真上(まがみ)家の応接間から、少女たちの高い笑い声がいくつも聞こえてくる。

暁子(あきこ)様、鹿鳴館(ろくめいかん)の夜会に出席なさったそうですわね」
「羨ましいわ、皇族や外国の貴族の方もいらっしゃったのでしょう?」

 鳥のさえずりのような、軽やかで賑やかな声の主は、暁子の学友の令嬢たちだ。
 暁子は、華族の令嬢に相応しく学習院の女子科に通っている。

 もちろん、卒業まで売れ残ったりせずに、良いころ合いを見て春彦(はるひこ)と結婚するために退学するだろう。色とりどりの美しい振袖をまとった令嬢たちも、きっと同様のはずだ。良家の令嬢は、家柄に相応しい婚約者が決められているものだから。学校は見聞を広げたり友人を作ったりするためのものであって、勉学に打ち込む方はとても珍しい。

 彼女たちはみんな、近い将来、夫のために社交に励むことになる。だから、婚約者のエスコートで夜会に出た暁子の話を聞こうと興味津々なのだ。

「ええ。お父様が、子爵家の娘たるもの、淑女のお手本にならなければいけないとおっしゃるから。今の時代、ドレスでの社交くらいこなせなければいけませんわね?」
「ご立派ですわ、暁子様……!」

 宵子(しょうこ)は、令嬢たちの会話を扉越しに聞いている。高い声が頭の上を通り過ぎていくのは、彼女が床に這いつくばって拭き掃除をしているからだ。

 だって、「真上家のもうひとりのご令嬢」は遠方で療養中ということになっている。暁子の学友たちの誰も、宵子のことなんて知らないのだ。暁子と同じ顔がもうひとつ現れたら、さぞ驚かせてしまうだろう。

 だから宵子は、冷たい水で雑巾を絞りながら、応接間の様子を思い浮かべるだけだ。

(皆様、仲が良いのね。暁子も楽しそう……)

 洋風の造りの室内に、令嬢たちがまとうのは日本の振袖。出される茶器は、おじい様が収集した(みん)国時代の磁器。いっぽうで茶請(ちゃう)けの菓子は、卵と乳脂(バター)と砂糖をたっぷりと使った西洋の焼き菓子。真上家の厨房で、料理人が苦労して研究して焼き上げたものだという。

 色々な国と時代の綺麗なものが集められてた豪奢な一室で、装いを凝らした若々しい令嬢たちが歓談する光景は、きっととても華やかなものだろう。宵子も、呪いさえなければ一緒に笑っていられたかもしれない、だなんて。考えてもしかたないことが、つい頭を過ぎってしまう。

(いけないわ。社交は暁子のお仕事なんだから。私も、私の仕事をしないと)

 いつもの(かすり)模様の着物で、宵子は床の雑巾がけをする。真面目に掃除を、と思ってはいるけれど、暁子たちのやり取りに、耳を傾けずにはいられない。

「夜会には外国のお客様もいらっしゃったのでしょう?」
「ええ。晩餐ではお箸を使おうとする方もいたのですけれど、下手くそだからお芋が上手くつかめないの。テーブルの下まで転がしてしまった方もいて、おかしかったわ」
「舞踏はいかがでした? 私もいずれ、とは思うのですけれど。殿方と抱き合うような格好なんて、恥ずかしくて」
「そうですわね、殿方も年配の方ばかりだし、外国の方は香水がきついし、拷問のようでしたわ!」

 宵子にさせたことなのに、見てきたように語るものだ。不躾に手を握られたり腰を抱かれたりする気持ち悪さ、強い力で振り回される恐ろしさを、暁子は知らないのに。

 それに、不愉快な思いをしただけでは、なかったのに。

(クラウス様との円舞曲(ワルツ)はとても素敵だったのよ、暁子)

 妹とはまるで違う、地味な着物を着ていても、優雅なお茶会とは無縁で水仕事に手を荒れさせていても。あの夜踊った貴公子を思い出すと、宵子はまたドレスで着飾ったように晴れがましい気分になった。

 上手で思い遣りがある方が相手なら、舞踏は楽しいものなのだ。暁子がそれを知らないままなのは、可哀想でさえあるかもしれない。

 クラウスの輝くような銀の髪と青い瞳、あの夜差し伸べてくれた手を思い出して、宵子は宙に手を伸ばした。あの方の手を取るかのように。そうして、踊り出そうとするかのように。

