数日後──屋敷の中が慌ただしいことで、宵子はお客様が来るであろうことに気付いた。
(きっと外国のお客様だわ……)
仕入れる食材に、魚ではなく肉が多いこと。それに、料理人が洋菓子の練習をしていることから、何となくそう思う。
家令が何やら横文字の書きつけを睨んでぶつぶつ呟いているのも、見た。あれは、挨拶か何かを覚えようとしていたのではないだろうか。
真上家ではこれまでになかったことだけれど、わざわざ洋館に建て直した屋敷がようやく活用されるのかもしれない。恥ずかしくないおもてなしをしなくては、と思うと、父も母もきっと気合が入って落ち着かないことだろう。
(暁子はどうするのかしら)
宵子が、真上家の令嬢としてお客様に紹介されるなんて、あり得ないことだと分かっている。
でも、暁子はどうするのだろう。学校の宿題を宵子に押し付けるくらいだから、外国語での挨拶はできないのだろうけれど。また、宵子にドレスを着せて代役をさせるのだろうか。でも、舞踏会なら黙って微笑んでいれば良かったけれど、宵子はひと言も声を出すことはできないのに。
もちろん、宵子が気にしたところで、誰に尋ねることもできない。屋敷の仕事をしている時に、紙と筆を持ち歩く訳にもいかないのだから。だから、いつも通りに俯いて、仕事に励んでいたのだけれど──
「宵子様。旦那様がお呼びです。書斎へいらしてください、早く」
女中のひとりに声を掛けられて、廊下を雑巾で磨いていた宵子は雑巾がけの手を止めた。父の命令とはいえ、呪われた娘に話しかけるのは嫌なのだろう、首が痛くなるほど見上げた先で、女中はあからさまに顔を顰めていた。
掃除はもう良いから、と言われて濡れた手を拭いながら、宵子は内心で首を傾げた。
(お父様が私に御用だなんて……)
夜会の代役も宿題の代筆も。父と母は暁子の我が儘を何も咎めず、そして宵子には特に声をかけることをしない。いない者のように扱うということこそが、あの方たちの宵子への感情を物語っていると思っていたのに。
女中たちと同じだ。
呪いに近付きたくない。迂闊に触れて、災いに巻き込まれたくない。
とはいえ、追い出すのも外聞が悪いから、できるだけ視界に入れないようにしたい。使用人に混ざって這いつくばっていてくれるならちょうど良い──そんなところではないだろうか。
書斎に入ると、父は窓を背にした机に向かって宵子を待っていた。
いかにも重そうな木材に、繊細な彫刻を施したその机も、外国から輸入したたいへん高価なものだとか。天上には小ぶりながらシャンデリアが輝くし、本棚に収まった革張りの書物にも、横文字の題名が目立つ。
欧州に追いつこうという懸命さが現れた調度の室内で、羽織姿の父は少々浮いて見えた。大政奉還から二十年近く経っても、文明開化というものはまだ難しいのかもしれない。
「ああ──宵子。よく来た」
よく来た、と言いながら父は宵子を見て顔を顰めた。幽霊でも見たかのような眼差しも、椅子を勧められないことも、予想していたことだから特に傷つくことはない。宵子も、ちりん、と鈴の音を小さく響かせながら、丁寧にお辞儀をするだけだ。
宵子の深く下げた頭に、父の声が降ってくる。
「今度、我が家に客人が来る。シャッテンヴァルト伯爵という、ドイツのお人だ」
外国からのお客様は、予想していたこと。でも──
(シャッテンヴァルト伯爵──クラウス様……!?)
その名前を父から聞くとは思っていなくて、宵子は慌ただしく身体を起こした。身を乗り出して父を見る彼女の顔には、目を見開いた驚きと──それに、喜びの表情が浮かんでいるだろう。……それを見て、父は軽く溜息を吐いた。
「……先日の夜会で、お前も面識があると春彦から聞いていたが。お前のほうでも覚えているのだな」
あの夜の春彦は、父の名代として暁子をエスコートしていた。当然、誰と会って何を話したかは報告しているのだろう。
(あの方が我が家にいらっしゃる……暁子を気に入っていらしたというのは、本当なの……?)
