「あれ、もう着いたのか……」
 
 物思いに耽りながら自転車を漕いでいたからか、いつもなら遠く思えるはずの大学から自宅までの距離が今日はあっという間に感じられた。
 自転車のブレーキ音が普段より甲高く聞こえる気がしつつも、俺は自転車から降りて自宅のガレージに自転車を仕舞うと、郵便受けを開けて中を確認する。中は空だったが、代わりに隙間から入ってしまったと思しき弱りきった赤とんぼを見つけると外に逃がす。
 こういう小さな徳も積み重ねたら何かの役に立つかもしれない。中学生の時、生前蜘蛛を助けた罪人の主人公が仏様の垂らした蜘蛛の糸に掴まって地獄から脱出しようと試みる、という有名な文学作品を読んでから、そう考えるようになった。
 暑さが和らいできた初秋の夕陽を背にして、背負っていたリュックサックから自宅の鍵を取り出すと、慣れた手つきで玄関の鍵を解錠する。落ち着く自宅の臭いと脱ぎ散らかされた男物しかない靴。自分が履いていたスニーカーを脱ぎながら、つい癖で言ってしまう。

「ただいま……」

 いつもながら出迎えてくれる者はいない。そう分かっていつつも、子供の頃からの習慣というものは変わらない。あの頃は誰もいない自宅に帰るのが億劫であり、切ない気持ちになったが今は違う。薄暗い玄関まで漏れるリビングの明かりと断続的に聞こえるテレビゲームの音から、この家が全くの無人では無いことが判明する。俺は靴を脱いで愛用のスリッパに履き替えると、リビングに足を向けたのだった。

「いるんだったら、鍵くらい開けてくれよ。アキラ」

 リビングのドアを開けながら不満を口にすると、テレビの前に座っていた寝ぐせがついたままのぼさぼさ頭の黒髪の若い男が背を向けたまま「んっ」とだけ返事をする。今朝、大学に行こうと家を出た時から何も変わらない朝食に使った皿や脱いだ服がそのままになっている部屋。そしてテレビに映っているのは、世界的に有名な日本のゲームキャラクターが登場するレースゲーム。
 そんなレースゲーム上でこねくり回すようにコントローラーを握って白熱の試合を展開しつつ、画面から一切目を離さずに文句を述べている灰色のスエット姿の若い男。その正体は俺の幼馴染みであるアキラだ。

「こんなに早く帰って来るって思わなかったし……」
「いつもと同じ時間だろう。って、朝から何も変わってないじゃん。使った食器と脱いだ服もそのまま。お昼は? 冷蔵庫にあった冷やし中華は食べた?」
「カップ麺を食べた」
「お前なあ……。毎日カップ麺ばかり食べたら栄養が偏るぞ」

 俺は背負っていたリュックサックを椅子の上に置くと、朝食の皿を集めてキッチンに持って行く。すっかり乾いて汚れが固まっているので、しばらく水につけないと落ちないだろう。水道を捻って皿を入れた洗い桶に水を張っている内に、アキラが脱いだ服を拾っていく。明日も着るのかアキラに聞くと、ゲーム機のコントローラーを操作しながら、「着る」と上の空で返事をしたので、適当に畳んでソファーに置く。いまアキラが着ているパジャマ代わりの灰色のスエットも、ここに落ちている服も、全て俺が貸したものだ。
 自分のことを優先して、他のことがおざなりになるのはいつものアキラらしいが、ただ人から借りた物を、もう少し大切にしてくれないものか……。

「さすがに洗濯物くらいは取り込んでくれただろう? 昼間に天気雨が降ったよな」
「それくらいはやったよ……。忙しいから後にしてくれる? いまランクマッチ中」
「へいへい」

 真剣な顔でゲームをするアキラを放ってキッチンに戻ると、洗い桶でつけ洗いしていた食器を濯ぐ。夕食の用意をしようと冷蔵庫を開けたところで、眉を顰めてしまったのだった。

「アキラ、買い物に行った? なんか冷蔵庫の中、人参と油揚げばっかりな気がするんだけど」
「行ってない。人参と油揚げを大量に買ってくるのはイノリだろう。おれだって冷蔵庫を開けてびっくりしたよ。いなり寿司でも作るつもり?」
 
 その時、ゲームオーバーにでもなったのか、寝癖がついたままのウェーブがかかった黒の短髪を乱暴に掻き混ぜながら「また負けた!」と吐き捨てる。
 冷蔵庫の中はオレンジ色の人参ときつね色の油揚げが入った袋でほとんど占領されており、アキラの昼食用に今朝作った肝心の冷やし中華はラップを掛けられた状態でオレンジ色ときつね色の中に埋もれていた。これじゃあアキラじゃなくても、冷やし中華を見つけるのは至難の業だろう。アキラには悪いことをしたな……。
 
「いなり寿司か……。たまにはいいかもな。今から作ると時間かかるから出前を頼むか? どうせ父さんは今日も夜勤で帰って来ないし、俺もこれから出掛けるからまたアキラ一人になるし」

 リビングの壁掛けカレンダーには俺の予定に加えて、近くの総合病院で内科医として働く父さんの予定も書いてある。今日の日付の項目には「夜勤」と書かれており、明日の昼前には帰宅することになっていた。最も受け持っている患者の容態次第では、この通りにいかないが……。

「出掛けるって、どこに?」
「バイト。今は荷物を置きに帰っただけだからすぐに出る」

 アキラを残してリュックサックを持つと、階段を上って二階の自室に入る。勉強机とベッド、服が数着入ったクローゼット以外はほとんど何も無いと言っていい殺風景な部屋。年頃の男子大学生なら、もう少し好きなアイドルのポスターやお気に入りのアーティストのCDが飾ってあってもおかしくない。現にアキラが暮らすアパートの部屋はもう少し雑然としていた。たまに片付けに行ってやらないと床が見えないくらいに物が乱雑に広げられて、脱いだ服はそのまま落ちているといった酷い有り様。この間は返却期限日がとっくに過ぎたレンタルショップのDVDを見つけて肝が冷えた。俺が片付けをしている間に返却しに行くようにアキラに言って部屋から追い出したら、数十分後に随分と落ち込んだ様子で帰って来た。延滞金が幾らかかったのやら……。
 きっとアキラのように色んなものに興味を持って手を出すのが普通なのだろう。俺がそういったものに興味を持たなかっただけ――。いや、興味を持てなかった。
 そんなものに手を出す程、心に余裕がなかった。俺はアキラや同年代の大学生とは()()のだから。
 クローゼットを開けて、ハンガーに掛けられた十着にも満たない洋服を掻き分けると、奥から縦長の黒い箱を引っ張り出す。見た目は楽器ケースに似ているが、中身は全くの別物だ。蓋を留める金具を外して箱を開けると、中から布製の竹刀袋を取り出したのだった。

「今日こそ頼むな。相棒」