「あれ、もう着いたのか……」
 
 物思いに耽りながら自転車を漕いでいたからか、いつもなら遠く思えるはずの大学から自宅までの距離が今日はあっという間に感じられた。
 自転車のブレーキ音が普段より甲高く聞こえる気がしつつも、俺は自転車から降りて自宅のガレージに自転車を仕舞うと、郵便受けを開けて中を確認する。中は空だったが、代わりに隙間から入ってしまったと思しき弱りきった赤とんぼを見つけると外に逃がす。
 こういう小さな徳も積み重ねたら何かの役に立つかもしれない。中学生の時、生前蜘蛛を助けた罪人の主人公が仏様の垂らした蜘蛛の糸に掴まって地獄から脱出しようと試みる、という有名な文学作品を読んでから、そう考えるようになった。
 暑さが和らいできた初秋の夕陽を背にして、背負っていたリュックサックから自宅の鍵を取り出すと、慣れた手つきで玄関の鍵を解錠する。落ち着く自宅の臭いと脱ぎ散らかされた男物しかない靴。自分が履いていたスニーカーを脱ぎながら、つい癖で言ってしまう。

「ただいま……」

 いつもながら出迎えてくれる者はいない。そう分かっていつつも、子供の頃からの習慣というものは変わらない。あの頃は誰もいない自宅に帰るのが億劫であり、切ない気持ちになったが今は違う。薄暗い玄関まで漏れるリビングの明かりと断続的に聞こえるテレビゲームの音から、この家が全くの無人では無いことが判明する。俺は靴を脱いで愛用のスリッパに履き替えると、リビングに足を向けたのだった。

「いるんだったら、鍵くらい開けてくれよ。アキラ」

 リビングのドアを開けながら不満を口にすると、テレビの前に座っていた寝ぐせがついたままのぼさぼさ頭の黒髪の若い男が背を向けたまま「んっ」とだけ返事をする。今朝、大学に行こうと家を出た時から何も変わらない朝食に使った皿や脱いだ服がそのままになっている部屋。そしてテレビに映っているのは、世界的に有名な日本のゲームキャラクターが登場するレースゲーム。
 そんなレースゲーム上でこねくり回すようにコントローラーを握って白熱の試合を展開しつつ、画面から一切目を離さずに文句を述べている灰色のスエット姿の若い男。その正体は俺の幼馴染みであるアキラだ。

「こんなに早く帰って来るって思わなかったし……」
「いつもと同じ時間だろう。って、朝から何も変わってないじゃん。使った食器と脱いだ服もそのまま。お昼は? 冷蔵庫にあった冷やし中華は食べた?」
「カップ麺を食べた」
「お前なあ……。毎日カップ麺ばかり食べたら栄養が偏るぞ」

 俺は背負っていたリュックサックを椅子の上に置くと、朝食の皿を集めてキッチンに持って行く。すっかり乾いて汚れが固まっているので、しばらく水につけないと落ちないだろう。水道を捻って皿を入れた洗い桶に水を張っている内に、アキラが脱いだ服を拾っていく。明日も着るのかアキラに聞くと、ゲーム機のコントローラーを操作しながら、「着る」と上の空で返事をしたので、適当に畳んでソファーに置く。いまアキラが着ているパジャマ代わりの灰色のスエットも、ここに落ちている服も、全て俺が貸したものだ。
 自分のことを優先して、他のことがおざなりになるのはいつものアキラらしいが、ただ人から借りた物を、もう少し大切にしてくれないものか……。

「さすがに洗濯物くらいは取り込んでくれただろう? 昼間に天気雨が降ったよな」
「それくらいはやったよ……。忙しいから後にしてくれる? いまランクマッチ中」
「へいへい」

 真剣な顔でゲームをするアキラを放ってキッチンに戻ると、洗い桶でつけ洗いしていた食器を濯ぐ。夕食の用意をしようと冷蔵庫を開けたところで、眉を顰めてしまったのだった。

「アキラ、買い物に行った? なんか冷蔵庫の中、人参と油揚げばっかりな気がするんだけど」
「行ってない。人参と油揚げを大量に買ってくるのはイノリだろう。おれだって冷蔵庫を開けてびっくりしたよ。いなり寿司でも作るつもり?」
 
 その時、ゲームオーバーにでもなったのか、寝癖がついたままのウェーブがかかった黒の短髪を乱暴に掻き混ぜながら「また負けた!」と吐き捨てる。
 冷蔵庫の中はオレンジ色の人参ときつね色の油揚げが入った袋でほとんど占領されており、アキラの昼食用に今朝作った肝心の冷やし中華はラップを掛けられた状態でオレンジ色ときつね色の中に埋もれていた。これじゃあアキラじゃなくても、冷やし中華を見つけるのは至難の業だろう。アキラには悪いことをしたな……。
 
「いなり寿司か……。たまにはいいかもな。今から作ると時間かかるから出前を頼むか? どうせ父さんは今日も夜勤で帰って来ないし、俺もこれから出掛けるからまたアキラ一人になるし」

 リビングの壁掛けカレンダーには俺の予定に加えて、近くの総合病院で内科医として働く父さんの予定も書いてある。今日の日付の項目には「夜勤」と書かれており、明日の昼前には帰宅することになっていた。最も受け持っている患者の容態次第では、この通りにいかないが……。

