––4月4日。
 旧名門:藤ノ宮(ふじのみや)家の一人娘、藤ノ宮 乃依(ふじのみや のい)は今日、16歳の誕生日を迎えた。
 黒く艶やかな髪は耳の位置から半分に真ん中で綺麗に結われレースのリボンで括られている。髪の長さは腰の位置まであり乃依が動くたびにゆっくりと揺れ動く。桜色に豪華な花があしらわれた着物を身に(まと)い腕下の大振り袖を揺らさぬよう両手を前で組み静かに摺り足(すりあし)で廊下を進む。

 緊張で少し息が上がったみたい。慣れない着物に慣れない薄化粧。気温も春にしては少し暑いぐらいで、頬が少し熱ってる気がする。
 16歳の誕生日。今日、私は花野井(はなのい)家の長男。
 花野井 周(はなのい あまね)様と結婚します。

 乃依は廊下奥の(ふすま)の前で立ち止まり緊張を解くようにゆっくりと息を吐き出す。


「––よし!」


 小さく意気込み襖に手を掛けゆっくりと戸を開く。室内は静寂で満ち溢れ妙な緊張感を漂わせる。横長で濃い茶色の艶やかな卓袱台(ちゃぶだい)の奥側中央に周は座っていた。
 乃依は、ゆっくりと開けた戸を閉めて摺り足で座布団(ざぶとん)の前まで行くと膝を折り姿勢を正した状態で周の目の前に座る。


「遅くなりまして、申し訳ございません。藤ノ宮 乃依と申します」


 畳の上に三つ指を綺麗に合わせ頭を下げる。黒く艶やかな長い髪は背中から滑るよう落ち乃依の頬を撫で彼女の顔を隠す。


「そんなに待ってませんよ」
「乃依さん、顔を上げて下さいな」


 焦った様に周の両側に座る彼の両親が乃依に優しく声を掛ける。乃依はゆっくりと顔を上げ乱れた髪を少し整えると、姿勢を正し座り直す。


「ほら周、乃依さんに挨拶しなさい」
「花野井 周です」


 周の父親が息子に挨拶を促すと、不服そうな顔でため息混じりの淡白な挨拶を述べた。周の両親は2人で顔を見合わせ苦笑い。


「口数の少ない息子で申し訳ない」
「いつもはそんな事無いんですよ」
「いえ、お気になさらないで下さい」


 そう、乃依と周の2人は政略結婚。親同士が決めた結婚であるから仕方がない。それでも乃依は女の子の夢である結婚に憧れていたので、例え政略結婚でも今後の結婚生活に胸を躍らせていた。
 そして何より乃依の胸を躍らせたのは周の端正な顔立ちである。

 周様、幼い頃の写真しか知りませんが昔から凄くお顔立ちが綺麗でとても目の保養。目元は綺麗な二重で堀が深くそれに続く鼻は高くてシュッとしています。口元は薄く厚みのある唇で顎のラインなんて綺麗なEライン……!これから一緒に生活を共にして愛を育んでいけば良いんですもん。最初は冷たくたって平気なんです……!

 周の両親と楽しく会話をしながら中居に出して貰ったお茶を頂きつつ、暫くして乃依の両親が遅れて部屋に到着した。


「花野井さん。遅れてしまって、申し訳ない」
「いえいえ!お気になさらず。とても礼儀正しくてお話上手で、ウチの息子には勿体無いぐらいですよ」
「そう言って頂いて、母親として娘を誇らしく思いますわ。乃依、周さんと是非2人でお庭に行ってみたら?」
「そうですね!周、乃依さんをエスコートして差し上げて」
「私達は、周くんのご両親と是非話をしたいから気にせずゆっくりしてきなさい」


 乃依と周の2人は互いの両親に畳み掛けられる様にして部屋を追い出された。襖の前でポツンと2人横並びで突然のことに頭が追いつかず暫く静止。


「……追い出されちゃいましたね」


 静かな廊下に耐え難くなり乃依が呟く。周は面倒くさそうにため息を吐いて仕方なく彼女に手を差し出す。


「あの、これは?」
「庭、行くんだろ。ほら、エスコート」
「ああ!ありがとうございます」


 差し出された手を取り浮かれる乃依とは対照的に、この結婚に不満のある周は重い足取りで庭に出る。
 ここの庭は和風庭園になっていて、枯山水を壊さないように石の道を渡ると小さな池が見える。池には鯉が水中を自由に泳いでいて、水の音と水中を泳ぐ鯉を見ているだけで自然と癒される。池には橋添石がアーチ状に掛かっていて2人はその橋の上から池を見下ろす。


