高校へ行く準備をして下に降りる。誰もいない平日の昼間。しかし、ずっと寝ているわけにもいくまい。朝最悪だった調子はすっかり元に戻っている。

昨日はひどく疲れていて、紅葉と抱き合ったその先を覚えていない。学校から帰ってきた妹が言うには、紅葉が家まで連れて帰ってきてくれたんだと。

紅葉のやつ……一応ぼくを部屋に寝かせたまま、ベッド脇にずっといたそうだ。妹が帰ってきたらとっとと隣に帰ったそうで、久々の紅葉お兄ちゃんについて、妹がキャーキャー言っていた。もしかしたら妹がうるさかっただけかも知れないが……。

もしかしたらぼくのことを、やっぱり……。紅葉は怨んでいるのかも知れない。

紅葉はぼくのせいで力を使わされ、消耗して、昨日はぼくが意識を失うほどに冷たかった。

もう、ぼくの方こそ、心が凍ってしまいそうな程だったんだ。

リングに負担がないと言うのは、嘘じゃないか……。少なくともぼくは、凍傷にでもなるんじゃないかと言う勢いだった。けれど、ぼくがいなくちゃ、紅葉は紅葉ではなくなってしまうから。ぼくは、責任をとらなきゃいけないんだ。

そう心に刻み、ぼくは高校へと走った。

紅葉と一緒じゃない登校は久々だ。教室で顔を合わせた紅葉は、いつも通りだ。

ぼくが「おはよう」と言えば、「あぁ」と素っ気ない。もしかしたらそれも、ぼくが紅葉を苦しめる元凶を作ったから……なのか。

とぼとぼと教室の中に入れば、見慣れない女子がいた。

「おう、秋雨!おそよー!」
「……うん、おそよう」
クラスの男子に挨拶をすれば、早速彼女のことを話してくれた。

「彼女、転校生だよ。高林寺(こうりんじ)アゲハさんって言うんだってさ。美人だよなぁ~。転校してきたばかりなのに、早速注目の的な!」
「……へぇ」
きれいな、ひとだ。長い艶のある黒髪に、慈愛に満ちたような黒い瞳。その美しい顔立ちに、誰もが顔を輝かせていた。

「何、お前も興味あんの?あのレベルなら奥宮くらいじゃないと無理だって~~!」
「いや、ぼくは別にっ」
……そんなに興味が湧くわけじゃない。
でも何たか胸の中がざわつく予感がする。いや、気のせいだ。ぼくは自分にそう言い聞かせた。

※※※

――――――そうして放課後が来た。

紅葉はまた早退していた。しかも、ぼくに何も言わずになんて……初めてだ。

紅葉が早退するなら、紅葉が帰ってくるまで部屋で待つのが、ぼくの日課だったから……。

だけど、昨日は学校から連れ去られるかのようにどこかに連れ込まれた……。多分紅葉の家……なんだろうけど。

昨日は相当追い込まれていたみたいで……。でも、何も言ってやれなかった。

ぼくはただ、紅葉を抱き締めることしかできない。

本当に役立たずのリング。

しかも最近は1日学校にいられることすらほとんどないのだ。……ぼくの、せいでっ!

まるで自分自身を責めるように、何となく誰にも会いたくなくて。

――――――紅葉に、会いたい。そう願いながらも、まだ帰ってくるまでには時間がかかるだろうと思う。

昨日みたいなことはごめんだ。何を急いでいたのか、焦っていたのか……。

あんなボロボロな紅葉は、見たくなかった……っ。

とぼとぼと……高校の裏の道を通りながら、後悔に押し潰されそうに生りな ら、帰ろうとしていた。

――――――その時だった。

「ねぇ、秋雨くん」
「え……っ!?」
呼び掛けられて振り返れば、そこには思っても見なかった人物がいた。

「秋雨浬くん、でしょ?クラスのコたちに聞いたの」
「そう……なんだ」
何でこんな、住む世界も違うような美少女がぼくに話し掛けてくるんだ?あ……っ。
クラスの男子の話を思い出した。彼女に足釣り合うのは、紅葉くらいだって。まさか彼女も紅葉のことを……?そう考えると、何だか胸がきゅうっとなる。

