新聞には相変わらず物騒で不景気な記事ばかり載っている。
 あの夜の召喚事例は、表向き、教団内部でのボイラー火災という事に落ち着いたようだ。死者が20人以上出たらしいが、同じ日に起こった学校の崩壊事件のせいで扱いが小さい。皆大きな事件に慣れ過ぎている。

 朝からため息が出る。玄関ロビーの自販機で買った牛乳を飲み干すと、僕は星審の寮を後にした。

 今日も朝から日差しが強い。

 地球温暖化だの避けられない食糧危機だの少子化だの時間単位で絶滅してゆく種だの無差別殺人だの。

 また嫌なニュースでいっぱいになりかけた頭を、軽い柔軟運動でリセットする。額に汗が浮かぶが、やっぱり身体を動かすのは、精神にも良いらしい。

 前から軽快な足音が響いてくる。星審の初等部の制服を着た、アーリア系の女の子。褐色の肌に、夏の日差しに負けない元気な表情を浮かべて駆けてくる。プールの日か何かだろうか。そういえば、初等部や中等部の校舎は無事だったか。

 笑いかけ、軽く僕に手を振る少女を見送ってから、再びゆっくり歩き出す。やっぱり子供は元気だ。僕にはこの暑い中、走り回る体力は無い。

 パンを買いに入ったやなせベーカリーで、ジジと出会う。
 まだコート姿だが、それには触れない。本人は頑なに暑くないと言い張るし、あまり強く脱ぐ事を勧めると、なんだかセクハラをしている気分になるからだ。

 クリームパンの籠はいつものように空っぽで、僕はいつものようにあんぱんを三つ買う。店を出るとジジが待っていてくれた。

 抱いているのはもちろん、クリームパンのぎっしり詰まった紙袋。表情の乏しい顔に、やや得意げな気配を感じたが、気のせいか。飲み物を買い、歩きながら話をする。

 宮坂は儀式の前に、研究資料をすべて破棄していたらしい。
 おっとり刀で駆け付けた神智研の召喚事例対策班は、緑の月の神の欠片どころか、宮坂に任せっきりにしていた全ての関連資料を確保し損ねたという。
 そのおかげで、巫女の力を失ったソーマは自由の身になれたのだから、彼は彼なりに考えがあったのかもしれない。

 あの人は、最期に神と一つになれて、幸せだったんだろうか。

「ねえ……、アレから連絡はまだ入らないの?」

 物思いに耽る僕の脇腹を、ジジがつついて来る。

「あれから? 海の藻にくっついて来る、小さな甲殻類?」
「……それは破殻。端脚目ワレカラ科の甲殻類の総称。海産で、主に海藻の間にすむ。体長数センチの細長い円筒形で、胸部は七節からなり、第三、四節を除く各節から細長い付属肢が一対ずつ伸びる。第二節のものははさみ状。ちなみに、秋の季語」

 丁寧に突っ込んでくれる。冗談だと理解出来ていないのかもしれないが。

「『我からの 音を鳴く風の 浮藻かな』 ……だったかな?」

 ジジの目は笑っていない。気まずい沈黙が続く。

「……あの子はどこなの?」
「『あのこ』だと、主に幼児や女の子を指す言葉だけど、『おのこ』だと成人男性を指す言葉に早変わりするんだね。ふしぎ!」

 脇腹をつつく物がいつの間にか短剣に変わっている。ジジの目は笑っていない。こわい!

 誠心誠意、心の底から謝って、何の連絡も無い事を正直に話す。あれから何度も同じ様なやり取りを繰り返し、僕がアスキスに関して触れたがらないのを知っているから、ジジもそれ以上追求はしてこない。

 名前を出すのさえ嫌なのに、そんなにアスキスの事が気になるのか。二人の少女が、正確にはどんな関係なのか、未だに理解出来ない。

 黒衣の魔女はあの夜、使い魔を伴って空に消えたっきり姿を現さない。まるで正義のヒーローのようだと、口にしかけて考え直す。あれは悪魔だし、たった一人の為にしか戦っていないのだから。

 不意に黙り込んだ僕を気遣うように、ジジが覗き込んでくる。

「……お互い片想いは辛いね」

 安心させようと軽口を叩いたら、首筋にナイフが飛んできた。皮一枚でかわすが、ジジの目は相変わらず笑っていない。手加減してくれているのは判るけど、刃物で突っ込むのは止めようよ。

 途中でジジとは分かれる。今日は検査の日だとか。

 一人でいると、しきりに接触を試みてくる道化が煩いが、何も考えずにやり過ごす。
 あれもアスキスの存在に興味を持ったらしく、他の端末にも頻繁に検索を掛けさせている様子だ。

 これとしてではなく、僕自身の意思で、その結果を見ないようにしている。
 混沌の意思ニャルラトテップにとっては、どうせ全てが戯れなのだから、僕のこの行為も気まぐれだ。

 ジジが昨日また校舎を半壊させた。夏休み中に復旧が済むか、怪しくなってきた。

 夏休みに入ったからそれ程用が無いとはいえ、寮暮らしでお小遣いも潤沢ではない僕にとっては、学園で時間を潰せないのは痛い。バイトの申請をしたら、許可は下りるだろうか。

 事件のせいか夏休みだからか、月に一度の検査が週二回になったのが面倒だ。以前のように拘束されないだけましかと自分を慰める。

 あれから一ヶ月。僕は毎日坂を登って公園へ向かう。

 朝食としてあんぱんを一つ食べ、そこで図書館が開くまで時間を潰し、午後まで本を読む。おやつ代わりに二つ目のあんぱんを食べ、最後のあんぱんは、寮に持ち帰り、夜になってから食べる。いつも通りのルーチンワーク。いい加減食べ飽きたが、僕は頑なにあんぱんを食べ続けている。

 坂を上りきった先。小さな広場の隅にある東屋のベンチには、当たり前のような顔をしてアスキスが座っていた。

「よう童貞。あんぱん買ってきたか?」
「なんで童貞って決め付けるのさ!?」

 声の震えを悟られないよう、僕も当たり前のような顔をして返す。

「違うのか?」
「……すみません。見栄を張りました……」

 手の震えに気付かれないよう、当たり前のように紙袋を差し出す。

「三つか。じゃあ、あたしのは二つだな」
「最後のは半分こにするんじゃないの!?」

 空のままのドレスの右袖が揺れ、そこから白い羽根が一枚零れ落ちるのを、見ないふりをする。

 手足の一本くらい、簡単に生やせるって言ってたじゃないか。この意地っ張りめ!

『この子をお願い』

 あの時、銀色の少女に頼まれたからでも、端末としての役目でもなく。

 僕は僕として、この小さな魔女を見守ろうと心に決めた。


                          ep. Myth Taker END