宵子(しょうこ)真上(まがみ)家の屋敷に戻った時には、辺りはすっかり暗くなっていた。味噌を取りに行くだけのお使いにかかる時間ではないから、当然、台所を任された女中は良い顔をしなかった。

「ずいぶん長いお使いでしたねえ、宵子様。いったいどこまで行ってたんだか……!」

 ひったくるように味噌樽(みそだる)を受け取った女中の不機嫌な声が、頭を下げた宵子のつむじに振って来る。

(暗いから、汚れは見えていないみたい。良かった……)

 黒い犬から逃げまどって、地面に倒れて。着物の汚れも手足の擦り傷も、見咎められたらきっと面倒なことになる。
 心配してもらえることはたぶんなくて、着物を汚したことや、真上家の者としてみっともない振る舞いをしたことに対して、叱られるだけだろうから。

(早く部屋に戻って、身体を拭きたいわ)

 いくら機嫌が悪くても、呪われた宵子と長く話していたい者はいない。だから、女中の小言が途切れた隙を狙って、宵子は深くお辞儀して台所を抜け出そうとした。

 いつもなら、背中に聞えよがしの溜息を聞くだけだっただろうけれど。今日は、尖った声が追ってきた。

「ああ、お客様が来ているんですよ。客間の前を通る時は、どうかお静かに」

 意外な言葉に、宵子は思わず足を止めて振り向いた。

暁子(あきこ)のお友だちが、まだいらっしゃるの?)

 こんな時間までお茶会が続いているなんて。それぞれに名のある家の令嬢たちだから、暗くなる前にそれぞれの家に帰っているものだと思っていたのに。

 首を傾げた宵子に、女中は軽く顔を顰めた。呪われた娘とまだ話さなければならなくなったことに気付いて、内心で舌打ちしているのだろう。

「お嬢様がたはもうお戻りですが、偉いお方がお見えとかで。旦那様と、春彦(はるひこ)様がお相手をなさっています。だから、くれぐれも気を付けてくださいね!」

 言うだけ言って、女中は宵子に背を向けた。
 客人をもてなす茶のための湯を沸かしたり、春彦のために軽食か何かを用意したり。きっと、ふだん以上に忙しいから苛立っているのもあるのだろう。

(分かったわ。鈴の音にも気を付けるから……)

 だから、それ以上の小言を避けるために、宵子はこくこくと頷いてから──女中は見ていなかったけれど──今度こそ台所を後にした。

 廊下に出た宵子は、足首の鈴を鳴らさないためにも、できるだけすり足で進むことにした。でも、それは、歩くのが遅くなってしまう、ということでもあった。

(お客様に失礼のないように……!)

 閉ざされた客間の扉の前を通る時も、どうしても神経が研ぎ澄まされてしまう。鈴の音を気にする耳が、聞くべきでない室内の声を拾ってしまう。

「──真上家の()を頼りにしている。かつて犬神(いぬがみ)を使役した貴家(きか)ならば、帝都(ていと)を襲う怪異を(はら)えるかもしれぬ」

 犬神、という言葉を聞き取って、宵子は思わず足を止めた。

(盗み聞きなんていけない、けど)

 でも、真上家の犬神様を最後に見たのは宵子なのだ。父も母も暁子も、犬神様なんていないと言っていた。春彦も、迷信に過ぎないと笑っていた。

(お父様は、何てお答えになるのかしら)

 低く(いか)めしい声の主は、女中の言うところの偉い人、なのだろう。爵位のある方なのか、政府の高官なのかは分からないけれど──そんな方に対しても、父たちは同じことを言うのだろうか。

 少し──ほんの少しだけ、宵子はその場にとどまることにした。すると、父の朗らかな声が聞こえる。

「お声がけいただき、光栄のいたりです。明治の御代といえど、我が家の力は健在ですからな」

 朗らかな──そして自信に満ちたもの言いに、宵子は目を瞠った。父が、犬神様の存在を認めるようなことを言ったのも驚きだし──

(犬神様はもういないのに)

 真上家の犬神様は、たぶんとても年を取っていた。そこへ供物も少なくなって、どんどん弱ってしまったのだ。そして最後の力を振り絞って、宵子に呪いをかけた。その、はずなのに。

 息を呑んで立ち竦む宵子の耳に、春彦の声も入ってくる。父と同じく明るい声で、彼の爽やかな笑顔が目に浮かぶようだ。

(くだん)の怪異も野犬のような姿をしているとか。真上家の犬神とは相性が良いかもしれません」

 春彦の言葉を聞いて、「偉い人」の依頼は例の人喰い犬に関することだと分かった。
 宵子もつい先ほど襲われたばかりの、恐ろしい獣。若い娘ばかり何人も襲われているという──確かに、一刻も早く解決しなければいけないことだとは思うけれど。

(どういうことなの……? 怪異……あれは、普通の犬ではなかったということなの……?)

 東京の街中で、捕らえられることなく何人も襲っていること。
 人ひとりを噛み殺した後で、すぐに宵子を襲った──つまりは飢えてやむを得ず、ではないのかもしれないこと。
 それに──爛々と燃える、あの恐ろしい目。

 すべてはただの獣ではない、化物の類だからだと言われれば納得できる……だろうか。

(……嫌だ。怖いわ)

 でも、それを認めるということは、宵子は化物と対峙したということになってしまう。

 ずきずきとした傷の痛みが急に激しく感じられた気がして、宵子は身震いした。そして、それ以上嫌なこと、怖いことを聞いてしまう前に、客間の前から離れることにした。