決して、紅葉のペアリングだからって自惚れているわけじゃない。紅葉は特殊体質だけど、紅葉が誰に恋して、付き合おうが、紅葉の自由なのだ。

紅葉を追い込む原因を作ったぼくが、口を出すことじゃないのは分かっている。
だけど……。

「そんなに警戒しなくても、恋文(ラブレター)なんて出さないわよ?」
「……っ!?」
まさかぼくの黒歴史を聞いたのか……?いや、あれのそもそもの原因は紅葉で……。いや、ぼくに出会わなければ、紅葉はこの高校に通う必要などなかったのだ。紅葉に関する全てがぼくのせいのようで……。いや、実際そうなのだ。

「今日はあなたとお話をしに来たの。同じリング同士、ね」
「……リング、同士」
高林寺さんも、リングのことを知っている……どころか、リング!?

「あなた。聖女って、聞いたことはある?」
「……えと、ホーリーリングのこと?」
噂には聞いたことがある。伝説の存在。特殊体質たちにとっては、喉から手が出るほど欲しい存在。救いの女神。

「そう。全ての特殊体質を受け入れられる特別なリング、ホーリーリング。それが……私よ」
「え……っ」
ホーリーリングが、実在した……!?そして彼女がその、ホーリーリング。ホーリーリングは別名聖女とも呼ばれるのだ。

全ての特殊体質を癒す、慈愛に満ちた聖母のように、尊ばれる。そんな彼女が、何故。

「だから私がこの錦矢市に派遣されたのよ」
派遣……。ぼくも一応は錦矢支部所属のリングだ。所属していると言っても、支部のエースである紅葉の回復役。EPAのことなんて、さらっとしか知らない。紅葉の任務の内容だって知らない。

ただその役目のために名前を連ねているだけだ。だけど彼女は伝説のホーリーリング。聖女だからこそ、EPAが正式に囲っていると言うことなのかな。

「現在、奥宮紅葉の請け負っている任務は多岐にわたっているの。そして彼の肉体的、精神的に多大な負担を強いていること、あなたは知っているの?」

「そりゃ……なんと、なくは」
紅葉がぼくに抱き付いてくる回数分、その身体が凍てついている分、それをひしひしと感じとっている。

「では、何の任務についているかはご存知?」
「……いや、知らない」
何も、知らない。紅葉は何も教えてくれない。ぼくはただのリングだから。聞くことすら、いけないんだと線を引いていた。

「やはりね。私が来て正解だったわ」
どういう、ことだろう?

「彼の全てを理解し、癒すため。私はEPAから派遣されたの。奥宮紅葉の、ペアリング……いいえ、ホーリーリングとして……!」
「……っ」
そんな……っ。

「あなたのような、特殊体質を心身ともに支えもできない出来損ないのリングは不要よ」
「出来損ない……」

「だって、そうでしょう?ペアリングとして歩んで起きながら、彼のことを何も知らない!知ろうともしないじゃない!いい?世の中のリングはね、EPAの試験を受け、特殊体質にふさわしいペアリングになるために日々研鑽を積んでいるの。でもあなたはどう?奥宮紅葉の優しさに漬け込んで、手をこ招いているだけでしょう?」
そんな、EPAの試験って何……?そんなもの、知らない。聞いたこともない。ほかのリングはそんなことまでしているなんて。紅葉はどうして教えてくれなかったんだ……。……そうか、それほどまでにぼくのことを、怨んでる。怒っているのか……。恋文(ラブレター)事件の時だって、きっと何も知らないぼくが紅葉をからかったと思って……。ぼくが紅葉の気も知らないで……っ。

「だから、奥宮紅葉のリングは私が務める」
高林寺さんが高らかに叫ぶ。

「私なら、EPAのエース、奥宮紅葉を最高の形で癒してあげられるから」
EPAの、エース……。支部だけのエースじゃない。紅葉はぼくが考えるよりもずっとずっと高いところにいたんだ……。

確かに、そうかもしれない。紅葉が過酷な任務を強いられる原因になったぼくがずっと、紅葉を苦しめ続けるのなら。

彼女が……紅葉の隣にふさわしい彼女が側に、いるべきだ。
彼女はどんな特殊体質だって癒せる、聖女なのだから。きっと紅葉のことだって、今よりもずっと、癒してあげられるはず……だよね。

