「やっぱり……」

 アスキスの消えた方向を、大体の目星を付けて探すと、想像していた通りの物を発見した。
 血痕だ。地面に点々と続く、まだ新しい血の跡を辿り歩を進める。

 公園で襲ってきた連中なのかは解らないが、ジジとの戦闘中、あの魔女は横槍を入れられたらしい。異形の存在や、魔法めいた能力に関係するいざこざなのかも知れないが、それを差し引いても、敵の多そうな性格だ。あれだけ目立つ立ち回りをすれば、格好の的になるのも仕方ない。

 血痕は市の周辺部、開発予定地区に続いていた。作業は休みなのか、人影は無い。フェンスをよじ登り、敷地内に侵入する。

 彼女を探してどうするつもりなのか。公園での異能同士のぶつかり合いでも、僕はただ見ているだけしか出来なかったじゃないか。下手をすれば巻き添えを喰って、命を落としていたかもしれない。どこか危うげで、放って置けないコートの少女ならともかく、ゴスロリの悪魔には、貸しはあっても借りは無い。あんぱんの代金だって貰ってやしないじゃないか。

(観察し続ける事がこれの使命)

 ……いま気が付いた。鞄はともかくパン屋の紙袋は公園で落としたっきりだ。とっくに食べられる状態じゃなくなっているだろうけど。

「ようボンクラ。……手ぶらじゃないか。……あんぱん買って来いって言ったろ?」

 こいつは……! こんな姿になっても。

 黒衣の魔女は、廃材の山の陰に蹲っていた。
 左脇腹を押さえる手が真っ赤に濡れている。生地が黒いから目立たないが、ドレスを重く湿らせる血は、スカートにまで広がっているようだ。

「馬鹿! そんなの言ってる場合じゃないだろ!? 早く傷を何とかしないと」

 腕や足なら心臓に近い部分を縛れば良かったはずだけど、胴となると……どうすれば良いんだ!? 落ち着け、僕。とりあえず傷口を押さえて出血を抑えるくらいしか思い付かない。内臓を深く傷付けていない事を祈るだけだ。

「触んな……掠り傷だ」

 ハンカチを取り出して傷口に当てようとするも拒否される。それでも無理にハンカチを押し付け、救急車を呼ぶべく携帯端末を取り出す。

「……余計な事すんな」

 アスキスが振るった腕が端末をはたき落とす。

「何するんだよ!?」
「無名都市で、神智研の紐付きじゃない医療機関が有る訳ないだろ……あたしを売る気か?」
「……神智研?」

 どこか聞き覚えのある言葉だが思い出せない。

「それが君の敵――戦ってる相手なのか? あのジジとかって娘も? 君を撃ったのも? それじゃあ公園で襲ってきた連中は?」
「いっぺんに訊くな、喧しい。……確かに、あの小娘は神智研の人形だが、あたしを撃ったのは連中じゃあない。……あたしとやり合うつもりなら、無関係のお前をのこのこ連れて来やしないだろう」

 確かに。公園にはアスキスのほうが先にいたのだから、ジジとは完全に遭遇戦。それに、狙撃手を呼ぶ時間も余裕も無かったはず。襲撃者に至ってはジジが斬り込んで行ったのだから、同じ組織に所属する者のはずが無い。

「それに……神智研の連中は、あたしを殺すより捕獲したがってるだろうからな……」

 アスキスの息が荒い。喋らせ過ぎたか。無理に押し付けたハンカチも、既に重たげに紅く湿っている。

「敵だらけだね。感心するよ。それにしても、ジジの様子は捕まえるって感じじゃなかったよ?」

 口元を歪め、小さく笑声を漏らす黒衣の少女。

「ああ、殺す気だったろうな。そのくらいじゃないとこの魔女は止められない」
 胸を張り、傲岸不遜に言ってのける。

 第三者からの不意討ちとはいえ、しっかり喰らってるじゃないか! ……とは口に出来なかった。有利に戦っている様に見えても、小さな剣士はそれだけ集中しなければならない相手だったという事だろう。どっちにせよ、僕にどうこう言えるレベルの話しでない事は確かだ。

「僕がジジと公園に来るのは見えてたはずだろ? 何で逃げなかったのさ?」
「あたしが? 逃げる?」

 馬鹿にするように鼻で笑う。

「あのおすまし顔をぶちのめせるチャンスを、みすみす見逃せるかよ」

 怒りとも悦びとも取れる表情で口元をひん曲げるアスキス。神智研の目的は捕縛、狙撃手の目的は抹殺。場合によっては彼女を説き伏せ、自由よりも生命を優先させる手もあるかと考えていたが、その線は完全に無くなった。

 ふらつく事もなく立ち上がる黒衣の魔女。でも、平気なはずが無い。口元に笑みを浮かべているが、額には脂汗が滲んでいる。この意地っ張りめ!

