。だからどんなに美味しそうだなと思っても、僕にはテレビや雑誌に映っているものと同じにみえた。
味を想像するだけ。絶対に、自分の身体では食べられない絵に描いた餅だったから。
「ん~、そっか。なら、店員さんに塩分がどんぐらいか聞いてくるよ!」
止める間もなく日向さんは店員さんに声をかけにいった。店先の店員さんも少し困ったのか、偉い人がやってきて説明してくれていた。
本当に、彼女は行動力とコミュニケーションのお化けだ。お礼をいっているのか、ぺこりとお辞儀する日向さんに合わせ、僕も軽く頭を下げる。
「一個に入ってる塩分量、教えてもらえたよ!」
聞いてきてくれた塩分量を聞いて、やっぱりかと気持ちが落ちこんだ。
「それだと、一個全部を食べるきのはさすがにダメかな……」
悲しそうな表情を浮かべる日向さんに申し訳なくなる。夜や明日の塩分量を調整しても、明らかに多くなってしまう。本当に、僕の身体は人を悲しませてばかりだ……。
でも、彼女は何か閃いたのか。ぱっと花が咲いたような笑顔で走っていき、一個のジェラートを買ってきた。
「――はい、一口! これぐらいなら、いけるんでしょ?」
スプーンでジェラートをすくい、僕の口に向けてくる。一口……それは考えてなかった。確かに、これぐらいの量なら問題ない。でも問題は、別にある。
「あ、あの、行儀が、自分で」
「ここの通り、お祭りみたいに買い食いして歩く人が多いみたいよ?」
「いや、そうじゃなくて、その」
「ん?」
これはカップルとかがやってる、あーんってやつだ。ニヤニヤと意地の悪い表情をしてる。
女の子に食べさせてもらうのが恥ずかしいのかって、挑発されている気分だ。今日一日、からかわれっぱなしだ。なんだか悔しい。
いいよ、やってやろうじゃないか。
「――いただきます」
半ばやけくそで、差し出されたスプーンを口に含む。
そして、口の中であっという間に溶けていくジェラートに驚く。
「おい、しい……!」
冷たさが溶けて、すぐに感じるミルクの淡い甘さ。その後にくるほどよい塩気、そしてぷりぷりの桜エビの身の食感と旨味が口に広がっていく。
なんだ、これ。身体が心地良くなって、力が抜けていく。いつも食べてる味噌汁という名の、温かいお湯につかった具材とは違う。味が、ある。
「ん~、ぷりっぷり! ミルクと桜エビの旨味が合うね、美味しい!」
ハッと我に返ると、隣でホクホクとした笑みを浮かべ感動している人がいた。というか、そのスプーンって、さっき僕が口をつけたやつじゃないのかな。そう考えると、もうダメだった。急に顔もみられなくなって、顔が熱くなった。
「あ、照れてるのかな?」
「違うよ!」
「むきになっちゃって。それで、初めての買い食いはどうだった?」
「……こんなに美味しいものなんだって、知らなかった」
悔しい思いで返答した僕の声に「そっか、よかった」と微笑んだ。またからかわれるのかな。日向さんは無邪気な可愛い顔をして、意地が悪いし。
でも、予想とはちがった。軽く微笑む日向さんの瞳は、笑っていない。
「知らなかったものを知った時の、すごい情報量ってさ。なんか、感慨深くない? いい意味でも、悪い意味でもさ」
悪い意味なんか、あるのかな。僕は今、知らなかった味という情報にすごく感動してる。文字通り、喜びを噛み締めているんだけど。
「そろそろ電車がくる時間だよね。駅、いこうよ!」
「あ、うん……」
「名残惜しそうだね。あ、なるほど、なるほど。ツーショット写真、記念に撮ろうか!?」
「それは絶対に嫌だ。自分を写真に残さない。記憶みたいに薄れて消えないで、形に残るものは絶対に嫌だ」
「もう、意地っ張りだなぁ」
そんな会話をしつつ、僕たちは駅を目指した。
少しだけ暗くなりかけた場が、一瞬で明るくなった。彼女はガラッと場の空気を変える力がある。やっぱり日向さんは、耀くように元気な存在感がある、ひまわりみたいだ。また曲解されるから口には出さないけど。
僕はそんな事を思いながら帰りの電車へと乗った。
くるときより、いくらか静かに感じる帰りの車内。原因は、隣に座っている日向さんも眠そうだからだろう。無限に跳ね回れるわけじゃないんだな。
僕も少し、疲れているみたいだ。座ったら、疲れと眠気がどっと襲ってきた。それでも電子書籍で買った写真撮影技術書を読んでいると――。
「ね、今日も写真いっぱい撮ったんだよね? 見せてよ」
「ん、いいよ」
寝ぼけ眼のまま、肩が触れるぐらい近くに座る彼女へスマホを渡す。日向さんも眠そうに写真フォルダをスライドしていくが――その指が、ピタリと止まった。
「どうしたの?――ぁ」
ディスプレイに映る写真を目にして、眠気がふきとんだ。思わず背筋が伸びて血の気が引く。
「隠し撮りは、犯罪だよ?」
「いや、ちがっ……これは、あの」
海辺を歩く、女性の写真。後ろ姿だろうと、だれかわかる。白いシャツに黒ベスト、風でふわっと靡く白いスカート――どう見ても、日向さんだ。
「よく撮れてる。……他の写真も、本当に綺麗。それで、答えはみつかったかな? 答えによっては、盗撮も許すよ」
思い出した。彼女が出した問い、『人が抽象的に捉える解像度』の答えか。今回、初めてよく撮れてるっていってくれた。それならもしかして――。
「もしかして、さ。僕の写真は風景ばかりで、そこにいるべき人が映ってないから解像度が低い、とか?」
回答を聞き、ゆっくり首を傾げながら、頬を緩ませた。あ、これは違う反応だなとわかった。
「う~ん。それは、十点ぐらいだね。その答えじゃ、許せないかな?」
「……じゃあ、どうしたら許してくれるの?」
少し考え、ニカッと笑いながら顔を覗きこんできた。ものすごく、嫌な予感がする。
「私を名前で呼んでくれたら、許す。あだ名とかでもいいよ。私も望月くんのこと、これから耀くんって呼ぶからさ」
とんでもないことをいってきた。「そ……」思わず大声が出そうになるのを慌てて止める。電車内で大声は出せない。周りの迷惑にならないよう抗議するしかない。
「そ、それは無理だって……!」
自分で思っていた以上に、声が震えていた。またしても日向さんに弱みをみせてしまった。イジられる。
「挑戦してないうちから諦めるの? 耀くんが無理とかいってた旅も、挑戦したらできたじゃん。せめて挑戦はしないと、許さないよ。――っていうか、逃がさないよ?」
面白いおもちゃをみつけたような顔を向けないで。耀くんもやめて。ああもう、手玉に取られてる。
魔性の女ってあだ名をいえば許してくれないかな。ダメだろうな。無視したい。
でも隠し撮りしちゃったし、ジェラートの味も教えてもらったし。――ああ、もう!
「な……。なつ……」
日向さんは期待した眼差しで、ジッと僕の瞳を捉えてくる。日向夏葵、ひなたなつき……。
『なつき』
そういうだけなんだ。それだけだ、たった三文字。それだけだ。
「な、なつ……」
「なつ……?」
彼女の目がキラキラと輝いている。
「なつ……」
ダメだみないで、恥ずかしすぎて逃げたい!
