円舞曲がこんなに楽しいものだというのを、宵子は初めて知った。
(飛んでいるみたい。それか、波の上を滑るような……!)
銀髪の貴公子のリードは巧みで、考えなくても足をどこに出せば良いか分かる。
ほかの組にぶつかったりすることもなく、魚が水中を泳ぐように、鳥が風に乗るように、どこまでもふたりで回りながら踊りながら進めそう。
宵子の掲げた右手は、彼の左手と軽く握り合って。左手は、彼の右の腕に沿えて。その手は宵子の背を支えて、さりげない動きで進むべき方向を教えてくれたり、ほかの踊り手との衝突からそっと庇ってくれたりする。
さっきまでは恥ずかしくて苦痛だった触れ合いも、この人となら導いてくれるという安心感になった。
(ずっとこの方と踊れたら──)
曲が終わるころには、相手を変えたくないとさえ思い始めていた。でも、そんなことはできない。とても寂しく思いながら、銀髪の貴公子の手を放そうとしたのだけれど──
「こちらへ──疲れているようだ」
訳の分からない音の繋がりと共に、宵子は露台へと導かれていた。厚い生地のカーテンを締めれば、夜会の喧騒はどこか別の世界のことのように遠い。
(涼しい……)
火照った頬を夜風が撫でるのが心地よかった。さらに手であおごうとして──円舞曲を踊った時のまま、緩く握り合っているのに気付く。
(……え?)
貴公子のほうでも、意識していなかったのかもしれない。白皙の頬にさっと赤みが差して、振り払うように手をほどかれた。
「失礼──ええと、すまない」
早口に言ってから、貴公子は何かを思い出すようにぎゅっと眉をしかめた。外国の方は、眉毛も髪と同じ淡い色なのだと、宵子は初めて知った。
「……貴女は、疲れていると、見えたから。休息が、必要だと思った」
彼は、日本語の表現を思い出そうとしていたらしい。一節ずつ区切るように発音した後で首を傾げたのは、宵子に伝わるか心配だったのだろうか。
(踊っている間に、そこまで見てくださったの……?)
言葉だけでなく、彼の気遣いまで伝わってきて、宵子の頬がいっそう熱くなった。コルセットを弾けさせそうなほどに胸が高鳴っているのも、舞踏の高揚のせいだけではない。
(お礼……お礼を、しないと)
今度こそ、欧州風の作法を思い出して宵子はドレスの裾をつまみ、膝を折った。すると、銀髪の貴公子はほっとしたように微笑んだ。そして、ゆっくりしていなさい、とでも言うかのように、バルコニーに設えられた長椅子に宵子を座らせる。
「──では」
短く呟くと、彼は宵子に背を向けた。舞踏室の喧騒に戻ろうというのだろう。異国の、名前も分からない方だ。ここで別れては、きっともう二度と会えないだろう。
(待って。もう少し──)
考えるより先に、手が勝手に動いていた。宵子の指先は、異国の青年の上着の裾をつまんでいた。よく滑る絹の手袋に包まれた、細い指だ。振り払うのに大した力はいらないだろう。
でも、その人は困ったように眉を顰めながらも、立ち去ろうとはしなかった。
「……私は日本語が堪能ではない。貴女は、ドイツ語を話せるか?」
それでは、彼はドイツの人なのだ。ひとつ、知ることはできたけれど、宵子はドイツ語の単語はひとつも知らない。
(せめて、お名前を……)
声が出せないことを、こんなにもどかしく思ったことはない。
真上家では、宵子の意見や望みを問われることもなかったから。ただ、頷くだけでほとんどの用事が済んでいた。怠けているんだろうとか言われた時は、首を振ることもあるけれど。
とにかく、真上家の人々は宵子のことを知っているし、何より同じ日本人だ。
「……話せないのか。通訳もいないしな……」
突然に引き留められて、しかもその相手が何も言わない状況に首を傾げるこの人は、宵子の言いたいことをどれだけ汲み取ってくれるだろう。
(宵子、と──まずは、私の名前から……?)
