ラストライフ


 『命の重さはみな同じ』

 どこかの道徳の教科書にでも載っていそうな言葉。命はその主の能力や見かけによらず、全てが平等であるという主張である。

 私はこれを信じない。命の重さに軽い重いはないと言われているが、そんなはずはない。ただの綺麗事だ。大体、命はその人の有望性とカリスマ性、そして未来における影響を考慮してその重さが決まっている。命の重さが平等になっているなんて理論は、それこそ不平等だと反論されるだろう。懸命に努力して社会に良い功績を残した人間と、何もせず家に引き篭もるニートの価値が変わらないだなんて言えば、誰もが反対するに決まっている。

 例えば、人殺しと善人のどちらか一人しか生かせないと言われれば、大衆は迷わず善人を選ぶだろう。この時点で、人殺しと善人の命は天秤にかけられ、善人の命の方が重かったという結果に至る。

 そんな単極な場面でなくとも、人は常に命の重さを秤にかけている。特に選択制の場面では、より命が重い、あるいは大切だと思っている方を無意識下でも選んでしまうだろう。

 つまり、人の命の重さは平等であるわけない。その人が世界に貢献できる人材かどうか。その人が死ぬと大勢の人が死を悔やむかどうか。その人の消失が世界に与える影響は大きいかどうか。視点は人それぞれ異なるが、様々な観点から人は他人の命の重さを勝手ながら決めている。有能な人間の命ほどその価値は高く、逆に無能な人間ほど社会のお荷物となってしまう。

 有能な人間。すなわち、何かに秀でた才能を持つ者。あるいは人を救える者。あるいは他者へ幸福をもたらすことができる者だと私は思っている。

 つまり、何の才能も持たず、他人に関わることすら拒む私は命の重さが限りなく軽いのだ。


「……なんてこと、こんなにも群青が綺麗な晴天の中で考えるようなことじゃないんだけどなぁ」


 今は3時間目、教科は美術。課題は校舎の絵を描くこと。A4サイズのスケッチブックを目の前で開き、懸命に校舎の姿を真っ白いキャンパスに移そうと試みていた。けど、どうしてか上手くいかない。脳内シュミレーションだったら完璧なのに。


「あぁー……だめだ」


 嫌気が差し、思わず鉛筆を投げ出した。軽い音を立ててそれが机の上を転がる。


「おっかしいなぁ」

 
 大したものを描いているわけでもないのに、体は酷く疲労が溜まっていた。だらしない姿で背もたれに寄りかかる。


「何が悪いんだろ……」


 片目を瞑って指で校舎の寸法を測る。とは言っても、プロじゃあるまいし正確なやり方は分からないけど。

 描き方に狂いはないはず。が、一度鉛筆を置いて眺めると、どうしても歪なのだ。何が、と言われても具体的な言葉は思いつかない。強いていうなら、全てが歪。直線のはずの壁は歪み、日が当たるはずの場所は異様なほどに黒みがかっている。理想と現実のギャップが大きすぎる。

 校舎は目前だ。これだけ集中力を注いでいるのに、どうして全く同じように描けないのだろう。つくづく、自身の画力の無さに腹が立った。


「やーめた」


 気分転換に席を立つ。特に目的はなく、ただ足が赴くままに進んだ。写生は学校の敷地内ならどこに行っても構わない。運良く、私の周りにはちらほらと人影があった。

 私はそこで、素晴らしいものにお目にかかった。いくつもの校舎という絵を描いている中で一つ、それだけはスポットライトを浴びているかのように目立っていた。


「うわぁ……」


 気がつけば覗き込んでいた。本人からの視線もモラルも、この一瞬だけは気にも留めなかった。

 柔らかく彩られた校舎は、色こそ霞んでいるものの暖かい印象を受ける。何枚、何十枚とはめ込まれた窓硝子も明らかに日光を反射していると分かる。

 建物だけでも申し分ないほどの完成度。だが、私が注目したのは別の場所だった。

 それは青、空の青。私が知っているどんな青色よりも鮮やかで、綺麗という言葉はこの青のためにあるんだろうなと思わせられるほど。色んな青を幾重も重ねた、青の交響曲が色として描かれているような、そんな感覚だった。見つめれば見つめるほど、青に魅了されて吸い込まれそうになる。