「出掛けるって、どこに?」
「バイト。今は荷物を置きに帰っただけだからすぐに出る」

 アキラを残してリュックサックを持つと、階段を上って二階の自室に入る。勉強机とベッド、服が数着入ったクローゼット以外はほとんど何も無いと言っていい殺風景な部屋。年頃の男子大学生なら、もう少し好きなアイドルのポスターやお気に入りのアーティストのCDが飾ってあってもおかしくない。現にアキラが暮らすアパートの部屋はもう少し雑然としていた。たまに片付けに行ってやらないと床が見えないくらいに物が乱雑に広げられて、脱いだ服はそのまま落ちているといった酷い有り様。この間は返却期限日がとっくに過ぎたレンタルショップのDVDを見つけて肝が冷えた。俺が片付けをしている間に返却しに行くようにアキラに言って部屋から追い出したら、数十分後に随分と落ち込んだ様子で帰って来た。延滞金が幾らかかったのやら……。
 きっとアキラのように色んなものに興味を持って手を出すのが普通なのだろう。俺がそういったものに興味を持たなかっただけ――。いや、興味を持てなかった。
 そんなものに手を出す程、心に余裕がなかった。俺はアキラや同年代の大学生とは()()のだから。
 クローゼットを開けて、ハンガーに掛けられた十着にも満たない洋服を掻き分けると、奥から縦長の黒い箱を引っ張り出す。見た目は楽器ケースに似ているが、中身は全くの別物だ。蓋を留める金具を外して箱を開けると、中から布製の竹刀袋を取り出したのだった。

「今日こそ頼むな。相棒」

 祈るように小声で呟くと、竹刀袋を肩に掛ける。部屋を出て階段を降りていると、ようやくゲームを終えたのかアキラがリビングから顔を出していたのだった。

「あのさ。今日は早く帰ってくるよな?」
「なんだよ。藪から棒に」
「だって、明日はお前の誕生日じゃん。それも二十のさ。だから十代最後の夜から、日付が変わって二十歳になる瞬間を祝いたいと思って……。お前にはいつも世話掛けてばかりいるから、おれの奢りで美味しいものでも買ってさ……」
「気持ちはありがたいけど、今日中に帰れるか分からないんだ。先に休んでいてくれ」
「じゃあさ、明日は大学をサボってどこかに出掛けないか。中学の時みたいにさ」

 昔、俺とアキラが中学生だった頃、アキラの誕生日に学校をサボって、他県の有名テーマパークまで遊びに行こうとしたことがあった。
 あの時は母子家庭で貧しい生活を送るアキラがクラス内でいじめに遭っていて、誕生日くらいは学校を忘れて幸せな気持ちになって欲しいからと、俺が計画してアキラを連れ出した。
 当初は新幹線で行くはずだったが、平日に中学生が二人きりで乗車しているのは怪しまれるからと、急遽自転車で行くことになった。けれども自宅から他県までは数時間も掛かる上に、アキラの母親が心配するからと日帰りにしたため、結局テーマパークまで辿り着けず、県南にある海岸で海を眺めながらたわいのない話をするだけで終わってしまった。
 それでも俺にとってはとても楽しい、思い出深い一日だった。
 あの時と同じような思い出を、またアキラと作れるのなら作りたい。だが――。

「悪いけど、駄目だ。明日も、明後日も……」
「そんなに大学が忙しいの? それともバイト? ペットショップで働いているんだっけ。確か……」

 アキラがうちに住んで数ヶ月。頻繁に外出していたら女がいるのかと怪しまれたからバイトをしていると嘘をついてしまった。そうしたら今度はどこでバイトしているのかしつこく聞いてきたので、適当にペットショップと答えていた。
 どうしてペットショップかというと、アキラに聞かれた丁度その日に泥や土を頭から浴びた状態で帰宅したから。
 ――本当は山道で転んだだけだったが。
 
「……まあ、そんなところだ。そうだ、さっき遊んでいたゲーム。気に入ったならお前にやるよ。ゲーム機とか、それ以外でも俺の持ってるもので欲しいものなら何でも……」
「またそれか? いい加減にしてくれ。お前はいつもおれを物乞いみたいに扱うんだな。おれが極貧生活を送っているからって、同情しているつもりなのか。これだから金持ちの医者の息子は……」

 呆れたように溜め息を吐いたアキラに苦笑してしまう。思えばいつもそうだった。俺としては自分よりもアキラの方が大切にしてくれそうで、何より()()使ってくれる気がするから、プレゼントしているつもりだった。その方が贈られる物側も喜ぶだろうと思って。だが、それがアキラの感情を逆撫でしていたらしい。
 事情を知らないアキラからしたら、そう思われても仕方ないが――。

「物乞いでも金持ちの余裕でもないさ。俺は飽きるまで遊んだからやるってだけ。もうゲームもしないだろうし」
「思い出して、またやりたくなるかもしれないだろう?」
「思い出したのならな。じゃあバイトに行くから。出前を頼むのなら、テレビ台の右下の引き出しに現金があるからそれで支払え。俺のへそくり」
「いいよ。キャッシュレスで支払うから。ところで誕生日プレゼントは? 誕生日まで考えておくって言ってたじゃん」