「ごめん、やっぱ無理だった! 挑戦はしたけど無理だったから、もう許してください!」
人の迷惑にならないよう声を抑えて頼みこむ。ヘタレでも仕方ないじゃないか。人と話した経験すら足りないのに、ファーストネーム呼びはキツいよ。
「仕方ないなぁ、今はそれで許してあげよう」
ほっとした。急に伸びていた背筋が戻る。高鳴る胸の鼓動がおさまってから隣をみると――写真のスライドを再開して、何かを考えていた。寂しそうな表情を浮かべながら。
線路を走るタタンッタタンという音が、彼女のもの悲しい心情を引き立てるBGMのように聞こえる。
「うん、やっぱり綺麗だね。はい、ありがとう」
スマホを受け取って、思う。
僕の写真が、耀く彼女の笑顔を曇らせている。それが、すごく嫌だ。
小学校の時、僕に笑顔をくれたような、そんな美しい写真を撮ったはずなのに。なのに、なんでそんな顔をするんだろう。
寿命がくるまでに、彼女も笑顔になるような素晴らしい写真を撮る。
そのためにも解像度の答えを見つけなきゃいけない。でも、心残りにならないように一定の距離感はたもとう。
そう決意する僕だったが――わずか数分後には、また動揺させられて決心が揺らいだ。
眠った日向さんの頭が、僕の肩にもたれかかってきているせいだ。眠気なんかどこかへ消えた。
早く川越駅についてと思いながら――僕の初めての遠出は、無事に終わった。
二年生の初日。
春休み最後にいった旅の疲れも癒えないまま、僕は次の疲労と悩みの種を抱えることになった。
すべて、校舎入り口に張られたクラス分け表のせいだ。
「……三人が一緒のクラスって。先生たちは、僕に恨みでもあるの?」
思わず弱々しい声が漏れ出た。
僕の新しいクラスには、知っている名前が三つあった。
川崎勇司、樋口舞、そして日向夏葵だ。
「もう……逃げ場がない」
今までは川崎君と樋口さんから話しかけられても、なんとか逃げ切れた。それは僕にどこか遠慮がちだったり、話しかけられたくない雰囲気をどこかで察してくれたんだと思う。強引に話しかけてくるのは確認したいことや用事があるとき、それぐらいだった。
でも、そこに日向さんが加われば話が変わる。彼女は僕の静かな殻をぶち壊して、人と仲良くさせようとする。それは、一年生三学期の始業式で身に染みてわかった。
「なんてことだ……」
いつまでも校舎前にいては人の邪魔になる。ソワソワと落ち着かない手足を無理矢理に動かし、振り分けられたクラス……そして自分の席に座って溜息をついた。
ポケットからスマホを取り出し共同管理のSNSに先日の熱海で撮影した写真を投稿していく。今まではこうしてスマホを操作していれば、相手側も忙しいのかと気をつかってくれた。最低限の会話だけでどうにかなった。
「……この人は、どうにかなる相手じゃないよな」
日向さんの後ろ姿が写った写真で指をとめる。
『かわいいね』、『名前で呼んでくれたら許す』
なんてからかったり、彼女は僕を手玉にとる。そもそも人付き合いの経験値も違う、対極の人間性だ。陰に潜んで生きる僕では、どうにもできない。
「スマホ見ながらボソボソいって。どうしたん、望月?」
声をかけてきた女性の声に驚き、机を大きくガタッと鳴らしながら姿勢を正す。
「どうした望月。具合悪いなら、俺が保健室に連れてくぞ?」
「い、いや大丈夫ですよ。樋口さん、川崎君……」
「本当か? ちょっと顔色悪いぞ。なんかあったら、俺らにもいえよ。できる限り協力するからさ」
「できる限りって。そういう中途半端なとこ、逆に勇司らしいよね」
「何でも、とか無責任なこといえっかよ。口だけの男にはなりたくねぇんだよ」
「本当、そういうとこだよ」
「どういうとこだよ」
樋口さんがトンッと川崎君の背中を叩いた。ポニーテールを揺らしながら微笑む樋口さんに、爽やかな笑みを返す川崎君が眩しい。っていうか、一緒の空間にいるのは居心地が悪い。
二人とも僕とはタイプが違うっていうかさ。慣れない愛想笑いで口角がピクピクする。
にこやかに会話を続けるのはいいけど、僕の前じゃなくてもよくないかな。あれ、僕は座っていいのか。二人が立ってるし立つべきなのかな。一人だけ座ってるとか偉そうだし立つべきか。うん。
「おっはよう皆の衆!」
始業時間五分前。
ギリギリの時間になって、もっとも怖れていた人がきた。
元気いっぱいに教室に入ってきて、さっそく新クラスの同級生と「おはよう夏葵、やったね!」、「たくさん遊ぼうね」などとコミュニケーションをとっている。
やっぱり、彼女は僕の対極の人間性で、天敵だ。理解出来ない。ノリについていけない。
まって、おい。こっちに来ないでよ。ああ、そうか。樋口さんと川崎君がいるから。連れてっていいからね。僕を巻きこまないでね、台風娘。
「今年は三人、一緒のクラスだね。楽しみだな~!」
そっか、僕は悲しみかな。うん、そうだ。疲れて不安になるこの感情は……悲しみだな。
「おい、望月。机に伏せってどうした? 頭抱えて、やっぱり痛いのかよ?」
頭が痛いのは間違っていない。でも、川崎君が考えている原因とはたぶん、違う。
「ほら、起きて起きて。おはようだよ! 耀くん、よろしくね!」
身体をゆすって無理矢理に顔を上げさせようとするあたり、日向さんは原因を理解している。僕の頭痛の原因をわかってやっている。
「はっ!? 耀くんってなんだよ!? いつそんなに仲良くなったんだよ!」
まずい、そうだった。そんな親しげな呼びかたをされたら、仲がいいと勘違いされちゃう。
「いや、あの、日向さんだから。僕は別に、あの。彼女の特別とかじゃなくて」
「……ああ、成る程。確かにね。夏葵はみんな名前で呼ぶしね」
「そうか、夏葵の特別とかって意味じゃねぇのか。そうか、確かにな」
納得された。苦しまぎれの言い訳だったのに。さすがは陽キャラの日向さんってことか。
「え~、なんかひどい。それより、頭痛は治ったの?」
「だれかさんのおかげで、今なお悪化してるよ」
意地悪く微笑む日向さんの顔が目に入り、思わず額に手を当ててしまう。もう無理、立つ気力すらもっていかれた。朝からこのテンションはキツいって。目を閉じて静かな殻にこもりたい。
「そういや夏葵こそ、平気なのか? 頭痛と目眩、今は落ち着いてるんか?」
「季節の変わり目とか、夏葵は休みがちだしね。春は平気なん?」
「今は大丈夫みたい! 気圧の影響なのかな。読めないんだよね。二月はそれで橋から落ちちゃったし」
「……日向さん。持病、なの?」
常に元気だと思っていた日向さんに、そんな弱い部分があったなんて。意外だ。
でも、そういえば。僕はあの日、自分の心臓について説明するばかりで、彼女が目眩を起こして川に転落した理由を深く考えていなかった。
目眩がしたという説明だけで、そんなものかと納得していたけど。
「そんな大層なもんじゃないよ。偏頭痛ぐらい、結構あるじゃん? 女子には特に多いし」
苦笑しながらいう日向さんの言葉に、たしかにと思う。そういえば、出席確認のときに偏頭痛で学校を休まざるを得なかった人には、比較的女子が多かったような気がする。
樋口さんと川崎君もうなずいているし、多分そうだ。
川崎君がハッと何かを思い出したように目と口を開いた。軽く上がった片腕が僕を指さしてくる。なに、もう逃げたいんですが。
「そうだよ! そのことで望月にちゃんと礼をいいたかったんだよ!」
川崎君の言葉に樋口さんまで「あ!」と声をあげた。
「そうだよ、なかなか話せなくて忘れてた! 望月。夏葵を助けてくれて、本当にありがとう」
真剣にお礼をいってくる二人に、僕は申し訳ない思いだ。僕が日向さんを助けた理由なんて、褒められたものじゃない。ただ、意味がある最期を迎えたかっただけなのに。
極端な話、自殺未遂みたいなもんなのに。
「いや、その。僕は、そんな偉いことをしたわけじゃ」
「何いってんだよ、真冬の川に突っこんだんだろ。お前はスゲぇよ。本当、夏葵が助かってよかった」
「まぁね、すごいっしょ! まさか私のファーストキスが人工呼吸とは思ってなかったけどね!」
「なんで夏葵が誇るんだよ。ってか、そっか……。ファーストキス、か」