訳が分からないから立ち去ろう、と思われる前に、何かしなければ、と。必死の思いで、宵子は暗い空に手をかざした。宵──夜そのものを示してから、手を返して自分自身の胸にあてる。
「貴女の、名前? ……星? 空?」
銀髪の貴公子は、言いたいことを察してくれた。でも、その内容はまだ少しずれている。
(そうではなく──もっと、大きな意味の)
宵子の意図を探ろうというのだろう、綺麗な青年が、長身を軽く屈めてじっと見つめてくる。その眼差しに炙られるような気分になりながら、宵子はもう一度、今度はもっと大きく手を広げた。鹿鳴館の輝きを見下ろして、いっそう闇が深く見える夜の空を。
「──夜」
宵子の顔に広がった笑みを見て、「正解」だと分かったのだろう。銀髪の貴公子も嬉しそうに微笑むと、しっかりと頷いた。
「夜の貴婦人。綺麗だ。似合う」
宵子の今日のドレスは、銀糸のレースや刺繍が映える紺色だ。確かに、星が煌めく夜空にも見えるかもしれない。
(この方が言うことこそ綺麗だわ……)
呪われた子だと、蔑まれたり罵られたりしない。役立たずだと嗤われたり嘲られたりすることも。
異国の方だから、当たり前のことかもしれないけれど──ドレス姿を好奇の目で見ることもなく、純粋に褒めてくれるなんて。
宵子が感動に震えていることを、彼はきっと知らないだろう。月の光が人の形に凝ったようなその人は、滑らかにその場に跪き、腰掛けた宵子を見上げる体勢になった。
「私は、シャッテンヴァルト伯爵クラウス。この国に来て、貴女に会えて光栄だ」
胸に手を当てながら、彼が紡いだ言葉は滑らかだった。きっと、たくさんの人に同じことを言ってきたのだろう。でも──宵子にとっては初めてで、そして、特別なことだった。
(クラウス様……)
もう長いこと声を出していない宵子だから、舌はすっかり固まってしまっているだろう。もしも犬神様の呪いが解けたとしても、異国の名前を発音するなんてできそうにない。
それでも、せめて教えてもらった名前の響きは忘れまいと、宵子は銀髪の貴公子──クラウスの名前を心に刻んだ。
一応は名前を教え合ったことになるのだろうか。一連のやり取りが終わると、また何を言えば良いのか分からなくなる。
(この方とならまた踊りたい、けど──女から誘うなんて……)
立ち上がって手を差し出せば、分かってくれるだろうか。ドイツの礼儀作法では、失礼にならないだろうか。日本人の小娘なら、常識を知らなくても許してもらえるだろうか。
さんざん悩んで躊躇った末に──宵子が行動に移すことは、できなかった。彼女が立ち上がる前に、舞踏室とバルコニーの間のカーテンが開いたのだ。
「暁子? ここにいるのか……?」
宵子の妹の名を呼びながらバルコニーに現れたのは、暁子の婚約者の新城春彦だった。
(春彦兄様……!)
舞踏の間に宵子の姿を見失って、探していたのだろう。心配をかけていたこと、舞踏の時間の終わりが近いことを思い出して、宵子は慌てて立ち上がった。
「暁子──と、貴方は?」
宵子が異国の貴公子と一緒にいるところを見て、春彦は軽く目を見開いていた。
(……そうだわ、私、なんてことを……)
宵子は、暁子として夜会に出ていたのだ。婚約者がいる身で、ほかの殿方とふたりきりでいるところを当の婚約者に見られたのだ。子爵令嬢にあるまじき、はしたない振る舞いだったのだ。
「彼女は、疲れているようだったので。休息していた。私のせいだ」
クラウスも、事情をあるていど察してくれたのだろうか。ややぎこちない日本語で、それでもはっきりと述べると、春彦は納得したように頷いた。
「ああ、それは──誠にありがとうございます」
お父様の跡を継ぐのに必要なのだろうか、春彦はドイツ語を操るようだった。宵子が目を丸くする間に、ふたりは彼女の知らない言葉でやり取りをする。たぶん、自己紹介とか、真上家のこと、宵子──暁子との関係について話しているのだろう。
と、春彦の口からアキコ、と漏れるのを聞いて、宵子の心臓は跳ねた。
(あ、そうだ──)
クラウスに、彼女自身の名前を教えてしまったことを思い出したのだ。夜の宵子と、夜明けの暁子。名前の意味は、まるで真逆になってしまう。
(で、でも。音だけなら分からないはずよね……?)
ドイツ語には、漢字はないのだろうから。
嘘を吐いたと思われるだなんて、心配する必要はない。宵子が、実は暁子ではないだなんて、露見するはずはない。
(クラウス様は、私のことを暁子だと思ったままなのね……)
だから、安心すべきだと思うのに。宵子の胸は、何かの棘が刺さったような痛みで疼いた。
(飛んでいるみたい。それか、波の上を滑るような……!)
