無名都市の東の外れ。僕達が命懸けの戦いをした開発予定地区とは、駅を挟んでちょうど反対側に、拝月教の施設は存在する。

 関わり合いになるなって言ったのは、あの魔女じゃなかったっけ?

 ともかく、魔弾に撒き散らされた手持ちの服の中から無事な物を見繕い、アスキスに言われるまま教団に見学を申し込んだ僕は、退屈なセミナーを受けている。

 20人程度収容できる会議室に、折りたたみ式の机とパイプ椅子が整然と並べられている。夕方の遅い時間に施設を訪れ、そのまま見学を許可されたのは良いが、ほかの見学者もいない中、一人で教団のPRビデオを見せられている状況。なんとも居心地が悪い。翠月祭やらという儀式の準備に忙しいらしく、案内してくれた女性信者は僕を残して退室している。ドアの外からは絶えず人の行き来する足音が聞こえてくる。

 月詠と名乗る代表の語る話は、月に係わる古今東西の神話を継ぎ接ぎしたような陳腐な内容で、間違っても感銘を受ける類の物ではなかった。月の満ち欠けと人体のバイオリズムの関係など、似非科学に基づく生活習慣の提案や、月の光を利用した自己実現のレクチャーに至っては、そういった知識に乏しい僕からしても、手垢の付いたオカルトレベルにしか思えない。

 気になったのは、巫女と呼ばれる少女、ソーマの言葉だった。

「あなたは緑の月を見たことがありますか?」

 褐色の肌の、アーリア系の特徴を示す顔立ち。ゆるくウェーブする豊かな黒髪に、額には緑色の装飾――ティラカという物らしい。10歳になるかならないかの少女の語る神話は、張り付いた笑顔の中年男性の語る説話よりも、よほど引き込まれる物を感じた。

 本物の月と重なって存在する緑の月。満月の夜にだけ現れるそれから零れる雫は、不死の霊薬アムリタ。口にすれば緑の月の神と一つになり、悩みからも苦しみからも解放されると説く。その手には淡く翠に光る液体の入った小瓶。

 そういえば、儀式の開催を告知するポスターがびっしり貼られた施設ロビーの片隅で、薄紅色の液体の入ったボトルが販売されていた。「アムリタ」と記されたラベルが張られたそれは、色が違うが同じような効果がある物だろうか? ビデオ視聴時にお茶代わりに出されたが、気味が悪いので隙を見て窓から捨てた。

 アスキスは「緑の月を見た者は狂気に囚われる」と言った。世界各地で起こった、関連性の無いはずの衝動殺人で、全く同じ証言が残されていると。そして、数年前から同様の事件がここ無名都市で数件起きているとも。加害者はどれも責任能力を問えないレベルの精神障害者だが、そのほとんどに通院歴が無く、事件は決まって満月の夜に起きているという。

 本当だろうか? 巫女が語っていた内容と符合しすぎて、事実を確認できないままでは、拝月教を揶揄する都市伝説めいた物にも感じてしまう。アスキスの指示は「行って見て来い」という漠然とした物だった。何を見つければ良いのだろう?

 ビデオを見終わり、会議室を後にする。施設内は明日の夜に備えて慌しい状態だ。このまま勝手に歩き回っても怪しまれないかと考えていたら、

「Freeze! 頭を吹っ飛ばされたくなけりゃ、動くんじゃないさ!」

 背中に硬いものを突きつけられ、文字通り身動きを封じられる。
 頭? 心臓じゃなくて?

 場違いに食欲をそそる香辛料の香りが漂う。
 どこまでが本気か計りかね、ゆっくり両手を上げながら、恐る恐る背後を伺ってみた。
 
 ガンマン……いや、ガンウーマン……か?

 長い髪をポニーテールにした若い女がそこにいた。西部劇で見るような、皮のベストにウェスタンブーツ、ご丁寧にレザーチャップスまで穿き込んでいる。腰にはガンベルト。そして何より、右手にはごつい6連弾層の銃。左手に抱えた紙袋からは、芳しい香りを放つカレーパンが覗いている。
 思わず脱力したが、間違いない。こいつが僕らを襲った魔弾の射手だ。

「……僕をどうするつもりですか」
「うん? あー……どうすっかな……」

 嬲るような焦らし方ではない。本当に先の事を考えずに銃を突き付けたのか? 軽く眩暈がしてきたが、対応次第では無事に切り抜けられる可能性があるという事か。文字通り、トリガーを引くような――引かせるような――行為をしなければ。

