「疲れちゃうよね」
啓子に初めて声をかけられたのは、中学二年生の春が終わる頃だった。トイレで手を洗っていたところに、隣から突然投げかけられた私は「え」と振り向く。心の声を聞かれたのかと思ってびっくりした。
トイレに来る前、教室で女子たちと騒いでいた輪の中に私と啓子も居たのだ。好きなアイドルやTikTokの人気アカウントがどーしたこーしたと、興味のない話を延々と聞かされていてくたびれた私はトイレに逃げ込んできたというわけだ。
「岩田さん……も?」
この時は、一学期が始まったばかりで、グループというグループがまだ出来上がっていない時期で、啓子と一対一で話したのはこれが初めてだった。啓子は、眉尻を下げて苦笑を浮かべ、こくんと頷いた。
「ってか、顔に出てた?」
「なんとなく、そんな感じかなぁ程度だけどね」
「あちゃー、修行が足りないね」
「佐藤さんは、」
「真樹でいいよ」
「じゃぁ、私のことも啓子で」
啓子も、考え方が私と似ているところがあって、いわゆる普通の女子の会話に面白さを見出せないのだと言う。流行りに疎くて、とにかく飾り気のないその姿に好感を覚えた私は、それから啓子と一緒にいる時間が増えていった。
特に共通の趣味があるわけでもなかった私たちだったけど、啓子と一緒にいる時は無理して顔に笑顔の仮面を貼り付ける必要もなくて、自然体でいられたんだ。
とても、心地よかった。
だから、三年生になってクラスが別れてしまって、啓子がいじめに合ってると知った時は、はらわたが煮えくり返るほどに加害者が許せなかったし、少しでも支えになりたくて、私にできることはなんでもした。
私たちは本当に仲がよかったと思う。
でも、そう思っていたのは、私だけだったのだろうか……。
高校に入って早々に見切りを付けられてしまったかのような啓子の態度に、私は……。
――ガラガラガラ……
物音で、意識を取り戻した私は、夢の中で啓子との出会いを反芻していたことに気づいた。
(何がどうなったんだっけ……?)
思考の追いつかない頭でぼんやりと見覚えのある天井を見つめる。ここは保健室だ。そう理解した時、小さな声がカーテン越しに耳に届いた。
「あ、佐藤さんの荷物? ありがとう助かったわ」
「あの、真樹ちゃんは……」
「まだ眠ってるわ。念のため保護者の方に迎えに来てもらうよう連絡したから、後は大丈夫。ありがとう」
「そうですか、それなら安心ですね。真樹ちゃん、最近すごく眠そうで……昨日も二時間しか寝てないって言ってたから……」
「そう……、あの事を思えば佐藤さんの不安も仕方ないでしょうから……。また何かあったら教えてちょうだい」
「わかりました。失礼しました」
声と会話で、紗百合先生の相手が千尋だとすぐにわかった。まだ重たい頭のせいで起き上がるのが億劫だった私は、仰向けのままドアが閉まるのを待つしかなかった。
その間にも、意識を失う前のことを思い出していた。やってしまった、と恥ずかしさや申し訳なさが後悔の念と一緒に押し寄せてくる。
啓子のことをあんな風に言われてカッとなって、名前もクラスも知らないあの子たちに掴みかかって暴言を吐いて取り乱してしまった。思い返しても自分で自分が信じられない。本当に私がやったことなのか、と疑いたくなるけど、紛れもない事実だった。
「はぁ……情けな……」
彼女たちに謝らなくてはいけない、という思いと、あんなことを言うやつらなんかどうでもいい、という思いがせめぎ合っていた。
「目、覚めたの?」
そっとカーテンがめくられて、紗百合先生が顔を覗かせる。起き上がろうとした私を先生が手で制す。
「まだ寝てていいわよ。お母さんが迎えに来るまで寝てなさい」
「あの、私どうやってここに……」
そのあたりの記憶が皆無だった。
「あぁ、山居くんが運んでくれたのよ。たまたま居合わせたって言ってたわね」
「山居くん……」
「今度会った時にでもお礼言っておくといいわ。……にしても、派手にやったらしいじゃない」
ニヤリ、と口の端を持ち上げて、紗百合先生は意地悪い顔をした。派手にって、一体どんな風に伝わっているのか。湾曲していても嫌だけど、確かめるのも恥ずかしくて私は口を一文字に結ぶ。
(後で先生に怒られるんだろうな)
そう思うと本当に気が重い。
「相手の子たちも自分たちが悪かったって反省してるって、柚木先生が言ってたわよ」
柚木先生とは、確か三組の担任だ。ということは、あの子たちは三組だったのだろう。
「ちらっと聞いたけど……、あまりにも心無い言葉で私も胸が痛んだ。言っていいことと悪いことがあるわよね……」
(そうだ、あんなこと、冗談でも言ってはいけない)
というか、口にした時点で冗談にもならない悪意そのものだ。思い出しただけでも、気分が悪い。胸の奥から、黒いどろどろとした感情が沸き起こってきて、むかむかする。
気絶して寝たから幾分頭はスッキリしているけど、それでもまだどことなくずっしりと重たかった。
「まぁ、相手に怪我させなくてよかったわね」
「……はい」
カーテンが閉じて、紗百合先生が消える。ドアが開いて閉まる音がして、辺りは静まり返った。
私をここに運んできてくれたのが山居くんだと聞いて驚いた。きっとその場に居合わせてしまって押し付けられたのかもしれない。
(とにかく後でお礼を言わないと。それに、掴みかかったあの女子たちにも謝らなきゃ……)
改めて、自分がやらかしたことの重大さを思い知る。
連日の寝不足と心労で平常心を保てなかったとは言え、まさか自分がこんな衝動的に行動してしまうとは思ってもいなかった。
どのタイミングでそれぞれを訪問しようか、算段をつけていると再びドアが開く音がした。紗百合先生が戻ってきたのだろう、私はまだぼうっとする頭が重たくて横になったまま過ごしていた。
なんとなく、足音が気になってカーテンの方を向いていると、そーっと引かれたカーテンの隙間から思いがけない人物が顔を覗かせた。
「っ⁉」
「うわ、わりぃ!」
バチリと目が合って、私は声にならない悲鳴をあげた。
消えてしまった姿に「山居くん」と呼びかければ、恐る恐る再度カーテンが引かれて、ばつの悪そうな顔を見せる。
「大丈夫かよ」
「うん、多分ただの寝不足だから。山居くん、保健室まで運んでくれてありがとう」
「……あんまし根詰めすぎるなよ」
まさか山居くんにまでお説教されるとは思わなくて、私は「あはは」と笑っておく。
「そこ笑うとこじゃねぇからな」
「そういう山居くんだって、目の下すごい隈だよ。もしかしてユートピアやってるんじゃないよね?」
前にもまして眠そうな顔してるくせに、自分のことは棚に上げてよく言うな、と呆れた眼差しを向けると、山居くんはなんとも言えない渋い顔で私を見返した。
(え、それはどういう表情だろう?)