 ――すっかり忘れていた。
 数日前に聞かれていた誕生日プレゼントのことを思い出して、反射的に「あ〜」と考えてしまう。
 物欲が皆無なので、これといって欲しいものがなく、毎年適当に誤魔化してきた。これまではそれで良かったが、さすがに今年は記念すべき二十年目の誕生日だからか、アキラは例年以上に食い下がってきた。
 どうする。アキラが納得しそうなものを言っておくか。

(せっかく買ってきてもらっても、無駄になるからな……)

 アキラのプレゼントを受け取るつもりが無いというわけではなく、明日渡されても()()だけだ。
 受取人はもう()()()のだから――。

「プレゼントなんていいよ。別に。気を遣わなくたって」
「気なんて遣ってない。そういう仲じゃないだろう。おれたち」
「本当にいいって。俺が欲しいものはお金じゃ買えないものだし」
「なんだよ、それ?」
「内緒。じゃあ、バイト行くから。……父さんによろしくな」

 物言いたげなアキラを置いて靴を履くと、家を出る。ガレージから自転車を押しながら、もう一度自宅を見上げる。
 これが自宅とアキラを見る最後になるかもしれない。そう思うと、胸が締め付けられるような気がした。
 そんな気持ちを振り払うように自転車に跨ると、地面を蹴って力一杯にペダルを踏む。

(今日で全てが決まる。明日を迎えられるかどうか……)

 俺の明日は来るかもしれないし、来ないかもしれない。それをこれから決めに行く。背中に背負う竹刀袋(相棒)と共に――。

 俺がアキラと初めて出会ったのは小学校四年生を目前に控えた春先。アキラの両親が離婚して、俺と親父が住む自宅近くのアパートに引っ越して来たのがきっかけだった。
 当時アキラの母親は、俺の父さんも働くこの市内で一番大きい総合病院で看護師をしていた。離婚を機に勤め先の総合病院に近いアパートを探しており、たまたま俺の自宅近所に建つ年季の入った古いアパートに空き部屋を見つけたとのことだった。
 アキラたち親子が引っ越して来た日、父さんとの外食帰りにアパートの前を通りかかると、偶然にも引っ越し屋のトラックから荷物を運ぶアキラ親子と遭遇した。
 父さんがこの近くに住んでいることや総合病院で働いていることを話すと、アキラの母親からはぜひ息子のアキラと仲良くして欲しいと頼まれたのだった。
 当時のアキラは両親が離婚したばかりということもあって、今より陰鬱で根暗な性格をしていた。数年後に知ったが、どうやらアキラの両親の離婚の原因というのが父親の浮気にあったらしい。この時のアキラは大好きな父親に裏切られたというショックが大きかったのだろう。
 俺が通う小学校に転校して来ても、いつも陰気くさい顔で俯いており、加えて看護師の母親と質素で貧しい生活を送っていたようで、持ち物や洋服も親戚から譲ってもらったというお下がりを使っていた。そんなアキラをクラスのいじめっこたちが放っておくはずもなく、すぐにアキラがいじめの標的となった。
 最初は見て見ぬふりをしていたものの、執拗に悪口を言われ、持ち物を隠され、砂や石を投げつけられても、ずっと黙っているアキラを見捨てることもできなかった。
 ある日、とうとう俺はアキラをいじめっこたちから助けると、引っ張るようにして自宅に連れ帰ったのだった。
 
『どんな事情があるかは知らないけどさ。お前、悔しくないわけ? いつまでも暗い顔して、何も言い返さないから、アイツらが好き勝手やっているんだけど』

 自分の部屋のクローゼットを開けながら、俺は部屋のドアの前でじっと縮こまっているアキラに話し掛ける。
 父さんがいない時に誰かを家に上げたのは初めてだった。それもリビングじゃなくて二階の自室に案内したのも。
 いつもは友達を連れて来ても、大体リビングで遊んでいた。家族以外を部屋に入れることを禁止されているわけではないものの、何となく自分のパーソナルスペースである自室を他人に見せるのは恥ずかしかった。父さんも滅多に入って来ないからと、お気に入りの特撮ヒーローのフィギュアや図工の授業で描いた動物の絵を飾っていたというのもある。子供っぽいって思われたらどうしようか。
 
『……君には関係ない。何不自由なく暮らしている君には、ぼくの気持ちなんて分かってくれない』
『分かるわけがないだろう! 何も喋らないで、ずっと泣きそうな顔をしている奴のことなんか。俺はただの人間なんだっ! 言われなきゃ分かんねぇだろう!』
 
 それまでアキラが引っ越して来た日にアパートの前で初めて会った時も、いじめっこたちから陰湿ないじめに遭った時も、アキラはずっと唇を一文字に結んだままだった。そんなアキラがこの時になってようやく口を開いた。
 この時はまだアキラが沈鬱な理由を知らなかったから、最初に発した言葉が拒絶だったことについかっとなって反射的に怒鳴った。だからこそ、後からアキラの事情を知って納得した。
 この拒絶こそが、この時のアキラなりの精一杯の言葉だったのだと――。
 そんなことを知らなかった当時の俺は、クローゼットからタオルとTシャツを取り出すとアキラに投げつけたのだった。
 
『でも、放っておけるわけもない! 目の前で困っている奴がいるのに見捨てること、それを助けることが出来るかもしれないのに見て見ぬふりをすること。そんな自分がどっちも許せないんだよっ! 俺がどんな気持ちでいつもお前のことを見ていたのか、いい加減に気付けよ。バーカ!!』
『ぶっ……』
 
