暖かい泥の中で目が覚めた。

 甘ったるい腐臭を放つ、黒く粘つく泥の中に身を横たえているらしい。
 広い空間の目の届く限り、浅い泥沼が続いている。

(目覚めたか)

 うん。でもまだ眠いや。

 薄闇の中、再びまどろみに落ちようとするも、微かな雑音が邪魔をする。
 複数の人の声と足音。だんだん近付いてくる。

(観察し続ける事がこれの使命)

 解ってる。

 眠れやしない。寝返りを打つと、黒い泥が跳ねた。
 靴底が固い床を叩く音が慌ただしく響く。
 雨合羽のような物――恐らく、化学防護服――に身を包み、大仰なマスクを付けた人影が複数。大きな銃を構えている。物騒だな。始める前に終わらせるのはつまらないだろうと、ぼんやりと思う。

(●●●●●が次の瞬きをするまでの間の遊戯)

 それも解ってる。

「…………生存……発見……」
「…………ありえない…………召喚……の……」

(唯一つの継続する意思であるこれの慰め)

 それの声が遠くなり、意識が覚醒へ向かう。

「……奉仕種族……警戒を…………」
「…………ケース9、カテゴリーRに該当、指示を」

 化学防護服の集団の中に一人だけ、素顔を晒した少女がいた。
 身体のラインが露な白い皮製の服。同色の無骨なデザインのブーツが泥に塗れている。
 要所要所に取り付けられた黒い金具が目に付く。服と一体になった右手袋は左肩に、左手袋は右脇腹に縫い付けられ、右上腕と左の二の腕部分がベルトで固定されている。――拘束具、か?

 何の感情も表さない、ガラスのような瞳がこれ……僕を映す。
 微かな揺らぎが浮かんだように見えたが――

「了解。対象を保護。撤収後の焼却処理をもって状況終了」

 返しの付いたさすまた状の器具で、乱暴に泥の中から引き起こされた。こういうのは保護とは言わないんじゃあ……? 化学防護服の連中は僕に触れる事無く、ストレッチャーに拘束し終えると、粛々と撤収を開始する。

 どのみち抵抗する体力も無いようだ。車に運び込まれ後部貨物室のドアが閉まると、今度は真の闇が訪れた。やがて微かな振動が伝わる。移動を始めたらしい。

 遠くから腹の底に響くような振動と轟音が伝わってきた。
 真っ暗な車中で、ふと拘束着の少女の瞳に浮かんだ物の意味を理解した。

 哀れみだ。僕に対する。
 闇の中、少しだけ僕は気を悪くした。

            §

 無名都市。

 それがこの街の名前らしい。
 最初は名も無い地方都市というくらいの意味だと思っていたが、降り立った鉄道の駅名も「無名都(むめいと)」で驚いた。

 10年前から開発が始まった新興都市で、周辺部はまだ開発が続いている。駅舎も駅前通りもまだくたびれた様子も無い。整然とした街並みを、身の回りの物を詰め込んだ小さな鞄一つだけを手にし、僕は歩き始める。

 初夏の日差しを受けながら考える。移り住んだ人たちは、新しい住所が名無しの都だという事に、どの様な感想を持ったのだろうか。少し興味がある。
 もっとも、名付けたほうの気持ちは少し解る気がする。

 無有奏氏(むゆう そうし)。僕の名だ。
 有っても無くても同じような物。投げやりに付け、半ば意地になって名乗り続けている。

 三ヶ月前、僕は一夜にして住民の全てが消えた街で保護された、たった一人の生存者らしい。生暖かい黒い泥の中に横たわっていた記憶がある。全裸で。
 その黒い泥が腐り果てた住人だという話だが、生きた人間を一晩で腐らせる薬物だか毒物が、本当に存在するのか、なぜ僕だけが無事だったのか。以前の僕なら知っていたのかもしれないが、今の僕には解らない。

 僕には、泥の中で目覚める前の記憶が存在しないから。

 地球温暖化だの避けられない食糧危機だの少子化だの時間単位で絶滅してゆく種だの無差別殺人だの。メディアは気の滅入るニュースばかり垂れ流しているが、そんな不安を反映してか、世間では新興宗教や自己啓発セミナー、サバイバル・コミュニティの類が流行っている。