「すごっ……」

「ふふっ、ありがとう」


 独り言のはずだったが、誰かが反応してくれた。私が覗き込んでいる絵に触れている筆を置いて、彼女は振り返る。 


「この絵、大丈夫かな?色とか形とか。変じゃない?」


 セミロングの染めたブラウンの髪をさらりと流し、控えめな質問とともに彼女は首を傾げる。

 日野(ひの)友里(ゆうり)。同じ1年3組のクラスメート。美術部。小学校の頃から芸術、特に絵に関する才能があるらしく、彼女が筆を取れば賞状が送られる、といった噂まで流れている。

 まさしく、特出した素晴らしい才能を秘めた者。特別、あるいは天才という言葉がぴったりであろう。絵を描くために生まれてきたような子だ、とさえ私は思っていた。


「大丈夫って心配するようなもんじゃないよ!むしろ不満を見つけることの方が難しいし」


「そう?」


「そうだよ当たり前じゃん!……って、画力の欠片もない私には言われたくないかもしれないけど」


「そんなことない!嬉しいよ、そう言ってくれて!」


 友里の頰が僅かに紅色に染まった。肌が白いために、彼女が緊張していたり照れたりしているとすぐに察することができる。そして、そんな彼女を見ては「可愛い」と言う言葉がつい溢れそうになる。
 
 才能をひけらかすことなく静かに本気を発揮している彼女の性格が、才能を持ってなお周囲から妬まれない理由だろう。

 
「本当にすごい……どうしたらこんな絵が描けるの?」


「どうしたら、か。……そうだね。うーん……なんとなく、かな」


「……そっか、そうだよね。訊かれても困るよね」


「そんなことないっ!ごめんね、私もよく分からなくて」


「もー、いいってば。なんて友里が謝るのー!」


 そんなことも正直に謝ってしまう友里が可愛い。そう癒されつつ感じ取るのは彼女の才能の凄さ。やはり本物はコツなどの物理的な方法に頼るより、自分の感覚を信じた方がいいらしい。

 頭で考えるよう先に体を動かす。私の経験と知識によると、それこそが才能の証だ。才能ある天才は、自身の感覚に委ねて物事を進める。

 ため息が出た。


「……羨ましいな」


「ん、何かいった?」


「……ううん、なんでもないよ」


 作り笑いを顔に貼り付けてその場を後にする。とてもじゃないけど、天使のような彼女にこんな表情は見せられない。

 今日初めて、友里の才能を妬んだ。

 才能。それは生まれつき与えられた贈り物(ギフト)。自分が自分である証明。利用することで自分を満たすもの。才能を持つ者を、一般的には天才と呼ぶ。

 私、長嶺(ながみね)紗夜(さや)の周りには天才が多かった。

           *


 真っ青に澄んだ青空の(もと)で、クラスメート達は汗を流しながら笑っていた。こんな炎天下の中、それもサッカーであんなにも楽しそうにできるなんて羨ましい。


「あっついねー」

「確かにね」

「こんな中で外の体育とかマジ地獄。それに5チームもあるから回ってくるの遅いし」

「いいじゃん、休憩が長めに取れるから」

「えー、せっかくならサッカーしたいよ……」


 隣に立つ実晴(みはる)は、口を尖らせて行われている試合を眺めていた。彼女は明らかなアウトドア派。何故インドア派の私と一緒にいるのか、今でも不明。

「サッカー、ねぇ……」

 目の前で繰り広げられる戦いでは、男子も女子も関係なく積極的に行動している。私とは無縁の人たち。あんな風に運動できたらどれだけ楽しいのだろう。

 スポーツを行い、試合で喜びを分かち合い、それを期に仲間を増やす。きっと、ああいった人間が、これからの世の中を作り上げていくのだろうな、と勝手ながら思ってしまう。

(それに引き換え私は……)