日向さんのファーストキスが僕のせいで失われたと、改めて思い出したのかな。川崎君が複雑そうな表情を浮かべながら頭を掻いている。
でも、僕は――。
「…………」
二人の後ろで、唇を噛み締めて泣きそうな樋口さんが気になった。
この表情だけで色々と察してしまったけど、触れないほうがいい。人間関係に口出しするような立場でもない。深く関わるべきじゃない。
いつ消えるかもわからない僕じゃあ、何かあったときに責任もとれないから。
新クラスになってから、急に騒がしくなった。日向さんが絡んできて、それで川崎君や樋口さんも一緒になって話しかけてきて。そんな日々をなんとかこなしていた。
そして、五月上旬の日曜日。
時刻は午前十一時。
月一回が目安の撮影旅、今回は同じ埼玉県の鴻巣へいくことになった。日向さんがいうには、
『鴻巣まで直行のバスが出ているから、楽でしょ』
ということらしい。
前回とおなじように駅で集合ということで、僕は遅刻して予定を狂わせないよう約束の三十分前には駅に着いていた。
「早いね、お待たせ!」
そして日向さんはギリギリにきた。学校でもそうだが、彼女は絶対に遅刻はしない。でも、毎回ギリギリにくる。僕は気にすることなく、早く行こうと提案したーー。
鴻巣に着くと、いつも通り日向さんに振り回される状態に着地していた。
「意外に発展してるなって思ったけど、駅前の東口だけだったね。こっちはもう、田舎道だ」
「僕はこういう田舎のほうが好きだけどね」
鴻巣駅からポピー畑までは無料のシャトルバスが出ていた。日向さんがいかに僕の身体を心配してくれていたのか、よくわかる旅プランだ。
でも乗っている時間は意外に短い。あっという間に荒川近くの畑を目指し土手を越え、坂をくだっていく。すぐに田園風景が広がり、そして――。
「あ、すごい、ポピーだ! 広い、広い、すっごい綺麗!」
バスの中だというのに、日向さんがはしゃぎだした。苦笑しながら僕も窓の外をみると、圧倒された。遙か遠くまで広がるポピーの花畑だ。
バスを降りた瞬間、さえぎる物のない涼やかな風が運んでくる、生きている花の柔軟剤のような香り。そして川沿いの土と草の匂い。耳元を過ぎていく柔らかな風の音が、すごく心地良い。台風のようなごわつく音じゃない。とても優しい音だ。心に残っていた暗いモヤを鼻から吸いこんだ風が抜きとって、遠くまで運んでいった気がする。
「すっごいね、確か三千万本あるとかいってたけど!」
「これは、いい被写体だ。オレンジ、白、赤い花のグラデーション。まるで高級な絨毯みたいだ」
思わず、人が写らないように一枚撮ってしまう。
「ね、せっかくこんな広いんだしさ。お散歩しながら撮ろうよ!」
ポピー畑に黄色いひまわりが紛れてるのかと勘違いしそうになる。それぐらい、明るく耀く笑顔だ。こころなしか、笑っている日向さんには黄色いオーラのようなものを感じる。残念ながら、僕には人のオーラがみえるとかいう特殊な能力はないから、気のせいだろうけど。
袖をくいくいと引く日向さんに導かれ、僕は花に囲まれた小道をドンドン奥まで歩いていく。
「……ねぇ、さすがにここはもう違うんじゃないかな?」
小道をひたすら進んでいくと、自分の背丈より大きな雑草に囲まれた。まるでサトウキビ畑みたいではあるから絵にはなるけど、やはり雑草だ。綺麗な写真にはふさわしくない。
「ん? そうだね。ちょっとさ、川も見たくて。鴻巣を通ってる荒川って、川幅が日本一なんだってさ。二千五百メートル以上あるんだって!」
「そんなに大きいの? 海みたいだ、それは撮りたいかも」
「でしょ!?」
大げさなぐらい身体いっぱいに喜びを表現している。小躍りしながら歩いたり、スキップしたり。そんな日向さんはみていて飽きない。苦笑しながらも、ついていってしまう。草むらから出てきた、かわいい小動物みたいだ。
「……川、あるけど、日向さんが言ってたのってこれ?」
「うん。でも、せいぜい数十メートルじゃない?」
小道を抜けて、小さな橋の前にきた。見下ろす川は、川越でも探せばみられるんじゃないかという程度の幅だった。とても川幅日本一とは思えない。
「なんでだろうね?」
首を傾げて悩む日向さんだが、僕のセリフだ。ときめきを返して欲しかった。
「日向さんがもらってきた情報が大げさだったんじゃない? 戻ろう、まだ花の写真が撮りたい」
「あ、ちょっと待ってよ!」
抗議してくる日向さんを背に、僕はポピー畑へと戻った。期待外れだ。
そうして色々な角度や構図からポピー畑の写真を撮っていく。やっぱり、遙か遠くまで色とりどりの花が作り出すグラデーションを写した写真が一番綺麗だ。
「どう? 満足できる一枚は撮れた?」
ディスプレイをのぞきこむ僕に、後ろ手を組みながら聞いてきた。
「うん。今回はきっと日向さんも満足するよ」
「そっか、じゃあそろそろ戻ろっか。夜になっちゃうし」
あまり期待してないような淡泊な言動が、少し腹立たしかった。
「いいよ。バス、乗ろうか」
今回は写真みせてとすらいってこない。共同管理のSNSにあげれば、何かいうだろうか。……いや、きっと彼女の聞いてきた解像度の答えは、パスしてなかったんだろうな。
じゃあ、どんな写真なら満足してくれるんだろう。
川越駅へ向かうバスに乗りながら考えていると――。
「あ、みて! 橋の下がサバンナみたいだよ!」
窓に張りついてそんなことをいってきた。
僕も少し身を乗り出して確認すると――。
「本当だ……」
夕焼けの光が、風に波打つ草を照らしている。太陽の当たる角度で濃淡がでていて、自然が作り出したイルミネーションにみえる。
これは、草の海だ。
テレビで野生動物たちが生存争いを繰り広げているような、そんな広大な草原だ。ジャッカルとかライオンとか、キリンとかがいそう。
民家の一つもない、自然なままの絶景だった。
「凄いね。なんでこんな綺麗な自然ができたんだろうね。綺麗だなぁ……」
「うん……本当に、綺麗だ」
心から漏れた声のようにボソリと返す日向さんに同意しながら、僕たちは川越へ帰った。
こうして二度目の旅が終わった。問いの答えも出ず、ヒントもないままに。
そして、僕は周りも見えていなかった。
喧噪の中からスマホの撮影音が聞こえてきても、気にも止めていなかった――。
翌日、学校へと着いた僕は、校舎前からずっと気持ち悪い視線を感じていた。
普段、視線なんてむけられることはあまりない。ましてや、注目されることなんて。
なのに、スマホと僕を見比べながらヒソヒソと話している声が聞こえる。俯きながら早足に教室を目指す。途中「マジで? あり得ない」、「タイプ違いすぎ」などと聞こえてきた。
本当に、なんのことだろう。心当たりがあるとすれば、ついに僕たちの共同SNSアカウントがバレたことかな。
たしかに、暗い僕が綺麗な風景写真を撮っていたらタイプも違うと言われるか。
逃げるように教室へ入り、自分の席に荷物を下ろすと――。
「おい、望月! お前どういうことだよ!?」
「ぇ……?」
「ちょっと、勇司! 落ち着いてって!」
明らかに、怒った表情の川崎君がズカズカと歩みよってきた。
樋口さんもこれはマズイと思っているのか服をつかんで止めようとするが、筋肉質な川崎君は簡単に振りほどく。
「お前、夏葵とデートしてたんだろ!?」
「……は?」
「とぼけんなよ、お前らが一緒に出かけてる写真が出回ってんだよ!」
突然の怒気をむけられて、頭が真っ白だ。怒っている体育会系の川崎君が怖い。でも、写真って。
「ほら、これ! どうみても望月と夏葵だろうが!?」
川崎君が差しだすスマホには、川越駅近くの洋食屋で一緒に食事をする姿や、夕暮れにバスターミナルを歩く僕たち写っっていた。
自分が撮られていたなんて、全く気がつかなかった。
「お前、前にいってたよな。夏葵のこと好きじゃねぇ、苦手だって! 心変わりしたとでもいうつもりかよ!?」
「だから落ち着いてって! そんな怒りながらじゃ、望月だって答えにくいじゃん!」
「わかってるけど、でも、でもよ。嘘つかれてたとか、俺は、俺はコイツを信じてたのに……!」
悔しそうに俯き拳を握りしめる川崎君。怒りを耐えているのがわかる。
彼の発する威圧感と周囲の凍るようにシンとした空気、それと視線も怖い。……身体が震えて、呼吸が浅くなって、上手く声がだせない。
