「は、はい」
美也の部屋をノックもなく開けて用事を言いつけることも当たり前のようにやってくれる。
きっと勝手に入ってくるだろうな、とわかっていた美也は、さっと鏡をティッシュ箱の影に隠していた。
榊に挨拶もせずにしたことだが、いつものことなのでわかってくれているだろう。
最初、咄嗟に隠したときは申し訳なさが募ったし、何があったと心配もされたが、次に鏡で話したときに事情を説明したら、俺の事は気に病むなと励まされた。
奏は自分の部屋に入っていくので、部屋まで持って来いということだ。
本気で醤油をドバドバ注いだカップを持って行ってやろうと思ったが、醤油がなくなったら買い出しに行くのは美也なので、それはやめておいた。
本当に、榊という謎のある人だけど、こうやって愚痴をこぼせる相手がいるから、同じことを何度言っても鬱陶しがらずに励ましてくれるから、こうやってこの家でやってこられるのだと思う。
――かといって、いや、話を聞いて励ましてくれる人がいるからこそ、美也は弱気だけになることもなく、強気な気持ちを捨てることもなかったのかもしれない。
お湯を沸かしながらも、目の前にドリップバッグのコーヒーと醤油を並べるくらいには。
「半分くらい醤油でもいいんじゃ……」
暗い眼差しでぶつぶつ呟けるくらいには。
(ま。冗談ですが)
と心の中で言って、醤油をしまう。
(コーヒーくらい自分で淹れればいいのにって思うけど、裏を返せば私に押し付けてばかりだから自分では淹れ方も知らない人ってことなんだよね。むしろおかげ様で私は友達にも振る舞えるくらいコーヒー淹れが上達しましたよ)
朝、愛村家の三人が飲むように入れるコーヒーは豆からひいている。
以前友達の家にお邪魔したとき、お茶類が豆のコーヒーしかなく、友人が何か買ってくると出かけかかったところを、友人の了解をもらってコーヒーを淹れたら、こんなに美味しいのかと驚かれた。
それから、友人の家でもたまに淹れることがある。
同じコーヒーを淹れるという行為なのに、愛村の家でやるのはただ面倒で苦痛なのに対し、友人の家でコーヒーを淹れることは楽しい。
友人が、いつか自分も淹れられるようになりたい、と美也のやり方を凝視してくるのも面白いし、そのあと二人で飲むコーヒーも美味しいからだ。
愛村の家では、美也は勝手に飲食することは出来ない。
高校生になったらバイトが出来るところ、お金を貯めてこの家を出られるようにしたいと思っている中学三年生の、夏休みを目前に控えた七月だが、愛村の三人はことごとく美也を使用人扱いで勉強する時間が削られている。