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 啓子が意識不明になってから三日目の日曜日。
 私は、啓子のお見舞いに病院に来た。啓子のお母さんから話を聞きたいと連絡がきたのだ。私から連絡したら迷惑かもしれない、と躊躇っていたところだったので飛びつく勢いで私は快諾した。
 だけど、教えてもらった病室の前で私は、駅前の花屋で買った花を片手に立ちすくんでしまう。この扉の向こうに啓子がいる。そう思ったら、怖くて怖気づいてしまった。私はまだ、眠る啓子をこの目で見る覚悟ができていなかったのだと、ここに来るまで気づけなかった。

(どうしよう……、啓子に会って、私はなんて声をかければいいんだろう。おばさんに何を聞かれるんだろう)

 この期に及んで保身に走る自分の浅ましさに嫌気がさす。吐き気すらする。でもどうにもできない。これが私だから。私は、どうしたって私をやめられない。

(それなら……)

 どうすればいいのか、答えは一つしかないのじゃないか、ともう一人の私が問いかけたとき、「――真樹ちゃん?」と私を呼ぶ声がした。

「あ、おばさ……」

 久しぶりに聞くおばさんの声。人の声というものは案外忘れないものだなと、頭の片隅でのんきに感心するも、おばさんの憔悴した姿を見て私は息を呑んだ。真っ赤に充血した目の下にはくっきりと隈が刻まれて、髪も化粧もいつも小綺麗にしているおばさんが、ぼさぼさの頭で化粧もしていないその姿に胸が痛んだ。

 当たり前だ、自分の一人娘がある日突然意識不明状態になったのだから。しかも原因がわからない上に、同じ症状の人で回復した人はまだ一人もいないという。
 そんな状態で、平常運転なんて無理な話だ。

「ごめんね、せっかくの日曜日に……」
「そんなこと、気にしないで……」

 私ですら、この三日間何も手がつかずに、食事もあまり喉を通らなかった。ユートピアで情報収集しようかと、何度もログインしようとしたけど、私は恐ろしくてとうとう今日の今日までパソコンに触れなかった。ついこの間、猫太に話した不思議な現象のことも、私の不安を増幅させていた。

「あら、お花まで買ってきてくれたのね、ありがとう」と、おばさんは呆然とする私の手から花束を受け取ってくれる。私は、おばさんの後に続いて病室の中に足を踏み入れた。

 個室のそこは、広々としていて窓からは夏の日差しがたっぷりと注がれて眩いほどに明るい。

 そして、その明かりの中に、啓子がいた。

 腕から伸びている点滴の管を除けば、外傷もなく呼吸器もなく、ぱっと見にはただ眠っているだけで意識不明にはとても見えない。

「け……いこ……」
「脳波も、MRIもとったけど、どれも異常はないんですって……。だからどうして目覚めないのか、先生たちも不思議だの一言で……」

 それは、噂で聞いたのと同じ情報だった。意識不明になるには普通、脳に何らかの衝撃やダメージが加わってなるはずなのに、今回のユートピアで意識不明になった人たちはその痕跡がなく、治療のしようがないらしい。

「真樹ちゃんさえよければ、声かけてあげて……。先生からも外部からの刺激を与えるようにって言われているの」

その言葉に背中を押され、私はたまらずベッドに駆け寄る。啓子の手を握り、顔を覗き込めば、その青白さに胸が押しつぶされそうになった。

「啓子! 私だよ、真樹だよ! 聞こえてるんでしょ? ねぇ、啓子……、返事してよ……、目を覚ましてよぉ……ねぇっ……」

(ごめん啓子……。私に何か言おうと、話してくれようとしてたのに、気づかない振りしてごめん)

 どれだけ声をかけても、握った手をゆすっても、啓子はピクリとも反応してくれない。それが、やっぱり眠っているだけじゃないのだ、と私に知らしめる。

「啓子……、ごめん……っ」

 やがて私の懺悔は嗚咽に変わり、零れ落ちた涙が頬を伝い、顎をしたたり、啓子の手に落ちて弾けた。
 陳腐なアニメなら、この涙が引き金となって彼女はきっと眠りから覚めるのに。当然、そんな奇跡は起こってくれない。