「ぁ……その」
目が合わないように俯きながら説明しようとするも、喉に上手く力が入らない。
ボソボソと呟くような声が限界だ。
ウジウジと黙ってしまった僕にイラだったのか、川崎君は樋口さんの制止を振りきり、両手で僕の胸ぐらをつかんできた。
「勇司! 暴力はダメだって!」
机をガタガタと鳴らしながら、僕を壁にまで押しつける。顔を近づけてくるが、僕はその表情を見られない。余りの恐怖に、眼をつむって顔をみないよう、わずかな抵抗をするしかない。
「お前、最近も夏葵の特別じゃないって、俺にいったじゃねぇかよ。嘘ついてたのかよ!? オイ、黙ってねぇでなんとかいえよ、オイ!!」
「く……苦しい。やめ……て」
「お前は夏葵のことを命がけで助けた! そんなお前だから信じたのに、お前は俺をみて笑ってたのかよ、それとも哀れんでたのかよ!? ふざけんなよ!」
「ち、ちが……」
「もう離してあげなって! 苦しそうでしょ、一回離れなよ!」
「俺は聞いてるだけだ、コイツは逃げてばっかだろうが!」
「ウチだってどういう関係か聞きたいよ! でも、やりかたが違うじゃん!」
「逃がさねぇようにしてるだけだよ! なぁ、どうなんだよ、望月!? なんとかいってくれよ!」
ダメだ、怖い。喧嘩なんて初めてだ。心臓の関係で喧嘩するわけにいかない。でも、ちゃんと説明しようにも怖くて声がでない。なんとか、この場を逃れないと。
「――は、はなして」
胸ぐらをつかんでいる手を必死に振りほどこうと、腕を回した。そのとき、肘に何か嫌な硬い衝撃を感じる。僕の胸ぐらをつかんでいた手の感触がなくなった。おそるおそる目を開くと――。
「いってぇな……!」
顎に手をあてながら、顔を怒りに歪ませている川崎君が目に入った。ふりほどこうとしたときに、僕の肘が当たったのか。
血の気が引いた。首の血管があわだつような感覚だ。事故だけど、僕は人に暴力をふるってしまったのか。
「てめぇ、ふざけんなこの野郎!」
謝ろうと思い顔をあげ川崎君をみると、あっとでも言いたげに戸惑っている眼が一瞬みえた。
そして視界がぶれたと思ったら、僕は床に突っ伏していた。
世界が回り、女子の悲鳴と男子の慌てる声がぼんやり聞こえる。左頬が内側から焼けるようにジンジンと痛む。
ああ、そうか。僕、殴られたのか。
もう、どうでもいい。このまま死んでもいいや。未来も希望もない人生には疲れた。もう……終わりにしてくれ。今すぐ死んでも、僕は何も心残りじゃない。
なんの罪悪感もない。
「勇司、あんた何したかわかってんの!? 見た目はそんなでも暴力は一度もふるわなかったのに。もう言い訳できないぐらい最低だよ!」
「さ、先に手をだしたのはこいつだ! 俺はやられた分を返しただけだ!」
「やりすぎなんだよ! 望月のは事故だけど、あんたのは――」
「――なに、してんの?」
力の入ってない、唖然としたか細い声が聞こえた。周りも騒動の中心人物だとわかっているからか、急に静かになった。時間が止まったようだ。
日向さんはいつもギリギリに登校するから、最悪な場面であらわれてしまった。……ああ、また、面倒なことになるな。
もう、いいっていってるのに。
「夏葵……これは」
「どいて勇司! 耀くん、大丈夫!? しっかりして、心臓は!?」
力なく倒れている僕を抱き起こし、心臓に耳を寄せてきた。
「よかった……。動いてる」
それはそうだよ。だって、まだ生きちゃってるから。倒れてるのは、僕の心が折れただけだから。
「勇司、なんで耀くんにこんなことしたの!?」
初めて聞いたな。こんな感情的に怒鳴る日向さんの声なんて。
「それは、こいつが夏葵との関係を嘘ついてたからだ! 苦手な相手だっていってたのに、裏では一緒にでかけてて!」
「それが何!? 私がお願いして付き合ってもらってるんだよ!」
「な……。なんだよ、それ」
「それに、二人で出かけてたからって何で耀くんが勇司に殴られなきゃいけないの!?」
「それは……。それは……!」
「勇司、今は素直に謝りな! 早まるのはやめて!」
泣くような声だった。樋口さんは、やっぱり……。
「――俺が、夏葵の事を好きだからだよ!」
「え……」
最悪だ。もう、川崎君も止まれなかったんだろう。殴ってしまって冷静じゃなかったんだろう。でも、このタイミングは違うよ。教室内の空気も日向さんも、凍ったように動かなくなっちゃった。
「ずっと好きだったんだよ! 高校に入って、この見た目のせいで周りから怖がられても、夏葵はそれが俺の個性だと笑ってくれた。認めてくれた! それが嬉しくて、道を踏み外さずに済んだんだ。一年間ずっと、ずっと夏葵が好きだったんだよ!」
「勇司……」
「……舞、耀くんを保健室に連れていくの手伝ってくれる?」
それは、突き放すような厳しい声音だった。
「夏葵……。そう、だね。反対の肩かつぐよ」
日向さんと樋口さんが肩を貸してくれて、脱力している僕を立たせた。
「ありがと。……ごめんね、勇司。私は、その気持ちには応えられないよ」
「この騒ぎはなんだ!? おい望月、大丈夫か! 頬が腫れている、早く保健室に! 殴ったやつはだれだ!?」
だれかが騒ぎを報告したんだろう。教室に男性教師がとびこんできた。いまさら遅いよ……。
「……俺です」
「川崎、やっぱりお前か! 生徒指導室にこい!」
川崎君は生徒指導室で。そして僕は保健室で、それぞれ教師に事情を説明した。
先に手をだしたのが僕ということもあり、僕たちはそろって一週間の停学処分となった――。
停学期間中は暇だ。
殴られたあと、病院にいって検査を受けることになった。両親がひどく怒っていて、川崎君の実家にも抗議へいったらしい。つまり、僕の心臓のことまで話したと思っていいだろうな。
どうしてこんなことになっちゃったんだろう。やっぱり、陽の当たる場所にいる日向さんと、陰に潜む僕が一緒に旅なんかしたからか。僕が旅を断っておけば、だれも不幸にはならなかった。
外にでる気にもなれない。日向さんから何度もくるメッセージを、開く気にもなれない。
カーテンを閉めた暗い部屋の床に座り、今まで撮った写真をスライドさせてみていた。
「綺麗……か」
結局、日向さんがだした問いの答えを聞くことはできなかった。
自分で答えを探そうにも、もう旅はおそらくできないだろう。今回のことで、日向さんも僕と旅をすれば勘違いされるとわかったはずだし。
日向さんの後ろ姿が写った写真でスライドを止めた。
「心残りになんて……思ってない」
そうだ。僕は、別にまた彼女と旅をしたいなんて思ってない。そう思ってはいけない。
「……もう、夕方か」
壁掛け時計に目をむければ、いつの間にか夕方だ。
学校にいっていれば、今ぐらいの時間に家へ帰ってきただろうな。普段は毎日休みだったらいいのにって思っていたのに、いざ休めといわれたら時間をもてあましてしまう。
ふと、少しだけ痛む頬を触る。
「川崎君も、本気で殴ってなかったんだろうな。戸惑った瞳してたし。それに、本気だったら一日で痛み引かなかっただろうし……」
元々、暴力をふるうつもりがあったわけじゃなくて、冷静じゃないなかで僕の肘が顎に入ったからヒートアップしちゃったんだろうな。
筋肉質な彼が本気だったなら、僕みたいな貧弱な人間は病院行きだろう。つまり、僕にも悪いところがあったってことだな。
まぁ、今更どうでもいいけどさ。
そんな意味もないことを考えていると、インターホンがなった。
「郵便かなにか、かな」
家にはだれもいない。
仕事で忙しいから、両親が帰ってるのは夜だ。
仕方ない、でるか。
「勧誘とかだったら嫌だな……」
二階にある自室からおりて、玄関を開ける。
「やぁ、望月。その、ちょっと話いいかな?」
勧誘より嫌なパターンだった。
「樋口さん、それに……川崎君」
制服姿の樋口さんの横には、私服姿で視線を落とす川崎君がいた。
どうしよう、すごく気まずいし、嫌だ。
かといって二人に帰れと言う勇気もないし。
「望月、すまなかった! 本当に、本当にすまん!」
「え!? ちょ、ちょっと、あの!?」
川崎君が地面に土下座をした。
文字通り額を地につけて、ジャリジャリと音をさせている。外でそんなことされるとご近所の目が。っていうか、どうしたらいいの、この状況。