「無理するなよ、その傷で立てる訳ないだろ!?」
「魔女を舐めんなよ、小僧! ……それに、あたしを撃ちやがった奴が、近くまで来てる頃だ」

 そうだ。狙撃手と襲撃者達が同じ陣営なのかは解らないが、手傷を負わせた獲物を見逃すはずが無い。

 予備動作無しで僕を突き飛ばし、その反動で後ろに跳ぶアスキス。
 青白い光の尾を曳きながら、寸前まで彼女の頭のあった場所を弾丸が撃ち抜いた。

「風穴を開けられたくなかったら、あたしから離れてろ! 行け!」

 轟音で半ば麻痺した耳に、魔女の叫びが突き刺さる。僕と彼女の間を走り抜けた弾丸が、数十メートル先の建築途中のビルの壁面に着弾する寸前にその軌道を変え、金属的な唸り声を上げながら向かってくるのが目に入った。

「そんなのアリ!?」

 叫びながら走る。アスキスがジグザグに走るのに習い、手近な物陰に飛び込む。
 青白い光と音のおかげで位置が把握しやすい事もあるが、目視出来るという事は、かなり速度は落ちてるんじゃないか?

「だからさっさと逃げろって言ったろ!?」

 アスキスが毒づくが、逃げるくらいなら最初からここに来てないって言うの。僕も何でこんな奴の事気にしてるんだか。

 再び魔弾が軌道を変えるのが見える。ジグザグに走り速度を殺し、物陰に逃げ込む事を続ければ暫くは凌げるだろうが、アスキスの体が持たない。相変わらず不敵な表情を浮かべようとしているが、顔からは完全に血の気が引いている。

 一つ息を吸い、物陰から飛び出し、唸り声を上げる魔弾に向かって走る。

「小僧! 何のつもりだ!?」
「奏氏! 小僧じゃない。無有奏氏だ!」 

 青い光の尾を曳きながら迫り来る弾丸に走り寄りながら、鞄で打ち返すイメージで振り回す。
 上手く軌道に合わせ、奇跡的に魔弾を捕らえる事に成功するも、鞄はあっさり突き破られ、反動で僕のほうが吹き飛ばされる。

 後ろの方から、わきゃあ!? とか、魔女のらしくもない悲鳴が耳に入る。ほんの少しでも軌道を変える事が出来たのか? さようなら、僕の全財産。別れを惜しみながらも、アスキスの元へ走る。

「……馬鹿か、お前? だが発想は悪くない」

 期待した自分が馬鹿だったと、表情で雄弁に語りながらも、何かを掴んだのか。魔女の瞳が輝いている。

「身体を晒したお前を仕留めなかった事ではっきりした。あれはあたしを狙った呪殺の類だ。弾丸を止められれば、解呪出来る」

 魔弾は鞄を撃ち抜くのに失った速度を補うためか、空高く舞い上がり、さらに軌道を変える。

「確認しておくけど、病院に行かないって事は、その傷は自分で治せるんだね?」
「……だから舐めんなって。……手足の一本くらい簡単に再生できるっての」
「信じたよ、その言葉」

 必殺の魔弾を阻むべく、アスキスを背に庇う。辺りに素早く目を走らせるが、十分な強度を持ち、尚且つ、動きを妨げずに振り回せる程度の、手頃な重さの鋼材が都合良く転がっているはずもなく。

 仕方ない。覚悟を決め足を肩幅に、左足を前、右足を後ろに引きレの字を描く。見よう見まねの格闘の構え。軽く膝を曲げ、緊張で強張る指をゆるく開閉しほぐす。

 アスキスが僕の意図を察したのか、公園で感じた風が僕の身体にまとわり付くのを感じる。鎧代わりか。不快感は変わらないが、今回ばかりは心強さを感じる。だが、前回と違い、束縛するための物でない事を差し引いても、明らかに勢いがない。僕という盾を得て初めて風を起こした事からも、この魔女が追い込まれている絶望的な状況を思い知らされる。

 来た!

 金属的な唸り声を上げながら迫る魔弾。アスキスの造り出した何重もの風の壁で、それの速さが明らかに落ちているのが見て取れる。この場を凌ぎさえすれば再生も可能だというのなら、多少の痛みはこの際度外視だ。魔女には後でたっぷりと借りを返してもらおう。

 右の平手を叩き込み、勢いが落ちた弾丸をそのまま握り込めるかと思ったが――甘すぎた!

