そうして無言で歩き続け、ややあってたどり着いた自宅は、海からほんの少し離れたところにある団地アパートの一室だ。
ただいまの一言もなく玄関の扉を開ければ、ようやく見慣れてきた壮年の女性がぱたぱたと駆け寄ってくる。
「──悠陽! おかえり!」
彼女は安堵したような表情で笑いかけた。無条件に注がれる優しい視線。
僕は居心地の悪さを感じ、そっと彼女から目を逸らす。
「……ただいま」
「大丈夫だった? 怪我とかしてない? 突然海に行くって言うから、お母さん心配で……」
「大丈夫です。心配かけて、ごめんなさい」
「あら、いいのよ。怪我がないならよかったわ」
ほっと胸を撫で下ろす女性。おそらく夕飯の支度をしていたのだろう。台所からは換気扇の音がして、玉ねぎを飴色に炒めたような香ばしい匂いと出汁の香りが漂っている。
「今夜、肉じゃがにしようと思って。ほら、悠陽は小さい頃から肉じゃがが好きだから」
笑顔で告げられ、僕は苦笑した。
悠陽──それは僕の名前。そして、この人は僕の母親だ。
彼女が言うには、どうやら僕は小さい頃から肉じゃがが好きらしい。だが、当の僕にはそんな覚えがひとつもない。それどころか、この人が〝母親である〟という記憶すら、僕にはなかった。
「ねえ、悠陽」
〝はるひ〟の名前を告げられるたび、胸がざわめいて胃のあたりが重くなる。僕にとって、その名前も馴染みがない。
「海に行ったんでしょう? どう? 何か思い出した?」
「……ごめんなさい。何も」
「……そう」
こうして残念そうに下向く視線も、冷蔵庫や壁に貼られた昔の写真も、この家の匂いも、生活感のある空間も、何もかも。
僕には息苦しいもので、胸がちくちくと痛んで、口の中の水分すらカラカラに乾いていく。
「大丈夫、きっとすぐに思い出せるわ」
母は安心させるように僕の背中をさすった。優しい慰めの言葉。しかし、聞こえのいいその言葉を告げられるたび、逆に気を張ってしまって、肩に力がこもる。
僕には昔の記憶がない。
母の顔も、自分の夢も、生まれた時に与えられたはずの名前すら、何も覚えていない。
「いつか、ちゃんと、昔の悠陽に戻れるからね」
そして、今の〝僕〟は、誰からも望まれていないのだ。
母親の顔をした知らない女性の言葉に居た堪れなくなって、気がつけば僕は、床を蹴って逃げるように走り出していた。
「──悠陽!!」
後ろから呼び止める声が聞こえる。僕はその呼び声が苦手だった。
古い団地アパート。
色がくすんだ剥がし残しのシールの痕。
柱に残る子どもの落書き。
襖の奥の六畳間。
狭い自室の中ですら、僕の知らない、〝僕〟の残したもので溢れている。
悠陽くん十歳の誕生日。
サッカークラブの優勝トロフィー。
好きなバンドのライブTシャツ。
写真が入ったアルバム。
卒業証書。
それら全部、過去の僕が残したものだ。でも今の僕にとっては、知らない誰かの手垢がついたガラクタにしか見えなかった。
記憶がない。自分の家だと思えない。あの人が親だと思えない。友達だって、どう接したらいいのかわからない。
どうしても他人のテリトリーに居座っているような気持ちになって、学校にいても、家にいても、精神的に疲弊する。
知らない家の匂い。覚えのない思い出。よそよそしい母親。すべてが気まずい。すべてが僕を拒絶している。
「はあっ、はあっ……」
走って、走って、何とも形容しがたい気持ちを、声に出さないまま強く噛み潰した。
僕は僕ではなくなってしまったのだ。
僕の知り合いだったという人たちはみんな、口を揃えて僕に『変わった』と言った。
何が変わったのかと問いかけても、彼らはとにかく『キャラが変わった』と答えるだけ。
『悠陽くんは、いつも明るく話しかけてくれてね』
──今の僕は緊張してうまく喋れない。
『悠陽先輩って犬が苦手だったじゃないですか〜』
──今の僕は猫の方が怖い。
『なあ悠陽、前に約束した試合、今度見にいこうぜ!』
──僕は、そんな約束、してない……。
『悠陽くん』
『悠陽先輩』
『悠陽!』
はるひ、はるひ、はるひ。
まるで呪いの言葉みたいだ。
ただ自分の名前を呼ばれているだけなのに、僕の中に馴染みのない単語として飲み込まれていく。
知らない世界に放り込まれ、知らない友達に囲まれて、知らない話を延々と続けられる。
その中心にいる僕ができることといえば、ぎこちない微笑みを浮かべることだけで。
そしてそんな下手くそな笑顔を作るたび、彼らは一様に、僕に同じ言葉を告げるのだ。
『──早く、前みたいな悠陽に戻るといいね』
その時、望まれていない〝僕〟は、どこへ行けばいい?
「……おーい。あんた、大丈夫か?」