彼女に教えて貰った抜け道を通り、学校の敷地内に侵入する。見上げると、旧校舎の2階の一室に灯がともっていた。隠れるつもりもないらしい。

 息を切らせて第2音楽室に飛び込むと、いつか見たのと同じ様に、病院のパジャマを着たムジカが装置の前に座り込んでいた。

「はるとくん、みつけたよ。間にあったんだ!」

 甘い声でハミングしていた彼女が、喜声と共に振り返る。

 痛々しいほどやつれた姿。初めて出会ったときから、さらに一回り小さくなったような。それなのに、瞳だけが奇妙なほど熱を帯びているのに、言いようの無い不安を覚えた。

「みんな心配してるよ。さあ、帰ろう」

 曲が完成したのか、インスピレーションを得られたのか。どちらにせよ、身体を休めるのが先決で、血の繋がっていないらしい母親の説得はその後だ。成果を示せば、ムジカを煙たがっているらしい義母は、 日本での滞在を割とあっさり認めてくれるんじゃないか。

 微笑みながら差し出した右手は、微笑みながら小首をかしげた彼女に拒絶される。

「帰らないよ。これからはじまるんだから」

 ちりんと。どこかで小さな鈴が鳴り響いた。

 奇妙な装置は重い作動音を響かせながら動き続けている。
 プラグで装置に繋いだヘッドフォンを耳に掛けたムジカは、再びハミングを奏で始めた。

「lala――alhara――lalalah――ah――arh――llahara」

 彼女の甘い声に合わせ、ディナーベルのような、トーンチャイムのような音が重なり始める。

「lah――lahraha――llahr――ah――rarala――rhalla」

 装置からじゃない。スピーカーが見当たらない。重なり交じり合うチャイムの音が、次第に大きくなる。

 装置の上に青緑色のガラスが浮かんでいる。……いや、ガラスじゃない。液体のように表面が波打っている。チャイムの音で啼いていたそれの表面に、内側から湧き出るように黄色い眼球が浮かぶ。ヒトのものではないそれは落ち着きなく視線をさ迷わせていたが、ぼくを見付けるとしばし凝視した。

「――ひ……」

「rah――」

 彼女が声を掛けると眼球は視線を外した。代わりに不揃いな歯の並ぶ半開きの口や、昆虫の足にも、植物の茎にも見えるものを浮かべては引っ込めながら、徐々にその体積を増してゆく。

「ようこそアラーラ。しらない世界のはらぺこの神様」

 彼女の茫洋とした瞳には別のものが見えているのか。恐れも見せずムジカは異形の存在に語りかける。

「なにかかたちが見えるかもだけど、これの本質は音のあつまりなの。いつもお腹をすかせてて、なんでも食べちゃうんだけど、そのときたべものを音にかえる――」

 不意に緑色のガラス細工のリスモが砕けた時の音を思い出した。

 ――音?
 ――ぼくもムジカも触れなかったのに?

「いつか世界がほろんで、何もなくなっても。わたしが音を覚えていたら、そこからなんでも再現できる。それってステキなことじゃないかな?」
牛ほどの大きさになったそれが、細い足の先についたベルのような物を、涼しげな音と共に伸ばしてくる。

「ひぃやぁぁッ!!」

 本能的な恐怖から、みっともなく悲鳴をあげへたり込んだぼくにしかし、その足は届かなかった。

 彼女の手が、それ――アラーラ――の足を掴んでいる。
 傷付けられた、今にも泣き出しそうな顔。

「嫌だ! 嫌だッ!!」

 はっきり目にしたはずなのに、その時のぼくには彼女を気遣う余裕など欠片も無かった。

 ゆらゆらと引き戻されたベル状の器官は、仕方ないといった体で、足を掴む彼女の左腕に張り付いた。

「ミュー!!」

 彼女の顔が苦痛に歪むのを見ても、ぼくの身体はいう事を聞かない。自分の生き意地の汚さを罵る言葉と自己弁護だけが、呪いのようにただ脳内で繰り返される。

「……そうだね。怖いね。こんなに痛いもの……」

 何かを吹っ切るようにぼくに微笑んで見せると、ムジカはヴァイオリンのケースに手を伸ばす。

「じつはね、探し物のもう一つも見つけたんだよ」

 恐ろしいまでの早弾き。無数のチャイムの調べを掻き消すように、狂おしくヴァイオリンが泣き叫ぶ。

 やがてムジカの独奏に、何処からかか細いフルートの音色が重なり、合奏になる。

「なんでも弾きこなせる、わたしじしんが楽器になる方法――」

 一瞬、チャイムの音が一斉に鳴り止んだ。困惑と焦燥。異形の存在のあるはずのない感情を、何故だかぼくはその時だけ理解できた。

「――もうここにいられなくなっちゃうけど……」

 窓の外の景色が一変している。
 真の闇の中、形の無い者達が踊り狂っている。
 直視してはいけない。本能的な警告に、思わず視線を下げる。

「ごめんね。やくそくやぶる事になるけど、そこはそんなに悪い所じゃないとおもうよ」

 異界の神に語りかけるムジカ。ベル状の器官に張り付かれた彼女の腕は、前腕部が緑色のガラスに変化してしまっている。

 ヴァイオリンの音色は、いつしか彼女の声のように甘やかなものに変わっている。か細いフルートの音色も、ぎこちなく彼女のリードに合わせてくる。

 再びけたたましく鳴り始めたチャイムの響きが伝えるのは、驚愕と恐怖。――戯れに指を伸ばしたアリにかみ殺される人間は、こんな気持ちを抱くのだろうか――

 暴力的な轟音に耐え切れずに耳を塞いだぼくには、彼女が最後に残した言葉は伝わらなかった。