でも、宵子だって。
語らうことはできなくても、円舞曲を踊って、名前を教え合った。宵子にとってはかけがえのないあの一時は、あの方の胸にはどのように刻まれているのだろう。
そして──父は、どうして宵子にあの方の来訪を教えたのだろう。
娘に食い入るように見つめられて、けれど父はそっと目を逸らした。宵子の眼差しにも、呪いの力がこもっているのを恐れているかのように。
同じ部屋の空気を吸うことさえ不安なのだろうか、父は顔を少し横に向けたまま、早口に続けた。
「伯爵は、見目良く礼儀正しい好青年だとか。暁子も、あの方なら会っても良いと言っている。だから今回はお前の出番はない。いや、むしろ決して見られてはならぬ。これは、我が家にとって非常に大事な席なのでな」
父は、宵子の顔を見ようとはしなかった。だから、気付いていないだろう。宵子の肩が震えていること。目に、涙の膜が張っていること。
(クラウス様と会えない……お姿を見ることさえ、できないの……?)
震える手で口元を抑えても、宵子の唇からは嗚咽さえ漏れることはない。胸の中で渦巻く悲しみと絶望を、泣き叫んで表すことはできないのだ。
「だから、伯爵が来られる日はお前は何もしなくて良い。部屋に閉じこもって一歩も出てはならぬ」
そこまで言ってやっと宵子に向き直った父は、彼女を見て怪訝そうに眉を顰めた。いったいどんな顔をしているのか、宵子自身には分からないけれど──ひどい顔色になっているのかもしれない。
「……用というのは、それだけだ。行きなさい」
でも、父は宵子に何も尋ねなかった。彼女の思いを聞くためには、紙と筆を用意しなければならない。そうして呪いと接する時間が長引くことを恐れたのだろう。
書斎を出た後にすれ違う使用人も、父と同じだった。涙を堪えた宵子の顔を見て不思議そうにはするものの、誰も尋ねたり気遣ったりしてはくれなかった。
(きっと外国のお客様だわ……)
仕入れる食材に、魚ではなく肉が多いこと。それに、料理人が洋菓子の練習をしていることから、何となくそう思う。
家令が何やら横文字の書きつけを睨んでぶつぶつ呟いているのも、見た。あれは、挨拶か何かを覚えようとしていたのではないだろうか。
真上家ではこれまでになかったことだけれど、わざわざ洋館に建て直した屋敷がようやく活用されるのかもしれない。恥ずかしくないおもてなしをしなくては、と思うと、父も母もきっと気合が入って落ち着かないことだろう。
(暁子はどうするのかしら)
宵子が、真上家の令嬢としてお客様に紹介されるなんて、あり得ないことだと分かっている。
でも、暁子はどうするのだろう。学校の宿題を宵子に押し付けるくらいだから、外国語での挨拶はできないのだろうけれど。また、宵子にドレスを着せて代役をさせるのだろうか。でも、舞踏会なら黙って微笑んでいれば良かったけれど、宵子はひと言も声を出すことはできないのに。
もちろん、宵子が気にしたところで、誰に尋ねることもできない。屋敷の仕事をしている時に、紙と筆を持ち歩く訳にもいかないのだから。だから、いつも通りに俯いて、仕事に励んでいたのだけれど──
「宵子様。旦那様がお呼びです。書斎へいらしてください、早く」
女中のひとりに声を掛けられて、廊下を雑巾で磨いていた宵子は雑巾がけの手を止めた。父の命令とはいえ、呪われた娘に話しかけるのは嫌なのだろう、首が痛くなるほど見上げた先で、女中はあからさまに顔を顰めていた。
掃除はもう良いから、と言われて濡れた手を拭いながら、宵子は内心で首を傾げた。
(お父様が私に御用だなんて……)
夜会の代役も宿題の代筆も。父と母は暁子の我が儘を何も咎めず、そして宵子には特に声をかけることをしない。いない者のように扱うということこそが、あの方たちの宵子への感情を物語っていると思っていたのに。
女中たちと同じだ。