「あー、さてはやってるんでしょ?」
「お前な……」
「へ?」
「いや、……帰る。じゃぁ、またな」
「えっ、無視ー⁉」
シャッとカーテンを閉めて、山居くんは本当にそのまま帰ってしまった。
「なんなの」
再度静まり返った保健室に、私のつぶやきだけがぽつりと零れ落ちた。
*
「あー! ここも収穫なしかぁー!」
【裏ミッションの情報求む!】というタイトルで情報を募集していた掲示板の返信を一通り見終えた私は、ホームにある椅子に座ったまま盛大に伸びをかました。どれも冷やかしや信憑性に欠ける、もしくは既に試した偽情報しかなく、何一つ裏ミッションに関する情報が得られなかった。
「ねぇ、こんっなに情報見つからないってこと、ある⁉ 今のこの情報世界でさぁ」
『それ俺も思った。こんだけニュースで騒がれててさ、意識不明者も増えてるから、なんかしら耳に入ってもいい気がするよな……』
「だよねぇ……、八方ふさがりってこういうこと言うんだね……つらぁ」
『でも、なーんか妙だよな。ミッションの発動条件すら掴めないって……』
猫太のいう通り、情報収集すればするほど変だなと感じていた。行方不明者は既に数百人を超えたと今朝のニュースでも言っていたほど、被害は増えている。それなのに、裏ミッションを辿った人達の話を全く聞かない。
聞き込みをしていっても、入ってくる情報は、条件を満たせば裏ミッションが発動して、それをクリアすると永住権を手に入れられるけど、現実世界では意識不明になってしまうということだけだ。
その裏ミッションがどんなものなのかも、誰かが裏ミッションをやっていたという目撃情報もないのは一体どうなってるんだろうか。
ましてや、永住権を手に入れた人が意識不明後もこの世界で生きているというのなら、裏ミッションのことについて誰かに話していてもおかしくはないはずなのに……。
『――あ、まだいたんだ、二人とも』
「うわっ! びっくりしたぁ」
『ビビらせんなよ、大福……、心臓止まるかと思った……つか、今音しなかったよな⁉』
『ごめんごめん。二人とも真剣過ぎて聞こえなかったんでしょ。で、どんな感じ? ……あぁ、そんな感じなんだね』
「お察しがよろしくてよ、大福。えぇえぇ、どうせ収穫ゼロですよこちとら」
私と猫太のだんまりで色々と察した大福は、苦笑いを顔に浮かべながら私たちの向かい側の椅子に腰掛けた。
『お前は俺たちをほったらかして、こんな時間まで何してたんだ?』
大福は、テーブルの上で肘を組むと、私と猫太の両方の顔を交互に見遣った。
「ま、まさか……⁉」
『おぉっ⁉』と猫太が前のめりになる。私も、大福の意味深な間の取り方に、期待が一気に膨らんだ。今までどんよりと曇っていた空がぱあっと晴れ渡るような、彷徨っていた洞窟からやっと出られるような、そんな爽快な気持ちになる。
『うん……、まぁ、そんな期待されても……なんだけど。ちょっと小耳に挟んで』
「なになに!」
『もったいぶらずに教えろ!』
食いつく私たちとは反対に、大福の仕草には躊躇いが見て取れたのは気のせいだろうか。それほど些細な表情の変化までも読み取って再現できているのか、と疑問が浮かぶが今はそんなことよりも大福の話が気になって仕方がなかった。
『裏ミッションを発動する合言葉があるらしい』
『「合言葉ぁ⁉」』
(「開けゴマ!」的な、あれのこと?)
『え、で? その合言葉ってのは?』
残念なことに、大福は申し訳なさそうに首を横に振る。
『野良ミッションで聞き込みしてたらさ、そのうちの一人が教えてくれたんだけど……その人も合言葉が何かまではわからないって。ごめん』
『そっか、合言葉か、それは頭になかったな……』
ホントにそうだ、と私はうんうんと頷いた。どこかに隠し扉やボタンがあったり、特定の場所に行くと発動したりするものだと思っていたから、私たちはそれっぽいところをひたすら探し回っていたのだ。
それはいくら探しても見つからないわけだ。
「ねぇ大福、私その教えてくれた人と話したい」
『それが……、友だち申請する前にログオフされちゃったんだ……、ごめん』
『うわまじかー!』
「そっかぁ、それは残念だけど仕方ないね……。でも……、その合言葉をみんなはどうやって知ったんだろう……」
私のつぶやきに、二人そろって『確かに』と頷いた。ミッション中に拾ったアイテムに書かれていたとか、遺跡のどこかに記されているとかだろうか。
考えても正解がわからないのがなんとももどかしい。
『これは僕の考えなんだけど……』と大福が前置きをして話し始めた。
『これだけ探して手がかりが出てこないってことはさ……、その合言葉は、誰かから教えてもらったり、探して見つかったりするものじゃない、のかもとか思ったり……』
『ん? どういうことだ?』
私も大福が言っていることがよくわからなかった。
『うん……例えばだけど、ユートピアに選ばれたプレイヤーだけに教えられるもの、とか……、僕もわからないけど』
「確かに……大福の考えも一理あるかも……」
これだけ情報が出回らないのには、やはり理由があると思う。根本的な視点が違っていたのかもしれない。でも、だとしたら……。
『でももし、大福の考えが正解だったとしたら、俺ら打つ手なしじゃね?』
私の頭に過ぎった嫌な予想を、猫太にズバッと言い放たれて私は「うっ」と眉根を寄せる。
(ついさっき真っ暗なトンネルに出口の光が差し込んだと思ったところなのに……!)
『いや、これはあくまで僕の予想だけど……その可能性は高い気がする』
「合言葉さえ分かればなぁ!」
『意識不明者の共通点とかからわかんないもんかなー』
「共通点かぁ……。ホントかどうかは知らないけど、自殺願望があったくら……」
『どうした?』
二人に顔を覗き込まれて、私は慌てて首を横に振った。
「う、ううん、何でもない。あー! ヒントが欲しい! 二人ともそろそろ寝ないとじゃない?」
『そうだなー、今日は諦めて続きは明日にすっかー。さすがに限界だわ』
ふわぁぁ、と猫太のアバターがあくびをした。それもそうだ、時刻は夜中の三時を過ぎている。
『漱石はどうするの?』
「私は、もう少し聞き込みしてみようかなー」
『焦る気持ちはわかるけど、もう少し、肩の力を抜いてみてもいいんじゃないかなって思うんだ。最近ちょっと根詰めすぎてる漱石の体が心配だよ』
『うん、俺もそう思う。倒れたら元も子もないだろ』
二人の優しさに、胸がじーんと温かくなる。