 部活も文化部系。運動音痴で身体能力も低い。おまけにコミュニケーションもまともに取れない。

 眩しい彼らと私では、生きている世界が違うように感じてしまう。もし、何の取り柄もない私が死んだとして、世界は変わるだろうか。未来に影響を及ぼすのだろうか。

 無意味な疑問だとは理解している。だが、ふとした時に思ってしまうのだ。私の死後の世界は、どんな風に動いていくのだろう、と。私がいたら、いなかったら。

 思考を巡りに巡ってたどり着く答えは、いつだって一つだった。私一人が死のうが、世界もみんなも、何一つ変わらない。そんな予想ができてしまう。


「……悲しいなぁ」

「何が?」


 ただの独り言だったはずの言葉に実晴が返事する。私が振り返るのと、彼女が私の隣に座るのはほぼ同時。


「何がそんなにも悲しいの?」


 彼女は柔らかく微笑む。その表情は、今も中学の時も何一つ変わらない。


「悲しいこと、何かあった?今じゃないよね?だって体育の時間だし、悲しいというよりは楽しいしかないもん」

「それってあなたの感想ですよね?」

「うわっ、出たそれ!」

「ごめん言ってみたかった」


 正直に謝ると「何それー!」と実晴は大口を開けて笑う。彼女はいつだって明るくておおらかで、ムードメーカー的な存在。こんな私にも笑顔で接してくれる、とても優しい人。だからきっと、誰からにも愛されているのだろう。


「あっ、試合終わったっぽいよ。行こう!」

 
 実晴は帰ってくるクラスメートを見て表情を輝かせる。


「うん、そうだね」

 
 なるべく彼女の雰囲気を損なわないように笑顔で答え、重い腰を上げた。


「早く早く!」

 
 そう口では言いつつ、既に彼女は駆け出していた。


「あっ、実晴待ってー!」
 
  
 その後ろを追う同じチームの女子。それも複数人。彼女達は実晴に追いつくなり、その肩をポンッと叩く。


「実晴、いつにも増して楽しそうだね」

「もっちろん。だって外での体育なんて中々無いからさ」

「確かに。それに、実晴がいれば安心する」

「そそっ。任せたよー!」

「えー、何それー!」

 言葉では困りつつも、実晴はとても嬉しそうだった。それまでに、サッカーというスポーツが好きなのだろう。


「いいなぁ」


 ただの嫉妬だってことは分かってる。ないものねだりだって思っている。

 それでも、クラスメートに囲まれ、楽しそうに笑っている姿を見ていると、どうしても羨ましさが募ってしまうのだ。


「人を集める才能、いや、魅せる才能……?カリスマ性ってやつなのかな」


 太陽が輝く下でたくさんのクラスメートに囲まれている実晴と、木陰の下で独り佇む私。世界はどうして、こんなにも不平等なのだろう。

 人の生き方なんてみんなそれぞれ。だから、他人の行動にどうこう口出ししても意味は無く、他人の生き方を羨んだところでメリットも無い。

 そんなことはとっくの昔に理解している。それでも、他人が楽しそうに生きているとどうしても妬みが生まれてしまうのは、人間だからか。

           *

「あの人かっこよかったー!今度話しかけてみようかな?あわよくばLINE交換も……」

「それ逆ナンじゃん。やばっ」

「それにあんた彼氏いるのに。浮気だぞ浮気!」

「それとこれは別!知り合いはいっぱいいたほうがいいでしょ?」

「うわー、それ彼氏が聞いたらショック受けるわ、絶対」



 放課後の教室で静かに勉強していたはずが、いつの間にか女子のグループが入ってきていた。それも、ナンパやら彼氏やら、私には到底縁のない会話をしている。

 どんな内容の会話をしようが構わないけど、少なくとも大声でクラス中の人間に聞かせるように話すのはやめて貰いたい。なんて、心の中で思うもの実際口にはできない。私如きがそんなことで口を挟むのはおこがましいだろう。
 


