「──あ」
くんっ、と糸が引っ張られ、僕は前のめりに身を乗り出す。
ざぷり、ざぷり。海面は穏やかに揺れている。
これは、もしかして、アタリというやつだろうか。反応のあった釣竿を握り、右手で慌ててリールを巻く。
しかし、思ったよりも手ごたえはなく、魚がかかったような気配もない。
「んん? おかしいな……」
「おーい、ごめんごめん! 俺だわ、それ」
不思議に思っていた矢先、ふと、近くで別の声が投げかけられた。
声のした方に顔を向けてみれば、釣竿を持った見知らぬ青年が近づいてくる。
どうやら彼の釣り糸が僕の釣り糸に絡んでしまったらしく、青年が自分のリールを巻いて竿を操作するたび、僕の竿も一緒に引っ張られてしまっていた。
「風が強くて、変な方向に飛んじゃってさー。オマツリしちゃったみたい。邪魔してごめんねー」
「オマツリ? ……あ、い、いえ、別に大丈夫なので」
「ちょっと竿貸して。絡まった糸ほどくからさ」
いたずらな風にぐしゃぐしゃと髪を乱されながら、猫背がちなその人が言う。オマツリというのが何なのかは分からないが、おそらく釣り人同士の糸が絡むことを、そう呼ぶのだろう。
ちら、と彼の姿を観察する。亜麻色に染めた髪。耳元にはピアス。顔立ちは整っていて、男の僕から見てもかなりモテそうだ。大学生だろうかと考えつつ、僕はキャップを深くかぶって俯き、彼に竿を手渡した。
ツクツク、ピーヒョロ、リンリンリン。
堤防には様々な音が降り注ぐ。蝉が鳴き、トビが滑空し、虫が秋を呼んでいる。茶トラの野良猫は伸びをして、『魚はまだか』と急かすような目で僕を見た。なんとなく居た堪れなくて、僕はぎこちなく目を逸らす。
夏も終わりに近付き、朝晩の暑さは少しずつ和らいできているけれど、それでも夏というやつは、しつこく僕らのそばにいた。
滲む汗を片手で拭いつつ、絡まった釣り糸がほどけるのを待つ。長い沈黙が流れている。だが、心地いい波音のおかげか、さほど気まずさは感じない。
「はい、ほどけた」
程なくして、青年はやり遂げた顔で自由になった釣り糸を見せつけた。まるで知恵の輪を解いたかのような得意げな表情だ。
僕は慣れない微笑みを浮かべ、竿を受け取る。
「……すみません。ありがとう、ございます」
「いやいや、さっきのは俺のコントロールミスだし、謝んなくていいよ。てか、高校生? この辺住んでんの? あんま見ない顔だけど」
問いかけ、青年は自身のひたいの汗を拭う。僕が控えめに頷くと、「ふーん」と興味なさげな相槌が返ってきた。
ミーンミン、ミーン……。会話が途切れ、遠くで鳴くセミの声がやけに鮮明になる。僕は何となく気まずさを感じて、一層深くキャップをかぶった。
「つーか、あんた、釣り初心者だろ」
沈黙を打ち破ったのは青年の方だ。堤防の縁に腰を下ろし、彼は海に仕掛けを投げる。風に流された糸が虚空を泳いでザプンと水に沈んだ頃、僕は顔を上げた。
「え……? な、何で、わかったんですか?」
「だって、ギジエで釣りしてんのに、ぼーっと海に糸垂らしてるだけだからさ。それじゃ釣れるわけねーよ」
「……ぎじえ?」
「そうそう。サビキならぼんやりしてても釣れるけど、ギジエでやるなら、ちゃんと竿を動かして魚を騙さねえと。こうやってさ」
シュンッ、シュンッ、シュンッ。
青年は手首をリズミカルに動かし、竿を上下させながらリールを巻く。「ルアーとかはこうやって動かしてやると、水中で小魚の真似して動くんだよ」「そうやってうまく本物に擬態させてあげないといけないの」などと説明され、僕は海面を見つめて戸惑った。
ルアー? ギジエ? サビキ?
よくわからない単語が続き、困惑する。ひとまず控えめに笑ってみるが、「ああ、その顔、よく分かってないな」と容易く見破られた。
「ほら、あんたが付けてる仕掛け、エビだかカニだかに似てるけど、本物じゃなくて作り物じゃん?」
「は、はい」
「これが擬似餌ね。つまり偽物。見た目だけ餌に似てるけど、本物じゃないから、垂らしてるだけじゃ魚が寄ってこない」
涼しい顔で説明する彼。
見た目だけ似てるけど、本物じゃない──その言葉に、つきり、胸の奥が鈍く痛む。
密かに視線を落とした僕に構わず、彼は続けた。
「擬似餌で魚狙うなら、ちゃんと餌の動きを真似て、それっぽく見せてやる技術がいるわけ。まあ、最初はちょっと難しいし、説明されてもよくわかんないよな。つーかそもそも、それ仕掛けの付け方間違えてるし……」
「……」
「最初は本物の餌使って、投げ釣りにした方がいいよ。活き餌なら匂いもあるし、釣り糸垂らしとくだけで簡単に釣れる。そこの釣具屋にも売ってるし、仕掛けの付け方は教えるから、次は本物の餌で釣ってみたら──」
「ごめんなさい、僕、そろそろ帰らないといけないので……」
青年の言葉を途中で遮り、僕は釣竿を手に取った。
ハサミで糸を切り、手早く帰り支度を始めた僕を見つめ、青年は首を捻る。
「あれ? なんか怒ってる? 余計なお節介だったかな、ごめんごめん」
「……」
「ま、何にせよ、今度は風の弱い日に釣りにこいよ。こんな風の日は仕掛けが流されちまって、なかなか釣りにくいからさ」
薄く笑った亜麻色の髪の青年は、僕の肩をぽんと軽く叩いてリールを巻き終え、その場を離れていった。僕はキャップのつばで顔を隠したまま片付けをして、しばらくたった頃、潮風が吹く海に背を向ける。
夏の終わり、夕方の堤防。
ちょろちょろ走り回るフナムシを踏まないよう慎重に歩き、ついてくる野良猫に見向きもせず、草の生い茂る砂利道を進む。
ああ、嫌な態度を取ってしまったかな。せっかく親切に話しかけてくれたのにな──うまく他人と目を合わせられない自分に辟易しつつ、僕は下唇を噛み締めた。