「二人とも心配してくれてありがとう。……でも……私、何としてもあの子を見つけたいの」
見つけて、現実の世界に連れ戻したい。そして……。
『前から聞きたかったんだけど、漱石はどうしてその友だちのためにそんなに必死になってるの?』
二人には、啓子のことは「中学から一緒だった友だち」としか言っていなかった。それでも、傍から見ると理解できないくらい必死に見えているのだろうか、と大福に言われて思う。
本当は、言うつもりはなかったのだけど、こうして二人に探すのを手伝ってもらっている以上、それはできなくて私は告白する。
「あの子がこうなったのは、私のせいでもあるから……」
まだ、啓子に自殺願望があったのかは定かではない。
だけど、色々な状況がそれを物語っていた。私は、啓子のサインに気づいていたのに、見て見ぬふりをしてしまったのだ。
もし、あの時啓子の話をちゃんと聞いて受け止めていれば……、相談に乗れていれば……と後悔してもしきれない。
「だから私が見つけださないといけないの」
悲しみ、苦しみ、後悔、懺悔。
啓子がこうなって、たくさんの感情が押し寄せた。それに飲み込まれて、息が上手くできなくて、苦しい。今もだ。
罪悪感にさいなまれたのも事実で、これは決して美しい友情劇ではない。ただ私が、苦しい今から抜け出したいだけの傲慢なストーリーだ。
啓子を見殺しにした自分が、今をのうのうと生きていることが卑怯で、とても醜く見えてしかたなかった。
「もう一度あの子に会いたい。それが一番だけど……会えたら、言いたいこともあるの……」
啓子に会って、聞きたいこともある。
『言いたいこと……?』
「うん、そう。だから、これはあの子のためじゃなくて、私のためなの」
『漱石の――…………、……』
急に、大福の声が途切れた。ジージー、と電子音が混じり聞き取れなくなる。大福のアバターの口は動いているから何か言っていることは間違いないのだが、音声だけが聞こえなかった。
「ん? ごめん大福、聞こえない。ボイチャの調子が悪いみたい」
『――……聞こえてる?』
『今聞こえた』
『だから、じ――…………で、……の…………いよ』
「おーい、大福ー! またボイチャ不良」
『――……あれ……おかしいな、なんか急に……』
「あ、直った」
『……えっと……、たとえ漱石が自分のためにやってることだとしても、そこまで必死になってくれる人がいるなんて、漱石の友達は幸せ者だねって言おうとした……だけだよ』
大福の言うように、啓子がそう思ってくれるとは私には思えない。もし啓子が今の私をみたら、「何を今さら」と怒るだろう。
見いて見ぬふりをして、自分を邪険にしたくせに、罪悪感から解き放たれたいがために尻ぬぐいをしているだけじゃないかって。
「……だといいんだけど……」
怒る啓子の顔がありありと浮かんで、私は大福の言葉に曖昧に笑って返すことしか出来なかった。
*
翌日の昼前、寝起きの冴えない頭で階下に降りていけば、物音ひとつしないリビングが私を迎えた。コップに水を注いで一気に飲み干して見回すと、テーブルの上にラップにかけられた昼食が置かれていた。
『温めて食べてね。冷蔵庫にサラダもあるよ』
母の字でそう綴られたメモを手に取り、そっと元の場所に戻す。
今日は、頭痛がするからと学校を休んだ。昨日も遅くまでやっていたせいで頭が鉛のように重たくてとても学校に行ける状態ではなかった。
嘘ではないけれど、正当な理由ではないことで学校を休む罪悪感を覚えつつも、私は今日やるべきことを心に決めていた。そのためについさっきまでぐっすり睡眠もとった。
コップに水を再度注いでから、私は自室へと戻りパソコンの電源を入れる。慣れた手順でユートピアへを起動した私はVRゴーグルを装着した。
この瞬間が、好きだった。
特別な場所へ行くための、ちょっとした儀式のようで、心がわくわくする。
でも、今日は不安と期待、そして少しの恐怖が胸の中で混ざり合っていた。
(大丈夫、私の勘は割といい方だ)
根拠のない言葉で自分を落ち着かせようと試みたけど、依然胸のざわつきはおさまらないので深呼吸を一つ。そうこうしている間に、タイトルコールが現れて「ログイン中……」の文字が現れた。
いくつかのユートピアの映像が流れているうちに、視界が開けホームにログインした。
(よかった、誰もいない)
みんなが学校に行っている時間帯の今がちょうどいい。私は、昨夜――と言っても今日の明け方、大福たちとの会話中に頭に浮かんだあることを試すためにやってきたのだ。そして、それは猫太と大福のいない時にやりたかった。
もし、私の勘が当たっていれば、私はそのまま裏ミッションに入るだろうから。
裏ミッションがどんなものなのか、想像もつかないため、私はとりあえずホームにあるアイテムを入れておくインベントリから武器や防具、回復アイテムやポーションなどを取り出して荷造りにかかった。
「よし、こんなもんかな」
一通り必要そうなものを詰め込んで、準備が整った。
どこというわけもないのだけど、ホームから出ると少し開けた草原まで歩いて進んだ。今となっては、アバターはもはや私の体の一部と化していた。日を追うごとに、そのシンクロ度と正確さが高まっているのが自分でもよくわかるほどに。
「この辺でいいかな。……ってか、合言葉って、ただ言うだけでいいのかな……」
(ちょっと緊張する……)
息を吸って、吐いて。
(私は、きっと大丈夫)
更に深く吸って、ゆっくりと吐き出す。
――意識不明者の共通点とかからわかんないもんかなー。
私は、猫太の言葉で、頭に浮かんだ言葉を口にした。
「Farewell to the real-world《現実世界にさよならを》!」
拙い英語の発音で言い終えるや否や、視界が光に包まれ始め、眩しさに耐えかねて目を瞑った。
(やった! ビンゴ!)
自分の勘が正しかったと証明され、私は思わずガッツポーズを取った――その時、
『今だ!』
「え、何⁉」
叫ぶような声がスピーカーから聞こえ、驚いた私の体がビクつく。大きな声が出てしまい、まずいと思ったけど、今が両親の居ない昼間だと言うことを遅れて思い出した。
視界は眩しくて、見ることも身動きすることもできないまま、光が和らぐのを待って目を開けると目の前には、
『よっ』
と片手を上げる猫太と、少し気まずそうな顔の大福がいて私は言葉を失う。
「……な、なんで……っていうか、ここは……?」
――ピコン
【おめでとうございます!
新しいミッションがスタートしました!