 僕が巻き込まれたのは、そんな団体の一つが起こした事件だったらしい。「黒い腐泥に成り果てる」というのはさすがにショッキングだと判断されたのか、表向きは毒物を散布しての大量殺戮後の集団自殺として報道されている。
 僕にとってはとんでもない大事件だが、世界規模で見るとその様な事件が頻発し、一ヶ月で忘れ去られる程度の扱いだという。

 そんな宗教にのめり込んでいたのか。もしくは、裸で歩き回るような性癖を持っていたのか。……どっちにしてもろくでもないな、昔の僕。

 犠牲者が形を留めていないため、未だに正確な死亡者数が出ていないが、僕に関してはその逆。僕が何者であるかを示す記録が見付からないという事だ。つまり、僕は何者でもないという事らしい。

 丸三ヶ月間。何処とも知れない隔離施設での検査を終え、すっかり厭世的な気持ちで解放される僕に「奏氏」の名を付けたのは、やたら元気で前向きな一人の看護婦。施設を出る最後まで「本当は『総司』がオススメなんだけどね!」と頑強に言い張っていたが、常々彼女の新撰組に対する邪な妄想を聞かされていた身としては、断じて受け入れる訳には行かない話だ。なんだその受けとか攻めとかってのは!?

「無有」の姓の方も、「名前なんか無い。必要無い」「いーや、あるね!」という、彼女との子供じみた言い争いの中で付けたようなものだ。あるいは全てを失い、何も持たずに自暴自棄、無気力の底に沈みかけていた僕を気遣っての演技だったのかもしれないが……いや、無いな。やっぱりそれは無い。

 解放されたといっても、自由になった訳ではない。僕としても、身を寄せる親類縁者も無く放り出されても、即座に路頭に迷ってしまう。経過を見るための月に一度の検査と、常時所在確認と引き換えに、ここ無名都市にある星審学園の高等部一年生として、身分と住まいを保障された。

 新たな住まいになる寮への道のりでも、今の世情を垣間見る事ができる。宗教や自己啓発セミナーの類のポスターが、あちこちに貼り出されている。数えただけでも三種類。やたら目に付くのは、緑の月を背景に、教祖らしい中年男が張り付いたような笑みを浮かべているポスター。まともな精神状態なら、どうこうしようとも思わないほどの如何わしさだ。翠月祭という、満月に合わせた彼らの儀式の開催を告知する物らしい。拝月教……流行ってるのか? 

 立ち止まりポスターを眺めていたら、不意に足首に衝撃を感じ、次の瞬間には視界が反転する。背中の痛みで、足を掛けられ、受身を取る間もなく綺麗に転がされたのだと気付く前に、胸元を踏みつけられ身動きを封じられた。

「お前はアレか……うん? 違ったか。でもどこかヘンだな」

 僕の胸元にピカピカの黒の小さなエナメル靴を乗せ、なにやら一人思案しているのは、黒いゴシックドレスに身を包んだ少女。ご丁寧に同色のヘッドドレスを載せている。この角度だと、白くて細い足の付け根まで――

「まあ、いいや」

 何かを納得したらしい少女は、素早く足を翻し僕の鳩尾に一撃を叩き込む。

「こういうのに引っ掛かるなよ。心の平穏が欲しいなら、墓参りにでも行くか、坊主の説教でも聴いてろ。その方がいくらか安全だ」

 のた打ち回る僕を尻目に説教臭く警句を吐く。

「……い、いきなりすっ転ばしたうえにケリをくれといて、安全とか言うな!」

 改めて見ると、碧の瞳に金髪で、ビスクドールの様に愛らしい。もっとも、自分の人形に、こんなに小憎らしい表情を浮かべさせようとする人形師はいないだろうが。

「レディのスカートの中覗き込んで、警察に突き出されないだけマシだと思えよ」
「のぞ……っっ!?」

 初めてだ。怒りで言葉が出てこないという経験をしてしまった。

「それじゃあコーラ買って来い。あとあんぱんな」

 顎で商店街の先を指す。 

「何でだっ!?」
「パンツ何色だった?」
「白でした!」

 尻に追撃を受ける。格闘の心得でもあるのか、僕よりずっと小柄で体重も軽いはずなのに、すごく痛い! まあ、僕もパンツはただの布だと言い切れるほど、枯れてもいないし悟ってもいない。小悪魔を通り越して悪魔のような少女の言動だが、眼福だった事を認めるにやぶさかではない。

「こっちの公園で休んでるから、早くしろよ。逃げたら見付け出して……」
 言いさして歩み去る。

 見付け出してどうするの!? っていうか、お金貰ってない!!

