彼女だった音が、まだぼくの耳元で響いている。
ぼくが彼女と初めて会ったのは、夕暮れる5月の廊下。
ふわふわと甘い声でハミングしながら歩くヘッドフォンの少女は、おぼつかない足取りでとても危なっかしく見えた。
『前から来る人とぶつからずに上手くすれ違うには、目を合わせれば良い』
ぼくの知るそんなトリビアは何の役にも立たず、真正面からぶつかった彼女は、面白いほどあっけなく廊下に転がった。
「だ……大丈夫!?」
その光景を目にした人がいるなら、ぼくが小柄な女の子にわざとぶつかった、無頼漢にしか見えなかっただろう。幸い放課後の廊下には人影はなく、ぼくは彼女の乱れたスカートから覗く、ミントグリーンのボーダーに気を取られながらも、慌てて手を差し伸べた。
「書くものかして!」
ぼんやりしていた彼女は、ぼくの手を取る事無く、自らも手を差し伸べて要求する。
ぼくの制服の胸ポケットには、いつも5色のマーカーが挿さっている。
こぼれるこぼれると呟きながら、座り込んだまま手指を中空で奇妙に躍らせていた彼女は、ぼくからマーカーを受け取ると、猛烈な勢いで壁に走らせ始めた。
呆気に取られるぼくの目の前に生まれるのは、雑然と書かれた青いおたまじゃくしの群れ。
葡萄酒色に染まる壁に、おそらく書いた本人にしか判読できない譜面が描かれてゆくのを、ぼくはある種の感動を抱きながら見つめ続けていた。
「またお前か、ムジカ・ツァン!」
泣き出しそうな、笑い出しそうな顔でこめかみを押さえる老教師の声で、ぼくは彼女の名前を知った。
「あとで生徒指導室まで来い。淡音春人、お前もだ」
ぼくの頭に拳骨を落とすと、老教師はその場を後にした。状況を最初から目にしていなければ、2人仲良く壁にラクガキしていたように見えても仕方が無い。でも、ぼくにだけ拳骨をくれるのは、時代遅れの性差別なんじゃないか?
頭に浮かんだ旋律を捕まえ損ねたのか。少女は小首をかしげ眉根を寄せたまま固まっている。
「壁を綺麗にしてからだぞ!」
途方に暮れるぼくに、老教師の追い討ちが炸裂した。
ムジカ・E・ツァン。海外からの交換留学生で、専攻はヴァイオリン。
なのに、学園に来てから、彼女がヴァイオリンを弾く姿を見たものは一人もいない。
常にヘッドフォンを手放さないなど、奇矯な振る舞いで有名。
ミューズと呼ぶには少し足りない彼女に付けられたあだなは、音楽室のミュー。
父親はCDが出ているほどの有名演奏家なのだそうだ。
レコードショップのクラシックの棚で確認して、少しだけ感動した。
翌日の昼休みに、彼女の呼び出しを受けた。
あの後、あまり役に立たないムジカと共に壁の譜面を消し、生徒指導室でたっぷりとお説教を喰らった、そのお詫びなんだそうだ。
約束の中庭に彼女の姿が無い事を確認し――思い付きで裏庭に廻ってみる。
ヘッドフォンを掛けた少女が、芝生に座り込んで頭を揺らしていた。
「やあ。お招きありがとう」
待ち合わせは中庭じゃなかったっけ? という問いは省略した。なんとなくだが、彼女の行動パターンが把握できたからだ。
ムジカは顔を上げると、僅かな逡巡の後、手にしたものを差し出した。
「……スペシャルカツサンド。昨日のおわび」
学園の幻のメニュー、スペシャルカツサンド――一日限定15食。ぼくもまだ2度、それも友人から分けてもらってしか口にした事が無い――ひとくち分ほどかじってあるけど。
「……ありがとう。君の分は?」
ぼくのために苦労して手に入れてくれはしたけれど、その芳醇なソースの香りの誘惑に抗いきれなかったといった所か。
「もうたべた。いっしょにたべたかったよ……」
しょんぼり肩を落とす彼女と、かじられたカツサンドを前に、気力が萎えかける。
「じゃあ、半分こにしようか?」
一瞬、大きく目を見開くも、ゆるゆると首を振るムジカ。
「それはきみのぶんだから……」
何故だかだんだんぼくが悪いような気分になってきた。
「それじゃあ、全部あげる」
「?」