「あとさ、今度2人で水族館行くんだー!」

「えっ、とうとうデート!?」

「水族館とか定番じゃん。いいなぁー」



 サクサクとお菓子を食べる音が重なる。彼女たちの机の上には、箱買いのビスケットと手付かずの数学ワーク。聞かずとも分かる。勉強会と称したおしゃべり大会が行われていた。騒音をどうにかシャットアウトしようと耳にイヤホンを詰める。だが、それでも会話は聞こえてきた。一体彼女たちはどれほどの声量なのか。



「とか言いながら、実は私も彼氏できたんだよね」

「ええっ!嘘でしょ初耳なんだけど!?」

「ふふっ、いいでしょー」

「誰!2組の子!?あ、それとも他校の中学同じだったっていう男子!?」

「聞きたい?」

「聞きたーい!あ、でもここじゃなんだから場所変えようよ」

「確かに。駅前のカフェでも行かない?今新作のフラッペ出てるんだよね」

「それって食べ物目当てじゃん」

「うっ、バレたか……」

「でも一番そこが良さそうだし、行こっかー」



 ガダガタと椅子を引く音が耳障りな声を掻き消す。ちらりと彼女たちを盗み見ると、机の上のものをすごい勢いでリュックに詰めていた。勉強にもそのスピードを分けたらいいのに。

 勉強そっちのけで会話を楽しんでいた女子たちは、おしゃべり大会二次会へと教室を出て行った。

 ようやく沈黙を取り戻した室内にて、イヤホンを外す。正直、意味は無かった。一度シャーペンの先を机に押し付けて芯を戻し、カチカチとノックして再び芯を出す。そしてまた、ワークに数式を綴り始めた。手元は勉強しつつ、頭の片隅には彼女たちの会話が蘇る。

 彼氏、彼女、デート。私には無縁で、けれども私が憧れるものの一つ。

 これは持論だけど、恋愛というのは青春の一部分だと思う。恋人を作って、お互いに好きを与えて、満たされていく。そんな日々を、無理だとは分かりながらも夢見ていた。別に恋愛依存症ではないし、恋人がいないと生きられない人間でもない。言ってしまえば、デートとかはどうでもいい。ただ、自分を好きになってくれる人間の存在が羨ましいのだ。いくらうるさくても、いくら勉強していなくても、彼女たちは誰かが好きな人。つまりは求められている人間。もしかしたら、その人の生きる意味の一つにさえなっているかもしれない。


「……愛される才能」


 ぽつりと呟いた。誰かに愛を注がれるような人であることも、また才能。だって、好きという感情は、自分を肯定してくれるもの。そして満たしてくれるもの。だから私は欲している。

 もちろん、必ずしも、恋人がいるから必要な人間、いないからいらない人間、というわけではない。歌、運動、学力、画力、文章力。何でもいい。とにかく、特出した能力、才能を持つ人間も世の中で求められていることだろう。技術でなくても、他人に対していつでも親切にできたり、生徒会長で大勢から信頼されていることも才能の一種。才能を持つ人たちは、どんな形であれ世の中に求められており、いずれは世の中に貢献できる人間と成るのだ。

 じゃあ何もない人間は?

 シャーペンを置いて何気なく自分の手のひらを見つめる。頭も大してよくなくて、運動もイマイチで、性格が特段良いわけでもなく、積極性もない。そんな私は、果たして必要な人間なのか、と言いようのない不安が襲いかかることが稀にある。
 
 これは自分で出した結論。何もない平凡な人間は、ただ努力するしかない。努力を積み重ねて、他人よりも秀でた部分を作る。それを生かして、社会の歯車としての役割を担う。それが私。

 つまりは、世の中に求められている人間ではないということ。世の中が求めているのは、私ではなくて、世の中を動かす歯車なのだから。代わりはいくらでもいる。

 いてもいなくてもいい人間。少なくとも、今の私はそうだ。だから欲している。誰かに求められるという感覚を。世の中から求められていないのであれば、せめて誰か1人でもいいから求められたい。私がいなければいけないって言われたい。生きていなきゃいけないんだって感覚を味わいたい。

 自己満足だとは分かっている。でもやっぱり、誰かに愛されたい。誰かに必要とされたい。そうじゃなきゃ、自分がなんで生きているか分からない。

 気がつけばシャーペンを握る手が止まっていた。解いた問題も大して進んでいない。そもそも、頭では勉強のことなんて1ミリも残っていなかった。胸の奥に鉛が落ちたみたいに重苦しくなっていく。心が黒に侵食されている、という表現がぴったりな気がする。

 生きる意味がないまま人生を過ごすのが辛い。いつからかそう思うようになった。私は一体、何を目指して、何を目標に生きればいいんだろう。将来の夢も明確ではない。これといった趣味もない。自慢できる才能もない。私は何も持っていない。私には何もない。

 そんな私の生き方は何?