 激しく回転する魔弾は風を、僕の掌を抉り撃ち抜く。当たり前だ。弾丸を手掴みに出来るはずが無い! 避けようも無い位置に弾丸を目視し、頭髪が逆立つのを自覚する。背後のアスキスがありったけの力を注ぎ込んだ風で逸らさなければ、そのまま頭を撃ち抜かれていただろう。

 上方に逸らされた魔弾は、青い光の弧を描き軌道を変える。恐怖と激痛に蹲りそうになるも、踏み止まる。魔女が盛大に血を吐くのを目にしては、耐えてみせるしかないじゃないか。

「ごめん……しくじった」
「……もういい……さっさと逃げやがれ」
「今更無理だって」

 耳障りな金属の叫びがユニゾンになる。2発目だ。魔女を仕留め切れない事に業を煮やしたか、あるいは僕を殺すための弾丸か。どちらにせよ傷付いたアスキスが、速度の違う2発の魔弾から逃げるのは不可能だ。

「もう一回!!」

 叫んで構え直す僕を、アスキスがどんな表情で見ていたのかは解らない。呆れた目なのか、馬鹿を見る目か。感動の類でない事だけは確かだろう。それでも、黒衣の魔女は僕に賭ける事に決めたらしい。再び風がまとわり付くのを感じる。加えて、魔弾に対する向かい風。もはや風で壁を構成するレベルの、魔術的な指向選択が叶わないほど集中力が落ちているのか。

 2発の魔弾は僕の胸部――正確には、僕の背後のアスキスの心臓――を狙って襲い掛かる。まだツキは残っている。頭部を狙われたら対処の仕様が無かった。

 風のおかげで、ギリギリ反応できる程度に速度を落とした魔弾に、両腕を突き出す。辛うじて捕らえた弾丸を、勢いに逆らわぬままに誘導。

 風の圧力と僕の腕、胸。

 魔弾が魔女の心臓を撃ち抜くために、破らなければならない障壁。

「ルールー!!」

 そのわずかなタイムラグで充分だったらしい。アスキスの叫びに応え、僕の眼前に現れたモノが2本の触腕を差し伸ばす。虹色のシャボン玉のようなものを弾けさせて現れたそれは、一見ぬいぐるみのライオンの頭のように見えた。つぶらな黒い瞳を持ち、柔らかそうな繊毛からイカに似た長い2本の触腕を生やしている。見ようによっては、どこか可愛らしく見えなくもない。

 風の壁と掌から二の腕までをたやすく貫き、現在進行形で僕の胸を抉っていた魔弾に、それの触腕が絡み付く。当然のように僕の胸の中に、遠慮無く腕を突っ込んでいる形になるのだが、こいつは一応僕を助けようとしているんだ。文句を言う場面じゃない。痛みを感じるのか、くるるる? と可愛らしく鳴き声を上げるルールーに、僕は肺から溢れる血を零しながら笑いかけてやった。

 背後からはアスキスの低い呟きが聞こえてくる。僕の知らない言葉だ。

 肺臓を磨り潰していた2発の魔弾が、触腕を絡めたまま背中を突き破るのを感じる。

 魔弾の死のユニゾンと、魔女の詠唱が終わるのは同時だった。

「……ルールー……喰っちまえ」

 アスキスの言葉に触腕を引き抜くルールー。まるで僕への気遣いが感じられない。支えを無くして前のめりに突っ伏す僕を尻目に、使い魔は細かい牙の並ぶ口の中に、光を失った鉛玉を放り込んだ。

 痛さを通り越して熱しか感じない。乏しい医療知識を総動員して、肺を潰されても生きていられたか否か、思い出そうと努力する。……思い出さないほうが良いのかもしれないが。弱々しく呼吸するたびに口から血が溢れる。息苦しくて仕方ない。

「……根性あるじゃないか」

 蒼白を通り越して、土気色の顔をしたアスキスが覗き込む。手や足じゃなく、肺も再生出来るの? 口の動きで必死に伝えようとするも、聞き取ろうとしている様子も無い。癪なので、その位置に立つと下着が丸見えだとは、教えてやらない事にする。

 3発目の魔弾が襲って来ませんように。そう祈りながら、僕は意識を失った。

            §

(楽しんでいるな)

 そうでもない。痛い目ばかりだよ。

(名付けざられしものは、砕かれても尚可能性を有している)

 あの娘の可能性じゃないかな。

(いずれアキシュ=イロウの試みと交わる事となる)