 力任せに投げたタオルとTシャツはアキラの顔に直撃する。当のアキラも『うわぁっ……』と引くように小さく声を漏らしながらも、怒るつもりは全く無いらしい。それどころか奇妙なものを見たように顔をしかめていた。

『変なプライド……。しかもバカって言ったし』
『何とでも言え! これ以上バカって言われたくなかったら、いつまでも砂まみれの服を着ていないで早くその服に着替えろ! 風呂も使っていいからさ!』

 さっきからアキラが動く度に頭から白い砂が落ちてくるのが気になった。玄関前で落としたつもりだったけど、まだ残っていたのだろう。後で掃除するのが面倒だと憂鬱になる。
 それでもアキラを助けたことは一切後悔していない。あのままいじめっこたちの好きにさせておく方が、もっとやるせない気持ちになっていたから。
 
『……勝手にそんなことをして怒られないの?』
『いいよ。どうせ父さんは夜勤だし、今夜は俺一人だし』
『お母さんは……?』
『俺は父さんと二人暮らしの父子家庭。母さんはいない。ずっと前から……』

 物心ついた時には父さんと二人暮らしだった。何かの時に『母さんはどこにいるの?』と聞いたら、父さんはただ寂しげに笑った。
 それだけで分かってしまった。俺の母さんは何かしらの理由で一緒に暮らせない存在なのだと。
 これにはアキラも驚いたのか、何度も目をパチパチさせていた。
 
『寂しくないの? お母さんがいなくて』
『全然! だって俺には父さんがいるし、母さんの記憶なんて全く無いから、寂しいなんてちっとも思わないね! それにさ、俺がメソメソ落ち込んでいる方が父さんを悲しませるんだ。少しくらい我慢しないとな』

 母さんのことに限らず、運動会で一着になれなくて悔しくて暴れたり、テストで良い点を取れなくて泣いていたりすると、父さんも同じくらい悲しんだ。昔はそれで良かったが、歳を重ねるにつれて罪悪感を持つようになった。父さんが俺に付き合って、わざと悲しんでくれているんじゃないかと。
 アキラは『ふ〜ん』と意味深な返事をしたものの、俺が投げたタオルとTシャツを手放すつもりはないようだった。

『やっぱり君って変だね』
『好きに言ってろ。根暗』
『根暗じゃない。ぼくには(あきら)って名前がある』
『知ってるよ。同じクラスだからな。転校生の淀江(よどえ)暉くん』
『暉くんって呼ばれるの、何か気持ち悪い……。アキラでいいよ。同じクラスの小邑祈里(こむらいのり)……くん』
『イノリでいいよ。なんだ。俺のことを知っていたんだな』
『君さ、自分で気付いていないだけで、結構目立ってるよ。授業中や掃除中はうるさくて、給食は食べるのが早くて、休みの人の牛乳ジャンケンにはいつも参加してるし』
『そうだっけ……?』

 言われてみれば、授業中に飽きて近くの友達数人と机に落書きしていたことや、掃除の時間に箒をマイク代わりにして特撮ヒーローの主題歌を歌っていたことばかり思い出してしまう。昨日も今日も学校を休んだクラスメイト分の牛乳を巡って、給食の時間に希望者とジャンケンをして牛乳をお代わりしようとしたことも。
 ――今更ながら無性に恥ずかしくなった。穴があったら入りたい。
 
『その割には女子からは人気だし、男子の友達も多いし。これだから金持ちのモテ男は……。どうせバレンタインにはチョコをたくさんもらって自慢しているタイプだろう』
『うるさいっ!! バレンタインにチョコをもらったことなんて一度も無いし、チョコの自慢も……出来ることならやってみたいくらいだよっ!! 金持ちなのにモテなくて悪かったな、バカアキラ!!』
『またバカって言った……。イノリって、案外頭悪いんだね」

 結局その日はアキラの母親も仕事で帰りが遅いということで、交互に風呂に入って、父さんが用意してくれていた一人分の夕食を二人で分け合って食べた。当然、食べ盛りの俺たちには足りなかったので、普段は禁止されているスナック菓子を勝手に戸棚から出してきて、それを摘まみながら当時気に入っていた特撮ヒーローの映画を二人で観た。
 そのまま寝落ちするようにリビングで眠って、翌朝あらかじめ居場所を連絡していたアキラの母親が迎えに来るまで、一緒に明かしたのだった。
 
 その日から自然とアキラと過ごす時間が増えた。いじめは高校に入っていじめっこたちと会わなくなるまで続いたものの、その頃にはアキラも本来の性格を取り戻したからか、俺と二人でいじめっこたちをやり返すようになった。
 中学、高校と同じ学校に通い、大学までも同じ学校に決まった直後、アキラに大きな不幸が襲った。
 アキラの母親が大きな病を発症して、その後手術と療養の甲斐もなく、初夏に入る前に絶息したのだった――。
 