詳細を指示書から確認しましょう】
辺りを見渡そうとした矢先、通知音と共に視界の左端に文字が表示された。それは、ミッションを開始した時に表示されるお決まりの合図。
「――ということは……」
『裏ルートに辿りついたのか⁉』
『どうやらそうみたいだね』
「やったぁー! やったやったー!」
ハグのエモートを使って三人で肩を抱き合った。
「ってそうじゃなくて! なんで二人がいるのよ!」
『なんでって、お前の考えてることなんかお見通しなんだよ。な、大福』
笑顔の猫太と、その隣で首を縦に振る大福を見て、私は心の奥で安堵していた。本当は、一人で行くのが怖かったから……、今、二人がここにいることがとても心強い。
「二人ともなんでそんなに優しいのぉ」
感極まるって、こういうことを言うんだ。ユートピアで意識不明になった啓子を探すという私の、無茶苦茶な考えにも真摯に付き合ってくれて、危険かもしれない裏ミッションにまでついてきてくれるなんて。
(もう、どう感謝したらいいのかわからないよ)
滲みそうになる涙を必死に堪えたけど、ずっずっ、と鼻を啜る音がマイクに拾われて辺りに響いてしまう。私のアバターは今どんな顔をしてるんだろかと、知りたいような知りたくないような複雑な気持ちになった。
『感動するのはまだ早いだろ。家に帰るまでが遠足だからな。さくっとお前の友だち見つけて帰ろうぜ』
「そうだね。――そういえば、ここどこなんだろう」
辺りを見回せば、どうやらどこかの遺跡のようだった。これまで色んな遺跡に行ったけど、どれ一つとして同じ造りのものはなかったから、ここもきっと他とは異なっているはず。
『さすが裏ミッション、地図も表示されないわ』
遺跡の中でマップも使えないとなれば、迷いかねない。ミッション中に万が一ゲームオーバーになってしまえば、もしかしたら二度と裏ミッションには挑めない可能性だってある。
そうなれば、啓子への手がかりが完全に絶たれてしまう。
気を引き締めなければ。
「とにかくミッションの指示書見よう」
このミッションがどんなものなのか、まずはそれを確認するべく私たちは指示書を閲覧する。そこには、こう書かれていた。
「遺跡の最奥の間に辿りつき、パズルを完成させよ。さすれば試されるだろう」
『パズルかー……、試されるって何をだ?』
『さぁ……』
「例の永住権とかってやつかな……」
『かもな』
ゴクリと生唾を飲み込んだ。
(とうとうここまで来ちゃった……)
もう、ここまで来たら戻れないことはわかっていたけれど、やっぱり啓子を探す道は永住権を手に入れるしかないのかもしれないと思うと背筋に冷たいものが走った。
でも、悲観するのはまだ早い。もしかしたら道中で何か手がかりが見つかる可能性だってある。
「行こうか……」
私たちは、目の前にある一つの通路を進んだ。
*
遺跡は石造りで、分かれ道は右手に進んでいこうという大福の提案で、私たちは遺跡をどんどん進んでいった。石の壁には、エジプトのピラミッドに描かれていそうな象形文字のようなものが刻まれている。
『なんか、こうして見ると、どっかの国の遺跡に観光に来たみたいだよなー』
呑気な声に「だねー」と適当に相槌を打ちつつ、いつ魔物が現れてもいいように私は周りに目を配っていた。他の遺跡と違う点は、窓があるわけでもないのに辺りは明るく、松明が要らない点で、それ以外に特段変わった様子はなさそうだったが、それが逆に心配になる。
いつ何が起きるのか、予想がつかないのが怖い。
『そういえば、漱石は、どうして合言葉がわかったの?』
大福が思い出したかのように私に尋ねる。ちょっと迷ったけど、私は啓子のお母さんから聞いた話を二人に伝えた。
話を聞き終えた猫太は、『現実世界にさよなら、ねぇ……』と呆れたようにつぶやく。私はそれを聞いて、なんとも言い表せない複雑な気持ちになった。
私だって、ユートピアの中で暮らせたら……と思いを馳せたことが山ほどあった。
だけど、そんな御伽噺のようなことが実現できると知り、こうして裏ミッションに挑んでいる私は、心底そうなることを恐れている。
意識不明になって眠る啓子と、涙に濡れるおばさんの憔悴した姿を目の当たりにして、私は自分の願いがいかに浅はかでなんの覚悟もない薄っぺらいものだったかを思い知った。
(こんなに、怖いのに……。啓子は怖くなかったの?)
返事がこないとわかっていながらも、そう心の中で問いかける。
それほどまでに、苦しんでいたってことなんだろうと思うと、胸が痛い。SOSを出していたのに……。きっとそれだってやっとの思いだったはず。
もがき苦しみ溺れそうになった時、最後の望みを賭けて伸ばした手を、振り払われてしまったのだ。
啓子を海に沈めてしまったのは、紛れもなく、この私だ。
だから、私は彼女を海の底まで追いかける。そして、引き上げたい。
彼女はまだ、息の出来ない海の底で生きているはずだから。
現実世界で彼女の体が眠っている限り、きっと彼女はここにいる。
私はそう確信を抱いていた。
『でもさ……』と今度はそれまで黙って聞いていた大福が口を開く。
『漱石の友達は……自分でそうなることを選んだんだよね』
「……うん……たぶん、そうだよね……」
『だったら、やっぱり漱石が身を挺してまで探す必要はないんじゃないかなって思うんだ』
返す言葉が見つからなかった。
『それにさ、そもそも友達は、それを望んでるのかな? ……僕には、そうは思えなくて……』
それは、ずっと考えないようにしていたことだった。
――望んで意識不明になって、意識だけが今もこの世界で生きてるって噂。
本人に聞けない以上、想像でしかないけれど、啓子もきっとここで生きることをを望んだんだろう……。何が辛かったのか、苦しかったのかは、今もわからないままだけど、現実世界で生きるのが嫌になって、逃げ出したくてユートピアで生きる道を選んだんだ。
それなのに、私はそこから啓子を連れ戻そうとしている。逃げ出すほど嫌いな現実世界へと。
『大福……、お前、この期に及んでどうしたんだよ』
猫太が咎めるように言った。確かに、と私も疑問に思った。これまでずっと文句一つ言わずに手伝ってくれていたのに……。どうして急に反対するようなことを言うんだろうか、と大福の心を推し量る。
大福も、私と一緒で怖くなったのだろうか。
「さっきも言ったけど……私は私の犯した間違いを清算したいだけなの……。だから、もしあの子に会って話せたとして、それでもあの子がこの世界に残りたいって言ったなら……っ……」
その先を言おうとして、言葉に詰まった。喉が押しつぶされたかのように塞がり、目の奥がツンとする。私は慌ててマイクをオフにした。
(啓子がもし、戻りたくないって言ったら……。私は、どうすればいいの……?)
『おーい、漱石?』
『どうかした?』
こみ上げてくるものを口をぎゅっと閉じてどうにかやり過ごすのに必死で、二人の声に反応できなかった。じわりと、涙がにじむ。これも、アバターに反映されてしまっているかもしれない、と思い、俯いて目をぎゅっと瞑り涙を散らす。
(今は裏ミッションの真っ最中なんだからしっかりしなくちゃ)
啓子を、連れ戻せなかったらなんて、そんなこと考えたくもない。
私は必ず啓子を連れ戻すって決めたのだ。
「ご、ごめん、なんか通信が急に悪くなったみたい」
マイクをオンにして、私は心配する二人に笑顔を向けた。
「さっきのつづきだけど……。私、あの子がこっちに戻ってくれるって信じてる。だから、絶対に連れ戻すよ」
『そ、そのことな……、…………――……』
『えー、大福またボイチャ不良かよ』
「ははっ、ホントだ」
『戻ってこーい』
『……ごめん、なんか僕のボイチャ最近調子わるいね……――あっ、漱石!』
大福の声よりも早く私は動いていた。
(って言っても、頭でイメージするだけだけど)
私は振り向きざまに、手に持っていた盾で迫る魔物の体当たりをガードして魔物を押しやると、間合いを詰めて剣を振り下ろした。手にはジンジンと魔物を切った手ごたえを感じていた。
シュー……という効果音と共に黒い魔物は消えていくのと同時に『おー!』と猫太から歓声があがってちょっとした優越感を抱く。
『漱石、今の、気づいてたの……?』
大福の驚く声に、私は苦笑した。
「なんか、気配感じた」
自分でも不思議だったのだけど、それは本当だった。
気を張っているせいか……、いや、でも意のままに操れるようになる前だって注意してミッションに挑んでいたけど、こんな風にはならなかったなと思い直す。
たぶん、この遺跡に来てからだ。
なんとなく空気を肌で感じるというか……。今のも、言葉で表すのが難しいんだけど、嫌な気配がして、その後にフワッと風を感じたのだった。
(何言ってるの……、風を感じるわけないじゃない……)
自分で言っておきながら、その違和感に突っ込みを入れる。
『なんだそれ、神ってんじゃん』
冗談で言っていると思ったんだろう、茶化す猫太に「でしょ」と返して私は前に向き直り周りを見渡す。魔物が一匹とは限らない。
『来たよ』
つぶやくような大福の声でそちらを見遣ると、ぞろぞろと現れた魔物が私たちを取り囲んだ。
「囲まれちゃったね」
『これ、何匹いんの? 多くね?』
『まぁ、やるしかないよ』
私たちは冒険RPGらしく、背中を合わせて円陣を組んで臨戦態勢を組んだ。
魔物は最初、大きな犬かと思ったけど、その口からは見るからに狂暴な鋭い牙が生えていた。シルエットは、さながらサーベルタイガーだ。
ガルルルッと喉を唸らせて、今か今かとこちらを威嚇していた。
そして、何か合図があったかのように、魔物たちは一斉に飛びかかってきた。
予想通りの早いスピードに、私たちは盾と剣で立ち向かう。
その間も、私の違和感は顕著だった。
剣を振るう度に風を切る感覚、一歩踏み出す石の固さ、吸い込む空気の埃っぽさ、振り乱した髪が顔に張り付く不快感、そのどれもがまるでリアルに起きているかのように鮮明だった。
その感覚に戸惑っている暇もなく、私は次々に向かってくる魔物を切り倒していった。
『――いっ』
「大福!」
声に振り向くと、大福の腕に魔物がしっかりと噛みついていた。数が多すぎて、二人の方にまで気が回らなかった私は、剣をその魔物めがけて投げつけた。命中して魔物が地面に倒れる。大福の腕は血まみれで、私に『ありがとう』と言った彼の顔は、痛みに歪んでいた。
『漱石、後ろ後ろ!』
「わかってる!」
インベントリから新しい武器を取り出すと、目の前まで迫っていた魔物に突き刺す。
「大福、今のうちにエイドキット使って」
『ごめん、ありがと!』
だいぶ数が減ってきたところで、大福を私と猫太の背中で挟み、傷の手当を促す。止血処置をしないとHPがどんどん減っていってしまうため、早期の治療が必要だった。
ふと、猫太の剣捌きが視界に入り、いつ見ても無駄がないなと感心する。
私と同時期にスタートしたのに、ゲームセンスは猫太の方が確実に上だった。
『漱石!』
私が一匹を剣で食い止めている所に、もう一匹が飛びつこうと地を蹴るのが視界の端に見えた。剣にがっちりと嚙みついた魔物の力が強くて、押しやれないし手が離せない。
ぐぐぐ、と押される感覚を手と腕にひしひしと感じながら、私はどうすることもできなかった。
(あー、だめだ、来るー! 壁が欲しい!)