「あの、やめてください……!」
僕の言葉を聞いても謝り続けている川崎君に戸惑って、樋口さんに視線をむける。助けてと願いをこめて。
「……その、さ。よければ中でちゃんと謝らせてもらえないかな。急で悪いなとは思ってるんだけど、ここだと目立つし?」
首をブンブン縦に振り喜んで招き入れた。押しこむよう急かし、ご近所の人にこれ以上みられないよう二人を入れる。
自室まで二人を案内して中に入った途端、すかさず川崎君が謝罪と土下座を繰り返した。
折りたたみ机を取りだし設置していた僕は手を止め、たまらず正座して声をかけた。
「いや、あの! 謝らなければいけないのは僕じゃないかなと、お、おもうんですが」
居心地が悪い、視線をさまよわせてしまう。
川崎君の横に座る樋口さんも申し訳なさそうだ。
「いや、ぜんぶ俺が悪い! 嫉妬して、カッとなっちまった!」
「あのとき、冷静に事情を聞くように止めきれなかったウチにも責任があるよ。だから、ウチからもごめん望月」
「樋口さんまで!? あの、気にしてないので止めてください。頭を上げてください!」
泣きそうだ。
殴られたときよりも、停学が決定したときよりも、今の状況のほうがキツい。
「許してくれるのか。本当にすまんかった!」
「カッとなっただけで本気で殴ったんじゃないのわかってましたし。それに、火をつけたのは僕ですから……」
「望月、あんた。人がよすぎだよ。馬乗りになってやり返してもいいのに」
樋口さんは何を言ってるんだ。
僕にそんなことができるはずがないし、やりたいとも思わない。
そもそも、僕にも原因があった。それに、罪悪感として川崎君の心に残ったら困る。
「その……、あの後、夏葵にちゃんとフラれたよ」
頭を上げてくれた川崎君が苦笑いして、頬を掻きながら教えてくれる。
「まぁ、当たり前だよね。あんな最低最悪な告白、初めてみたわ」
樋口さんの言葉に何もいい返せないのか、川崎君はうつむいてしまった。
「ウチらはさ、二人とも夏葵の事が大好きで大切なんよ。ほら、前にも話したけど、ウチは夏葵がいなかったら女子の友達ゼロだったし」
「……俺も、同じだ。俺はこんなみた目のせいで、不良ってみられてたから。ならいっそグレそうに……ってか、中学から実際に夜の街でそういうヤツらと遊んだりしてた」
「今回の暴力事件で、不良っていわれても否定できなくなったけどね」
「茶化すなって! 陸上だけは続けたくていった高校でも、周りの目がいたくて。正直、中退しようと思ってたんだ。……でも、夏葵はこんな俺を認めてくれた!」
「そっから夏葵にモテようと努力して、気付けば周りになじめてたんだから。男って単純だよね」
「単純なのは認めるよ。それでも、俺は夏葵に救われたんだ! だから、フラれてもあいつへの感謝は忘れない。今後、二度と関われなかったとしても……」
「ま、夏葵がどう思ってるかは分からないけどさ、ちゃんと謝れば許してくれんじゃない? 今日も笑顔だったし。まぁ、笑顔のしたではめっちゃキレてた可能性はあるけど」
「許してくれそうなのか!?」
「そんな顔して喜ぶな! 実際、わかんないよ。夏葵ってさ、絶対に怒らないじゃん? ちょっと怖いぐらいに、ずっと笑ってて」
「……たしかに。本心がどこにあるかは読めねぇところはあるな。でも、俺はそんなあいつの笑顔に救われたんだ!」
「ウチに語んな! ちゃんと反省してんのか。心から謝りなよ?」
からかうような笑みを浮かべた樋口さんの言葉に「当たり前だろ」と答える川崎君の顔には、わずかながら笑顔が戻っていた。
本当に、日向さんはすごいよ。
たくさんの人に大切に思われて、そこにいなくても名前だけで人を笑顔にできるんだから。
「……望月、あんた」
「え、なんですか?」
「いや、その。お前、そんな顔で笑うんだな。初めてみたよ」
樋口さんと川崎君が少し驚いたように言った。
僕が、笑ってた? 日向さんのことを考えて?――そんなはずがない。
だって、僕にとって彼女は天敵で。対極な存在で、苦手だと思っているのに。いい写真を撮るための利害関係で一緒にいるのに。
僕が最期をむかえたとき、苦手な彼女になら、忘れてくれるまでの少しの間だけ嫌な思いをさせてもいいかなって。そう思っているはずなのに。
「……あの、僕の親がすいませんでした。心臓のこと、聞いたん、ですよね?」
呟くようにだした言葉で、二人は顔を暗くした。
ああ、やっぱり聞いてたんだな。こんな話題しか思いつかない。
人を笑顔にできる彼女と違って、僕はやっぱり、人の表情を曇らせる存在だ。
「すまん、聞いた。俺は、そんなことも知らなくて、病人を殴った最低野郎だ」
やっぱり。こういう腫れもの扱いが嫌なんだ。
だから、知られず一人でいたかったのに。
「アホね。望月はそういう風にいわれるの嫌がりそうって夏葵が教えてくれたのに」
「う……。それは、すまん。また俺は……」
「いえ、大丈夫です。とにかく、日向さんは僕の余命も知ってますから。恩義とか、多分そういうので趣味の写真撮影に付き合ってくれてるだけですので……。恋人とか、そんな関係ではないです」
「……たしかに、優しい夏葵ならありえるね。助けてもらった恩とか義理も感じてるだろうし」
「でも、俺には……その、そんな同情みたいなもんだけじゃねぇように思えたんだが」
「日向さんが、僕をあおってきたんですよ。君の写真は綺麗なだけで、『人が抽象的に捉える解像度』がたりないって」
「解像度って、あれっしょ? テレビとかの映りが綺麗になるとかそういうの」
「僕もそう思ったんです。でも、彼女が言うのはもっと違うみたいで。問いをだされてるんです」
「問いって、答えを考えろってことか?」
「そうです。僕もいい風景写真を撮りたいですし。だから、彼女は僕が答えをみつけるための旅に付き合ってくれてるんです」
「なるほどね、だから二人で出かけてたわけか」
「そういうことなら、俺たちは応援する。だれが何か言ってきても誤魔化してやるよ。むしろ一緒に答えを探すぜ! なぁ、舞?」
「うん。ウチらも一緒に旅でもなんでもいくよ。協力できることならガンガンするし! そうだ、ウチらとも連絡先を交換しようよ!」
二人は明るい顔でスマホを取りだした。
ちゃんと二人と話してわかった。この人たちは、いい人だ。
人を思いやって、誠実だ。
だから……。
「……すいません、お気持ちだけで」
僕は、仲良くなるわけにはいかない。
「そう、だよな。やっぱ、俺はもう信じてもらえないか」
「ウチも、夏葵と比べたら……そりゃ信じられないよね」
暗い室内、寂しそうな二人の蚊の鳴くような声に、僕は心がキュッと締めつけられた。
殴られたときはたしかにどうでもいいと思った。
でも、もう二人のことを傷つけたいわけじゃない。
僕が急にいなくなったら、この人たちは何もできなかったとか責任を感じてしまいそうだ。
慌てて言葉を足す。
「違うんです。僕は、その……。人と仲良くなるのが怖いんです」
「……は?」
「どういう、ことだ?」
「多少、話したぐらいならいずれ記憶から薄れて消えます。卒業してしばらくすれば、名前も思いだせなくなるはずです。でも、深く入りこみすぎたら話は変わるんじゃないかと思うんです」
「望月、お前……」
「だから……いつ最期がくるかもわからない僕は、お二人ともこれ以上深く関わりたくないんです。独りぼっちは寂しいから、適度な会話だけでお願いしますとか……。そんなことを言って、友達ともいえない何かを演じたくないんです。お二人のようないい人に対してそんな接しかたをするなんて、僕はもう考えただけで自分がもっと嫌いになります」
部屋は呼吸音が聞こえるほど静かだ。
無言でだれかといる空間は居心地が悪い。でも、ちゃんと説明はしないと。
「……連絡先なんて、最悪です。目にするたびに故人の美化された記憶を思いだして、悲しくなるかもしれない。僕みたいに嫌なやつにも謝りにきてくれるような、情の厚いお二人ですから」
二人は何も言わない。
ただ、僕の話を真剣な顔で聞いている。
反応もないのに話すのって、すごく焦る。
思わず早口になってしまう。
