「……ごちそうさまでした」
ゆっくり時間をかけ、シュークリームを食べ終えた僕。空になった皿とグラスを見て満足げに席を立った母は、上機嫌に鼻歌を口ずさみながら空いた皿を片付けてくれる。
ちらと窓の外を見れば、やはり雨はやんでいなかった。おそらくこのまま、一日中降るのだろう。
「〝雨降って地固まる〟って言葉は、こういうことを言うのかもね」
ふと、母がそう言った。
僕が「何?」と首を傾げれば、「揉め事が起こったあと、前よりも事態がよくなるってこと」と答える。
「あなたの記憶がなくなる前、悠陽とは、ちょっと色々あったの。あんまりお互いに話もしてなかったのよ、気を遣っちゃってたというか」
「え……喧嘩、したの? それとも、僕、反抗期だった?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど……あの子に、申し訳ないことしちゃってね。優しいから何も文句言わなかったけど、無理してるみたいだったから……」
台所で洗い物をしつつ、母は切なげにこぼす。
不謹慎かもしれないが、なんとなく安心してしまった。以前の僕にも、少しは無理してることがあったんだ。
「……そうなんだ」
「ふふ、だから、なんだか久しぶりにちゃんとお話できたような気がする。ありがとうね、悠陽」
「別に、僕は何もしてないよ……」
「あらあら、照れちゃって」
嬉しそうに綻ぶ表情。まだ会話には慣れないが、少しだけ、この家に居場所ができたように感じる。
「お夕飯まではもう少しかかるし、あとは好きにしてて。雨もやみそうにないし」
母らしい言葉に、僕は頷いた。
「うん」
「あっ、そうだ! 暇なら自分の部屋に掃除機かけちゃってよ! あなた、部屋の掃除してないでしょう」
「うっ……た、確かに」
「あはは、よろしく〜」
すっかり遠慮のない言葉を放つようになった彼女に苦笑し、僕は自分の部屋へと戻っていく。薄暗い室内に電気をつければ、よく見なくとも色んなものがゴチャつき、散らかっていた。
「うわあ、ほんと、よく見るとすごい埃……ずっと放置してたもんなあ。さすがに掃除しないと……」
ひとまず転がっている漫画や雑誌を拾い上げ、適当に本棚に戻す。だが、そもそも本棚がすでに満員御礼、おしくらまんじゅう状態だ。
どれもこれも僕にとっては馴染みのない本だが、勝手に捨てるのも気が引ける。いくら〝僕は僕!〟と開き直ったと言えど、感覚的には他人の本棚を物色しているようなものなのだから。
(え、えっちな本とか、出てきませんように……)
胸の内側だけで密かに祈りつつ、恐る恐る本の整理を始めた。
漫画、参考書、資格検定……様々な本をつまんで並べ替える。幸い変な本はないようで、ホッと胸をなでおろした。
地道な作業を続けること数分──どうにか上段が片付いたところで、ふと、僕の手は動きを止める。『おもいで』と手書きで書かれたファイルホルダーがあることに気がつき、目をしばたたいた。
(あれ、なんだろ、これ……写真かな)
昔の僕の写真──おそらく、数日前の僕では怖くて中身が開けなかっただろう。だが、今の僕は、少しずつ〝悠陽〟を受け入れている。
少しぐらい、過去の自分と向き合わなければ。僕は勇気をふりしぼり、悠陽の思い出が入っているファイルを開いてみた。
中に入っていたのは、やはりいくつもの写真。
二、三人で写っているものから、大人数での集合写真まである。そのほとんどが、友達と写っているものらしかった。
保育園、小学校、中学校……様々な成長の過程が窺える。しかし、僕の視線を奪っていったのは、決して昔の悠陽の姿ではない。
その目はずっと、見覚えのある一人の少年の姿を、まっすぐと捉えている。
「これ、って……」
恐る恐る、僕は透明なフィルムの中から写真を取り出す。
何枚も、何枚も、その少年は僕の隣で笑っている。
震える手で写真をめくれば、裏には走り書きで、『夏、幼馴染みの一青と』と書かれていた。
「……一青、くん……?」
なんで。
僕の脳内が混乱する。
動揺して早鐘を打つ心音を体現するかのように、外ではゴロゴロと雷が唸っている。
一青くんだ。
どう見ても彼だ。
まだ顔が幼く、髪の色が違っていても分かる。
人懐っこい、くだけた笑顔がそのまま写真に残っている。
「なんで、一青くんが……? だって、僕たち、この前初めて会ったはずで……」
乾いた喉から声が転がり落ちた瞬間、窓の外が光を放ち、轟音をともなって雷が落ちた。思わず肩が跳ねた瞬間、近くに人の気配を感じて振り返る。
「悠陽」
開けっぱなしていた襖の前に佇み、呼びかけたのは母だった。
しかし、先ほどまでの上機嫌な表情ではない。
愕然と立ち尽くし、感情のない瞳で僕を見下ろしている。
「──あなた、一青くんのこと、覚えてるの?」
抑揚の少ない声だ。怒りとも、悲しみとも違う独特な感情を含んだ声だった。
亡霊が恨めしげに囁くような、得体の知れない不気味さが満ちる。
「悠陽、どうなの。答えなさい」
「……お、お母さん……?」
「何でよ。全部忘れたんでしょう。どうして、一青くんのことだけ分かるの。どうして……」
「お、落ち着いてよ、どうしたの? 一青くんとは、海で会って、友達になっただけで──」
「一青くんに会ったのッ!?」
とうとう母は僕の肩に掴み掛かった。「ひっ」とすくみ上がる僕に構わず、彼女は凄まじい剣幕で捲し立てる。
「まさか、あなた、毎日一青くんと会ってたの!? ずっと!? 何考えてるのよ!!」
「お、お母さ……」
「ダメよ、今すぐ一青くんから離れなさい!! もう二度と会わないで!! だって、あなたは……!!」
掴まれた肩に力がこもる。母は一瞬表情を歪め、力なく僕を抱きしめた。
「……あなたは、あの子のせいで……事故に、遭ったんだから……」
目を見開く僕の視界の中、ピカッと光った雷が、海の向こうに落っこちていった。