「お帰り、お姉ちゃん」

 馬鹿みたく立ち尽くす僕達を救ってくれたのは、廊下の奥から駆けて来た一人の少女だった。

 まだ7つか8つといったところか。褐色の肌の、アーリア系の特徴を示す顔立ち。ゆるくウェーブする豊かな黒髪に、額には緑色の染料で描かれた装飾。身を包むシンプルなデザインの白のワンピースが、健康的な肌の色を際立たせている。

 顔中に浮かべていた笑顔が、僕の姿を認めると、微かな戸惑いを経て、探るようなはにかみに変わる。

「誰なの?」
「奏氏。無有奏氏」

 少女のくるくる変わる表情に引き込まれて、僕は素直に応えていた。

「はじめまして、私はソーマ。お姉ちゃん、興味のない人無理矢理つれて来ちゃダメだって、いつも言ってるじゃない」

 あー、とかうー、とか不明瞭な唸り声を上げて、少女に対する言い訳を考えていたらしい女は、慌てたように紙袋を差し出す。

「そんな事よりソーマ、チャダの店でカレーパン買って来たぞ!」

 そんな事よりって……。この人は頻繁に他人に銃を向けているのか? 僕の扱いは、何やらうやむやになりつつある。

 少女は歓声を上げて、受け取った紙袋を覗き込んでいる。周囲に広がる香辛料の香り。カレー専門店の物なのだろうか。午後3時を過ぎた頃だというのに、朝から何も口にしていない事を思い出す。

「お姉ちゃん、買いすぎ! またあるだけ買い込んできたの!?」

 呆れたようなソーマの声。袋の口からサクサクの生地が覗いているから、恐らく20個ほど詰まっているのだろう。

「わたしは一つでお腹いっぱいなのに」
「ソーマは細っこいから、もっと食べなきゃ駄目さ。それに、売り切れ御免の人気商品なんだから、ある時に買わないと損ってもんさね。どうせ月詠の財布だし」

 気楽に言い切る銃使いに、少女のお小言が始まる。お姉ちゃんはどうしてそんなに経済観念がないの、お財布にあるだけ使っちゃうクセ直さないといつかたいへんな目にあうよ、教祖さまのこと呼び捨てにするのはダメだよと、言われっぱなしのガンウーマンは見る見るしょげ返る。……どっちが年上なんだか。

 このまま逃げ出せないかと、そろりそろりと後ずさりで出口に近付いていた僕の腹の虫が、派手に鳴る。銃使いに小言を並べていたソーマの目が僕に移った。大きく見開かれた丸い目に、なぜか赤面。

「おやつにしようか」

 満面の笑みでの提案に、僕は逃げる機会を失った。

            §

「それじゃあ、魔女の仲間って訳じゃあないんだな?」

 薄紅色の水の中、白い水着に身を包んだソーマが浮かんでいる。

 マンゴー入りのスウィート・ラッシーとカレーパンを振舞われた後、ソーマの日課だという瞑想に付き合っている。地下に作られたプール――といえば聞こえは良いが、奇妙な事に側面はガラス張りで、四辺それぞれ15m程、水深5mのそれは、水槽というのが本当の所だろう。今は僕達の他に人はいないが、こんな所で観察されながら泳ぐソーマは、一体どういった存在なのだろう。

「……目の前で人が殺されかけているのを、無視出来なかっただけです」

 ガラス面の横に設置された、作り付けのはしごを登った先。狭いプールサイドに据えられた、テーブルを挟んでの銃使いの念押しに、正直な気持ちを応える。

 お人好しだねぇと、呆れたようにため息を吐くと、銃使いはビーチベッドに身を沈めた。

 武内海南江(たけうちかなえ)というのが彼女の名前らしい。本人は銃を構えて「あたいの事はセブンライブスと呼びな!」と決めていたが、ソーマにむやみに銃を振り回しちゃ危ないでしょ、とたしなめられてすぐにホルスターに仕舞った。

 ……本当に、どっちがお姉ちゃんなんだか。

 彼女達の話によると、ソーマは緑の月の神の巫女で、信徒に不死の霊液・アムリタを授ける存在だとか。満月の夜だけに、本物の月と重なって現れる緑の月。それから零れるアムリタが、何処に落ちるかを告げられるのは、神託を受けられるソーマだけだという事らしい。

 プールでの瞑想は、緑の月の神との交感を深める為だという。「これが全部アムリタなの?」という僕の問いに、巫女は「博士が作った実験用だよ」と応えた。新興宗教にありがちな、疑似科学の類だろうか。

 ソーマの前では話さなかったが、海南江は、拝月教の教祖である月詠に雇われた、用心棒らしい。緑の月の神の力を狙うアスキスから、巫女であるソーマを守っているという話だ。