 その時──暁子の無邪気な声が、扉の向こうから聞こえてきた。

「ああ、でも。外国の貴賓にも素敵な殿方はいらっしゃいましたわね。確か──シャッテンヴァルト伯爵クラウス様と仰る、とても綺麗な青年でしたわ」

 思い浮かべていた方の名が不意に呼ばれて、宵子の心臓は跳ねた。行儀が悪いとは知りながらも息を詰めて、耳を澄ませる。屋敷にいる間は足首に結ばれている鈴は、屈んでいると音が響きにくいのが幸いだった。

「まあ。どちらの国の方でしょうか」
「ドイツからいらっしゃったということでした。春彦兄様に通訳していただいたのですけど、私のことを気に入ってくださったそうですの!」
「さすがは暁子様ですわね」
「外国の方から見ても、暁子様はお美しいのですわ」
「まあ、お上手ね──」

 和やかに笑い合う暁子たちの声を聞きながら、宵子は両手で口を押えていた。呪いで喉を封じられた彼女が、うっかり声を出してしまうことなんてない。でも、驚きのあまり心臓が口から飛び出すのではないか、というくらいどきどきしていた。

(クラウス様が暁子を気に入った……それとも、私を? まさか、そんな)

 一緒に踊った縁で、晩餐会でもまた話したのだろうか。春彦は話を合わせただろうし、クラウスのほうでは宵子と暁子が別人だと気付いていないはずだ。
 急に言葉数が増えた娘のことを、いったいどう思ったのだろう。打ち解けたからだと思っただろうか。黙りこくったままの宵子よりも、好ましく見えただろうか。

「あの方なら、またお会いしたいですわね。次に夜会にお呼ばれするのが、楽しみになってきましたわ!」

 暁子がそんなことを言い出すから、宵子の心臓の鼓動は、速いだけでなく痛みを伴い始めた。

(あの方と、またお会いできる? でも、暁子として、だけよね……言葉を交わすことも、できない……)

 クラウスにまた会えると思えば、嬉しい。
 でも、宵子の名前をあの方が知ることはない。身振りで伝えた夜、という意味の名前も、暁子と話すうちに忘れてしまうだろう。暁子があの方と親しくなっていくのを、宵子は黙って見ることしかできないのだ。
 ううん、見ることもできないかもしれない。

(……あの方と踊るために、暁子が代役は要らないと言い出したら……!?)

 そうしたら、宵子は二度とクラウスと踊れない。それどころか、会うことさえできないだろう。

 宵子の目の前が絶望に暗くなった時──不意に、背中から強く押された。

(きゃ……!?)

 暁子の声に意識を集中させていた宵子は、あっけなくその場に倒れてしまう。手をついたはずみで桶が倒れて、廊下に水たまりができる。

 汚れた水で(たもと)を濡らした宵子に、低く抑えた、けれど険しい声が降ってくる。

「手が止まっていますよ、宵子。それに、盗み聞きのような格好でみっともない」

 声の主、そして宵子を突き飛ばしたのは、母だった。品の良い小袖(こそで)をまとった上品な華族夫人の姿には似合わず、宵子を見下ろす視線は冷たく、親子の情愛など欠片も見えない。

「暁子のお友だちに見られてはいけないと、分かっているでしょう?」

 父も母も、迷信だと思っていた家の言い伝えが本物で、呪いをかけるような存在が間近にあったということが、恐ろしくて気味悪くてしかたないと思っているのだろう。

 だから、今の両親にとって、真上家の娘は暁子だけ。呪いを受けた宵子は、恐怖と嫌悪の対象でしかない。
 それに、()()()()育っていれば政略結婚の駒にできたのに、と思うから悔しいのだろう。だから、せめて女中に混ざって働かせたり、暁子の代役で踊らせたりしているのだ。

(ごめんなさい、お母様。宵子は分を弁えています)

 声にならない言葉まで叱られることはないから、宵子はまだこっそりと心の中でお父様、お母様と呼んでいる。
 濡れた着物で床に座って土下座する姿は、女中よりもひどかったとしても。この屋敷は宵子の家で、この方たちは宵子の家族のはずだった。

 たぶん、母のほうではそう思ってはいないのだろうけれど。宵子が従順に頭を下げたことで、とりあえず満足してはくれたようだった。

「……こぼした水を拭いたら、お使いに出なさい。決して人目についてはいけませんよ」

 次に言われたのは、お仕置きではなく単なる命令だったから。これでも母は、さほど怒っていないほうだった。