「だから半分貰えるかな?」
茫洋とした目でしばらくぼくを見詰めていた彼女は、やがてこくこくと頷くと、ぼくから受け取ったカツサンドを二つに分け、少し考えて大きい方をぼくにくれた。かじったほうだけど。
隣に腰を下ろし、カツサンドを口にする。確かに旨い。けれど、この量じゃあ午後の授業中に腹の虫が騒ぎ出してしまいそうだ。
ムジカはぼんやりとした表情のまま、一定のペースでカツサンドをかじっている。
「これからは、五線譜ノートを持ち歩くと良い。じゃなきゃ、ポケットに入るメモとか……」
「!!」
何を言いだすのこのひと? と云わんばかりの顔を向けた後、すごい勢いで頷いてみせるムジカ。
こんな簡単なアドバイスにこうも感心されると、逆にいたたまれないほどの恥ずかしさを感じる。
「用意しゅうとうだね。それじゃあ、きみのマーカーはどこでも絵をかくため?」
尊敬の込められた眼差しに羞恥が倍増する。ぼくがマーカーを持ち歩く理由は、海外で直に目にしたウォールアートに憧れて、いつか作品を仕上げてみたいと思っているからだ。
もちろん、正式にそれを依頼される実力はまだ無くて、かと言って、無断でゲリラ的に描き残して行けるほどの勇気と無謀さも持ち合わせておらず。ただイメージを掻き立てる壁の前で、画用紙を広げてスケッチしてみるのが今のぼくの精一杯なのだけれど。
だから、躊躇なく白い壁にマーカーを走らせた彼女に、ある種の羨望を抱きつつ見蕩れてしまったわけで。
正直に話してみせると、彼女は
「いつかかけるといいね。わたしも見てみたい」
そう云って微笑んだ。
ムジカの笑顔に何故だか狼狽したぼくは、彼女自身の話しに水を向けた。
絶対音感という物だろうか。2歳の頃からバイオリンを手にし、聞くだけで、楽譜を目にするだけであらゆる曲を弾きこなす能力を持つ彼女は、周囲からさらに高いレベルを求められていた。ムジカは感情を音で表す事でそれに応えたが、次第に求められる物とのずれが生じてきたらしい。
「父さんはもうわたしに期待してないみたい」
「そんなことないだろ……スランプってやつだよ」
アドバイスしようにも、レベルが高すぎる。
同じ茫洋とした表情のまま声を落とす彼女に、門外漢のぼくでは、気休め程度の言葉しか掛けられなかった。
食欲がなくなったのか、食べかけのカツサンドを膝に置き、水筒に手を伸ばす。
ステンレス製の水筒を爪弾きながらちちちち、と彼女が舌を鳴らすと、背にした樫の木から、小さな影が駆け下りてきた。
ふさふさしたしっぽ……シマリスか。慣れているらしく、ムジカの手からカツサンドを受け取り、その場でもふもふとかじり出した。病気の伝染を心配したが、彼女とは昼食を共にする仲というだけのようだ。べたべた撫で回して、爪で引っ掛かれたりしなければ問題はないだろう。
「すごいな。なんだか話が出来るみたいだ」
「エサがあるときのよび声がわかっただけ。鳴きかたの種るいがわかって、ちょうどいい楽器があれば、ゾウでもキリンでもおなじこと」
「そうなの!?」
動物研究者が録音機器でやっている事を、彼女は何の気負いもなく耳と演奏技術でこなしてしまえると言い切っている。冗談のつもりではないのだろう。
「データレコーダって知ってる? 昔のコンピュータでつかってた記憶ばいたい」
現物は見た事は無いが、知識としては知っている。
「あれのかわり、ヴァイオリンでできるよ。音響カプラつかってデータ送ってみたこともあるし」
「なにそれすごい!!」
音のいみがわからないから、ありものの真似するだけだけどねと、自嘲めいた笑みを浮かべる。
「色も形も香りもぜんぶ理解できて、それを表げんできる楽器があればね……」
父さんにだって認めてもらえるのに。
彼女が飲み込んだ、続くはずだった言葉が理解出来てしまった。
こんなにすごい才能を持っているのに、どうして苦しまなければならないんだろう。
口にしたカツサンドは半分だけなのに、ぼくの胸は何か別のものでいっぱいになってしまった。