「とても素敵なお庭ですね」
「藤ノ宮家の庭の方が広くて綺麗なんじゃないの?」
「そんな事はありません。ウチはただ古いだけで……全然なんですよ」


 そう言って苦笑い。なんて言ったら良いのか…確かに広い家ではありますが、私の家は––

––藤ノ宮家は、昔から代々続く和菓子屋を営んでおり今では和菓子を使った事業では日本で一番強い家柄と言われている。新しい商品の開発や和菓子を使ったお茶のイベント、和菓子以外にも今では様々な事業に取り組みその名を知られている。乃依の父親は現当主の息子で長男・藤ノ宮 彰(ふじのみや あきら)の一人娘。家も土地もかなり広くその敷地内には藤ノ宮家の血筋の者が暮らしている。結婚して家を出る者もいるが、何故か殆どの家族はそこに留まる者が多く世間から少し隔離された家紋でもある。
 それとは対照的な花野井家は5年前に数々の事業に失敗し倒産。藤ノ宮家と同様古くから続く有名な呉服屋を営んでいる家柄ではあったが、現在は藤ノ宮家の援助を経て伝統ある花野井家の着物だけを事業とし営んでいる。今、乃依の着ている着物も花野井家からの結納品だ。


「––この頂いたお着物、とても素敵ですよね。実は私、着物は初めて着るのですが……どうでしょうか…?」
「どうって、別に変じゃないと思うけど」
「本当ですか!?嬉しいです…!」


 そう言って満面の笑みを見せる乃依の姿は、年相応の16歳の少女そのものであった。暫くして両家の話し合いが終わり両親に呼ばれ結婚式の日取りを決める。結婚式の当日までお互いにもう会う事はない。
 〝周様に当分会えないなんて〟と落胆する乃依とは裏腹にこの結婚を望んでいない周にとっては少しの間でも会う事がないことに安堵し胸を撫で下ろす。


「では、藤ノ宮さん当日はよろしくお願いします」
「こちらこそ当日はよろしくお願いします」


 名残惜し気持ちを残しつつも、結婚式で会えるのを楽しみに乃依は両親に連れられながら迎えの車に乗り込んだ。



––藤ノ宮邸。

「––お帰りなさいませ。彰様、紫織(しおり)様、乃依様」


 家に帰ると、乃依の乳母で本邸のお手伝として藤ノ宮家の敷地に住まいを持つとき枝(ときえ)が玄関の前で3人を出迎える。


「とき枝、出迎えご苦労。乃依の着替えを手伝ってやってくれ」
「かしこまりました。では、乃依様、お部屋でお着替えなさいましょう」
「ありがとう。とき枝さん」


 とき枝に連れられ自室に向かう。初めて袖を通した着物は重くお腹を締め付ける帯が窮屈で苦しい。とき枝に手伝って貰いながら、襦袢(じゅうばん)姿になるまで脱いでいく。


「とき枝さん、ありがとう。もう一人で着替えられます」
「わかりました。私はお着物を綺麗に片付けてきますね」


 そう言って部屋を出ていくとき枝を見送りやっと一人きりになるとベッドに腰掛けふうと息を吐き出し肩の力を抜く。
 今日は夢の様な一日でした。幼い頃、写真だけ見た周様にやっと会う事が出来て、初めて聞いた周様のお声は低くて落ち着いていて話すと結構雑な感じとか、私より2つ年上の周様はとても大人っぽくて幼い頃見た写真とは全然違う。私はずっとお慕いしてましたが周様はきっと––


「––それでも私は周様が良いのです」


 まだ、周様に伝えられていない私の家紋の〝ある秘密〟それを知った時、周様はどう思うのでしょうか。私の我儘だと分かってますが、少しだけ20歳の誕生日を迎えるまでは周様の側に居たいのです。
 ベッドから窓の方を見ると月明かりが薄暗い部屋を照らしてくれてる。


「周様もこの月を見ているのでしょうか」


 余韻に浸りながらも着替え途中だったことを思い出してゆっくりとベッドから立ち上がり服を着替えそっと部屋を後にした。