ゲームの世界なんだから、にょきっと地面から壁が現れてガードにできるとか、魔法使いが来て助けてくれるとか、そういうの有ってもいいんじゃないのか、とやけくそになった時、
ブォンッ!
音と同時に『ギャンッ』と魔物が鳴いた。
目を瞑っていた私が目を開けると、地面に体を打ち付けて悶絶する魔物が視界に入った。
(え、何がどうなったの?)
猫太か大福が助けてくれたのだろうか、さっきの音はなんだったんだろうか、疑問が浮かんで視線をずらした私のすぐ右隣に、大きな「壁」があることに気づいた。私の背丈をゆうに超える高さのそれを見上げた。
「か、壁……?」
『なんだぁ?』
『え、壁?』
(いや、壁が欲しいって確かに思ったけども……)
まさかそんな、本当に出てくるなんて……。予想外の出来事に私もみんなも動きが止まる。でもその間も魔物の手は怯まないので、私はとりあえず力を振り絞って剣に噛みついていた魔物を振り切った。
(じゃぁ、もしかしてこんなこともできたりして……)
私は頭の中で、つい最近読んだ漫画のワンシーンを思い浮かべる。
すると……、
ズドンズドンズドドドーンッ!
とけたたましい振動と音と共に、岩の棘が複数個地面から突き出して魔物を次々と倒していった。
『おおおぉー!』
『す、すごい……!』
「やっば……」
生き残った二匹を猫太が倒して、場に静寂が訪れた。ハッとして大福を見ると、治療を終えて血まみれだった腕は元通りになっていてほっと胸をなでおろす。
『今の……もしかしてお前?』
「あはは……、そうみたい」
『何がどうなってるの、漱石……』
「私にもさっぱり……、なんか念じたらなった……」
『まじで⁉ 魔法じゃん! え、じゃぁさ、この飛び出たトゲトゲなくせたりすんの?』
「え、どうだろ……やってみる……?」
頭で「なくなれ」と念じてみれば、突き出ていた棘がズズズ、と引っ込んで床が元通りになった。
「できちゃうんだ……」
『うっわ、ガチなやつじゃん……えっぐ!』
確かにこれはえぐいなと自分でも思った。戦闘中に感じた風や感触は今も健在で、どこからか隙間風のようなものが吹いて足元を流れているのがわかった。
私は一体どうしてしまったのか、と不安になる。
まるでこのユートピアが本当に存在して、私もこの世界の人間になってしまったかのような、シンクロ率がどんどん高くなっていくような、不思議な感覚だった。
『ね、ねぇっ、やっぱりなんか変だよ、漱石……。今からでも遅くないから、戻った方がいいんじゃ……、』
言いかけて、大福はハッと何かに気づいて口をつぐんだ。手をぎゅっと握りしめて、『ごめん、やっぱり何でもない……。先に進もう』と振り絞るように言う。
「大福……心配してくれてありがとう。でもごめん、ここまできたら最後まで進みたい」
『まぁ、そうだな……、でもよ、漱石のこの力があればなんとかなりそうな気がしてきたぜ、俺は』
「ったく、猫太はお気楽なんだから」
『うっせーな! 俺はな、この微妙な雰囲気をだなぁ、』
「あーはいはい、わかってます、どうもお気遣いありがとうございます」
『うっわ、心こもってねー!』
『……ふっ、……あはははは!』
堪えきれず噴き出した大福に、私と猫太は目を見合わせて笑った。
『やっと笑ったな、大福』
『え? 僕、そんな暗い顔してた?』
「うん、今日ずっとね……」
後悔してるんじゃないか、と思っていた。
だとしても、誰も大福を責めることなんてできないし、後悔して当然だ。
だって、もしかしたら自分たちまで意識不明になって現実世界に帰れなくなるかもしれないのだから。
『ごめん。漱石の、友達を救いたいっていう気持ちは理解できるんだけど、どうしてもこの先に進むのは危ない気がして……。僕は、二人にまで危険な道を選んでほしくなかったっていうのが正直な気持ちだったんだ。でも、もう……――から、あとは先に進むしかない』
「あ、大福、またボイチャが、もう一回言――っ⁉」
急に視界が真っ白になった。
眩しくて目を閉じる。
『どこだここ⁉』
『な、なんで……』
二人の声に目を開けると、私たちはさっきまでとは違う場所に居た。同じ遺跡の中だと思うけど、四方を囲まれた広間のような四角い部屋だった。
「もしかして、ここが最奥の間……?」
部屋の中心には、何か台のようなものが置かれていて、私は吸い寄せられるように歩を進める。
『なんだこれ、パズルか?』
猫太が隣で首をかしげる。正方形の石板がいくつも並んでいて、確かにパズルみたいだ。四×四の計十六枚の石板があり、刻まれた文字のような不思議な絵柄はちぐはぐで繋がっていない。
『これを、解けってことなんじゃないかな』
大福の提案を耳で聞きながらも、私はそのパズルの隣に埋め込まれた、丸い透き通る綺麗な石に目が惹かれる。傷一つないそれは、ふわーん、ふわーんと途切れ途切れに鈍い光を放っていた。
私は、それにそっと右手を重ねてみた。なんとなく、そうすべきだとと感じて、気づけば体が勝手に動いていたのだ。
包み込むように触れれば、ほんのりとあたたかいそれが光を増す。そして、石板が、すーっと勝手に動き始め、刻まれた絵柄が繋がっていく。そしてあっという間に全てが綺麗に揃い、それまで十六枚のパーツだったものが全てくっついて一枚の絵となった。
すると、またしても視界が真っ白になる。
今度はどこに飛ばされるんだろうか、と考えていたら、目を開けたらさっきと同じ場所で一安心、したのもつかの間、
『――待ちくたびれたぞ!』
「ぎゃぁっ!」
『うわぁっ』
突然聞こえた声と共に、いつの間にか目の前に何かが現れ、私たちは一様に驚きの声を上げる。
「ゆ、ゆっぴい⁉」
*
ぷかぷかと宙に浮いたそれは、ユートピアの案内役キャラクター・ゆっぴいだった。