 こんなことを悶々と考え込むから勉強の成績が上がらないんだ、多分。とてもじゃないけど勉強なんて出来ない。目の前のワークをパタリと閉じ、スマホを取り出す。

 暇つぶしにX(エックス)(旧Twitter)を開いて投稿を上げる。タグは病み、無能、コンプレックス。

 時間さえあればスマホを見る人間は本当にダメになっていくんだなって、現在進行形で実感している。分かっていても、心の空虚を満たすためにはこんな方法しか思いつかない。求められないのなら、せめて、誰かに私の中の一部を認めてもらえるように。

『誰からも必要とされないこんな私は、きっと要らない存在なんだろうな』

 たった一文の呟きを投稿した。

 大袈裟に思われるかもしれない。でも、本当に、そう思うんだ。世界から取り残されたように、或いは、1人だけ別の生き物のように。呼吸を忘れたかと思うほど胸が苦しくなる。

 誰か、私を見つけて。


            *


 そんな日々を送っていた私は、夏と秋の淡いに、人気の少ないビルの屋上から飛び降りた。

 きっかけは些細なこと。

 心の声を吐露するのに使っていたXについたコメント。鍵垢にしていないため、誰でも見られるようになっているそれには、稀に見知らぬ誰かから返信が来ることがある。大抵、そういうのは「分かります」とか「自分なんて」みたいな共感を示すものが多かった。無論、それらを書き込む人は、同情だとか憐れみだとかの感情を抱いていることは分かっていた。分かっていても、そういう言葉に少しだけ安堵を感じる自分がいたのも事実だ。

 でも、今回は違った。

『悲劇のヒロインぶってんのウザすぎ』

 通知を見たら、そんな文章が私を殴った。息が詰まり、鼓動が激しくなり、しばらく経って──、


「確かに」


 納得した。

 天才、才能、劣等感。そんな言葉に囚われ続けていたけれど、それ以外に何の不満があったか。いじめられているわけでもない、両親や家がないわけでもない、生活に困るわけでもない、身体に支障があるわけでもない。むしろ、当たり前という奇跡のような人生を送れている自分が、どうしてここまで悲観的になるのか。

 世の中には、生きることもままならないような、明日が来るかどうか分からないような人だっているのに。

 その瞬間、自分が本当にちっぽけで、どうしようもない存在に思えた。悲劇のヒロインに自らなろうとして、他者から同情という名の優しさを欲しがる人間。本当にクズじゃないかと、気づいてしまった。

 そこから行動するまでに、然程時間は要らなかった。

 もう死のう。そう思った。

 だって私は、生きていても仕方がない。全てが揃っている自分が可哀想な人になろうとするなんて、当たり前を必要とする誰かに対して失礼だ。この存在それ自体が。

 学校を出て、人気のない路地を歩いて、廃墟になったビルに入った。所謂不法侵入だ。どうせ死ぬんだ、最後くらい悪いことをしてみたい。階段を登って五階の上、屋上の扉を開けて、床のギリギリに立つ。フェンスや柵は無かった。下から風が吹きつけて髪が巻き上げられる。見下ろすと地面が随分と遠くに見える。不思議と恐怖は無い。