ぼくが彼女と初めて会ったのは、夕暮れる5月の廊下。
ふわふわと甘い声でハミングしながら歩くヘッドフォンの少女は、おぼつかない足取りでとても危なっかしく見えた。
『前から来る人とぶつからずに上手くすれ違うには、目を合わせれば良い』
ぼくの知るそんなトリビアは何の役にも立たず、真正面からぶつかった彼女は、面白いほどあっけなく廊下に転がった。
「だ……大丈夫!?」
その光景を目にした人がいるなら、ぼくが小柄な女の子にわざとぶつかった、無頼漢にしか見えなかっただろう。幸い放課後の廊下には人影はなく、ぼくは彼女の乱れたスカートから覗く、ミントグリーンのボーダーに気を取られながらも、慌てて手を差し伸べた。
「書くものかして!」
ぼんやりしていた彼女は、ぼくの手を取る事無く、自らも手を差し伸べて要求する。
ぼくの制服の胸ポケットには、いつも5色のマーカーが挿さっている。
こぼれるこぼれると呟きながら、座り込んだまま手指を中空で奇妙に躍らせていた彼女は、ぼくからマーカーを受け取ると、猛烈な勢いで壁に走らせ始めた。
呆気に取られるぼくの目の前に生まれるのは、雑然と書かれた青いおたまじゃくしの群れ。
葡萄酒色に染まる壁に、おそらく書いた本人にしか判読できない譜面が描かれてゆくのを、ぼくはある種の感動を抱きながら見つめ続けていた。
「またお前か、ムジカ・ツァン!」
泣き出しそうな、笑い出しそうな顔でこめかみを押さえる老教師の声で、ぼくは彼女の名前を知った。
「あとで生徒指導室まで来い。淡音春人、お前もだ」
ぼくの頭に拳骨を落とすと、老教師はその場を後にした。状況を最初から目にしていなければ、2人仲良く壁にラクガキしていたように見えても仕方が無い。でも、ぼくにだけ拳骨をくれるのは、時代遅れの性差別なんじゃないか?
頭に浮かんだ旋律を捕まえ損ねたのか。少女は小首をかしげ眉根を寄せたまま固まっている。
「壁を綺麗にしてからだぞ!」
途方に暮れるぼくに、老教師の追い討ちが炸裂した。
ムジカ・E・ツァン。海外からの交換留学生で、専攻はヴァイオリン。
なのに、学園に来てから、彼女がヴァイオリンを弾く姿を見たものは一人もいない。
常にヘッドフォンを手放さないなど、奇矯な振る舞いで有名。
ミューズと呼ぶには少し足りない彼女に付けられたあだなは、音楽室のミュー。
父親はCDが出ているほどの有名演奏家なのだそうだ。
レコードショップのクラシックの棚で確認して、少しだけ感動した。
翌日の昼休みに、彼女の呼び出しを受けた。
あの後、あまり役に立たないムジカと共に壁の譜面を消し、生徒指導室でたっぷりとお説教を喰らった、そのお詫びなんだそうだ。
約束の中庭に彼女の姿が無い事を確認し――思い付きで裏庭に廻ってみる。
ヘッドフォンを掛けた少女が、芝生に座り込んで頭を揺らしていた。
「やあ。お招きありがとう」
待ち合わせは中庭じゃなかったっけ? という問いは省略した。なんとなくだが、彼女の行動パターンが把握できたからだ。
ムジカは顔を上げると、僅かな逡巡の後、手にしたものを差し出した。
「……スペシャルカツサンド。昨日のおわび」
学園の幻のメニュー、スペシャルカツサンド――一日限定15食。ぼくもまだ2度、それも友人から分けてもらってしか口にした事が無い――ひとくち分ほどかじってあるけど。
「……ありがとう。君の分は?」
ぼくのために苦労して手に入れてくれはしたけれど、その芳醇なソースの香りの誘惑に抗いきれなかったといった所か。
「もうたべた。いっしょにたべたかったよ……」
しょんぼり肩を落とす彼女と、かじられたカツサンドを前に、気力が萎えかける。
「じゃあ、半分こにしようか?」
一瞬、大きく目を見開くも、ゆるゆると首を振るムジカ。
「それはきみのぶんだから……」
何故だかだんだんぼくが悪いような気分になってきた。
「それじゃあ、全部あげる」
「?」
「だから半分貰えるかな?」
