ふと、ぼんやりしていた僕の意識は別の声に引っ張り上げられた。ザザア、ザザア……波の鼓を耳が拾う。
顔を上げたところで目が合ったのは、夕方に堤防で出会った、亜麻色の髪が特徴的な青年。勢いで家を飛び出した僕は、その堤防近くまで走ってきていたようで、体力が尽きたあとずっと座り込んでいたようだ。
「あ……」
カラカラの喉からようやく音を発したところで、ひやり、頬に冷たい何かが押し当てられる。唐突な冷気に触れ、思わず背中をぴんと伸ばした。
「っ、ひ!? 冷たっ!」
「お、よかったよかった、生きてるみたいだ。ずっと無反応だったから、死んでんのかと思った」
笑えない冗談を半笑いで紡ぎ、青年は僕に清涼飲料水のペットボトルを握らせる。「それ、飲めば?」と続けて、自分は手に提げたコンビニ袋の中からアイスを取り出した。
「で、でも……」
「大丈夫だって、いま買ったばっかだからまだ口つけてない」
「そういう問題じゃ、なくて……」
「まあまあ、細かいことはいいからさ。ひとまずそれ飲んで、話でもしようぜ、僕ちゃん」
「僕ちゃん……?」
勝手にあだ名をつけられ、怪訝な視線を向けてしまうが、彼は気にする素振りもなくコンビニ袋を持った手で首元を掻いている。
海沿いのひらけた駐車場。誘蛾灯に羽虫がたかる。僕の隣にどかりと座り込んだ彼は、吸って飲むタイプのアイスに口を付けながらこちらを覗き込んだ。
「で、夕方俺から逃げた僕ちゃんは、こんなとこで何してたの」
問われ、サッと顔から血の気が引く。
そういえばそうだ。夕方、彼に対して変な態度を取ってしまったんだった。
「あっ……ご、ごめんなさい! 僕、夕方、変な感じで帰っちゃって! でも、あれは別に逃げたわけじゃなくて……!」
「ふっ……悪い悪い、別に怒ってねーよ。そんな青ざめて謝るなって」
「う……」
「でもさ、あんたまだ高校生だろ? 夜にこんなとこで一人でいると危ないんじゃね? ママに心配かけないうちに、早くおうち帰んな」
「──おいおい、そりゃお前もだろ、一青」
直後、僕たちの会話に割り込んできたのは別の声だ。渋みのある嗄れた呼びかけに青年は振り向き、アイスを咥えたまま「げえっ」と表情を歪めた。
「オヤジ! 何でこんなとこいんの」
青年が声を張ると、声をかけてきた怖そうなおじさんは険しい顔で眉根を寄せる。
「オヤジじゃねえ、大将って呼べってんだ、このクソガキが」
「別にいいじゃん、細かいな〜オヤジは。で、何してんの? 店は?」
「さっきモヤシが切れちまって、慌てて買いにきたんだよ。急いで店に戻る途中だっての」
「えー、じゃあ今、店めっちゃ忙しいってこと? よかった、シフト今日じゃなくて」
「今から入ってもいいんだぞ」
「マジ無理、遠慮しま〜す」
けらけら笑い、彼は溶けたアイスをチュウと吸って飲み込んだ。オヤジと呼ばれた厳格そうなおじさんは、「ったく、相変わらず生意気な……」と呆れ顔でぼやいている。
僕は困惑し、そろりと青年に問いかけた。
「あ、あの……この人は? あなたのお父さん?」
「え、お父さん? ははっ、いやいや、全然ちげーよ。オヤジはオヤジだけど、この人はバイト先のオーナー。頑固オヤジだからオヤジって呼んでる」
「おい、一青! 聞こえてんぞ!」
「はははっ」
楽しげに笑い、僕の肩を引き寄せて「ほら、どう見ても雷オヤジで、頑固オヤジっしょ」と耳打ちする彼。
その距離感の近さに戸惑いつつも、どうやら一青という名前らしい彼を見上げる。
「え、えっと……そういえば、一青、って、いうんですね、名前……」
「あれ、名乗ってなかったっけ? どうも、一青でーす。九月三日生まれ乙女座、歳は今年で十七ね」
「……え!? 十七!? 僕と同じ!? で、でも、髪とか染めてるし、ピアスだって……」
「俺、高校行ってねーんだわ。中学卒業してからずっと働いてんの。だからそういうのは、ある程度自由っていうか」
さらりと答え、一青くんは空になったアイスのゴミをオヤジさんに押し付ける。その瞬間に頭をはたかれ、彼は前のめりになりながら「いってえ!」と叫んだ。
まるでコントのようなそのやり取りを眺めていると、不意にオヤジさんが嘆息する。
「ったく……ほら、一青、お前もそろそろ帰んな。親御さんが心配するだろ、こんなおとなしそうな友達まで巻き込んで」
「え、何? 友達って?」
「この坊主のことだが……なんだ、お前の友達じゃねえのか?」
「あー……」
一青くんはしばし考え、僕の顔を一瞥した。そしてうんうんと頷き、改めて僕の肩を掴まえる。
「たしかに、夕方は運命の釣り糸が絡んだ仲だしな」
「え?」
「飲み物も奢ったしな。これはもう、友達と言っても過言ではないよな」
「えっ? えっ?」
「あっ、そうだ! 良いこと思いついた!」
僕が困惑する傍ら、彼はぽんと自身の膝を叩いてこちらの肩をさらに引き寄せた。「ひ!?」と身を強張らせる僕に構わず、彼は明るく続ける。
「俺、一時間だけオヤジの店手伝うからさ! 俺のバイト代で、こいつにメシ食わせてやってよ!」