 選択されるって事だね。

 巫女でもないのに、なぜ戦うのだろう――混沌の中、フルートの音色に合わせ、舞い踊りながら遠ざかる道化を見送りながら、ふと思いを馳せる。

 
 球状に雲が押しのけられた蒼穹。舞い降りて来る白い羽根に手を伸ばし、折れた指で必死に握り締める。

 繰り返される凌辱。痛い痛い痛い怖い痛い怖い怖い怖い痛い。尼僧服の女が笑っている。

 青いスニーカーのほうが良かったのに。欲しい物はいつも手に入らない。

 初めての敗北。肉に食い込む鋼の感触。それなのに奴は、嬉しそうな素振りも見せずに淡々と。

 ママ、ごめんなさい。ごめんなさい。

 無限に続く回廊。無数に存在する扉。選択を間違えれば、死よりもおぞましい運命が待ち受ける。

 枯れ木のような老婆。埃臭い本の山。必ず見返してやる。人の顔を持つ鼠がせせら笑う。

 右腕から絶え間なく異形を産み出し続ける牧師。彼の苦悩と後悔を知っていようが、引き下がる理由にはならない。

 か細いフルートの音が響く。滅びかけている迷い仔。お前に名前を付けてやろう。決めた。今からお前は――

 どこかで見た顔。人間になりたがっていた、あの子に似ている。

 黒い本を携えた男。肋骨を思わせる不気味な意匠の服。肩に張り付く浅黒い肌の老人。内臓を引き摺る、上半身だけの。目には怯えと深い狂気。

 差し伸べられる白い手。優しい笑顔。闇の中の銀の月。大切な。とても大切な。

            §

 薄暗い中目が覚めた。鉄の臭いがする。夢の内容が急速に拡散し、直前まで自分が置かれていた状況を思い出し跳ね起きる。
 どうやら建築途中の建物の中らしい。まだドアの付いていない入り口から、夕日が差し込んでいる。

 掌を見ると、派手に開いていた穴が見当たらない。胸も同様。残念ながら服はズタボロのままだったが。思い出すと吐き気が込み上げてくるが、体調は悪くない。さすがに魔女。大きな口を叩くだけの事はある。

 ふと気付くと、すぐ隣でアスキスが眠っていた。寝息がかかるほどの距離に狼狽し、呼吸を忘れる。微かに開いた柔らかそうな唇。けぶるようなまつ毛。悪い夢でも見ているのか、柳眉はひそめられている。

「もう嫌だ…………痛いの怖いよ……」

 うなされる少女の子供っぽい呟きに、急速に頭が冷える。当たり前だ。どんなに気丈に振舞っていようが、撃たれれば血も出るし死にもする。怖くないはずないじゃないか。僕と同じく、ドレスの破れ目から覗く脇腹の傷は塞がっている。土気色だった顔色も、蒼白程度には回復している。

「……助けてよ……銀貨……」

 汗で張り付いた前髪を整えてやろうと伸ばした手を止める。僕より先に白く透き通る細い指が、アスキスの金の髪に伸ばされるのに気付いたからだ。

 天使が存在するならこんな姿なんだろうか。顔を上げると、白い羽根が舞い落ちる中、銀髪の少女がそこにいた。
 目覚める前に見ていた夢の欠片が浮かびそうになり――像を結ぶ事無く弾けて消えた。

 うなされるアスキスの傍らに座り、その細い髪を丹念に梳く。愛おしげに。悲しげに。
 白い羽根は舞い降り続ける。文字通りの意味で透き通るようだった彼女の口元が、羽根と共に霞み消え行く寸前、微かに動くのが見て取れた。

 儚く消える少女に手を伸ばそうと無意識に身を乗り出した瞬間、喉笛を握り潰さんばかりの強さで掴まれる。

「何だ、欲情したのか?」

 獣の瞳をしたアスキスと目が合った。

「レディの寝顔をじろじろ見るのは失礼だって教わらなかったか? まさか寝込みを襲うつもりだったんじゃないだろうな?」

 深く静かに激怒している。確かに、気付くとアスキスに圧し掛かる体勢になっている!?

 息が詰まる。弁明するにも、これじゃあ声を出せる訳がないじゃないか。窒息する以前に喉仏を潰されたら、せっかく拾った命もここまでだ。

「働きに免じて今回だけは見逃してやる」

 僕の目顔での弁解が伝わったのかどうなのか、鼻を鳴らして喉に絡めた指を解くアスキス。起き上がり手早く身を整える。

「代わりにもう一働きして貰うか……」

 咳き込みつつも、今目にした光景を話すべきなのかを迷っているうちに、黒衣の少女は話を進める。

「そうだな……あたしは面が割れてる。お前ちょっと行ってこい」

 何処にですか!?

 腰に手を当て、夕日に向かい顎をしゃくる。
 頬に残る涙の跡を除けば、アスキスの表情は再び魔女の物に戻っていた。