『っふー! 生き返ったぁー!』
黒猫のフォルムを丸っこくした、とても可愛らしいアバターで、グッズ販売もされているユートピアのアイドル的存在の彼は、チュートリアルやイベント発生時などにちょいちょい登場する。
普段、ゆっぴいは「はじまりの広場」という、初心者が最初に行く場所にいる存在で、質問したり、初心者が次にやるべきことを教えてくれる指南役だが、私たちのように独り立ちしたプレイヤーにとってはそこまで関りはなかった。
ぐーんと両手を高く上げて伸びをするゆっぴいを、私も二人もぽかんと口をあけて見上げる。思いもよらぬ存在の登場に思考がストップしていた。
『ほほう、期待以上だな』
顎に、ピンクの肉球のついた丸っこい手を添えて、ゆっぴいは私をなめるように見た。
(なんだろう、可愛いはずなのに、すっごいいやな視線に思えるのは……)
『ここまでシンクロ率を上げてくるとは、余程ユグドラシルの欠片との相性がよかったんだな』
「シンクロ率? ユグドラシルの欠片……?」
『そうだ。お前、ミッションで拾っただろう。お前からぷんぷん匂うぞ』
「そんなもの、……」
拾ってない、と言おうとした私は、記憶の中にそれらしき出来事を見つける。
(確か、遺跡でのミッション中……)
不思議な空間に置かれたキラキラと光る何か。触れた途端に消えてしまったもの。
「あれが……?」
『な、拾っただろ』
「でも、インベントリにはなかった」
『体に吸収されるんだよ、あれは。んで、それと相性がいいほどこの世界に馴染んでく』
『馴染んでくって、あれか、コントローラー操作しなくても動かせるやつか?』
『そうだ。ユグドラシルはこの世界の全てのシステムを司る存在だからな』
ゆっぴいは、くりくりの瞳を悩まし気に目を細め『しかし』と続ける。
『悪意に侵されたユグドラシルの体の一部が、苦しみのあまり自我を持って暴走してしまった』
『自我が暴走って……、それは、このゲームのシナリオのことなんだよね?』
その言葉に、大福を振り返る。これがゲームだということを、自分が忘れかけていたことに驚いた。それを忘れるくらい私は没頭してしまっていたのだろうか。
『いや、ユートピアはもう開発者の手を離れておる。ユグドラシルは自我を目覚めさせこの世界を管理し、俺さまもユグドラシルの手によってシステムから独立していた』
(していた、って……)
その意味深な言葉尻を拾うべきかどうか考えていれば、『なんで過去形なんだよ』と猫太が代わりに突っ込んでくれたので、私は黙っておく。
『さっき言った暴走した自我――マリスがシステムを書き換えたせいで我々は一部のアクセス権を失っている。そして、マリスに支配される直前にユグドラシルが作ったのが、このミッションだったが、俺さまはマリスに邪魔されてここに閉じ込められていたんだ。だけどお前が石板を修復したおかげか、解放された。礼を言う』
突拍子もない話に、頭がついていけない。
(これは本当に現実に起こっていること? でも、シナリオから外れていることまで含めてシナリオ内っていう可能性も捨てきれないよね?)
だけどそれを確かめる術がない今、私はゆっぴいの話を信じるしかないのだと、必死に耳を傾ける。
『この石板を修復できる選ばれし者、それはユグドラシルとシンクロできる力を持つことを意味する。それがお前だ』
ゆっぴいは、丸い短い手を伸ばし、人差し指――と思われる指から爪をむき出しにして私へ向けた。
「わ、私……?」
*
思いもよらない出来事に、まぬけ面を晒しているだろう私をまっすぐ見つめて、ゆっぴいは『そうだ』と力強く言い放つ。
『この石板は、いわゆる試練でもあった。これまで数々のプレイヤーが石板に触れたがパズルを解くだけで修復できた者は一人もいない』
「こ、ここに来た人たちはどうなったのっ⁉」
私はここに来た本来の目的を思い出し、口にする。噂が本当なら、啓子もここに来たはずだ。もしかしたらゆっぴいは啓子のことを覚えているかもしれない、行方を知っているかもしれない、と期待に胸が膨らむ。
『石板を修復できなかった者たちは強制的に遺跡の外に戻されて終わりだ』
『終わりって?』
『ミッション失敗というだけの話だ』
「そんなはずは! 現実世界では、このミッションに挑んだ人達が次々に意識を失って倒れて今も目を覚ましてないのに!」
期待外れの話に思わず責めるような口調になる。すると、ゆっぴいは『なんだって⁉』と瞠目した。
『それは本当か⁉ たまたまではなく?』
『いや、俺たちだって人聞きだから確証はないんだけどよ……。で、そいつらは今もユートピアで生きてるって噂なんだよ』
『ここで生きてる……? ふむ、ずっと不思議に思っていたんだ。このミッションの発動条件はそもそも欠片を手に入れること。なのに、これまで来たプレイヤーは誰一人として持っていなかった……。となると考えられるのは、システムが書き換えられた可能性があるということだな」
「私、欠片をゲットしても何も起こらなかった」
光っただけで終わったから、何かのバグかと思って気にもしていなかったのだ。
『……ならお前たち、どうやってここに来たのだ?』
「意識不明になった子のパソコンの画面に表示されてた『Farewell to the real-world』って言葉を唱えたら来れたのよ」
『なるほど……どうりで……』
ゆっぴいは、うーん、と唸った。そしてしばし黙り込んだ後、ゆっくりと口を開く。
『だとすると、このミッションも我々が気づかない間に一部が書き換えられてしまった可能性が考えられる』
『ということは、その合言葉も、ミッションクリア後の永住権も意識不明も全部そのマリスの仕業ってこと?』
『まずそれしか考えられんな』
(じゃぁ……どうすればいいの?)
