ぽつ、ぽつ。しと、しと。
 雨が降る。土がぬかるむ。
 歩道にあふれた水溜まりが、水路に流れて海へと帰る。

 分厚い雲に隠されたまま、陽が暮れ落ち、夜の帳が降りた頃。提灯の揺れるラーメン店の扉は開き、のれんの奥からバイト上がりの青年が出てきた。

「んじゃ、お疲れっしたー」
「おい一青、気をつけて帰れよ! お前の家遠いんだからな!」
「へいへい、バス使うから大丈夫だって。またな、オヤジ〜」
「大将って呼べってんだよ!」
「はいはいはい」

 ぴしゃり、戸を閉め、賑やかな喧騒に蓋をする。
 きらり、耳に光るピアスが亜麻色の髪の下でその存在を主張している。
 海に通ううちに見慣れてしまった、猫背がちな立ち姿。遠目から見ても分かる目鼻立ちの整った横顔が、まだまだやみそうにない雨空を見上げて嘆息する。

 ビニール傘を開こうとする彼の元へ、僕はそっと近付いた。

「……一青くん」

 抑揚の少ない声で呼びかければ、一青くんは驚いたようにこちらを見た。傘もささず、佇む僕。即座に「は!?」と声を張り、慌てて彼は駆け寄ってくる。

「お、おいおい、何してんだよお前! 傘もささずに突っ立って!」
「……」
「うわ、ずぶ濡れじゃん! 何だ? どうした? 黙って俯いちまって、なんかあったのかよ、僕ちゃん」
「……〝僕ちゃん〟じゃ、ないよ」

 一青くんの呼びかけを遮って、食い気味に言葉を被せた。彼は目を見開いたまま声を詰まらせる。こくり、その喉が緊張感をともなって上下した気がした。

「知ってるんでしょ、僕の名前」

 ただ一言、問いかければ、一青くんは目を逸らす。無言ながらも、それはおそらく肯定の意を示していた。

「……悠陽」

 呼ばれたくなかった名前が紡がれ、僕の視線もおのずと下向く。

「……やっぱり、知ってるんだ」
「お前、記憶、戻ったのか……?」
「戻ってない。でも、お母さんから教えてもらったんだ。一青くんが、僕の幼馴染みだって」
「ああ、そっか……」

 乾いた表情で笑う。その顔と声には諦めにも似た哀愁が滲んでいる。

「じゃあ、おばさんから聞いてるんだろ。お前がなんで記憶なくしたのか」

 一青くんの言葉に、僕は答えた。

「……僕が、一青くんのせいで、事故に遭ったって話?」
「うん」

 頑なに目を見ようとしないまま、彼は頷く。

「そう、俺だよ。俺が全部悪い。お前を事故に巻き込んで、お前から記憶奪った張本人。それが俺だ」
「……」
「あーあ、もうバレちゃったのか。まあ、いつかはバレると思ってたよ。予想以上に俺に懐いてたしな、お前」
「……僕、わかんないんだ」

 弱々しい声を絞り出す。
 正直、騙されたような心地だった。だが、ショックなのか、悲しいのか、自分の感情がよくわからなかった。

「何でずっと、僕のこと知らないようなフリしたの」

 雨脚が強まる中、僕は一青くんを見つめる。彼はやはり僕の目を見ない。
 それでも僕は、素直な自分の気持ちを雨の中で吐露する。

「もし、事故のことで後ろめたさがあったのなら、僕に話しかけなければよかったじゃん。なのに、何で僕に話しかけたの。何で、ラーメン食べようって誘ってくれたの」
「……」
「僕、一青くんのこと信用してた。記憶のない僕と友達になってくれたのも、一青くんからだったよね。全部、嘘だったの? 何もかも気まぐれな暇つぶしだった? 僕のこと、からかってただけだったの?」
「……俺は……」

 一青くんが何かを言いかけた、瞬間──空が鋭く光り、雷鳴が轟く。彼は言いさした言葉を飲み込み、ぐっと何かに耐えるような顔で唇を噛んだかと思えば、突然身をひるがえして走り出した。

「あっ、待ってよ! 一青く──」


 ──ちょっと待てよ、一青!


 走り去る背中に手を伸ばそうとした。その時、ほんの一瞬、強烈な既視感が僕の脳裏を駆け抜けた。
 雷が唸る雨の中、傘を放り、片手を伸ばして、誰かの後ろ姿に呼びかける──こんなことが、少し前にもあった気がする。

(あれ……? 今の、記憶って──)

「ふうー、やれやれ、ひでえ雷だな」

 謎のデジャブに訝った直後、カラカラと店の戸が開き、のれんの向こうからオヤジさんが顔を出した。相変わらずの強面と視線が交わり、僕は駆け出そうとした足を止める。

「んん? お客……じゃねえな。あんた、確か一青の友達だったか?」
「あ……」
「一青なら、もう上がっちまったが……って、おいおい! よく見りゃあんた、全身ずぶ濡れじゃねえか! ったく、ちょっと待ってな」

 雨に濡れた僕の姿を見たオヤジさんは店の中に引っ込み、程なくしてタオルと傘を持って戻ってきた。「ほら、風邪ひいちまうから」と強引にそれを手渡され、僕はおずおずと受け取る。

「あ、ありがとう、ございます……」
「坊主、家は近くか?」
「あ……はい……歩いて五分ぐらいで……」
「ほお、そりゃ良かった。一青のヤツも、昔はこの辺りに住んでたらしいんだがなあ。今じゃ十五キロも離れたとこから通ってやがって」
「……え!? 十五キロ!?」

 予想以上に距離が遠く、僕は思わず声を張った。
 聞けば、普段は原付バイクや自転車を使って十五キロもの道のりを行き来しているという。
 雨の日も、休みの日も、わざわざここまで赴くそうだ。

「何で、こんな遠くまで、わざわざ……」
「さてね。まあ、この辺が思い出深いんだろうよ。昔仲の良かった友達が、この近くにいるらしくてな」
「!」
「僕ちゃんも一青と仲が良いんだろ? 一青は最近しょっちゅうあんたの話をするぞ。釣りのセンスがあるって褒めててな」

 下がりっぱなしだった口角をわずかに上げ、オヤジさんはどこか安堵した表情で続ける。

「こんなこと、本人のいない場所で言っていいのか分からんが……」

 やや遠くを見ながら、彼は話し始めた。

「一青は、少し可哀想な境遇でな。小さい頃から父親がいなくて、水商売やってる母親と二人、この付近で細々と静かに暮らしてたんだそうだ」
「……」
「ところが、その母親が、一青の友達の父親と男女関係になっちまったらしくて……まあ、いわゆる不倫ってヤツだな。それが相手の家にバレて、離婚調停にまでなって、慰謝料払う羽目になっちまったんだと」
「……え……」
「おかげで生活が困窮して、家賃滞納の末に住んでたアパートを追い出された。母親の賃金だけじゃ高校なんて行けるわけもなく、中学卒業してすぐ働くことになったんだよ」


 ──俺んち、貧乏だからさ。


 いつか、海でそう言って、手のひらよりも小さな魚を保冷バッグに入れていた一青くん。『こんなものでも足しになるから』と、彼は苦笑していた。

 母親と二人暮らし。
 その母親が友達の親と不倫。
 引っ越し。
 離婚調停──。

(……あれ?)


 そこまで考えた時、僕の思考はある事実にたどり着く。──そういえば、僕にも〝お父さん〟がいない、と。