 諦めてパン屋を探すべく歩き出し、ふと、少女の言葉に覚えた違和感を思い出す。拝月教に対して、何で「マシだ」とかじゃなく「安全だ」っていう言葉を使ったんだろう。そもそも、僕を何と間違えたんだ?

 探すまでも無くパン屋に辿り着いた。「やなせベーカリー」。パンが主人公のキッズアニメを連想したが、ただの偶然らしい。キャラクターの無断使用をしている類の店ではないようだ。店の外まで甘くて香ばしい香りが漂っている。

 店内に入ると、人の良さそうな老人が出迎えてくれた。さっき襲われた少女に比べれば、どんな人間でも相対的に善人に見えるだろうが。
 残念ながら棚はがらんとして寂しい有様だった。時刻は午後二時になろうかという頃。お昼の書き入れ時に大部分の人気商品が出払ってしまったのだろう。ついでに自分の遅い昼食もと考えていたのだか。

 幸い少女の指定したあんぱんは三個残っていた。後はクリームパンにうぐいすぱん、野菜サンドが一つづつ。食パンやくるみパンも残っていたが、やっぱり菓子パンか惣菜パンを食べたいじゃないか。少し思案して、あんぱん一個とクリームパン、野菜サンドを注文する。強欲そうだが所詮は女の子。あんぱん以外の物もよこせと言い出しても、二個も食べれば満足するはず。最低一個は自分で食べられる計算だ。

 ……何か考え方が卑屈になってきているようにも思うが、気にしない。お爺さんに包んで貰っていると、別の客が入ってきた。

 ぶかぶかの、恐らく男物のコートを着た小柄な少女。頭には黒い帽子を載せている。袖を肘まで捲くっているが、暑くないんだろうか? コートの中は丈の短いタンクトップで、可愛いおへそが覗いてるし、オーバーニーソックスを穿いているとはいえ短パンで、露出度は高めだ。コート要らないんじゃないの?

 お目当ての商品が無かったのか、棚を目にした途端、少女はあからさまな落胆の表情を浮かべた。一見して大人しそうな娘だったから、見ていて気の毒なくらいに。少女の視線の先が、ついさっきまでクリームパンの入っていた籠なのが、なんともいたたまれない。せめてもう少し早く来るか、僕が遅ければ良かったのに。

「お嬢ちゃん、ごめんね。クリームパンなら、たった今売れちゃったんだ」

 うわあ! この状況で、たった今とか言いますか、爺さん?!
 恨みがましい少女の視線が突き刺さる。何度かカウンター上の紙袋と僕の顔を見比べ、実家が全焼したかのような表情で「うぐいすぱん下さい……」と呟いた。

 逃げるように店を出ると、店の前の自販機で飲み物を買う。コーラとオレンジジュース。必然的に、その間に店を出た少女と再び対面する事になる。走って逃げるのもおかしな話だし、目的地の公園に楽しい事が待っている訳でもない。落ち着け、僕。

 下腹の辺りに、重い物を飲み込んだような気持ちのまま歩く僕の後ろを、少女が付いて来る。いや、付いて来る訳じゃないだろう。たまたま行く先が同じなだけで。

「……クリームパン……食べたかったよ……」

 少女の呟きと、すんすんと洟をすするような音が聞こえる。聞かせるつもりは無いんだろう。でも、泣くほど食べたかったの?
 何やら自分がすごい人非人に思えてきた。公園へ向かう角を曲がっても、少女は付いて来る。どうやら行く先は同じようだ。

