朝、目を覚ますのは、居心地の悪い六畳間だ。
壁には知らない海外アーティストのポスター。机には知らないメッセージが書かれたサッカークラブの色紙。本棚には開いたことすらない小中学の卒業アルバム。
ここは僕の知らないものに囲まれた世界。だがそんな居心地の悪い世界の中、たったひとつ、僕は知っているものを得た。布団から出て着替えを済ませ、寝癖も直さずキャップを被り、嬉々としてそれを掴む。
(釣竿の手入れの仕方、調べないと)
無意識に頬が緩み、プラスチックのケースに入れたルアーや擬似餌を軽く整理した。
この釣り用具一式は、何か新しいことを始めたいと考えた今の僕が、初めて自分で選び、中古で購入したものだった。
少しだけ浮ついた気持ちで釣竿を持つ。そっと襖を開け、リビングに出る。机の上には茶碗の乗ったトレイがぽつんと置かれており、『冷蔵庫に朝食があります』のメモが貼ってあった。けれど、そのメモを残した母の期待には応えられない。
「……ごめんなさい」
誰もいない空間に一言謝り──結局、僕は母親の手料理を食べず、家を出た。
ツクツク、ピーヒョロ、リンリンリン。今日も様々な音が降り注ぐ。百日紅の花は連日咲き誇り、猫じゃらしと露草が寄り添い合う。
それらに見守られながら歩くこと数分、ずいぶん通い慣れてきた道の先に、釣り人が集まる堤防が見えた。
今日の風は弱い。陽射しもそれほど強くない。トンボの群れと野良猫の集会を追い越して、海を背にする気だるげな立ち姿が見えた瞬間、僕は地を蹴って砂利道を駆けた。
「一青くん!」
「お」
呼びかければ、振り返った一青くんが片手を上げる。
亜麻色に染められた髪は相変わらず風に撫でられ、耳元のピアスもキラキラ光っている。タンクトップにハーフパンツというラフな格好は、程よく日に焼けた彼によく似合う。
「今日も来たんだ、僕ちゃん。釣りハマった?」
「釣り、というか……一青くんが、いるかなと思って、来た」
「あはは! なんだそれ、可愛いヤツだな」
からりと笑い、一青くんは海に投げていたルアーを引き上げる。自分の竿を置いた彼は、僕の背負っていた釣竿を指差した。
「貸して。仕掛け作ってやるよ」
「え? だ、大丈夫だよ。僕、説明書なくても自分でできるようになったし……」
「まあまあ、こういうのは甘えとけって」
手招き、僕から釣竿を奪っていく。同じ年のはずなのに、どこかお兄ちゃんみたいな彼。「たまには餌釣りもしてみようか」と言って、一青くんは普段とは違う道具を用いて仕掛けを作りながら、新聞紙にくるまれた正方形の物を取り出した。
「……何これ?」
「餌。そこの釣具屋で買ってきた」
「餌って、どんなの?」
「こんなの」
悪戯に口角を上げ、新聞紙を取り去る。
すると──
「ぎゃああああっ!?」
なんと、透明なプラスチック容器の中に、大量の虫が入っていた。
その姿はまるでミミズだ。ミミズのくせに、ムカデさながらに無数の足が生えて動いている。
悲鳴を上げる僕の傍ら、一青くんはゲラゲラ笑った。
「あっははは! ひー、おもしろ、期待を裏切らない反応!」
「こっ、こっ、これ、何!?」
「イソメっていう虫。この辺じゃ青虫って呼ぶな」
「どこが青虫!?」
いくら記憶喪失とはいえ、青虫ぐらいはさすがに分かる。だが、この青虫とやらは、僕の知っている青虫のイメージとは程遠かった。とにかくフォルムがグロい。どう見ても足の生えたミミズ。毒すらありそう。
「こ、こ、これ、どうやって使うの……」
「手でちぎって針に付ける」
「ひっ!」
「虫の体ん中に針を通すように、こうやって……」
「うわああ!!」
一青くんは当たり前のように虫を手で掴み、ウニョウニョ動くそいつの体を躊躇なくちぎった。「釣りが女の子に人気ないのも分かるよな〜」なんて呑気に言いながら、青ざめる僕に構わず慣れた手つきで餌を付けていく。
「よいしょっ」
かくして、彼は餌を取り付けた仕掛けを遠くに投げた。軽くリールを巻き、竿を上下させて魚を誘う。
「あとは、魚が来るのを待つだけってわけ。簡単だろ」
「うう……餌を付けるって作業が最難関なんだけど……」
「あはは! まあ、青虫は見た目がグロいから気持ち悪いけど、毒とかないし大丈夫だって。噛まれても血が出るほどじゃないし」
「噛むの!?」
「うん」
「ひいい!」
究極に寒気がして鳥肌を立てていると、「お!」と目を見張った一青くん。どうやら魚がかかったらしく、竿がしなって微かに震える。
「来た来た、魚だなこれは」
「えっ、もう!?」
