「まぁそんなことをおっしゃらずに。颯斗くん、もっとゆっくりしていきなさい」

 帰ろうとした佐山CMOを、父の孝良氏が引き留める。
私は引き留められないので、そのまま帰る。

「じゃ、私はこれで……」

 そそくさと鞄を探す。
えーっと、どこに置いてたっけ。
退散しようとした私の腕を、佐山CMOはガッとつかみ取った。

「は?」

 抗議の視線を思いっきり彼に投げつける。
放してくれ。
私は帰る。
充分にカップも堪能したし、もうこんなところに用はない。

「紗和子さん? ほら、孝良さんもおっしゃっていることだし、もうちょっとここにいなさい」
「やだ」

 逃げようとする私を、佐山CMOは必死で引き留める。

「業務命令だ」
「そんな規約ないです」
「頼むからもうちょっと居てくれないか」
「やですよ。そもそもですけどね……」

 私たちの小競り合いを横目に、その孝良氏が動いた。
ダイニングルームからひと続きになっているリビングのバーカウンターから、何か飲み物を持ってくるつもりらしい。
孝良氏は、カウンターの奥へ入ってしまった。
あぁ、私は本気で、早く帰りたいだけのに。

「放してください」
「まぁそんなこと言うなよ」

 佐山CMOに引きずられ、リビングルーム窓ぎわのソファに無理矢理座らされる。
片付けの終わったケータリング会社の人たちは、今度はカウンターの中に入ると、フルーツやつまみの用意を始めていた。

「この借りは、必ず返してもらいますからね」
「あはは」

 ウイスキーのセットをお盆のせて戻ってきた孝良氏は、私たちの向かいのソファに腰を下ろす。

「本当にお二人は、仲がよろしいんですね」
「えぇ、まぁ」
「いいえ! めっそうもございません。ただの上司と社員ですから!」

 佐山CMOの手が私の肩を抱き寄せるのを、思いっきりつねって払い落とす。
CMOの携帯が鳴った。

「あぁ、ちょっと失礼」

 そう言って、画面をちらりとチェックした彼は、同じ部屋に離れて一人座っていた詩織さんを振り返った。
ただ彼女をチラリと見ただけで、すぐに視線をスマホに戻す。
CMOはその場から動かず、操作することもなく画面をじっと見つめていた。

「詩織もこちらに来なさい!」

 父親からの恫喝に近い呼び声に、彼女は渋々と立ち上がった。
孝良氏は宿敵を前にしたかように私をにらむ。

「詩織は最近の若い子に比べて、遠慮深い子でしてね」

 詩織さんはのろのろと近づいてくると、父親の横に腰掛けた。
その瞬間、再び佐山CMOの携帯が鳴る。
彼はやっぱりそれをチラリと見ただけで、返事も打たずにそのまま背広の内ポケットに片付けてしまった。

「颯斗くんは、詩織の部屋にはもう入りましたっけ? 二人の邪魔はしないので、数時間くらいは大丈夫ですよ」

 孝良氏はいやらしい笑みを浮かべガハハと笑った。
このオヤジは実の娘を前にして、そういう恥ずかしいことを平気で口にするタイプなのだ。
詩織さんに心底同情する。

「いや僕は、まだお邪魔したことはないですよ」

 佐山CMOも困ってるし、詩織さんも呆れてる。
こういう時に奥さんがいたら、このオヤジの暴走を止められたんだろうけどな。
私も早くに母を亡くして父と祖父の三人暮らしだったから、男ばかりが残された家での彼女の状況は、なんとなく理解出来る。
大事にされていることは分かるけど、自分の求めるように理解はされ難い。
それを贅沢だとか我が儘と言われると、なおさら居場所がなくなってしまう。

「詩織は本当に慎ましくて大人しいから。ねぇ、紗和子さんもそう思いませんか?」

 不意にそのお父さまから会話をふられる。
私はキッと顔を上げた。

「はい。私はさっき、詩織さんのお部屋を見せてもらっていますから。佐山CMOも見せてもらえばよろしいんじゃないですかね」

 父孝良氏は初めて私に、パッとした明るい顔を向けた。

「なぁ! やっぱりキミもそう思うだろ?」
「ただし! それを本当に詩織さん自身が望んでいるのでしたらね。ぜひお二人で行ってきてください」

 お父さまは苦々しげに私をにらみ、佐山CMOは長い息を吐き出して天井を見上げた。

「ほら、詩織もちゃんと颯斗さんをお誘いしなさい」
「ですが、それはやはり颯斗さんにはご迷惑なのでは?」

 父娘が押し問答を始めたというのに、この男ときたらリビングのソファから動こうとしない。
内ポケットにしまわれた携帯は、再三にわたって振動を続けている。
彼はついにスマホの電源を落としてしまった。
詩織さんの方も動こうとしないから、二人で部屋に上がらせたい孝良氏と、テコでも動こうとしない詩織さんの根比べが始まっている。
その流れを変えたのは、叔父の篤広氏だった。