「もっと何かできたかもとか、さっきみたいに暴力なんかって、心残りになってしまうかも。その、僕はずっと、だれかを悲しませてばかりの人生でしたから。死んだ後にまで、だれかに迷惑をかけたくないんです。……すでに迷惑をかけておいて何言ってんだと感じるかもしれませんけど、本当に……すいません」
今度は僕が土下座する番だ。
本当に、自分勝手でひどいことを言っていると思う。
二人は何もいわない。
顔を俯かせながら、黙りこんでしまった。
やっぱり、暗い殻にこもってるな、僕は。他の人と違ってだれかにいい影響なんて与えない。悪いけど、多少強引にでも帰ってもらおう。
僕と違って、二人は明るい世界で生きるべき存在だ。
こんな暗い殻にいるのは似合わない。
「ふざけ……ないでよ」
「……え?」
「ふざけないでって言ったのよ!」
顔を勢いよく上げた樋口さんが叫んだ。
目を真っ赤にして、涙目で。
「望月はそうやって自分が傷つかないように生きてきたんだろうね。余命宣告されて傷つきたくないってあんたの気持ち、正直わからないよ。あんたの考えが悪いとは言わない。でもね、死んだときに迷惑だなんて思うわけないじゃん! ウチらを馬鹿にしてんの!?」
「いや、そんなつもりじゃ……なくて」
大きな声で机から身を乗りだしてきて。思わず僕は正座を崩しあとずさってしまう。
「いなくなって悲しむなんて当然でしょ! でも、悲しさも楽しさも含めて、あんたとの思い出を大切にしたいんだよ! それすら迷惑をかけるかもとか、まさかそう思ってんじゃないよね!? もしそうなら、今度はウチがあんたを殴ってやろか!?」
「舞……。落ち着け、感情的になるな」
「あんたが言うな!」
川崎君の言葉が効いたのか、樋口さんは息を荒くしながらも座り直した。
樋口さんが少し落ち着いたのを見計らって、川崎君がこちらに目線をむけた。
なんで、そんな優しい目ができるんだろう。
「俺たちはさ、悲しい心残りなんかじゃなくて、楽しい思い出として望月を心に残してぇんだよ。望月が願いを話してくれた今は、余計にそう思う」
「ウチらだって、いつ事故にあったりするかわかんないじゃん。だから今を楽しんで、必死にできることをしてんだよ! 後悔しないために、心残りに思わないために!」
「樋口さん……」
「いい奴だったなって。最高の記憶だったなって、笑って見送ってあげるから。だから、ウチらにも心を許してよ! 人なんて、迷惑かけてかけられてを繰り返すのが当然なんだよ!」
ああ、そうか。僕は……独りは嫌だって自分でも言ってたな。
人に迷惑をかけて、かけられてが友達……。
ずっと、知らなかった言葉だ。
いや、知ろうともしてこなかった。すごく新鮮だ。
……だからかな、最期も笑って見送ってくれるってまでいわれて、つい目頭が熱くなっちゃうのは。
「僕は……。暗くて、つまらない人間なんですよ……」
震えた情けない声になってしまう。
「それを決めるのは、ウチらだよ! 偽善だろうと独善だろうと、自分のしたいことをしなよ!」
「僕は、陰キャラだし……二人とはタイプが違うし」
視界がにじむ。
潤んだ声になってしまう。
怖かったときとはまた別の意味で、上手く声がでない。
「そんなもん関係ねぇ。俺たちがお前といたいんだよ」
なんで、なんでこんなに優しいんだ。
この二人ともう会えなくなったら。そう考えると、怖い。
死ぬのが怖くなっちゃう。
でも、それでも。
僕は……。
「よろしく、お願いします」
声帯のあたりが熱い。
こみ上げてくる何かに耐えて声をしぼりだし、スマホを差しだした。
涙を流しながらポニーテールを揺らす樋口さんの頭にポンと手を乗せ、川崎君が微笑んだ。
僕のメッセージアプリに、連絡先が二件増えた。
後悔はしていない。
樋口さんが言ってくれたように、この素晴らしい二人に会えてよかった。
そうやって楽しい思い出だったと笑いながら、最期をむかえられるよう頑張ればいい。
二人のおかげで、そう思えるぐらいには前向きになれた――。
連絡先を交換したあと、二人から敬語はやめろといわれた。
友達なんだからと。
すぐにかえられるものじゃないが、努力はしよう。
だいぶ話をしたこともあり、徐々になれてきたころだった。
「ていうか、ウチらなんも手土産持ってこなかったね。勇司、あんたお菓子と飲み物買ってきてよ」
「なんで俺なんだよ。パシリかよ」
「今日はあんたが謝るのに付き合ったんでしょ?」
「おう、すぐにいってきます」
今の川崎君の立場は弱い。
すぐに立ち上がり、部屋から出て行った。
そうなると、僕は樋口さんと二人で部屋に残されるわけで。
まだ少し気まずい。女子と部屋で二人とか、何を話せばいいんだろう。
というか、女子と部屋で二人っきりはまずくないか。
それに、樋口さんは……。
「あのさ、多分気がついてるよね。ウチの好きな人のこと」
「あ……多分」
「だよね~。まぁ、そりゃわかっちゃうよね」
その当人は、つい最近、他の子へ最悪な形で告白をしたわけで。どういう反応をするのが正解なんだろう。
「ウチと勇司はさ、幼馴染みってやつなんよ。幼稚園からずっと一緒」
「そうなんだ。どうりで、あの、仲がいいなって」
「おっ。そうみえる? ならよかった」
ニヘっと笑いながら机に腕を着いてもたれかかる樋口さんは、恋する乙女だ。男勝りなところは確かにあるけど、女の子だ。
決して腕に乗って強調された胸をみて言ったわけじゃない。
「じっとみてるの、わかるよ? 男子って、マジで好きだねぇ」
「い、いや、その。川崎君のどこら辺が好きになったのかなって、きっかけとか気になってみてただけだから。だから、決してそんなイヤらしい思いがあったわけじゃなくて」
「ホントかぁ? ま、いいや。好きになったきっかけだっけ。特にきっかけも理由もないよ?」
「……え? ないの?」
キョトンとする僕に、樋口さんは溜息まじりに言った。
「ウチも成長するにつれて思うようになったんだけどさ。男って本当、理屈ばっか求めて感情を理解しないよね。子供のころはみんな、感情のまま素直だったのにさ」
「な、なんかごめん」
責められている気がして、思わず謝ってしまった。
「好きになるのもさ、理屈じゃないんよ。一回じわじわ好きってなれば、もう抜けだせないくらい好きになってるもんなの」
「難しいんだね……。好きって」
「ま、同じように一回でも苦手だなって思うと、理屈じゃ抜けだせないんだけどね」
頭をかきながら口を大きく開けて笑っているが、実体験なのかな。
「本当、難しいよ。望月にあんなことして、他の女に恋してるような男なのにさ……」
片膝を立てて座り、遠くをみるような目をする樋口さんの瞳は、少し哀しげにみえた。
「ああ、もう。ウチ、マジ面倒くさいよね。本当、自分でも分かってんのよ。でも止まんないだわ。前はさ、男女の違いとか意識しなかったのにね。なんで成長なんかしちゃうんかな、本当に……」
恋愛経験のない僕はなんて声をかけていいのかわからず、話を聞いていることしかできなかった。
聞き上手でもない僕だ。
それでも、止まることなく語り続ける樋口さんは、本当に川崎君が大好きなんだなとわかった。
息を切らしながらお茶とお菓子を買ってきた川崎君に「遅い。もう、いい時間だし帰るよ」と言って、涙目にさせた姿からは想像しにくいけど――。
あっという間に停学期間が終了して、復学になった。
「望月、いつも弁当もってきてんのか?」
「うん、僕は減塩食じゃないといけないから。学生食堂のメニューは塩分がきついんで」
「あ~、そっか。なるほどな」
復学して周囲の目は気になったが、幸いにも三人が話しかけてくれてすぐに落ち着いた。
少し前だったら、三人に囲まれれば混乱して逃げていたはずなのに。
今は注目されるのが僕だけじゃなくて逆に助かっている。
そんな流れで、昼は学食で一緒に食べようということになった。
いつもは個室トイレで食べて、ゆったり写真をみて時間を潰していたのに。
学食の長テーブルにいることに、かなり違和感がある。
急に明るいところに連れてこられて、目が慣れずパニックになるみたいな。そんな感覚かな。
「耀くん、料理も上手いんだよ! こないだもちゃちゃっと流れるように作ってね。味は薄いけどその分、めっちゃ綺麗なの! ほら、お弁当も!」