銀髪の貴公子のリードは巧みで、考えなくても足をどこに出せば良いか分かる。
ほかの組にぶつかったりすることもなく、魚が水中を泳ぐように、鳥が風に乗るように、どこまでもふたりで回りながら踊りながら進めそう。
宵子の掲げた右手は、彼の左手と軽く握り合って。左手は、彼の右の腕に沿えて。その手は宵子の背を支えて、さりげない動きで進むべき方向を教えてくれたり、ほかの踊り手との衝突からそっと庇ってくれたりする。
さっきまでは恥ずかしくて苦痛だった触れ合いも、この人となら導いてくれるという安心感になった。
(ずっとこの方と踊れたら──)
曲が終わるころには、相手を変えたくないとさえ思い始めていた。でも、そんなことはできない。とても寂しく思いながら、銀髪の貴公子の手を放そうとしたのだけれど──
「こちらへ──疲れているようだ」
訳の分からない音の繋がりと共に、宵子は露台へと導かれていた。厚い生地のカーテンを締めれば、夜会の喧騒はどこか別の世界のことのように遠い。
(涼しい……)
火照った頬を夜風が撫でるのが心地よかった。さらに手であおごうとして──円舞曲を踊った時のまま、緩く握り合っているのに気付く。
(……え?)
貴公子のほうでも、意識していなかったのかもしれない。白皙の頬にさっと赤みが差して、振り払うように手をほどかれた。
「失礼──ええと、すまない」
早口に言ってから、貴公子は何かを思い出すようにぎゅっと眉をしかめた。外国の方は、眉毛も髪と同じ淡い色なのだと、宵子は初めて知った。
「……貴女は、疲れていると、見えたから。休息が、必要だと思った」
彼は、日本語の表現を思い出そうとしていたらしい。一節ずつ区切るように発音した後で首を傾げたのは、宵子に伝わるか心配だったのだろうか。
(踊っている間に、そこまで見てくださったの……?)
言葉だけでなく、彼の気遣いまで伝わってきて、宵子の頬がいっそう熱くなった。コルセットを弾けさせそうなほどに胸が高鳴っているのも、舞踏の高揚のせいだけではない。
(お礼……お礼を、しないと)
今度こそ、欧州風の作法を思い出して宵子はドレスの裾をつまみ、膝を折った。すると、銀髪の貴公子はほっとしたように微笑んだ。そして、ゆっくりしていなさい、とでも言うかのように、バルコニーに設えられた長椅子に宵子を座らせる。
「──では」
短く呟くと、彼は宵子に背を向けた。舞踏室の喧騒に戻ろうというのだろう。異国の、名前も分からない方だ。ここで別れては、きっともう二度と会えないだろう。
(待って。もう少し──)
考えるより先に、手が勝手に動いていた。宵子の指先は、異国の青年の上着の裾をつまんでいた。よく滑る絹の手袋に包まれた、細い指だ。振り払うのに大した力はいらないだろう。
でも、その人は困ったように眉を顰めながらも、立ち去ろうとはしなかった。
「……私は日本語が堪能ではない。貴女は、ドイツ語を話せるか?」
それでは、彼はドイツの人なのだ。ひとつ、知ることはできたけれど、宵子はドイツ語の単語はひとつも知らない。
(せめて、お名前を……)
声が出せないことを、こんなにもどかしく思ったことはない。
真上家では、宵子の意見や望みを問われることもなかったから。ただ、頷くだけでほとんどの用事が済んでいた。怠けているんだろうとか言われた時は、首を振ることもあるけれど。
とにかく、真上家の人々は宵子のことを知っているし、何より同じ日本人だ。
「……話せないのか。通訳もいないしな……」
突然に引き留められて、しかもその相手が何も言わない状況に首を傾げるこの人は、宵子の言いたいことをどれだけ汲み取ってくれるだろう。
(宵子、と──まずは、私の名前から……?)