「人が誰かに復讐を考えたとき、例えその全てを懸けたって叶わない事がある。このセブンライブスは、そんな時の為にある銃さ。命を捧げ、憎い相手を必ず殺す。あたいはその代行をしているだけさ」

 割が良かったから依頼を受けたという銃使いだったが、そう語る時の瞳には暗い炎が見え隠れしていた。この人も自覚したうえで人殺しをしている以上、他人には語れない過去があるのだろう。

「ねえ、見てるだけじゃつまんないでしょ。奏氏も泳がない?」

 瞑想を終え泳いでいたソーマが、プールサイドに腕をかけ、上目遣いで覗き込んできた。初対面の時もそうだったが、どこか探るような気配が感じられる。

「うん? ごめんね。水着とか持ってないし」

 だいたい僕は泳げたのか? プールに入ってから確認するには、5mの水深はちょっと怖い。

「女の子の誘いを、無下に断るモンじゃないさ!」

 笑いながら僕の腕を取り、椅子から引き起こす海南江。

「ちょ……待っ!?」

 そのままプールに蹴り落とされる。

 混乱してもがくも、プールの縁に手が掛からない。服を着たままなせいもあるだろうが、水とは比重が違うのか、身体が浮きにくい。薄紅色の景色の中、少女のしなやかな肢体が、慌てる僕をからかう様に、自由に泳ぎ回るのが目に入る。

(ああ、やっぱり。初めまして、ニャ●●●●ップの端末。ちゃんと見ててね)

 ソーマの声が響いてくる。アムリタの中で、喋れるはずは無いのに。

(教団のみんなだけじゃなく、この街中、この国中、この星中の人たちと一つになるんだから)

 ごぼりと吐き出した空気に代わり、アムリタが肺に浸入する。イルカのように楽しげに泳ぐ、幼い巫女の託宣を聞きながら、僕の意識は闇に落ちた。

            §

「大丈夫? ごめんね」

 幼い少女の声で気が付いた。大きな瞳に、心配そうな色を浮かべたソーマが覗き込んでいる。

「大丈夫だって、ソーマ。あたいが応急手当したろ?」

 気楽そうな海南江の声に、思わずマウス・トゥ・マウスを連想して唇に手を当てるも、胸に乗せられたままのブーツが目に入る。

「……とりあえず、足退けて下さい」

 悪いねと、まるで悪びれた様子もみせずに、僕の胸から足を下ろす銃使い。ひどい。せめて手で処置してくれるくらいの気遣いはないのか。びしょ濡れだ。鞄は魔弾に襲われた時に落としたきりだから、着替えの用意があるはずもなく。

「タオルと着替えは用意しておいたから」

 白いバスタオルを差し出すソーマ。ああ、労わりの落差に涙が出そうだ。とりあえず、礼を言って受け取る。

「……ありがとう」
「濡れた服は洗って乾かしておくから、明日取りに来ると良いよ」
「明日?」

 また此処に来いというのか!? なんとか理由を付けてクリーニングを辞退しようとする僕に、ソーマは笑顔で応えた。

「うん。明日は翠月祭だから」

            §

 明日の夜、拝月教は祭りを開くらしい。街中に貼られていたポスターは、それ告知するための物だったようだ。ソーマたちと別れ、明日の夜に備えて慌しい施設内の廊下を歩いていると、

「見ない顔だな。見学者かね?」

 いきなり背後から声を掛けられて驚いた。
 白衣に身を包み、分厚いレンズのメガネを掛けた40絡みの男。手足がひょろ長く、身長もそれなりにあるのだが、恐ろしく姿勢が悪いので威圧感は少ない。

「あ、はい。教団の方のお話を伺って、今から帰ろうと……」

 怪しまれないよう、星審学園の生徒だと説明する。……却って怪しまれたか? ようやく解放されたというのに。正直早くこの建物から離れたい。

「ふむ。星審の生徒か」

 僕の顔を繁々と覗き込み、しきりに顎を擦っている。何とも居心地が悪い。

「来たまえ」

 男は僕の返事を待たずに歩き出す。人の話を聞かないタイプだろうか。正直これ以上この施設にいたくないんだけど……。ここは素直に従っておこう。

 四畳半ほどの雑然とした部屋に通された。机の上には書類の山に試験管立て。何かの薬品の臭いがする。開いたままのドアから覗ける隣室は、どうやら研究室らしい。男は床にまで溢れた書類の山を、適当に隅に寄せスペースを作ると、僕に備え付けのパイプ椅子を勧めた。