「……真樹ちゃん、ありがとうね」

 言葉と一緒に背中に暖かい手が添えられ、そのまま近くにあった椅子へと促される。スカートのポケットから取り出したハンカチで涙を拭い、いくらか気分も落ち着いてきた頃、おばさんが切り出した。

「あの子……、何か悩んでたみたいなの。……ここのところ浮かない顔をしてるなとは思ってたんだけど……、それとなく聞いても何も教えてくれなくて」

 私は心の中で「やっぱり」とつぶやいた。涙で濡れてくしゃくしゃになったハンカチを膝の上でぎゅっと握りしめ、下唇を噛む。

「でも、もうすぐ夏休みだし、そのうち元気になるかななんて思ってたら……こんなことに……。ニュースでは事故だって言っていたのに、警察からは、啓子に自殺願望がなかったか、なんて聞かれて……もう、どう、したら……っ」

 嗚咽を殺して泣くおばさんの姿を見て、ハンカチを握る手に更に力がこもる。ぎゅうぎゅうに握りしめた手の中のハンカチのように、おばさんの心も、啓子の心も締め付けられて押しつぶされてしまったのだろう。

 自殺願望があったのか、なかったのかなんて、そんなことはもうどうでもいい。
 啓子は確かに苦しんでた。その苦しみを、私は見て見ぬふりをしてしまった。
 その結果が、これだ。

「取り乱しちゃって、ごめんなさい。……もし、真樹ちゃんが知ってることがあれば、教えてほしいの」

 なんでもいいの、と付け足して、おばさんは涙で濡れた目で私をまっすぐ見つめた。私は、啓子が駅前で待っていた日のことを話した。

「……少し前に、突然、久しぶりに一緒に学校行こうって誘われたことがあったんだけど……、その時啓子の様子がおかしかったのになんとなく気づいてたのに、私……」

(わかってたのに、気づいていたのに、私は……)

「話をちゃんと聞いてあげなかった……。だから、私も……、啓子が何に悩んでたのか、知らないの……ごめん、なさい……」

 後悔が、押し寄せてくる。
 荒れ狂う濁流のように、ごうごうと音を立てて私を押し流した。渦を巻きながら流れて、飲み込まれて、息ができない。ぐるんぐるんと頭が回る。上も下もわからない中で、私はたまらずに、目をぎゅっと閉じて両足に力を込めて踏ん張った。

 謝ったって、泣いたって、なんの意味もない。
 啓子は目を覚ましてくれない。

(なら……)

「啓子の……パソコンを見せて貰うことって……」

 おばさんは首を横に振る。

「警察がスマホもパソコンも持って行ってしまったの」
「啓子は……どういう状態で意識不明に?」
「テスト期間の翌日ね、朝になっても起きてこないから起こしに行ったら……、あの、なんて言うの、ブイなんとかっていう、頭から被るやつを付けたまま椅子に座って机に突っ伏していたの……、もう……びっくりして……」

 その時の光景を思い出したのだろう、おばさんはこめかみ辺りに手を添えて頭を振る。
 いかつくて重たいVRゴーグルを付けたまま眠るなんて、まず考えられないから、やっぱりユートピアをプレイしたまま倒れたのは間違いないのだろう。

「その時、パソコンは?」
「電源は切れてたみたいで、画面は真っ暗だった」
「警察はなんて?」
「ユートピアのアプリを起動したら、通常では表示されない画面が出たそうよ。なんでも、それが今回の事故に共通するものらしいの」
「えっ! どんな?」

 おばさんはサイドテーブルに置いてあったスマホを操作すると、「これよ」と画面を私の方へ向けてくれた。

「……っ!」

 そこに表示された言葉の意味を理解した私は、思わず手で口を覆った。

『Farewell to the real-world《現実世界にさよならを》』