 額から汗を流しながら、近所の山道を自転車で立ち漕ぎすること約一時間。山道から外れた林の中に人目を避けるようにして、ぽっかりと開いた洞窟があった。
 近くの木に自転車を立て掛けて、服の袖で額の汗を拭う。ポケットから取り出したスマホのライトで足元を照らしながら、洞窟の奥へと進んだのだった。一歩進む度に周囲の温度が下がって、背中の竹刀袋が重くなっているのは気のせいではないだろう。俺の身体も重石を載せられたかのようにずっしりと鬱鬱している。さっきから口の中も乾いて落ち着かない。ペットボトルの飲料水は途中で買ったものの、山道を登っている間に飲み干して自転車のカゴに置いてきた。ガムか飴も買えば良かった。
 これまでここには何度も来ているが、今日ほど緊張したことはなかった。
 これもこれから起こることが関係しているのだろう。

(それも仕方ないか。今日で全てが決まって……どちらかが()()()()()()()……)

 俺は息を吐きだしてそっと目を伏せると、自分の内側から込み上げてくるものを抑えるように胸に拳を当てる。今日はずっとこんな感じだった。授業中や昼食時、帰り道さえも……。
 胸が騒ついて落ち着かない。余命を宣告された人間は皆こうなのだろうか。特に終焉が迫った人というのは……。
 抗えようのない未来が目前にあるという時、人は諦めにも似た境地で諦念を迎える。

(アキラの母親もこんな気持ちだったのか? 病気と余命が分かってからずっと……)

 アキラの母親と最後に会った時、病室のベッドの上で半身を起こしていた姿からはそういった様子を感じられなかった。すぐ側に看病で付き添うアキラがいたからというのもあるかもしれない。母親の病気が発覚してから、アキラはほとんど母親にくっついて看病していたから。
 この日に病室を訪れたのも、母親の傍から微塵も離れないアキラを外に連れ出してほしいとこっそりアキラの母親に頼まれたからであった。アキラの母親は自分が長くないことを知っていたのだろう。自分よりも残される息子のことばかり心配していた。自分がいなくなった後、息子が立ち直れるように支えてほしいと何度も頼まれた。
 離婚したアキラの父親はもう新しい家庭を築いており、アキラを頼めるような状態じゃなかった。親戚とも疎遠らしいので、他に頼める相手がいなかったのだろう。そんなアキラの母親の気持ちが分かっていたからこそ、あの時は引き受けてしまった。
 自分も長くない以上、安請け合いするべきではないと知っていながら……。

 洞窟を突き当たりまで歩くと、奥まったところに人工的に作られた穴がある。その中に入るとまず目に入るのは大きな座敷牢だろう。破れ、黄ばんだお札らしきものが無数に貼られた頑丈な鉄格子の向こう側には鎖に繋がれた妙齢の女性が正座していた。
 床に広がる長い銀髪とガリガリに痩せた身体を包む薄汚れた白い着物。罪人のように手足に枷を嵌められて壁から伸びる鎖に囚われた女性は微動だにせず、ただ何も無い壁を一点に見つめていたが、いくつか俺とは違うところがあった。
 それは頭から生えた銀の体毛に覆われた狐の耳と腰から生えた銀の尾だった。
 触ればきっともふもふとした感触を味わえるだろうという狐の耳と尻尾を生やした女性に向かって話しかけようとしたものの、上手く言葉が出て来なくて唇を一文字に結んでしまう。その代わりにスマホを壁に立て掛けて照明変わりの明かりを座敷牢に向けると、ここまでずっと背負っていた竹刀袋を下ろして袋を開ける。中から黒い鞘に収まった柄を引き抜くと、手入れの行き届いた長い白刃がスマホの光に反射して暗い座敷牢を照らすようにその姿を晒す。

(何度も迷ってごめん。今日こそ力を貸してくれないか。相棒……)
 
 ズボンのポケットから出した古びた鍵を座敷牢の鍵穴に指すと、そっと回す。小気味いい音と共に解錠されると、日本刀を片手に女性の元までずかずかと大股で近づいて行って、何の躊躇いもなく日本刀の切先を女性の首につける。いつ首が斬り落とされてもおかしくないといった状況になって、ようやく女性は壁から俺に視線を動かした。

「祈里……?」
「……」
「来てくれたのね」

 慈愛に満ちた思慕の目。目が合った瞬間、痩せこけた顔に笑みが広がり、暗く濁った黒目にも一筋の光が射し込んだように見えた。余程嬉しかったのか、獣耳と尾まで小さく揺れている。自分の中で胃が縮むような感覚を覚えて不快な感情が広がる。
 
 ――そんな目で見つめながら、俺の名を呼ばないでくれ。
 
 心の中で何度唱えたか分からない言葉をまた繰り返す。情が移ってはならないと自分自身を律しても、それでも胸の中で温かいものが広がっていくのを感じる。この正体が何なのか未だはっきりと判明しない。父さんに聞いても、医学的な原因は無いという。
 強いて言うのなら――母性愛を感じているのだと教えられた。
 
「会いに来てくれたのね……。私の祈里……」
「お、れは……」

 何か返事をするべきだと分かっていても、口の中がくっついているような気がして言葉が出て来ない。心なしか日本刀を持つ手までも震えているような気がして、両手で柄をきつく握りしめる。
 家で鍛錬に励んだ時はこんな及び腰ではなかった。目の前の女性から威圧を感じている訳でもない。ただ自分が現状を先延ばしにして甘えたいだけだ。
 この女性も生きて、自分も明日を迎えられる方法は存在しないのか。先祖が何百年にも渡って、何度も断ち切ろうとしていた呪われた宿命を解呪する術は本当に無いのか。そうは思っていても、自力で見つけるのは困難だった。そうしている内にタイムリミットはもう目前まで迫ってしまった。

(今度こそ、殺さなければならないのか……)
 
 今日こそ仕留めなければ、そうしなければ俺に明日は無い。でも明日を迎えるにはこの女性の首を斬り落とさなければならない。

(なんでこんなことを選ばなきゃならないんだよ! なんでだよっ……!)
 
