気が付くと、彼女の姿はどこにも無かった。第2音楽室の半分と、異形の神とを道連れに、ムジカはぼくの前から姿を消した。

 押っ取り刀で駆けつけた教師や警察は、当初ムジカが旧校舎の壁の崩落に巻き込まれたものとして捜索を始めたが、彼女の痕跡を何一つ発見できなかったらしい。行方不明者として警察に捜査依頼が出されたようだが、手掛かりが見つかる事は無いだろう。

 警察以外にも、黒いスーツのおかしな連中が調査に入ったという噂もある。耐震構造に問題が無かったかを調べる国の査察だとか、建築業者の不正を疑った理事長が呼んだ建築士とその筋の人間だとか、ある事ない事まことしやかに語られたが、綺麗な真円状に抉られた校舎の崩壊面に驚きもせず、淡々と装置の残骸と黒いノートだけを回収して行ったという話は事実の様に思う。

 これらの話をぼくは後から聞いた。
 あの日から一ヶ月間、ぼくは聴力と言葉を失っていたからだ。

 おかげで煩く追求される事なく、世間が納得したい形で落ち着いた頃に退院する事が出来た。

 入院中、両親や悪友たちのほかに、一人の珍しい訪問者を迎えた。
 以前CDのジャケットで見た顔――ヴァイオリン奏者である、ムジカの父親だ。
 苛立った調子で何かをまくし立てる妻を室外に待たせ、穏やかな調子で何かを語りかける。

 ミューは、あなたに認めて欲しかったんですよ。

 口が利けたとしても、彼女の想いを万分の一でも伝えられたとは思わないけれど。
 何一つ伝える事が出来ず、悔しさともどかしさで声もなく泣き出したぼくを、落ち着くまで彼はただ見守ってくれた。


 退院して直ぐに、ぼくは旧校舎に潜り込んだ。
 崩落の調査のため日程が多少ずれ込んだが、夏休みに入り、解体のための足場が組まれている。
 人の姿は無いが、明日にでも工事が始まるようだ。

 夕映えの第2音楽室には、予想外に先客がいた。
 黒いゴシックドレスを身に纏った少女。金髪に碧の瞳で、人形のように愛らしい。
 ドレスの右手の袖が風にゆれ、隻腕である事に気付く。欠けたパーツが少女の美しさに妖しい凄みを持たせ、何故だかあの夜を思い出す。

 もちろん、学校の生徒じゃない。ミューのような留学生も他校に比べればずいぶん多く在籍しているが、これだけ目立つ少女を見知らぬはずが無い。

「あ? ……当事者か。邪魔したな。すぐに消えるよ」

 顔に似合わぬぞんざいな口調にも面食らうが、そんな場合じゃない。

「ま……って。何かし……てるの!?」

 喋れない期間が長すぎて、慌てるとまだ上手く話せない。それでも少女は、笑うでも馬鹿にするでもなく、真っ直ぐにぼくの顔を覗き込む。

「アラーラは『黒の淵』では数えられていない神だ。『実験』には係わっていない。神智研の管轄外だから優先度が低いと判断していたが……こんなに事態が早く進行したうえ、トルネンブラまで顕現するとはな。巫女がよっぽどとんでもないヤツだったか……」

 ぼやき気味の彼女の話には、知らない単語ばかりが並んでいたが、ムジカが賞賛されているように感じて、ぼくは少しだけ得意な気分になった。

「……ここに『グラーキの黙示録』の写本か、異次元通信機、あるいはその両方があったはずだ。出遅れたとはいえ、どちらかでも手に入ればと思ったんだがな」

 ムジカの持っていた『REVELATIONS OF GLAAKI Ⅸ』と記されたノートを思い出す。装置の残骸の事と共に黒服の男達に回収されたらしいと伝えると、少女は口元を歪めて四文字言葉を吐き捨てた。

「……ったく、抜け目の無いこった」

「ま……って、一つだけ教えて」

「あ?」

 まだ何かあるのかという、不機嫌な態度を隠そうともしない彼女にたじろぎながら、入院中ずっと頭を巡っていた問いを投げかける。

「ミューに……ムジカにもう一度会う方法はある?」

「それを聞いてどうするよ?」

 表情を消した少女が、平板な声で問いを返す。綺麗な顔立ちだけに、逆に背筋に冷たいものを感じる。

「あ……会いたい! もう一度、もう一度だけ……」

 失ってから気が付いた。あのとき、神に喰われて音になってでも、彼女の側に居られればそれで良かった。そうすれば、彼女をあんなに傷付ける事はなかったのに。

「なら、あたしなんかに聞くまでもない。方法が有るか無いかじゃない。お前がやるかどうかだよ」

 投げ出すような、雑な口調。
 それでも、泣き出したいほど厳しくて、縋りつきたいほど優しい答えをくれる。

 抉り取られた崩落面に歩み寄った少女は、ふと何かを捕まえるように中空に手を伸ばす。見ると、少女の掌中に手品のように青いMP3プレイヤーが現れた。

「連中の中に、魔術班の人間はいなかったようだな。向こう側に落ちかけて、引っ掛かってやがった」

 放り投げられたそれを、慌てて捕まえる。間違いない、ムジカのものだ。

「話の駄賃だ。どのみち、あたしには用の無い物だからな」

 そう言い残すと、少女は躊躇いもせず崩落面へ踏み出した。驚いて駆け寄ったが、黒衣の少女の姿はもうどこにも見当たらなかった。

 MP3プレイヤーの中には、幾つかのリストに分けられたファイルが収められていた。

 彼女が住んでいた町の風景。家族のスナップ写真。見上げる仔猫。幼い彼女。

「Papa」と名付けられたリストには、ドイツ語らしい会話の切れ端。「Guten Morgen」「Musica! Gut gemacht!」「Gutes Kind,Musica」 艶のあるテノールの男声の主は、彼女の父親か。

「Freund」のリストには、日本語の会話の欠片たち。「だから半分貰えるかな?」「なにそれすごい!!」「おめでとう」「ムジカ」「ミュー」始めは気付かなかったが、これはぼくの声だ。いつのまに録音していたのか。

「Musica」と名付けられたフォルダには、ファイルが一つだけ入っていた。
 聞き覚えのある甘いハミングと共に奏でられる、緩やかな旋律。これはあの夜、彼女が弾いた最後の曲だ。


 ありがとう。

 すき。

 だいすき。

 あいしてる。


 音に感情を込めるというのは、こんなに凄い事なのか。
 彼女のつたない愛の言葉が、溢れる想いが伝わってくる。
 こんな事ができるなら、最初から神様なんか要らなかったじゃないか。

 繰り返し曲を聴きながら、ぼくはマーカーを握る。
 あいのうたに包まれながら、ぼくは壁にぼくを刻む。

 日が落ち、部屋に闇が満ちた頃、ぼくの初めての作品が完成した。
 ヘッドフォンを掛け、穏やかに微笑む彼女と、寄り添うリスモ。
 この部屋も、夏が終わる頃には取り壊される。
 もう彼女にぼくの絵を見せることは叶わないけれど。
 ぼくの耳には、まだ彼女だった音が響いている。


                     The Music of Little Erich. END