 もう駄目だ。僕は意を決して振り向いた。

「クリームパン、食べる?」
「いいの?」

 即答ですか。遠慮しないの?
 少女はコートの袖で目元を拭うと、紙袋を差し出した。

「交換」

 満面の笑顔。少女にとってクリームパンは、それだけ価値がある品物だという事か。ゴスロリの悪魔にこの半分でも可愛げがあれば、即座にフラグが立っていただろうに。

「ありがとう。わたしはジジ」

 目顔で促してくる。紙袋のパンを取り替えながら、

「奏氏。無有奏氏」

 もそもそとクリームパンを齧りながら、目を細めるジジ。公園で食べるんじゃないの?

「『ジジ』って男に使う名前だと思ってたけど……」

 有名なアニメで見た覚えがある。

「フランスではちゃんとした女の子の名前だよ。……男の子にも使うけど」

 どっちだ!? 近くで見ると、瞳は微かに青みがかっているし、肌の白さも東洋人の物ではない。ハーフだろうか。
 並んで話しながら坂を上る。目的地の公園はすぐそこだ。小ぢんまりとした広場にはブランコと小さな東屋だけが設えられている。そのベンチに足を組み踏ん反り返る黒衣の少女を目にすると、ジジの顔から表情が消えた。あれほど美味しそうに食べていたクリームパンを無機的に飲み下すと、

「アスキス!」

 一音一音噛み締めるように、吐き捨てるように叫んだ。

「まだちょろちょろ付きまとってたのか、小娘?」

 とっくに気付いていたらしい、黒衣の少女がゆるゆると立ち上がる。
 立ち去るでもなく、歩み寄るのでもなく。
 その姿は軽やかに宙を舞った。

 愕然とし、鞄と紙袋を取り落とした僕とは対照的に、ジジは黒衣の少女――アスキスから目を離さぬまま、コートから両刃の長剣を取り出し、構える。何処に隠していた!?

 その表情はパン屋で見せた気弱げな物でも、クリームパンを手にした時の可憐な物でもなく。
 ただ戦う者の顔だった。

 アスキスの整った容貌に浮かぶ表情は、愉しげにも、苦々しげにも見て取れる。スカートの中を覗けそうな際どい角度だが、ドレスの裾も、頭の左右でまとめた金色の髪も、揺らぐことなく留まっている。

 それなのに、僕は身体に吹き付ける風を体感していた。不可視の生物がまとわり付くような不快感。臆病者の謗りを受けるかもしれないが、僕はそれに悪意を感じていた。いや、はっきり言おう。僕はその風に恐怖を抱いていた。

 見上げているのは僕だけれど、見下ろされているのは恐らく僕じゃない。
 ジジの雑に伸ばされた黒髪の下から覗く青みがかった瞳は、ただ真っ直ぐに黒衣の少女を見据えている。
 両刃の長剣を腰だめに構え、微動だにせず。
 奇妙な風は彼女をも捕らえようとしているはずなのに、その表情には畏れの欠片さえ見当たらない。その身から発する清冽な気のような物が、彼女に触れるのを阻んでいるのか。

 重ささえ感じるような威圧感。そう広くは無い公園中を、緊張が支配していた。
 風圧が強くなる。木々の梢は揺らぎもしない。
 やがて中空に屹立する黒衣の少女の背後に、異様な気配が凝縮し始める。

 それは一見巨大な鳥のように見えた。――いや、鳥だったモノか。

 複数の眼球を持つ頭部はその右半面を砕かれ、内部器官が覗いている。純白の羽根状の物体を撒き散らす、翼のようにも、巨木の枝のようにも見える器官は、左翼のみしか存在せず。はみ出した肋骨と、そこから毀れる臓物。続く下半身は存在しない。その背から伸ばされた触腕の上に、少女は立っていたらしい。
 異形の残骸のフォルムはおぞましい事に、どこか人間の物を連想させた。

 強張った身体の中に冷気が忍び込む。
 わずかに残された僕の理性を置き換えて行くのは、恐怖ではなく狂気。
 異形を背にした少女は、堪え切れない様に笑声を漏らす。

「今度あたしの前に姿を見せたら、ただじゃ済まないって警告したよなぁ?」

 蒼の中の黒を見据えるコートの少女は無言。
 その背後にも異形が形を取りつつあった。
 幅広の長剣を携える甲冑の騎士――ただし、剣に続くのは肩当までの右腕のみ。その大きさは、少女の背丈の三倍はある。