 これは小邑家に代々かけられた呪いだ。呪いを解くためにも、俺はこの女性を――妖狐を殺す。
 例え、その妖狐が自分の()()()()だとしても……。

「ちゃんとご飯は食べている? なんだかやつれたように見えるわ……。生まれたばかりの祈里は母乳も上手く飲めなくて苦労したのよ……。お腹にいた時も何を食べても受け付けてくれなくて、貴方のお父さんも頭を抱えていたわ」
「かっ……その、俺は……」

 油断して日本刀を持つ手を動かしたら、妖狐の首が薄っすらと斬れて赤い血が滲む。けれどもその傷はすぐに跡形もなく消えてしまう。妖狐が持つ妖の力が傷の回復を促進したのだ。
 
「あっ……、ご、ごめっ……!」

 妖狐とはいえ、母親の首に傷をつけてしまったことにショックを受けて反射的に謝りそうになってしまう。軽微な傷はすぐに塞がると知っていても、やはり怪我を負わせてしまった事実に良心が痛む。その妖狐はというと、何も言わずにただ悲し気に切れ長の目を伏せただけだった。

「優しい子ね。貴方はとても……。そんな貴方にこんな苦行を強いらなければないのが心苦しいわ」
「ちがう! 俺は……俺は……っ!」
 
 妖狐も俺が日本刀を持つ意味を知っているはずだ。これまで日本刀を持って何度も来ているし、今と同じく首に軽傷を負わせたこともある。
 妖狐自身も俺たち小邑家と妖狐との宿命を知った上で、父さんとの間に俺を産んだのだから。
 
「何も言わなくても分かるわ。明日は貴方の二十年目の誕生日だもの。離れていても、ずっと貴方の誕生日を数えていたのよ。だって、大切な息子だもの……」
「ぃや、俺……」
「祈里。何度も言っているけれども、これはお母さんも決めたことなの。だから貴方が罪の意識を感じることはないのよ。今日こそ覚悟を決めなさい。貴方は出来る子よ……。お母さんは知っているわ」

 幼子を諭すようにも、叱咤するにも聞こえる言葉が胸に重く押しかかる。
 それとも母親を前にしているからだろうか。アキラや父さんと話す時とは違って、甘えるように子供じみた我が儘さえ口にしてしまう。
 
「でも、俺には出来ない……。分かっていても出来ないんだ……」
「いけない子ね。でも、は無しよ。お母さんの願いを最期に聞いてくれない子なんて……。今まで我慢していたけれど、でも今日が期日よ。祈里、お母さんの願いを叶えて。これ以上、お母さんを苦しませないで……」

 妖狐は自ら俺が持つ日本刀の刀身を掴むと、自分の首に当てる。掌から雨雫のように垂れる赤い血を見ていられなかった。咄嗟に目を瞑って顔を逸らすが、容赦のない妖狐の言葉で現実へと引き戻される。

「祈里。お母さんを見なさい。いつまでも現実から逃げないの。これは貴方しか出来ないこと。小邑家に代々伝わる通過儀礼みたいなものよ」
「嫌だ! こんなの誰が考えたっておかしいだろう! どうして、俺たちがこんな目に遭わなきゃならないんだよっ……! 悪いのは先祖だろう! なんで俺たちがこんなに苦しまなきゃならないだよっ……!!」

 何度言ったか知らない言葉を妖狐に向けて放つ。喚いたって意味が無いと諦める自分と、妖狐の首を落として早く楽になれと甘言を囁く自分が耳元近くにいるような気さえしてくる。
 どうしたらいいのか戸惑う俺に妖狐はトドメとも言うべき言葉を口にした。
 
「私を殺して短命の呪いを解いて、明日も生きなさい。そうしなければ二十歳になった瞬間、貴方が命を落とすわ」

 その時、カタッと音が聞こえてきて心臓が縮み上がりそうになった。振り返れば、壁に立て掛けていた灯り代わりのスマホが落ちていた。そしてその近くには唖然とした顔で立ち尽くすアキラの姿があった。
「どういうことだよ。今の話……」
「アキラ、お前いつからそこに……」
「そんなのはどうでもいいだろう! 今の話は本当か? 嘘じゃないのか!? お前が明日死ぬなんて嘘だよな!?」

 座敷牢に足を踏み入れたアキラに肩を掴まれて両手から日本刀が滑り落ちる。金属が床に当たった鈍い音がどこまでも座敷牢に響き渡っているような気がした。

「ここ最近様子がおかしいからこっそり後をついて来てみれば……。どういうことなんだよ! お前も何かの病気に罹っていたのか!? それで余命が今日までとかなのか!?」
「病気と言えばそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「はぁ!?」
「ずっと黙っていたけど。俺さ、今日までしか生きられないんだよ。そこの妖狐を殺さなければ……」
「妖狐? それってそこで罪人みたいに縛られている妖怪のコスプレしてる人のこと? お前の母親とかさっき聞いたけど……」
「そうさ。あの人は俺の産みの親で、俺は人間と妖怪の間に生まれた半端者なんだ。うちの……小邑家の呪いのためだけに父さんとの間に俺を産んで、俺に殺されるためだけにここで生きている人だ」