茫洋とした目でしばらくぼくを見詰めていた彼女は、やがてこくこくと頷くと、ぼくから受け取ったカツサンドを二つに分け、少し考えて大きい方をぼくにくれた。かじったほうだけど。
隣に腰を下ろし、カツサンドを口にする。確かに旨い。けれど、この量じゃあ午後の授業中に腹の虫が騒ぎ出してしまいそうだ。
ムジカはぼんやりとした表情のまま、一定のペースでカツサンドをかじっている。
「これからは、五線譜ノートを持ち歩くと良い。じゃなきゃ、ポケットに入るメモとか……」
「!!」
何を言いだすのこのひと? と云わんばかりの顔を向けた後、すごい勢いで頷いてみせるムジカ。
こんな簡単なアドバイスにこうも感心されると、逆にいたたまれないほどの恥ずかしさを感じる。
「用意しゅうとうだね。それじゃあ、きみのマーカーはどこでも絵をかくため?」
尊敬の込められた眼差しに羞恥が倍増する。ぼくがマーカーを持ち歩く理由は、海外で直に目にしたウォールアートに憧れて、いつか作品を仕上げてみたいと思っているからだ。
もちろん、正式にそれを依頼される実力はまだ無くて、かと言って、無断でゲリラ的に描き残して行けるほどの勇気と無謀さも持ち合わせておらず。ただイメージを掻き立てる壁の前で、画用紙を広げてスケッチしてみるのが今のぼくの精一杯なのだけれど。
だから、躊躇なく白い壁にマーカーを走らせた彼女に、ある種の羨望を抱きつつ見蕩れてしまったわけで。
正直に話してみせると、彼女は
「いつかかけるといいね。わたしも見てみたい」
そう云って微笑んだ。
ムジカの笑顔に何故だか狼狽したぼくは、彼女自身の話しに水を向けた。
絶対音感という物だろうか。2歳の頃からバイオリンを手にし、聞くだけで、楽譜を目にするだけであらゆる曲を弾きこなす能力を持つ彼女は、周囲からさらに高いレベルを求められていた。ムジカは感情を音で表す事でそれに応えたが、次第に求められる物とのずれが生じてきたらしい。
「父さんはもうわたしに期待してないみたい」
「そんなことないだろ……スランプってやつだよ」
アドバイスしようにも、レベルが高すぎる。
同じ茫洋とした表情のまま声を落とす彼女に、門外漢のぼくでは、気休め程度の言葉しか掛けられなかった。
食欲がなくなったのか、食べかけのカツサンドを膝に置き、水筒に手を伸ばす。
ステンレス製の水筒を爪弾きながらちちちち、と彼女が舌を鳴らすと、背にした樫の木から、小さな影が駆け下りてきた。
ふさふさしたしっぽ……シマリスか。慣れているらしく、ムジカの手からカツサンドを受け取り、その場でもふもふとかじり出した。病気の伝染を心配したが、彼女とは昼食を共にする仲というだけのようだ。べたべた撫で回して、爪で引っ掛かれたりしなければ問題はないだろう。
「すごいな。なんだか話が出来るみたいだ」
「エサがあるときのよび声がわかっただけ。鳴きかたの種るいがわかって、ちょうどいい楽器があれば、ゾウでもキリンでもおなじこと」
「そうなの!?」
動物研究者が録音機器でやっている事を、彼女は何の気負いもなく耳と演奏技術でこなしてしまえると言い切っている。冗談のつもりではないのだろう。
「データレコーダって知ってる? 昔のコンピュータでつかってた記憶ばいたい」
現物は見た事は無いが、知識としては知っている。
「あれのかわり、ヴァイオリンでできるよ。音響カプラつかってデータ送ってみたこともあるし」
「なにそれすごい!!」
音のいみがわからないから、ありものの真似するだけだけどねと、自嘲めいた笑みを浮かべる。
「色も形も香りもぜんぶ理解できて、それを表げんできる楽器があればね……」
父さんにだって認めてもらえるのに。
彼女が飲み込んだ、続くはずだった言葉が理解出来てしまった。
こんなにすごい才能を持っているのに、どうして苦しまなければならないんだろう。
口にしたカツサンドは半分だけなのに、ぼくの胸は何か別のものでいっぱいになってしまった。