「私は宮坂といいます。拝月教の……そうだな、顧問といった所か。君は?」
「……無有奏氏です」
「ふむ、そうか。やはりそうか」

 長い指を何度も組み直しながら、一人得心する宮坂。

「君は神智学研究所という組織を知っているかね? 神を智る学問と書いて、神智学だ」

 机の向こう、書類の山の間から宮坂が問う。

「神智学研究所……? いえ」

 嘘だ。もどかしい。どこか聞き覚えがあるような気がするのだけれど。

「知らないはずが無い。無有君、君を保護した組織の名前だよ」

 緊張が走る。この男は僕の事を知っているのか? 学者のようだから、関係者なのかもしれない。
 発見された状況が状況だけに、漠然と国の防疫専門機関かと思っていた。そういえば、収容されていた隔離施設で何度か耳にしたように思う。しかし……神を智る学問?

「君を保護し検査した施設も、所属する学園も、おそらく後見人も。皆、多かれ少なかれ神智研に係わりを持つものだ。この無名都市は、取り分け彼らの影響の強い場所だと言えるな」

 アスキスが口にした神智研というのはその組織の事か。かちりかちりと音を立ててパズルが組み上がって行く感覚。だが僕が抱くのは爽快感などではなく、薄ら寒い不安めいた違和感。

 何処までが仕組まれた物なんだ?
 この男は何を話そうとしている?

 半ば影に沈んだ顔の中、分厚いレンズだけが蛍光灯の光を反射している。表情が読めない。

「神智学自体は19世紀のオカルティスト、エレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー夫人が提唱した物だが、神智学研究所は、彼女が設立した神智学協会とは間接的な関わりしか持たない。設立時の主要メンバーに、協会関係者が多く存在した事からその名を採ったに過ぎない。彼らは神の存在を信じている。いや、そう言うと語弊があるかな。訂正しよう。神の存在を認識している」

 神の存在? 僕が巻き込まれた、街一つを滅ぼす事件を起こした宗教団体。アスキスの使う魔法めいた力と背後の異形。緑の月を拝む者たち。巫女。神を智る学問。神。神……?

「馬鹿げている、そう思うかね?」

 僕の沈黙をどう解釈したのか、白衣の男は話を続ける。

「神などと表現して理解を妨げるなら、人をはるかに凌駕する存在だと認識すれば良い。それぞれ異なる起源を持つが、星々の海を渡り次元の壁を越えこの地球に顕現する。どれも単体で星の環境を作り変え、選択した種を次の段階に引き上げる程の力を持つ。まさに超越種だよ」

 顔を上げ目を合わせてくる。分厚いレンズ越しの色素の薄い瞳は、奇妙なほど澄んでいた。

「『黒の淵』と呼ばれる預言書が存在する。紀元730年頃に記された旧い書物だ。そこには神々の襲来とそれに仕える異形の種――奉仕種族の暗躍、神を崇める者達による召喚事例とその対処法が記されている。物理接触出来る者は限られており、今は神智研所長の裁慧士郎(さばきけいしろう) しか紐解く事を許されていない。故に、自分たちが預言書などという、怪しげな物に従って行動しているとは考えもしない構成員も多い」

「事実預言に従い、すでに神の一柱を砕く事に成功している。……11年前になるか」

 観察するような眼差し。

「私も到底信じる事など出来なかったよ。この目で見るまでは」

 やはりこの男も神智学研究所の関係者だったという事か。宮坂の話は続く。

「ハスターと呼称されるそれは、巨大な猛禽に似た姿をしていた。もっとも、形態を変化させられるそうだから、地球の大気に最適化した瞬間に毀され、そのままの姿を保っているだけなのだろうがな。初めて対面した時、私は屍骸でしかないそれに、身体の奥底から湧き上がる恐怖と畏敬の念を止められなかった。生物としての存在の深さと位階の違いを直感で理解した。科学者らしくない話だと笑うかね?」

 無言で首を振る。アスキスの背後に浮かんだ異形の存在から、僕も同じ物を感じたからだ。

「『久遠に臥したるもの死することなく 怪異なる永劫の内には死すら終焉を迎えん』。あれらは人の力では『砕く』事は出来ても、『滅ぼす』事はまず不可能だ。屍骸であろうが欠片であろうが、そこに存在するだけで周囲に影響を及ぼしてしまう……」

 右手で顔を隠すようにして、眼鏡のブリッジを押し上げる宮坂。そのまましばし黙考するかのように言葉を途切らせる。

「自分より優れた存在に出会った時、人間の反応は大きく二つに分かれる。一つは恐れ、忌避する。それが叶わない場合は対象を抹消しようとする。神智学研究所というのはそういった組織だ」