 後ろを振り返ると、同じようにアキラも視線を向ける。注目を浴びた妖狐は何度も瞬きを繰り返して、やがて笑みを浮かべる。
 その様子が初めて息子の友達に会った母親の顔そのもので――ますます胸を抉られるような気持ちになる。

「貴方は祈里の友達なのね。いつも祈里が……うちの子がお世話になっています」
「おれはその……おれの方こそ、いつもイノリには世話になって……います……」
「ふふふっ。急に話しかけてごめんなさいね。でも驚いたでしょう。こんな変な見た目のおばさんが祈里と話していて」
「い、いいえっ! とてもお若くて、その……綺麗です。ソシャゲで言えば、ガチャで排出率が低い超レアなタイプです!!」

 おいおい、とアキラに言いたくなるが、確かに妖狐は俺の母親と思えないくらいに若くて綺麗だ。普段異性に興味を持たないアキラでさえ、妖狐の美しさに緊張している。
 今は薄汚れた着物姿だからあまり思えないが、今時の若者向けファッションをしたら、きっと俺やアキラと同年代と思うだろう。二十歳になる息子がいるとは誰も想像しない。
 人を誑かす妖怪としても有名な妖狐は男女共に美しい者が多いと言われているが、俺の母親である目の前の妖狐はどうなのだろう。妖狐の中でもとびきり綺麗な部類に入るのか、それともこのくらいの美しさは妖狐として普通なのか。
 ――そんな妖狐の血を引いているはずの俺は中の下ぐらいの容姿だが。
 
「ありがとう。お世辞が上手いのね。でも安心したわ。これで思い残すことは何も無いもの。この子ったら、自分のことは何一つとして話してくれないのよ。ここから動けない分、本当はもっと聞きたいの。最近何があったのか、学校ではどうしているのか、友達や恋人はいるのか……。気になっているのに全然話してくれないの。いつも怖い顔か泣きそうな顔をして、ずっと唇を噛んで黙っていて」
「それはっ! それは呪いのせいで……今日こそ首を落とさなきゃって。でもやっぱり踏ん切りがつかなくて。人殺しなんて犯罪だし、相手が妖怪でも同じ生き物であることに変わりないし、殺すなんて、そんなことっ……」

 気づけば、さっきから言い訳を延々と繰り返している。自分でも何を言っているのか分からない。感情がぐちゃぐちゃで整理がつかない。身体からは熱が引いて、喉がヒリヒリと痛む。足がよろめくと、ヒステリックに似た叫びと共に悲痛な言葉が出てくる。

「そんなこと、できないよ……っ!」
 
 俯いた視界が歪む。涙を流しているのだと気付いたところで、際限なく溢れる涙は頬を伝い落ちて、冷たく埃っぽい石畳に疎雨のように降り注ぐ。
 今まで自分の心を抑えるばかりで、頑なに本音を打ち開けなかったツケが回ってきたのだろう。
 ずっと堪えていた妖狐の――母さんへの想いは、一度欠壊したダムのように止めどなく流れ続ける。
 
(なんで止まらないんだよ! クソッ!! 早く止めよ!!)
 
 こんなつもりじゃなかった。どうしよう。今日で全部終わらせなきゃいけないのに。
 今まで目を逸らしてきた身を切るような苦しみ。母親を殺さなければ自分が死ぬという負の呪い。呪いを解くには自らの手で母親を殺めなければならない。母親を殺して長生きしても母親殺しという罪に生涯苦しむという負のスパイラル。

(ガキじゃないんだ! いつまでもメソメソするな! アキラに知られた以上、アイツをここから離して、早く蹴りをつけないと……!)
 
 手の甲で目を拭いながら、何度も自分に落ち着けと言い聞かせる。
 幼児のように地面を蹴って泣きながら我が儘を言いに来たわけでもないのに。
 止まらない涙に焦りを感じ始めた時、頭を乱暴に撫でられた。母さんが撫でているのだろうと、顔を上げるとそこにいたのは親友だった。