「だから、あなたは今この時をもって奥宮紅葉のリングを外れるの。今後EPAに関する全ての機密を守るなら、ただの一般人として生活する自由くらいは保障されるわ」
ただの、一般人……か。でもそれも俺にはお似合いなのかもしれないな。もう紅葉と関わることもない。紅葉は高林寺さんと幸せになってくれればそれでいい。

「……と、言いたいところだけど」
高林寺さんが不意に指をパチンと鳴らす。

その瞬間、叫ぶ隙もなく、2人の男たちに羽交い締めにされて……っ、大きな手で口を塞がれたっ!!

「ん゛ぐ――――――っ!?ん゛……っ」
「残念だけど、奥宮紅葉にリングとして接してきたあなたは……EPAの最高機密、奥宮紅葉ーーいえ、エージェント番号1852(イチハチゴーニー)のデータ機密保持のための特例措置法に基づく処置が該当するのよ。だからあなたの身柄は我らEPAが拘束させてもらう!」
は……?何、され。エージェント番号?そんなもの、知らない……。
それに身柄拘束ってどういうことだ……?

「安心して。あなた、ご家族にはエージェント番号1852に関する特殊体質のことを話していないのでしょう?そこだけは立派だわ。褒めてあげるわね。ご家族には危害は加えられない。彼らはあなたが事故死し、死体も残らなかったと、……後から警察から知らされるだけよ。良かったわね!」
そん……な、事故死って……。いや、家族が無事なら……けど、両親も、妹だって悲しむ……っ!
全てはぼくが、ぼくが紅葉と出会ってしまったから……っ!
紅葉だけじゃない!家族まで悲しませることになるなんて……っ。でもだからこそ、ぼくはその罪を贖わなければならないんだ。

「……それと、これはあなたにはふさわしくない」
そう言うと高林寺さんはぼくのタイをするりと外し、シャツのボタンを1つ、2つと外すと、その首にかけられた指輪を掬い上げ、そしてチェーンを引きちぎるようにして奪いとった。

「ん゛っ!?」
そしてその指輪を、左手の薬指に嵌め、恐いほどの満面の笑みを浮かべる。
「ふふっ、やっと手に入れた……エージェント番号1852の指輪(ゆびわ)っ!」
彼女は先程から、一体誰の話をしている?何の話をしている……?違う。エージェント番号1852なんて、知らない。その指輪(リング)は……紅葉のっ!!

「ねぇ、知ってる?ホーリーリングには、多くの特殊体質を癒す特別な存在だからこそ、EPAより特別な権利が与えられるの!」
え……、特別な権利?高林寺さんがニイィッと気味の悪い笑みを浮かべる。

「ホーリーリングは、誰でもいいから望んだ特殊体質をひとり選べるの……!そしてペアリングになれるのよ!それがホーリーリングたる役目に、聖女である私へのご褒美のようなものね!だから私はエージェント番号1852を希望した。EPAのエースであり、私の隣に立つにふさわしい、美しくて最強の……エージェント番号1852を……っ!あーはっはっはっはっは!あーはっはっはっはっは!!」
ホーリーリングだからって……こんな強引にペアリングを引き離すのか……?いや、紅葉にとっては、彼女が癒すことで、紅葉として生きることができる。
――――――だけど、こんな……。

紅葉を番号で呼ぶようなホーリーリングに、紅葉を渡すだなんて……。

ぼくが言えた義理じゃない。じゃ、ないけど嫌だ……。ぼくの目からは大量の涙がこぼれおちる。

「あなたはそこで見ていて。エージェントの力で、あなたの姿は、そこのエージェントたちとともに、見えなくしてあるから」
あぁ……ぼくを捕らえているこのひとたちも、エージェント。特殊体質を持つ、エージェントなんだ……。これじゃぁ、逃れようもない。

西陽(にしび)はエージェントたちに羽交い締めにされたぼくを照らし、影法師を作って行く。

やがてまばゆい夕焼けが、指輪を嵌めて悠然と立つ美しい高林寺さんを黄金に染めた時……。

その場に、何の前触れもなく紅葉が姿を現した。