訳が分からないから立ち去ろう、と思われる前に、何かしなければ、と。必死の思いで、宵子は暗い空に手をかざした。宵──夜そのものを示してから、手を返して自分自身の胸にあてる。
「貴女の、名前? ……星? 空?」
銀髪の貴公子は、言いたいことを察してくれた。でも、その内容はまだ少しずれている。
(そうではなく──もっと、大きな意味の)
宵子の意図を探ろうというのだろう、綺麗な青年が、長身を軽く屈めてじっと見つめてくる。その眼差しに炙られるような気分になりながら、宵子はもう一度、今度はもっと大きく手を広げた。鹿鳴館の輝きを見下ろして、いっそう闇が深く見える夜の空を。
「──夜」
宵子の顔に広がった笑みを見て、「正解」だと分かったのだろう。銀髪の貴公子も嬉しそうに微笑むと、しっかりと頷いた。
「夜の貴婦人。綺麗だ。似合う」
宵子の今日のドレスは、銀糸のレースや刺繍が映える紺色だ。確かに、星が煌めく夜空にも見えるかもしれない。
(この方が言うことこそ綺麗だわ……)
呪われた子だと、蔑まれたり罵られたりしない。役立たずだと嗤われたり嘲られたりすることも。
異国の方だから、当たり前のことかもしれないけれど──ドレス姿を好奇の目で見ることもなく、純粋に褒めてくれるなんて。
宵子が感動に震えていることを、彼はきっと知らないだろう。月の光が人の形に凝ったようなその人は、滑らかにその場に跪き、腰掛けた宵子を見上げる体勢になった。
「私は、シャッテンヴァルト伯爵クラウス。この国に来て、貴女に会えて光栄だ」
胸に手を当てながら、彼が紡いだ言葉は滑らかだった。きっと、たくさんの人に同じことを言ってきたのだろう。でも──宵子にとっては初めてで、そして、特別なことだった。
(クラウス様……)
もう長いこと声を出していない宵子だから、舌はすっかり固まってしまっているだろう。もしも犬神様の呪いが解けたとしても、異国の名前を発音するなんてできそうにない。
それでも、せめて教えてもらった名前の響きは忘れまいと、宵子は銀髪の貴公子──クラウスの名前を心に刻んだ。
一応は名前を教え合ったことになるのだろうか。一連のやり取りが終わると、また何を言えば良いのか分からなくなる。
(この方とならまた踊りたい、けど──女から誘うなんて……)
立ち上がって手を差し出せば、分かってくれるだろうか。ドイツの礼儀作法では、失礼にならないだろうか。日本人の小娘なら、常識を知らなくても許してもらえるだろうか。
さんざん悩んで躊躇った末に──宵子が行動に移すことは、できなかった。彼女が立ち上がる前に、舞踏室とバルコニーの間のカーテンが開いたのだ。
「暁子? ここにいるのか……?」
宵子の妹の名を呼びながらバルコニーに現れたのは、暁子の婚約者の新城春彦だった。
(春彦兄様……!)
舞踏の間に宵子の姿を見失って、探していたのだろう。心配をかけていたこと、舞踏の時間の終わりが近いことを思い出して、宵子は慌てて立ち上がった。
「暁子──と、貴方は?」
宵子が異国の貴公子と一緒にいるところを見て、春彦は軽く目を見開いていた。
(……そうだわ、私、なんてことを……)
宵子は、暁子として夜会に出ていたのだ。婚約者がいる身で、ほかの殿方とふたりきりでいるところを当の婚約者に見られたのだ。子爵令嬢にあるまじき、はしたない振る舞いだったのだ。
「彼女は、疲れているようだったので。休息していた。私のせいだ」
クラウスも、事情をあるていど察してくれたのだろうか。ややぎこちない日本語で、それでもはっきりと述べると、春彦は納得したように頷いた。
「ああ、それは──誠にありがとうございます」
お父様の跡を継ぐのに必要なのだろうか、春彦はドイツ語を操るようだった。宵子が目を丸くする間に、ふたりは彼女の知らない言葉でやり取りをする。たぶん、自己紹介とか、真上家のこと、宵子──暁子との関係について話しているのだろう。
と、春彦の口からアキコ、と漏れるのを聞いて、宵子の心臓は跳ねた。
(あ、そうだ──)
クラウスに、彼女自身の名前を教えてしまったことを思い出したのだ。夜の宵子と、夜明けの暁子。名前の意味は、まるで真逆になってしまう。
(で、でも。音だけなら分からないはずよね……?)
ドイツ語には、漢字はないのだろうから。
嘘を吐いたと思われるだなんて、心配する必要はない。宵子が、実は暁子ではないだなんて、露見するはずはない。
(クラウス様は、私のことを暁子だと思ったままなのね……)
だから、安心すべきだと思うのに。宵子の胸は、何かの棘が刺さったような痛みで疼いた。