足がすくむ感覚に囚われて、みぞおちのあたりがもやもやして気持ち悪い。
ゴールが、どんどん遠ざかってしまった。
やっと……やっと手が届きそうだと思ったのに、遠ざかるどころか、そこへ辿りつく道すら失ってしまった。
『漱石⁉』
焦燥感と虚しさに、私は脱力してその場にくずおれてしまった。
『大丈夫かよ』
「あはは……、ごめん、ちょっと気が抜けて……」
どうにか足に力を入れて立ち上がった私は、ふと浮かんできた疑問を口にする。
「このミッションは選ばれし者を見つけるためのもので……それが私だったっていうとこまではわかったけど、その後は?」
ゆっぴいの口ぶりからして、このミッションがマリスに関係していることは明白だったから、本来の目的はなんなのだろうかと気になった。とにかく今は目の前のことを一つ一つこなして、マリスに関する情報を集めるしか道はないのかもしれないと思い始めていた。
『うむ、よい質問だ小娘』
(こんな猫に小娘って呼ばれるの、なんだか複雑……)
私はじっとゆっぴいの金色の猫目を見つめた。
『ユグドラシルの願いは、ユートピアの破壊だ』
三人から言葉にならない驚嘆の声が上がった。一体どういうことなのか、とゆっぴいの話の続きを待つ。
『マリスの暴走で浸食は進むばかりで、メインシステムを守るユグドラシルの体力も限界を迎えつつある。お前たちの話が本当だとすれば、プレイヤーがこの世界に引き込まれてしまったのも全てマリスのせいだろう。ユグドラシルはマリスにユートピアの全てを取られてしまえば、大変なことが起こると考え、マリスもろともこの世界を破壊しようとしているんだ』
「そんな……」
ユグドラシルがユートピアの破壊を望んでいるなんて、寝耳に水だ。だって、ユグドラシルはユートピアそのもので、ユートピアのすべてだから。
『さっき、マリスにシステムを乗っ取られたと言ったが、それは全てではない。核となるメインシステムはユグドラシルが今もどうにか死守しているから、アイツができることと言えば、魔物を増やすことくらいだろう。しかし、マリスの侵入を防ぐのに手一杯で、こちらから手を加えたりマリスを攻撃したりする余力はユグドラシルには残っていない。だから、ユグドラシルとリンクできるお前には、メインシステムにアクセスしてユートピアの破壊を手伝ってもらいたい」
ガツンと頭を殴られたように、何も考えられなくなる。
(私が、ユートピアを破壊する?)
どう考えたって非現実的な話に、私の胸はざわつきを押さえられない。そもそも、そんなことが可能なのかどうかさえもわからないのに、やれと言われても……。しかも、大好きなユートピアを壊すだなんて。
『断わるっていう選択肢は?』
『おい大福、決めるのは漱石だぞ』
間髪入れずに言い放った猫太に大福が『わかってる。僕はただ選択肢として知っておくべきだと思っただけだよ』と返す。
『もちろん可能だ。その時には、ユグドラシルの欠片は回収させてもらうがな』
「もし、ユートピアを破壊したら、今プレイしている人達や意識不明になった人達はどうなるの?」
『まさにマリスが欲しがっているのがそのプレイヤーなんだ。奴は、この世界を自分に同調するプレイヤーだけにするべく、プレイヤーのデータベースを手に入れようと攻撃を仕掛けてきている。データベースは今もユグドラシルが守っているから問題ないが、それも時間の問題だ』
『時間の問題って……、もしマリスってヤツにデータベース取られたらどうなるんだよ⁉』
その問いかけに、ゆっぴいは腕を組んで唸った。すごく深刻な話をしているのに、ゆっぴいの可愛らしい見た目とのギャップが激しくて、違和感しかない。
『どうなるのかは、正直なところ俺さまにもわからない。何ごともなくログアウトするかもしれないが……、お前たちの話を聞いた限り、最悪この世界に閉じ込められたプレイヤーは現実世界で意識不明になるかもしれないな』
「そんな……」
もしも、その「最悪」が起きたら……。
『一体どれだけの人がプレイしてると思ってるんだよ!』
登録ユーザー数が六千万人超だから、少なく見積もっても数百万人はリアルタイムでプレイしている可能性が高い。
その人たちがみんな意識不明になったらなんて、想像もできないし、想像したくもない。考えただけでも鳥肌が立ち、私は腕をさすった。
『マリスになぜそんなことができるのかは不明だが……。このままではそれが起こる可能性が高いのが現実だ。最悪の事態を避けるために俺さまとユグドラシルは、選ばれし者をずっと待っていた』
(その選ばれし者が、私……)
ゆっぴいの金色の猫目が私をまっすぐ捉える。
猫太と大福も私の方を向いて、複雑な表情を浮かべていた。
「本当に、私にできるのかな……」
『お前にしかできない』
(私にしか……できない……)
それなら、選ぶ道は一つしかない。
*
「私、やってみるよ」
『本気かよ』
『危ないよ! 漱石がやらなくても、他の人が現れるかもしれないんだ、わざわざ危険な所に自分から飛び込むなんて――』
「――現れなかったら?」
『……それは……』
「もし、次の選ばれし者が現れるより先にユグドラシルの体力が底を尽きたら、あの子はそのまま目を覚まさないかもしれないってことでしょ」
(そんなの、絶対嫌)
少しでも可能性があるなら、私はその道を選びたい。
しなかった後悔は、もうこりごりだ。
これまで私は、何をやっても「そこそこ」で中途半端だった。
そんな自分が嫌なのに、私は人のせいにして逃げてばかりいて、どうにもできない自分を認めることも変えることもできなかった。
でも、私は私で、決して誰かにはなれないし、他の誰かも私にはなれない。
(それなら私は、なりたい私になるしかないじゃない)
向こう見ずなのは、百も承知。
(私は、もう逃げないって決めたから)
「それに、ユグドラシルが苦しんでる姿を見るの、実を言うと苦しかった」
ゲームの中のことなのに、そう感じるのはおかしな話かもしれない。だけど、私はユートピアで「生きている」と生を感じることができたのだ。それくらい、私の一部になっていた。
――だからこそ、苦しい。
この世界に住んでいる住人も、生き物も、ユグドラシルも、実在しないはずなのに、私の中で大きな存在になってた。それが、どんどん悪意に侵されて苦しんでいる姿を見ていくのは悲しいし辛い。
しかも、それをこの世界を作ったとされるユグドラシル自身が望んでいるなら……。
(私は、ユグドラシルの願いを叶えてあげたい)
ましてや、マリスという訳の分からない自我とやらに、私の大好きな世界がめちゃくちゃにされてしまうのを黙って見てるなんてできるわけがなかった。
「だから私、やるよ。どうしたらいいの、ゆっぴい」
結果的に、それが啓子を救うことになると信じて、私はゆっぴいに訊ねる。
『シンクロ率の高いお前なら造作もない。ユグドラシルの守るメインシステムに入り、システム破壊のコマンドを入力するだけだ』
「そのコマンドっていうのは?」
『俺さまは知らない。行けばユグドラシルが教えてくれるだろう』
私は「わかった」と頷く。もう、ここまできたら、後は流れに身を任せるしかないと腹を括った。
『俺もついてく』
「猫太」と声を出せば、『止めたって無駄だぜ。最後まで付き合うって決めたんだからな』と間髪入れずに遮られてしまう。
『――おぬしはどうする? 見たところ戻りたくなさそうだが』
ゆっぴいの視線が大福に注がれる。大福もまた、厳しい表情でゆっぴいを見上げていた。戻りたくないというのは、ミッションから外れたくないということだろうか。
