『……あ……』
それほど強くない雨の日だった。普段通らない道の向かい側に、僕は一青の姿を見た。
いま思えば、あれはバイトの帰りだったのかもしれない。
歩道橋の下に自転車を止めて、雨が上がるのを待っている様子だった。
『── 一青!』
歩道の向かい側へ、僕は叫ぶ。青信号はすでに点滅している。
一青はようやく僕に気が付いた。しかし、目が合った途端、彼はその場から逃げるように駆け出した。僕はその背中を追いかける。
『おいっ……! ちょっと待てよ、一青!!』
逃げる彼に叫んで、手を伸ばして。
キキィッ──悲鳴のように甲高いブレーキの音を聞いたのも、ほぼ同時だった。
赤に変わっていた信号。
衝動のままに飛び出した僕。
考える間もなく車に跳ねられ──そして、僕は、意識を手放した。
『──悠陽!!』
久しぶりに呼びかけられた名前が、ひどく懐かしいと、思いながら。
「……思い、出した」
澄み渡った思考。鮮明になった記憶。
失っていた過去をついに思い出した僕は、母の拘束をほどき、ふらふらと自室に戻る。
ベッドサイドに置きっぱなしだったスマホ。手に取り、充電器のプラグを抜くと、暗い画面に光が戻る。
記憶を失って以降、ずっとパスワードが分からず、このスマホを開くことができなかった。だが、今では鮮明に扱い方を思い出せる。
難なくロックを解除し、メッセージアプリを起動すれば、『一青』宛てのメッセージが僕の視界の中にいくつも飛び込んできた。
『一青』 ──送信できませんでした。
『久しぶり』 ──送信できませんでした。
『何してる?』 ──送信できませんでした。
『元気?』 ──送信できませんでした。
『あのさ、一青』 ──送信できませんでした。
『僕たち、まだ、友達かな』 ──送信できませんでした。
「……ごめん、お母さん」
スマホを強く握りしめ、僕は母に小さく謝る。母は何も言わずに僕を見ていた。
「僕、やっと思い出したよ」
俯いたまま、ぽつぽつと。
昔の僕が言い出せなかった言葉を、今の僕の言葉で、そっくりそのままなぞっていく。
「今まで、ずっと言えなかった。お母さんに心配かけたくなくて……お母さんを悲しませたくなくて……ずっと、泥をかぶって隠れるみたいに、本当の気持ちを隠してた」
「悠陽……」
「でも、僕……。僕は……本当は……」
込み上げてくる群青色の塊を飲み込み、過去の出来事に思いを馳せる。
不倫騒動が起きて、親同士が揉めたこと。
父がこの家を出て行ったこと。
一青も引っ越してしまったこと。
もう二度と、会ってはいけないと言われたこと。
最初は仕方ないと思っていた。諦めすら抱いていた。
だけどこの家の中には、一青との思い出が溢れすぎていた。
一青のことを忘れようとしても、どうしても思い出す。
事故に遭い、ようやく彼のことを忘れられたのに、それでもやっぱり忘れられない。
「一青と、また、友達に戻りたい」
飲み込みきれなかった群青色は、ぽたり、ひとつぶ、目尻から溢れてこぼれ落ちた。
「他の何もかもを忘れても、一青のことだけは、忘れられないんだ……」
嗚咽が漏れて、肩が震える。
母はそっと僕に近付き、丸くなる僕の背中をさすった。
「……悠陽は、本当に、我慢強い子だったものね」
優しい声が耳に注がれる。ぽた、ぽた、床に水滴が落ちる。
それが雨粒なのか、涙なのか、もはやよく分からない。
すすり泣く僕の背を撫で、母は続けた。
「あの騒動の後、優しい悠陽は私の顔色を窺って、一青くんの話をしなくなった。……けど、本当はずっと一青くんに会いたがってたってこと、何となく分かってたわ」
「……うん……」
「ごめんね。私、心が狭い人間なのよ。正直、あの一件のことは一生許せる気がしないし、あの騒動を過去のことだと割り切れる日も来ないと思う。……けど、」
ふっ、と耳に届いた短い笑い声。
顔を上げれば、どこか複雑な、けれども安堵にも似た、穏やかな表情でこちらを見る母と目が合う。
「──それって、きっと、大人のわがままなのよね。子どもたちは何も関係ないのに、あなたや一青くんにまで苦しい思いをさせた。親同士の問題に、子どもまで巻き込むべきじゃなかったのよ」
「……」
「会いに行ってきなさい、悠陽」
微笑み、母は僕の涙を拭う。
「雨降って、地固まる。──色々あったけど、揉め事のあとには、もっと友情が深まるものよ」
「……うん、そうだね」
「本当に、今までごめんね。でも、正直に本音を打ち明けてくれて、ありがとう」
ぎゅっと強く抱きしめる、慈しみに満ちた母の抱擁。
嗚咽を飲んだ僕の耳には、リビングのテレビから流れてくる『晴れ』の天気予報が、しっかりと届いていた。