「三上恭平の自宅アトリエから作品が放出された時に、出てきたものだって。陶器の焼き加減を確認するための試作品だって言われてるけど、きれいだよね。一見落書きみたいにも見えるけど、丁寧に花が描かれてる。老成に達してもなお、新しい表現を模索していた様子がよく分かる作品だよ。まぁ確かに、値を付けられるような完成度ではないけど。こういうのって、全庫出品セールならではの放出品だよね」

 私は彼をおいて、先を歩き始めた。
最初から分かってやっているなら、彼らにウェイトを譲る気なんてさらさらない。
時間を無駄にして、その分私が傷ついただけ。
彼から離れようと、さらに足を速める。

「あ、ちょっと待ってよ」

 前を向けず、うつむいて歩いていた肩が、誰かとぶつかった。
「すみません」と顔を上げると、それは佐山CMOだった。

「こんなところにいたのか。探したじゃないか」

 私はその場で立ちすくみ、じっと彼を見上げた。
そうやって顔を上げていないと、あふれてくる涙がこぼれ落ちそうだ。

「ん? どうかした?」

 想はそこへ、すかさず割り込んでくる。

「あ、初めまして。僕は『les œuvres heureuses』の豊橋想といいます。祖母の経営するギャラリーの、手伝いをさせてもらっている者です」

 彼は爽やかな笑顔を浮かべ、とても丁寧な挨拶を続けた。

「すみません。偶然三上画伯のお孫さんである紗和子さんとお会いして、うれしくてつい長い間お借りしてしまいました」

 にっこりと笑うその洗練された姿は、どこから見ても好青年だ。

「いえいえ。こちらこそ彼女の相手をさせてしまって申し訳ない。大変だったでしょ?」
「はは。そんなことはありませんでしたよ。とっても素敵な方ですので」

 想の差し出した手を、佐山CMOはすぐに握り返した。

「もうすぐオークションが始まる。想くんは見に行かないの?」
「あぁ、もう時間ですね。行きましょうか」

 先に歩き出した想の背に、気分はずっしりと重くなる。
なにやってんだろ、私。
きっと今日この会場でペーパーウェイトを見かけたことだけで、幸せだったと思わなきゃいけなかったんだ。
奇跡みたいなことなんだから。
結局彼らに振り回されただけで終わってしまった。

「紗和子さん、なにかあった? 大丈夫?」
「平気です。何でもないので」

 彼には頼れない。
自分で立て直さなくちゃ。
想が一瞬だけ振り返り、にこっとしてすぐにまた背を向けた。
そんな彼に、佐山CMOはムッと眉を寄せる。

「紗和子さんが嫌なら、今すぐにでも出て行くけど」
「いいえ。行きましょう。私もおじいちゃんの作品の、行く末がみたいです」

 薄暗い通路を抜け、特設会場のオークションルームに入る。
びっしりと並べられた椅子は、そのほとんどが埋め尽くされていた。
壇上には巨大なスクリーンが設置され、その脇にオークショニアの立つ台と作品の実物を乗せるステージが用意されている。
私は佐山CMOと並んで腰を下ろしたが、想はここからよく見える前方の席に、おばあさまと並んで座った。
オークションが始まる。

「皆さま。本日はご来場いただき……」

 あれ、紅は? 
オレンジの花が絵付けされたウェイトを持っているはずの、紅の姿が見えない。
私はそっと周囲を見渡した。
もしかしたら、想とおばあさまから離れたところに座っているのかもしれない。
そう思ったのに、座ったままチラチラとのぞく程度のことでは、びっしりと埋まった会場で彼女を探し出すことは不可能だった。

「どうかした?」
「いえ……」

 佐山CMOに気をつかわせてしまっている。
私はまっすぐに座り直した。
ここに連れてきてくれたのは、彼なのだから。
今だって私は、この人からプレゼントされた服を着て隣に座っているのに、自分のことばかりで、なにもしていない。

「……。あの、さっき想が言ってた、れぞーぶる・ずるーずって、どういう意味ですか」

 目の前で次々と競り落とされていく作品たちを見ながら、私は佐山CMOに声をかけた。

「あぁ。フランス語で、『幸運な作品』という意味だよ」

 幸運な作品……。
おじいちゃんと駆け落ちまでして産んだ父を捨て、その父から生まれた私を孫と認めない人が扱う作品のギャラリーが、そんな名前だなんて笑える。
おじいちゃんが死んでから、私にとって幸運なんて何一つなかった。
思い出は全てなくなり、残ったのは呪いのようなものだ。

「彼とは、知り合いだったの?」
「いえ。今日ここで初めて、会いました」
「そうなんだ」

 同じあの人の孫なのに……なんて、そんなことを考えても仕方ないのは分かってる。
私には私の人生があるのだから。
きっとあのおばあさまにも、あの人のなりの苦労はあったんだろうと思う。
隣の佐山CMOがもそりと動いた。