「上等!」

 ドレスの少女は腕を組み、ふんぞり返る。浮かべているのは、獲物をいたぶる猫の表情だ。

「その紛い物を砕いて喰らった後、お仕置きしてやるよ」

 右手指をわさわさと淫猥に動かし、

「足腰立たなくなるまで叩きのめした後、その小さな尻を撫で回してやる!」

 無造作に振り払ったその右腕に合わせ、舞い降る羽根を掻き乱し風が襲い来る。

 怒りからか、白い頬に朱を差した小さな剣士は一歩踏み込み、呼応して巨大な腕も剣を振りかざす。

 どうしてこんな事に巻き込まれなくちゃいけないんだ!?
 混乱し完全に逃げ出す機会を失った僕は、半ば衝動的に、半ば覚悟を決め二人の間に踏み込んだ。

「だめ!」
 
 ジジの警告と同時に、質量を持つ空気の塊が胸を打ち、肺腑の空気が全て吐き出される。胸骨が軋む音が聞こえた気がする。

 いやいや……ここは普通攻撃をためらう場面じゃないの?
 派手に宙を吹き飛ばされながら冷静に考える。アドレナリンの大量分泌のせいか、上空の魔女が口元を歪めてせせら笑うのまでが詳細に観察できた。

 ジジの背後の巨大な腕に叩き付けられるのを覚悟したが、背中に衝撃を感じる事は無く、僕の身体は小柄な少女を巻き込む形で、派手に広場を転がった。遅れて来る胸の痛み。骨にヒビくらいは入っているかもしれない。

 僕が咳き込みながら立ち上がるのよりも早く、コートの少女は転がりながら体勢を立て直し、勢いを殺さぬまま地を蹴り跳躍。再構成した巨大な異形の大剣を足場に、さらに高く舞い頭上の魔女に斬り掛かる。

 軽く三階建てビル並みの高さに戦いの場を移した二人を、僕はただ口を開けて眺めるしかない。

 ジジの長剣が体に触れる寸前、黒衣の少女の身体はぶれて宙に掻き消える。剣士がその姿を再び認識する前に、直上に現れた魔女が放った空気の塊は、彼女を地面に叩きつけた。

「だ、大丈夫!?」

 土煙の中、立ち上がるジジの膝が小刻みに震えている。地面が陥没するほどの衝撃を受けたのだから、常人なら立ち上がれるはずがないのだが。恐ろしいまでの気魄に背筋が寒くなる。

 空に立つ黒いドレスの少女は何故か仕掛けてこない。ジジに一撃を入れた直後、不意に姿勢を崩し、墜ちる剣士に追撃を入れるのを躊躇ったように見えたが……。

 魔女の背後の異形がじわじわと宙に解け始める。それを追うように、黒衣の少女も後退する。

「アスキス!?」

 名を叫び駆け出そうとした剣士は、だが何かを察したように踏み止まり剣を構えた。

「何? どうなったの?」
「危ないから、ここから早く離れた方が良い」
 真剣な眼差しで警告する。

 公園を支配していた異様な風はもう感じないが、別種の気配――これは僕にも理解できる。殺気だ。さわとも揺れていなかった植え込みがざわめく。いつの間にか周りを何かに囲まれていた。

 離れるったって、どこに!? 怯えから半歩足を引いた僕の袖を、ジジがそっと掴む。

「やっぱりダメ」

 どっち!? 状況が状況なら軽く萌えるセリフだが、今はぜんぜん嬉しくない!

「……ここにいて」

 言い置いて公園奥の木立ちに駆け込むジジ。手に持つ得物が、いつの間にか二本の短剣に替わっている。

 何なんだ!? 一体何が起こってるっていうんだ?

 言われたとおり、大人しくここに留まるべきか?
 木立ちの奥から聞こえる剣戟の響きも気になるが、それよりも僕には確認すべきことがある。