「生き餌だと匂いも動きもあるから食い付きがいいんだよ」
キュルキュルと音を立ててリールを巻き、一青くんは仕掛けを引き上げた。すると小ぶりな魚がしっかり餌に食い付いて糸の先で暴れており、僕は「わあ!」と身を乗り出す。
「すごい、釣れた!」
「チッ、でもチャリコだな。こいつらはあんま食うとこない」
「ちゃりこ?」
「タイの子どものこと。この辺だとそう呼ぶの」
あまり食べるところがないと言いつつ、一青くんは持参した保冷バッグ内のビニール袋にチャリコを突っ込む。「素揚げにしたら食えるから」ということらしい。そうしてまた、僕の竿に餌を仕掛けた。
「ほら、三つ針ついてるから。僕ちゃんも自分でやってみ」
「えええ……」
「大丈夫だって、怖くないよ、ほら」
「うわーーーっ! この虫すごい動く! 意外と柔らかい! なんか汁出てくる! きもちわるい!」
「あはははは!」
初めての感覚に戸惑いながら、僕はなんとか餌を付けた。
こうして、騒々しく喚きながらも、僕は少しずつ餌釣りに慣れ、その日はそれなりの釣果を上げた。最初は下手くそだった投げ釣りも、コツを教えてくれた一青くんのおかげでいささか様になったと思う。
時々変なものが釣れて笑い合い、自販機でコーラを飲んで、また釣って……
やがて夕暮れが程近くなった頃、一青くんが持ってきた保冷バッグは、すっかりパンパンになっていた。
「こんだけ釣ったら、もういいだろ。これ以上持って帰ってもさばくの大変だし」
冷静に告げて、一青くんは「片付けるかあ〜」と伸びをする。本日の釣果のほとんどは、僕の餌に食い付いた小魚だ。一青くんは一青くんで、ルアーでそれなりに大きいシーバスを釣った。「これはうまいぞ」と笑っている。
「僕ちゃん、どんくらい持って帰る? 魚」
「あ、いや、僕はいいよ。親に何も言わずに来てるし、僕は魚なんてさばけないし……」
「え、マジ? じゃあもらっていい? 俺んちの食卓に並べるわ」
「うん、もちろん。元々は一青くんが買ってきた餌で釣った魚だから。でも、小さい魚ばっかりだけどいいの? 隣で釣りしてたおじさんたちは、小さいのは全部海に戻してたけど」
「あー……」
一青くんは一瞬だけ微妙な表情を浮かべた。視線を横に流し、彼は苦笑する。
「……俺んち、貧乏だからさ。こういうのでも、まあ、足しにはなるっつーか」
やや声量を落とした彼。あまり触れてほしくなさそうな話題に踏み入ってしまった気配を感じる。
僕は気を張って息を呑み、「そ、そっか」と控えめに答えた。
つう、と冷たい汗が伝う。よく考えてみれば分かることだった。一青くんは高校にも行かず働いているのだから、金銭的にも家庭の事情的にも、きっと色々あるのだろうと。
(僕、一青くんのこと、何も知らない……)
出会ってまだ日が浅いのだから当たり前だが、どことなく胸がモヤついてしまう。
八月の終わり。もうすぐ夏休みも終わる。そうしたらまた、僕は〝悠陽〟として、面白みのない日常に戻らないといけない。こうして釣りに通う時間も短くなるのだろう。
「……あ、あのさ!」
僕は思わず声を張った。一青くんは顔を上げる。西陽に照らされて眩しそうな彼の目を、僕は見つめる。
「明日も、また、会いに来ていい?」
気恥ずかしさに耐えながら問えば、一青くんは薄く笑った。
「ふっ……改まって何を言うのかと思えば。いつでも会いに来たらいいじゃん」
「ほ、ほんと?」
「うん。──でも、釣りはどうだろうな。明日、雨っぽいから」
「え……」
「ほら」
ルアーを片付け、頭上を指さす。彼の視線の先を目で追えば、赤みを帯びた空の真ん中に、長い飛行機雲が伸びていた。
「飛行機雲が長く伸びたら、次の日は雨。空が燃えるみたいに真っ赤に染まる時もそう」
「そう、なの……?」
「まあ、比較的そういう場合が多いっていうか。夕立が来るだけの時もある」
「そっか……」
露骨に落胆してしまう。すると一青くんは優しく目尻を緩めた。
「ふーん? そんなに俺に会いたいのかよ」
「あ、会いたいというか、なんというか……よく、分かんないんだけど……一青くんといると、安心するから」
「……へえ」
不意に下向き、口角を上げたまま、一青くんは虚空を見る。その目は何も無い場所を見つめているように見えた。首を傾げた僕の一方、彼はいつもと同じ笑顔で告げる。
「もし、雨が降らなかったら、また来いよ」
「……うん」
「ん」
ひらり、片手を軽くもたげる一青くん。僕も慎ましく手を振って、燃えるように赤く染まり始めた空と海に背を向ける。
それから、三日間、僕らの町には雨が降り続いた。