「……もう一つは?」

「神々は旧支配者などとも呼称される。『黒の淵』に記された中の何柱かは、かつて地球に君臨していたからだ。それだけの力を持ちながら、一柱たりともその支配を継続していない。何故だと思う?」

 僕の問いには応えず、続けて問い掛ける科学者。僕には答える事が出来ない。

「簡単だ。支配する気など初めから無いのだよ。彼らが行おうとしているのは、侵略ではなく実験だよ。私は数多くのサンプルを目にしてきた。手足の骨が消失し、皮膚が鱗状に変質したもの。極低温下でしか生きられず、消化器官も地球以外の植生に対応する様組み替えられたもの。深海の高圧に耐え、魚類に酷似した外見を持つもの。炎の中で、焼き尽くされる事なく苦しみ続けるもの。その全てが元は人間だったなどと、君は信じられるか?」

 語尾が微かに震えている。宮坂の隠し切れない興奮が伝わる。

「私は科学者として、人が次の段階に進む瞬間に立ち会えるのが何より誇らしい。ただ畏れ、知る機会を捨てるのは科学者として、いや、人として恥じるべき姿勢だ。君はそう思わないか?」

 態度は冷静なのに、目には狂おしいほどの熱。僕は宙に浮いたままの問いの応えを、自分で見付ける事が出来た。

 もう一つは同一化だ。その対象と同じになるか、その一部として存在する事が出来れば、畏怖と羨望が容易に他への優越感に転じる。

「もはやこの世界には三種類の人間しか存在しない。信徒か贄か、抗う者か。誰もが当事者だ。……そこで君の事だが」

 なぜここで僕の話になる? 得体の知れない不安が圧し掛かる。

「君が巻き込まれたのも、神々を崇め顕現を試みる信徒達の引き起こした事件――神智研が召喚事例と呼ぶ物――と考えられた。神の召喚には犠牲が付き物だからな」

 犠牲。神への供物。広い空間を何処までも浸す黒い泥。隠微で甘やかな腐臭。その全てが元は人間だった物の成れの果て。あの光景も、その神を呼び出すための生贄だったと言うのか。

「私が担当しているソーマも、君と同じ召喚事例の生き残りだ」
「ソーマも!?」

 屈託の無い笑顔が浮かぶ。あの少女も、僕と同じ経験をし、生き延びている?

「ふむ、既に面識があるのかね。まあ良い。8年前の満月の夜、インドのジャンムー・カシミール州山間部の小さな村でその事件は起きた。一夜にして住民全てが狂死した中、母親の胎内にいた女児だけが奇跡的に生き残った。神智研に保護され、ソーマと名付けられたその娘が言葉を覚えたとき、初めて彼女が選ばれた巫女だと判明した。村人達は神を呼ぶ生贄ではなく、巫女を産む犠牲だったのだよ」

 息苦しい。喉が渇く。何十人、何百人をも供物にして選ばれる存在。それじゃあ僕も……?

「ソーマが語る『緑の月の夜に落ちる雫』の話は『黒の淵』に記されたアキシュ=イロウに関する預言と一致する物だったらしい。アキシュ=イロウに関する研究を任された私は、知れば知るほどその存在に魅了されて行った」

「……そして転向したという訳ですか」

 宮坂は応えない。だがその沈黙が答えだった。おそらく、拝月教をお膳立てしたのもこの男だ。

「だが君のケースでは、預言書に記された神を崇める宗教も、それに仕える奉仕種族の存在も確認されなかった。『黒の淵』にさえ記されていないイレギュラーな出来事なんだよ。君は一体何者なんだろうね?」

 動悸が激しくなる。解る訳がない。そんなのは僕自身が知りたい事なのに。

「『黒の淵』には、襲来を預言された30の神とは別に、超越したシステムとも呼ぶべき存在について記されている。【混沌】、【門・道・鍵】、そして【使者・道化】」

「観察し続ける事がこれの使命」

 表情を消し去った貌で、僕でない僕が応えるのを知覚する。

「そうか。やはりそうか。ニャルラトテップの端末。観察者が現れたという事は、此処で事態が進展するという事か。人類を素材にしたカンブリア紀の大爆発の再現を、この目で観察できる。その瞬間が来るのがとてもとても待ち遠しい。もうすぐだ。もうすぐだ」

(狂っている)

 それと狂人とのやりとりを、これは期待とも不安つかぬ茫洋とした感覚のまま眺め続けた。