「そっか、自分でな。……いや、待て。夏葵と料理作ったのか? おい、まさか手料理か!?」
告白前と同じように話しかける日向さんに、川崎君も最初は嬉しそうにしていた。でも、流れるように爆弾発言をぶちかます日向さんだ。
川崎君も爆弾に気がつき、驚いている。
「うん、二人が謝りにいった次の日にね。作ってくれたの。ひどいよ、二人して私に秘密でさ!」
「いや、ウチとしても気をつかったんよ。ほら、あの段階で夏葵と勇司を一緒に混ぜたらさ。もう、ごちゃごちゃになるじゃん?」
「別に私は気にしないのにな、寂しかったな」
「ごめんって。ほら、頭なでてあげるから」
樋口さんに頭を撫でられ気持ちよさそうに目を細めている。やっぱり小動物かな。
川崎君は、気にしないという言葉が、逆に気になったのかな。寂しそうに微笑みながら食事をしている。
「遊んでねえで早く食えよ。時間なくなんぞ」
川崎君の言葉で二人も食事を再開した。
隣に座る川崎君が小さく「夏葵の手料理とか、羨ましいぜ」なんて寂しげに呟いていた。日向さんの料理の腕を知らないって幸せだな。
「勇司、あんた考えてること顔にでてるよ。未練たらたらとか、ダサいよ」
「は!? 舞に俺の何がわかるってんだよ。俺は、ちょっと考えごとしてただけだっつの!」
僕はどうすればいいんだろう。
いつ何か起きてもおかしくないこの三角関係のなかで、僕だけが部外者だ。問題がおきたとき、平等な位置から解決できるのは僕だけ。
楽しい思い出を作って、笑って棺の中にはいりたい。
でも、僕にそんな問題解決力能力なんてあるわけがない。最近まで、ほとんど人と話さなかったのに。
僕はこの三人との関係を、どうしたいんだろう。
「それでね、耀くん! 次の旅プランも考えたんだけど、これからはちょっと厳しくいくね!」
「何が?」
「少し厳しめの言葉とか、ヒントをだすよってこと! ほら、答えみつけて欲しいし」
日向さんが僕の写真をみて不十分と言った原因、
『人が抽象的に捉える解像度』。
とはなにか、という問題か。
たしかに、それを知ることができれば、いまだ反応すらないSNSにも意味ができるかもしれない。
僕としても、撮る写真が人の心を動かせたら嬉しいけど――。
「ま、まだ二人で旅にいくのか? いい写真の撮影、だっけか?」
「うん、いくよ! だれがどんな噂しようと、私たちは私たちだからね!」
「強いね、夏葵は。まぁ、ウチらも協力できることはするからさ」
「そう、だな」
川崎君は少し肩を落としながら、僕の首に腕を回してきた。
「心配ねぇとは思うけど、大切にしろよ。もし泣かせたら、心臓とか関係なく張り倒すからな」
まったく冗談に聞こえなかった。殴られた経験があるだけに。
僕は戸惑い、ちょっと怖くなり顔を俯かせて、身体を固くしてしまう。チラッと視線だけ上げると、食事を続けている樋口さんがぎこちなく笑っていた。
食器を片づけているとき、樋口さんの「命を助けてもらったとはいえ、なんで夏葵はそこまで望月にへばりつくんだろね」という言葉が、すごく心に残った。
本当にその通りだ。
何か隠している利害はあるって前に日向さんも言っていた。
それでも、明らかに彼女が受ける不利益が大きすぎると思う――。
六月は旅がなかった。
停学期間の補習が休日にあったことや、テスト対策のために親の許可がでなかったからだ。
その分は期末テスト後と夏休みのどこかに回すと日向さんから連絡があった。
学校生活のほうは、段々と二人とも自然に会話できるようになってきた。
特に、樋口さんとは毎日メッセージのやりとりをしている。
主に、内容は川崎君の事だ。
『ウチは、この関係を壊す存在だよね。でも、ウチはこの関係を壊したくない。勇司とも、付き合って何したいとかない。ただ、他の人のものになるのをみてたくない。ウチ、どうしたらいいと思う?』
という話など。かなり突っこんでいてむずかしいことが多く、僕じゃ気の利いたこともいえない。ただ、聞いているだけだ。
そんな七月末の土曜日、期末テストの解放感がある中で次の撮影旅へ連れだされた。
「うわぁ、ひまわり綺麗だよ。これ、満開じゃない!? ね、今年は開花が早かったらしいの!」
「そうだね、本当に綺麗な被写体だ。茨城まできてよかった」
撮影場所はひまわり畑。
場所は茨城県那珂総合公園だ。
東京ドーム三つの敷地に二十五万本ものひまわりが植えられているらしい。広大なひまわり畑を利用した迷路や、見晴らし台まであるそうだ。
「ちょっと遠かったし、タクシー代金はキツかったけどね。よし、遊ぶぞ!」
そう言って、日向さんはひまわり畑の迷路に消えていった。
肩がでた白いワンピースを着た彼女は、いいところのお嬢様のように見える。でも、はしゃぎかたは野生児だ。
最初、肩がでた服で川越駅に来たときは「露出が多くない?」と言ったけど、彼女は「これがベスト!」と言っていた。埼玉県の人でごった返した駅で歩いているのを見ると、少しどうなんだろうと思った。でも、たしかにこの綺麗なひまわり畑にはベストマッチな服装に見える。
「写真では、この空気を写すことができないんだよな。もったいない」
スマホを取りだしながらひまわり畑に入り、少し目を閉じてみる。
ジリジリと肌を焼く日光のほどよい痛み、少し土臭く墨汁のようにツンとくるひまわりの香り。噴水や森林を通ってきた清涼な風が、強すぎる匂いを薄め爽やかに鼻と肌をなでていく。ぬるめのお風呂に入浴剤をいれてつかっているとき、いやそれよりも心地いい。肌だけでなく、心の奥にまで優しく吹き抜けていくようだ。
「何してんの?」
「え!? あ、ああ。戻ってきたんだ」
「そりゃ二人できてるんだからさ。最初から別行動じゃ寂しいでしょ?――んで、なにしてたの?」
「あの、お風呂みたいに気持ちいいなって」
「ひまわり畑をお風呂に例えちゃうの? 面白いね!」
「心臓のおかげでね。長く浸かるの禁止されてたから。だから憧れてるのかな」
「ええ! じゃあもしかして温泉とかいったことない感じ!?」
そこなのか。でも、こういうツッコミはいい。
変な気の使われかたをしてない、一人の人間として認められてる気がする。ああ、こうやって川崎君や樋口さんの心も開いていったのか。
「ないよ。胸より深く浸かるのも避けたほうがいいし。温泉施設とかって深いとこあるらしいから。家のお風呂も基本、半身浴だし」
「なるほどね……。じゃあ、浅ければいけるんだ?」
「まぁ、多分」
「へぇ~。あ、ひまわりみてよ! ほら、顔の高さまであるよ。撮らないの?」
ひまわりに顔を寄せ、いつでも撮ってと言わんばかりにポーズを決めてきた。撮らないけどね。
本当にマイペースで、元気に明るく笑う人だな。ひまわりに負けないぐらいの生命力を感じる。
「せっかくこれだけ広いひまわり畑なんだから、一本のひまわりだけを撮らないよ。それにひまわりは、遠くから撮るほうが絵になるし」
「ん~、そっか。近づいてみることで分かる魅力も、いっぱいあるんだけどなぁ」
強い香りを発するひまわりをクンクンと嗅ぎながら、日向さんは残念そうに呟いた。
「たしかにそうかもね。迷路で撮り終えたら、僕は見晴らし台にいくよ」
「ん、了解」
そのまま僕は、スマホを取りだして迷路を撮ってまわった。
黒くて絵にならない土は構図にはいらない。
緑の茎より上、なるべく多くの黄色い大輪と空、そして森を写すことに集中していたら――。
「……なにしてんの」
撮った後に写真を確認して気がついた。
ひまわりとひまわりの間に、いたずらっ子みたいに笑う女の子の顔があることに。
「また人間、撮っちゃったね。盗撮魔!」
「……これは事故だよ。気がつかずにまぎれこんだ。異物が混入しただけだ」
「気がつくと思ったんだけどな。そんなに私って、ひまわりみたいなのかな。耀くんは太陽だなって思うけど!」
「あ、そう。これだけひまわりが多いんだから、細かいとこにまで目がいかないのは仕方ないよ」
「太陽ってとこをスルーは悲しいな。結構、勇気だして言ったんだけど」
「だって明らかに違うじゃん。僕はそろそろ見晴らし台から写真撮ってくるけど、どうする?」
「ん……。もうちょっとここで遊んでから合流しようかな」