呪いに近付きたくない。迂闊に触れて、災いに巻き込まれたくない。
とはいえ、追い出すのも外聞が悪いから、できるだけ視界に入れないようにしたい。使用人に混ざって這いつくばっていてくれるならちょうど良い──そんなところではないだろうか。
書斎に入ると、父は窓を背にした机に向かって宵子を待っていた。
いかにも重そうな木材に、繊細な彫刻を施したその机も、外国から輸入したたいへん高価なものだとか。天上には小ぶりながらシャンデリアが輝くし、本棚に収まった革張りの書物にも、横文字の題名が目立つ。
欧州に追いつこうという懸命さが現れた調度の室内で、羽織姿の父は少々浮いて見えた。大政奉還から二十年近く経っても、文明開化というものはまだ難しいのかもしれない。
「ああ──宵子。よく来た」
よく来た、と言いながら父は宵子を見て顔を顰めた。幽霊でも見たかのような眼差しも、椅子を勧められないことも、予想していたことだから特に傷つくことはない。宵子も、ちりん、と鈴の音を小さく響かせながら、丁寧にお辞儀をするだけだ。
宵子の深く下げた頭に、父の声が降ってくる。
「今度、我が家に客人が来る。シャッテンヴァルト伯爵という、ドイツのお人だ」
外国からのお客様は、予想していたこと。でも──
(シャッテンヴァルト伯爵──クラウス様……!?)
その名前を父から聞くとは思っていなくて、宵子は慌ただしく身体を起こした。身を乗り出して父を見る彼女の顔には、目を見開いた驚きと──それに、喜びの表情が浮かんでいるだろう。……それを見て、父は軽く溜息を吐いた。
「……先日の夜会で、お前も面識があると春彦から聞いていたが。お前のほうでも覚えているのだな」
あの夜の春彦は、父の名代として暁子をエスコートしていた。当然、誰と会って何を話したかは報告しているのだろう。
(あの方が我が家にいらっしゃる……暁子を気に入っていらしたというのは、本当なの……?)
でも、宵子だって。
語らうことはできなくても、円舞曲を踊って、名前を教え合った。宵子にとってはかけがえのないあの一時は、あの方の胸にはどのように刻まれているのだろう。
そして──父は、どうして宵子にあの方の来訪を教えたのだろう。
娘に食い入るように見つめられて、けれど父はそっと目を逸らした。宵子の眼差しにも、呪いの力がこもっているのを恐れているかのように。
同じ部屋の空気を吸うことさえ不安なのだろうか、父は顔を少し横に向けたまま、早口に続けた。
「伯爵は、見目良く礼儀正しい好青年だとか。暁子も、あの方なら会っても良いと言っている。だから今回はお前の出番はない。いや、むしろ決して見られてはならぬ。これは、我が家にとって非常に大事な席なのでな」
父は、宵子の顔を見ようとはしなかった。だから、気付いていないだろう。宵子の肩が震えていること。目に、涙の膜が張っていること。
(クラウス様と会えない……お姿を見ることさえ、できないの……?)
震える手で口元を抑えても、宵子の唇からは嗚咽さえ漏れることはない。胸の中で渦巻く悲しみと絶望を、泣き叫んで表すことはできないのだ。
「だから、伯爵が来られる日はお前は何もしなくて良い。部屋に閉じこもって一歩も出てはならぬ」
そこまで言ってやっと宵子に向き直った父は、彼女を見て怪訝そうに眉を顰めた。いったいどんな顔をしているのか、宵子自身には分からないけれど──ひどい顔色になっているのかもしれない。
「……用というのは、それだけだ。行きなさい」
でも、父は宵子に何も尋ねなかった。彼女の思いを聞くためには、紙と筆を用意しなければならない。そうして呪いと接する時間が長引くことを恐れたのだろう。
書斎を出た後にすれ違う使用人も、父と同じだった。涙を堪えた宵子の顔を見て不思議そうにはするものの、誰も尋ねたり気遣ったりしてはくれなかった。