 ふぅと息を吐いてから、体重を前方に落とした。そのまま地球に引かれ、世界が上下逆さまになる。

 落ちている。怖いほどまでに冷静な頭が、そう認識する。制服が激しく揺れる。速度が徐々に加速する。でも、あっという間だと思っていたその時間は、意外と長かった。

 唐突に記憶が蘇った。


『どうしたら、か。……そうだね。うーん……なんとなく、かな』
『あっ、試合終わったっぽいよ。行こう!』
『とか言いながら、実は私も彼氏できたんだよね』

 
 どれもこれも、私の中に妬みと劣等感が生まれた瞬間。最期の最後まで自分の醜さを思い知らされるのかと思うと笑えてくる。こんなしょうもない人生だったのか。

 しかし、突然場面は切り替わった。


『大好きだよ、紗夜』

 
 安心する笑顔と、頭を撫でる優しい手つきと、心からの愛情。お母さんの、暖かい記憶。小学校、いや、中学校でもなお、時々頭を撫でてくれたっけ。気恥ずかしさはあったけど、どんな時でもお母さんは私を穏やかな気持ちにしてくれた。最近はまともに会話していないから、どう笑っていたのか忘れかけていた。

 湯気のようにお母さんが消え、別の暖かさを感じる。


『紗夜ちゃん、ありがとね』

 
 屈託のない微笑みと、不思議な居心地の良さと、小さな喜び。高校に入ってから仲良くなった綴莉(つづり)が浮かんだ。眼鏡に三つ編みを垂れ下げた大人しい見た目なのに、実際話したら気が合って、しかも会話が面白くて。綴莉はどんな私でも受け入れてくれて、私のどんなところも知っている。学年が上がってクラスが離れてから、会う機会が無くなっていて、もう家家の記憶すら薄れかけていた。

 その他にも、クラスメイトの声が聞こえた。中学の同級生の声が聞こえた。教師の声が聞こえた。近所の人の声が聞こえた。

 それは全部、暖かくて幸せで。

 涙が溢れてきた。死の間際でも人間泣くことはできるらしい。皮肉だ。死にたいのに、わざわざ幸せな記憶を見せるなんて。

 いつから自分を悲観するようになった?
 いつから周りに嫉妬ばかりを抱いた?
 いつから自分に向けられる感情を見なくなった?
 いつから、幸せを自ら避けるようになった?

 羨むんじゃなくて、自分に落胆するんじゃなくて、ただ当たり前を今まで通り幸せに思えられていたら良かったんじゃないか。 


「……どうして、飛び降りちゃったんだろ」


 後悔してももう遅い。


 やっぱり私、もっと生きたかった。


 空に伸ばした手は何も掴まない。代わりに地面が私を捉えた。瞬間、痛みという言葉では言い尽くせないほどの衝撃が脳を揺らし、全身を走った。視界が点滅して、次第に赤く染まっていく。声が出ない。息ができない。体が動かない。

 生きたい。

 そう呟いたのを最後に、私の意識は無くなった。


           *

 
 どうしてもっと幸せに気づかなかったんだろう。いや、気づこうとしなかっただけだ。ああ、やり直したいな。ほんの少しでもいいから、まだ生きたい。生きたかった。でも、こんな願いも無駄なんだろうな。

 そう言えば、私はどうなったんだろう。心なしか、体がふわふわするような。それに、温もりを感じる。
 
 目をそっと開いた。真っ先に入道雲が浮かぶ青空が飛び込んできた。あの世にも空があるんだ。体を起こして立ちあがろうとした。けど、できなかった。代わりに四つん這いになった。その時に自分の腕が視界に入る。白い毛並みが日光を反射して艶々と輝いていた。

 ……白い毛?

 さぁーと全身に言いようのない感覚が広がる。立ち上がれない時から薄々は気づいていたけど。それに、地面に触れる感覚にも違和感がある。

 慌てて辺りを見渡した。地面も雑草もフェンスも、何もかもがとても高く見える。ふと水溜りが目に留まった。雨上がりの後だったらしい。一目散にそこへ駆ける。四足歩行は変わらなかった。

 青空を鏡のように映し出しているそれをそっと覗き込む。そこにいたのはパッとしない表情の人間ではなく、真っ白い毛並みをした子猫。

 ああやっぱり。

(……猫!?)

 無意識に出た悲鳴は「にぁぁああ!」と、自分に似つかわしくない音に変換された。

 どうやら私は、猫になったらしい。