「ようやく白状した。相談してくれるの、ずっと待っていたんだけど。バカイノリ」
「アキラ……」

 いつも通りの面倒臭いとはっきり書いてある顔。でも今日はその気怠そうな顔が妙に落ち着く。

「おれにも教えてくれる? その呪いとかいうやつ」
「ああっ……」

 鼻を啜ると残っていた涙を拭いてしまう。今日ほどアキラを頼もしく思った日はない。
 気持ちが落ち着くと、俺は小邑家に掛けられた呪いについて話し始めたのだった――。

 イノリの実家である小邑家は、かつて日本で有数の陰陽師一族だった。
 他の陰陽師とは違って、歴史の表舞台には決して出てこない裏方――星読みや占術を得意とする一族ではあったが、その高い技術と正確性で陰陽師の世界では一目置かれていた。
 そして今から九百年近く前、一族の中では風変わりと呼ばれていた陰陽師が小邑家の当主となった。暦作りや護符作りなどの事務方な仕事を主とする小邑家において、怨霊や悪霊の調伏などの荒事を好らむ目立ちだかり。女性との浮き名を流し、多くの妖を式神として従えていた好色男。それでありながら小邑家歴代の陰陽師の中で屈指の実力者。
 難がありながらも優秀な陰陽師だったが、一つだけ大きな罪を犯した。それが敵対する妖狐との禁じられた恋であった。
 現代とは違って、当時は人間と妖の間で諍いが絶えなかった。陰陽師たちにとって妖は人間を害する「悪」であり、滅する対象と考えられていた。小邑家の陰陽師たちもそう思っていたが、その風変わりな当主だけは唯一違っていた。
 一族の者が何度言い聞かせても生涯言い続けたという。
 ――全ての妖が「悪」とは限らない、と。
 そしてその当主は人と妖の両方を裏切って罪を犯す。国からの命令を無視して、討伐対象であった妖狐の娘と駆け落ちした。
 当然、討伐命令を破られた国は怒り、小邑家は陰陽師の世界から追放されたが、それよりも憤ったのは妖狐の一族であった。
 当主と駆け落ちした妖狐には同じ妖狐の婚約者がいたが、その婚約者を筆頭に妖狐の一族は二人を執拗に探した。
 その執念ともいうべき憎しみによって、駆け落ちから数年後、遂に二人は見つかってしまう。子供も生まれ、新しい家庭を築いていた彼らに、婚約者は自らの命を代償としてそれぞれ強い呪いを掛けた。
 小邑家とその直系の一族には、妖狐との間にしか子供を作れず、妖狐以外と番いになった場合、相手が早死にする「不幸の呪い」。
 妖狐とその血を引く一族には、妖狐の一族からの永久追放に加えて、小邑家の人間に必ず殺される「死の呪い」。
 そして両者の間に生まれてくる子供には、二十歳までしか生きられない「短命の呪い」を掛けた。
 その呪いによって、二人の最初の子供は二十歳の時に亡くなった。二人目も、三人目も――。
 四人目の子供が生まれた時、婚約者は自らの命と引き換えにして、短命の呪いに侵される我が子の命を救う方法を生み出した。
 自身が持つ妖の力を移した日本刀を使って、子供と妖狐の血の繋がりを断ち切る方法――親殺しであった。
 呪いによって小邑家に殺される運命なら、もっと自分の命を有効に活用して欲しいと、婚約者は考えたのだろう。妖が持つ力は人智を超える奇跡さえ起こせる。親子の関係を断つこともきっと出来ると。
 妖狐の婚約者は用意された日本刀に自らの力を宿すと、まだ幼かった四人目の子供にその日本刀を握らせた。まだ分別もつかない幼子は父親の助けも借りて、その刀を母親の胸元に突き刺したという。
 
 その子供は短命の呪いを解いて二十歳を過ぎても生きたが、やがて自らの手で母親を殺したという罪悪感に苦しむようになる。そして婚約者が父親に掛けた呪いの通り、妖狐以外と夫婦になろうとすると、不慮の事故や急な病で相手があっという間に命を落としてしまった。
 子供は呪いの話を思い出して、母親の姪に当たる妖狐を妻に迎え入れると、やがて玉のような子供が産まれた。しかしその子供も成長して二十歳が近くなると短命の呪いに苦しみだし、父親と同じように日本刀で母親を仕留めることになる。
 そして母親殺しをした自分を憎み、自らも命を絶ってしまう。
 
 呪いはそこで終わるだろうと思われていたが、今度は婚約者に呪われた当主に最も血が近い者――他の小邑家の者に呪いが感染った。
 呪いは感染症のように小邑一族を蝕み、最初は当主の直系の子供たちしか発動しなかったが、次第に小邑家全体に広まり始める。
 他家から迎えた伴侶との間に子供が生まれなくなって、やがて謎の死を遂げ、子供は二十歳になった瞬間に突然死するようになった。全国に点在していた小邑家の者は次々と減っていき、ほんの数名のみが残っただけであった。
 ここに至ってようやく小邑家の者たちは、呪いの真の正体が小邑家と妖狐を根絶やしさせることだと気付いたのだった。
 
 どこかで血が途絶えてしまうと、その呪いは小邑家の血を引く他の者に波及する。それは妖狐側も同じであった。
 呪われた妖狐と血の繋がりが濃い順に妖狐の一族は呪いによって自我を忘れて暴走し、果てしない苦しみを受けることになる。
 解呪するには小邑家の異性と身体を重ねて子供を作るしかなかったが、あくまでもそれは一時凌ぎ。
 呪いから永劫に解き放たれるには、小邑家が所持する日本刀に斬られる方法以外なかった。
 両家に掛けられた呪いはあまりにも強力で、未だに他の解呪の方法は見つかっていない。
 このままでは小邑家か妖狐の血をほんの一滴でも血を引いている遠い親戚にまで呪いが広がる。家系図にさえ載っていないような遠縁の者たちにも――。
 これ以上、小邑家や妖狐と無関係な者を巻き込まないように、両家は取り決めを交わす。
 生まれた妖狐は小邑家の元に嫁ぎ、子供が生まれたら、その子供に妖狐を殺してもらう。そうしてその子供も妖狐の伴侶をもらって子供を成して、母親を殺してもらう。
 死の円環を小邑家と妖狐の中でだけ完結させる。いつか誰かが解呪する方法を生み出すまで――。