「了解」
身をひるがえし、撮った写真を確認しながら設置された見晴らし台まで歩いていく。
我ながら、どれも綺麗に撮れた。ひまわりだけでなく、空をぷかぷか流れる雲もいい味をだしている気がする。
「――木造の柵、床の匂いに柔らかな踏み心地。それに、一面のひまわり畑。最高の被写体だ」
見晴し台にのぼると、より風を感じる。
スマホをかざして構図を考え調整している間、ずっと癒やされていた。
「うん、上から撮った景色も、太陽の方を向く大量のひまわりも最高だ」
アプリの機能でモノクロや夕暮れ風景にかえてみる。どれも絵になっていて、かえては戻してを繰り返す。
「どれが一番いいかな」
「私が写ってる写真が一番じゃない?」
スマホを覗きこんでる僕の隣から、鈴を転がしたような声が聞こえてきた。
「……日向さんはさ、僕を驚かすのが趣味なの?」
「そんなことないよ。ちょっと前からいたのに、全然気がついてくれないんだもん」
「それは、ごめん。ちょっと集中してた。でも、その分いい写真が撮れたよ」
今回こそはいい点数がもらえるはず、そう思ってスマホを差しだす。日向さんは、今日撮った写真をスライドしていき、そして満面の笑みで――。
「うん、今回もすっごく綺麗だね」
とだけ言って、スマホを返してきた。
「……そっか。僕には、日向さんのだした問いの答え、わからないみたいだ」
「諦めるのはまだ早いよ。ちゃんとヒントもだしていくし。それに今回は惜しいとこかすってたよ」
「どこか、は教えてくれないの?」
「ん~、それはまだ秘密かな! そろそろ帰ろっか、川越まで時間かかるし」
日向さんが見晴らし台からおりようと僕から視線を外した。
せめてもの意地だ。僕は大股で日向さんを追い抜いて一歩先にカンカンと階段をおりていく。
「耀くん、私がもし階段を踏みはずしたときに、支えてくれようとしてるの? 紳士だね!」
目を細めて笑いかけてくる。
そういうことは言わないから格好がつくのに。僕は返事をせず顔をしかめながら階段をおりていった。
そうして、三回目の旅もおわった――。
疲れが抜けきらない翌週初めの学食。
今日も三人で食事をすることになり、長テーブルの端っこという出入りに便利な位置がとれた。
僕は二人にも旅の報告がてら写真をそれとなくみせた。
僕の隣に座る川崎君、ななめ前に座る樋口さんにも、キチンと見えやすいようにスマホを置いて写真をスライドしていく。
決して、またもSNSで無反応だったことにイライラしたからみせたわけではない。
「へ~綺麗じゃん! いいなぁ、ひまわり」
「だな。俺もこんなとこいきてぇわ」
二人の感想はそれだけで、すぐに旅の会話に流れてしまった。
僕は顔の力が一気に抜ける。
「そういや、夏休みの予定は? ウチは塾の夏期講習に申しこんでるけど、みんなは?」
「俺もだな。来年は受験生だし。今からやっとけって親もうるせぇから」
樋口さんと川崎君は面倒臭そうに背もたれに寄りかかりながら言った。
本格的に大学受験モードになるのは三年生からだろうけど、大学進学を考えている人や親からしたら二年生の夏は遊ばせておけないんだろう。
僕は、そもそも受験勉強をする意味がない。
未来を考えて悩む必要はない。
「僕は……何もないかな。どうせ余命的に、進学も卒業もできないし」
僕の心臓は来年を乗りこえられない。みんなと同じようにいかないのは……仕方のないことだ。
「あ……、ごめん」
どう反応していいかわからなかったのか、二人が視線をそらす。
また暗い雰囲気を作ってしまった。先のない未来の話なんかして、笑顔を、心を曇らせてしまうなんて。
どうして僕はこうなのかな……。
「あんさ、ウチらとも遊んでよ。夏期講習もあいてる日とかあると思うし、夜とかさ」
「そうだよ、花火とか、なんかしたくね?」
不自然な笑みを浮かべながら提案してくる二人。無理をさせて、心から申し訳なくなった。
僕も笑顔を作って何か返そうとすると――。
「それ、いいね。私たちは夏期講習とかないから、誘ってよ!」
正面に座る日向さんが笑いながら言う。
僕は驚いて目を剥いた。
場の空気も一瞬、止まる。
「え? マジでか、夏葵も夏期講習受けない感じなん?」
「受けない感じなんよ」
「マジか。あんま受験とか厳しくねぇ親なんだな。――って待てよ。もしかして、夏休みも二人で旅いくんか!?」
「もっちろん! 実はね、もうプランは練ってあるんだ」
「ちょっと待って、夏葵。もしかしてだけど、泊まりじゃないよね?」
「え~、どうだろね?」
テーブルに肘をついて、樋口さんがした問いへの答えをにごした。やめて、おねがい。川崎君の目が見開いてる。冗談になってないから。
「望月、俺は……お前を信じてるからな。いや、フラれた俺が口だすことじゃねぇけどよ、その」
僕の耳元でささやく川崎君の声は、ちょっと掠れていた。そこで日向さんを信じてるといわないあたり、彼女ならやりかねないと思っているんだろうな。
「あ、耀くん。もしかして、期待してる?」
「全くしてない」
「全くは嘘だろ!?」
川崎君はどっちの味方なんだろう。僕より、男の下心を信じているのかな。
「望月、大切にしなきゃダメだよ」
力なく笑う樋口さんは、どんな心情なんだろう。
相変わらず進展がなく、貴重な高校の夏休みが過ぎていくのが哀しいのか。いまだに未練がありそうな川崎君を見るのが辛いのか。
毎日のようにくる相談メッセージでも、ハッキリと意思は決まっていないような感じだし。
人の心はモノクロ印刷かカラー印刷か、白か黒かのように二択じゃない。
だからこそ、難しい。
僕は、寿命がくるまでこの丁度いい関係が壊れるような台風がこないことを祈るだけだ――。
「それはね、秘密!」
秘密の多い人だな。
なぜ僕にここまでしてくれるのか、それも秘密と言っていた。
裏の顔を作れるほど器用とは思えない。彼女からは悪意を感じないし。
だったら多分、いまの姿がこの人がもつ本来の性格なんだろう。
少しキツいほど輝いて、その場にいる人の感情を明るくパッと変える。本当にこの人は、ひまわりみたいだ。
まぁ基本的には僕から話しかけにいくことはなくて、彼女に話しかけられたときに返すというパターンが多いから……。もしかしたら、僕がみていない所では気を緩めて不器用でだらしないのかもしれないけど。
ちょっと想像できない。
「耀くんはなんで一人でお墓掃除しようって思ったのかな。普通、親族とかでやるんじゃないの?」
望月家の墓まで着き、僕たちは掃除用具をおろした。
まずはお墓に手を合わせながら眼をつむり、それから日向さんの問いに答える。
先祖が眠る墓所でうるさくしないよう、静かな声で。
「引っ越しする前に、ちゃんと挨拶をしたかったんだ。うちだけじゃなくて、隣のお墓も掃除させてもらおうと思ってるんだ」
「引っ越し……そっか。余命、近づいてるんだったね……」
先程までの弾んだ声音とは違う。
セミが鳴く中に消えいりそうなほど弱々しい。しんみりさせちゃって、申し訳ないな。
「だれでもいつ亡くなるかわからないんだ。僕は目安がついてるぶん、頑張りやすい。そう気がついてきたよ。ゴールのわからないマラソンより、ゴールがわかるマラソンのほうがペース配分できるらしいし」
「それは、たしかにそうだけど」
「僕は、ちょっと前まで産まれてきたことを恨んでた。でも日向さんや二人の友達ができて、今はご先祖様に感謝してるんだ」
「……すぐに終わるみたいにいわないでよ。もっと長く一緒に楽しもうよ」
「……ごめん、お墓にくるとしんみりしちゃうね。じゃあ、一緒に掃除を手伝ってくれる?」
「うん! 入居はなるべく先にってお願いするけど、ピッカピカにするよ! 耀くんのご先祖様に、私とめぐり会わせてくれてありがとうって伝えるから!」
元気いっぱいに掃除用具を取りだす日向さんは、墓所に似合わない。
生命力に満ちた人が墓所にいるのは不釣り合いに感じて、思わず苦笑してしまう。
でも、ご先祖様だってこういう人をみて笑顔をもらえるかもしれない。
僕みたいに。
心をこめて掃除をして、お線香を焚いて手を合わせた。
なるべく入居時期は先になりますように。
ご先祖様への感謝と同時に、そう祈りながら――。