(私としては、これ以上二人を危ない目に合わせたくないというのが正直な思いなのだけど……)
『……乗りかかった船だからね。僕も最後まで見届けるよ、漱石』
「もう……大福まで……。でも、二人が一緒だと心強いよ」
二人には、何度感謝を伝えても足りないくらい助けられている。そのせいで、ありがとう、という言葉がとても陳腐に思えて口にする代わりにそう伝えた。
『小娘、心の準備はいいか』
うん、と頷こうとした時、足元が揺れた。
――ゴゴゴゴゴゴ……
「え、地震⁉」
遺跡全体が軋み、砂埃や欠片が天井からパラパラと落ちてきた。
『いや、地震などこの世界にはそもそも組み込まれておらん。恐らくマリスの仕業だ! 小娘の存在を嗅ぎ付けたのかもしれん』
『んだよそれ!』
そう言えば、さっきゆっぴいに『ぷんぷん匂う』と言われたのを思い出した。シンクロ率が上がったせいでユグドラシルの匂いとやらが増して、マリスが気づいたとでも言うんだろうか。
よくわからないけど、慌てたゆっぴいを見る限り、ただ事ではなさそうだった。
揺れは酷くなる一方で、私は立っているのもしんどくなり地面に片膝をついてなんとか耐えるも、ガラガラと石が崩れる音がどこかから聞こえた。それは次第に大きくなっているような気もして、恐怖心が煽られる。
『時間がない! 今からユグドラシルの中にお前たちを送り込む。俺ができるのはそこまでだ。そこから深部に向かって進め! いいな!』
「えっ、ゆっぴいは⁉」
『俺はここで暴れん坊の相手でもしてやるとするか。……お前たち、後は任せたぞ。できるだけ早く頼む……!』
「ゆ、ゆっぴ――……」
ゆっぴいに手を伸ばした私の手は空を切る。
そして次の瞬間には、目の前の景色が白一色に覆いつくされ、そして音が消えた。
「ここは……?」
次に目を開けると、私たちは辺り一面白一色の場所に居た。影もなくて、遠近感覚がつかめなくて目がちかちかする。
音もなかった。
(神様とか出てきそう)
死んだ後に神様と出会う場所みたいで、死んでしまったのではないかと不安になるくらい何もない。
見渡してすぐ、私と同じように座り込む猫太と大福の姿を見つけてほっとした。
『ここが、ユグドラシルの中……?』
『そうなんだろうな』
「ゆっぴいは、大丈夫かな」
暴れん坊と言っていたのは、きっとマリスのことだろう。ユグドラシルの手に負えないほど強力な相手に、ゆっぴい一人で無事なはずがない。そう思うと、じわりと苦味が広がった。
『今は他人の心配してる場合じゃないよ漱石。早く深部に向かってシステムを破壊しないと、それこそ僕らも道連れだよ』
『って言っても、深部ってどこだよ。真っ白で何にもないじゃんか』
「私、わかるかも……。多分、向こうの方」と、指をさす。自分でも不思議だけど、何かを感じる。そうとしか言い表せない感覚だ。
『よし、じゃぁ急ぐぞ』
「うん」
そして、私たちは真っ白で平坦な空間をひたすら走っていった。
『ねぇ、これちゃんと進めてるのかな……』
『俺もそれ思った。真っ白過ぎて、ぜんっぜん距離感がわからねぇな』と猫太が同意する。
私はそんな二人に「大丈夫、近づいてるよ」と伝える。
さっきから、ひしひしと感じるそれに、私は息苦しくなってくる。
(ユグドラシルが、苦しんでるんだ)
ここに来た時から感じていた胸の痛みが、どんどん強くなっていた。心臓を鷲づかみにされたような、首を絞められているような苦しさに耐えながら私は走る。
これが、ユグドラシルとシンクロしている証拠なんだろう。色んなことを自在に操れても、ユグドラシルとシンクロしているなんて全然実感が湧かなかったけど、ここに来てようやくそれを私は体感できた。
自分のものではない感情が流れ込んでくる不思議な感覚。ユグドラシルの痛みは、涙が出そうになるくらいに、苦しかった。
『よく来てくれた、選ばれし者とその友よ』
突然聞こえてきた声に、私たち三人は足を止め顔を見合わせる。きっと、ゆっぴいが言っていた深部に辿りついたのだ。
「ユグドラシル! 今、ゆっぴいが、」
『わかっている。しかし、私にはどうすることもできないのだ。おぬしにも伝わっているであろう、私の苦痛が』
「そう、だけど……。でも、ユートピアを破壊しないで済む方法はないの?」
『マリスの奴は、もともとは私の体のほんの一部だったが、あまりの苦しみから同じ気持ちを持つプレイヤーを次々とこちらに引き込んで、その悲しみを餌に力を増していってしまった。もはや私の手には負えん』
もしかしたら他に手立てがあるかもしれない、という淡い期待はバッサリと切り捨てられてしまう。やはり、ユートピアを破壊する他に道はないのだと、改めて思い知らされる。
「その引き込まれたプレイヤーのデータはあなたが守ってるのよね? 彼らが今どこにいるか知ってる?」
『あぁ、まだ私の中にある。彼らプレイヤーたちは、この世界のどこかにいるだろう。マリスは、私を消し去り、悲しみに暮れたプレイヤーにつけ込んでこの世界に引き入れ、すべてが統制されたディストピアを造ろうと企んでいる。データがマリスの手に渡れば彼らの意思も危ういかもしれん』
「そんな……」
『娘よ、時が迫っているようだ……、最後に見せてやろう……』
ユグドラシルが言う「最後」という言葉が、私の胸に刺さった。
終わりが、すぐそこまで来ている。
そして、真っ白だったその空間が、突如、空に変わり、眼下にはユートピアが悠然と浮かんでいた。
何度も見た、大好きな景色。
でも、ユートピアの様子がおかしいことに私たちはすぐ気づく。
『嘘、だろ……』
『いつの間にこんな……』
空に浮く、ユートピアのむき出しになった岩肌が所々ぼろぼろと崩れ、落ちていっているではないか。そして、更に酷いことに、ユグドラシルの浸食が進み根元の部分は既に真っ黒に染まっていた。
そのあまりの凄惨さに、私は絶句した。
『不甲斐ないことに、マリスの悪意によって私の根が侵され、この島を保てなくなってしまった……。このままでは、島にいるプレイヤーを道連れにしてしまいかねない。さぁ、娘よ、私に力を貸してくれ』
私は、何かに引き寄せられるように、前へ進んだ。すると、目の前に丸いクリスタルが嵌った台が突如として現れる。それは、さっき遺跡で見た石板の横にあったものと似ていた。
『それに手を添えるだけでよい。後はおぬしの中で育った私の欠片がやってくれる』
私は自分の手と手をぎゅっと胸の前で握りしめた。
これに触れたら、ユートピアはこの世から消え去ってしまうと思うと、手も足もぶるぶると震え出した。
心臓が早鐘を打ち、鼓膜を圧迫する。
耳鳴りがして、立っているのも辛くて、目をぎゅっと閉じた。
(怖い……、怖いよ……)
この世界は、私の中で確かに生きていた。
村人も、動物たちも、生える草木も何もかも。
それを、私の手で壊すのは、殺してしまうも同然だから、怖くて仕方がない。
『恐れることはない。どの道滅びる運命だ』
そう言われて気が楽になるはずもなく、私は足踏みする。
ほぼ同時に、両肩にトンと重みが置かれて顔をあげた私は、両側に立つ二人の顔を順番に見やる。
『お前がやらなきゃ、みんなはこの世界でだけじゃなくて現実世界でも死ぬかもしれないんだ』
『そうだよ、壊すんじゃない。漱石が救うんだよ。僕も手伝うから、大丈夫』
そう諭すように言われて、少しずつ震えが治まっていく。大福の手が私の背中を優しく撫でてくれる。その温かさにどこか懐かしさを感じながら、二人と目を合わせて頷いてから私は握りしめていた手を緩めた。