冬がオレに手を差し伸べている。
味気なかった秋の空に、スポイト一滴の冷たさが落ちたように。息をするのすら忘れてしまいそうだった羊雲が、どこかに過ぎ去ってしまうように。
人気のない屋上、グラウンドの声すら届かないようなそこは、オレにとって小さな箱庭のはずだった。逃げるように作ったはずのその場所は、他でもないオレ以外の息遣いが存在しない空間だった。
そのはず、だったのに。
「あれ、もしかして先客がいたか?」
じっと、オレを見て離そうとしない視線がそこにはある。
そいつは本当に、冬が服を着ているようだった。
真っ白な髪も、日焼けを知らないと言わんばかりの肌も。同じ高等部一年生だとわかる深緑色のスリッパはそんな冬には不釣り合いで、存在を主張する。
冬がそこに、紛れもないオレの前に立っていた。
「……ここ、立ち入り禁止札かけてあったはずだけど」
「それはお互い様だろ、あれは全生徒に向けたものだ」
掴みどころのないその感情が見えないような表情に、返す言葉をなくしてしまう。こいつの言う通り、立ち入り禁止の札はオレにも向けられたものでもある。それはオレだって、じゅうぶんわかっていた。わかっているからこそ、オレは目線を逸らして肩を落とす。手にずっと持っていた『それ』を握り直して、息を深く吐く。
誰かがくるのは、少しだけ予想外だった。
けれどもこいつはオレにそれ以上踏み込もうとせず、ただじっとしばらくの間こちらを見ている。それが逆に、オレにとっては都合が良かった。
黙々と、目の前に広がる白い世界へ色を落としていく。感情と言葉をぶつけるように、見たくなかった世界を吐き出すように。
そんな時間が、しばらく過ぎた頃。
ただ静かにオレを見ていたそいつが、突然興味を示したように顔を上げてこちらを覗き込んできた。なぜだか、無表情の奥底に驚いているのが見てわかる。
「……それ、なに?」
「それって……あぁ、これの事?」
手に持ったのは、絵具だった。
目の前にあるのはついさっきまで白かったキャンバスで、けれどもそこは既に色という色が散りばめられている。手に持っていたそれ……絵筆は、根元に流しきれていない色が混ざりあっている。
「油絵具、オレここで絵を描いているから」
「それは見ればわかるけど……どうして、そんなに」
「そんなに?」
「……色が、綺麗なんだろうか」
「は……」
なにを言われているのか、わからなかった。
時間をたっぷり使って、考えても理解できない。だから小さく首を振りながら、オレは目を細める。
「……見ても面白くないだろ、油絵なんて」
「そんな事はない、すごく心が豊かになる気分だ」
ぴくりと、指先が跳ねた。
これを見て、どうやって心が豊かになるのか。
それを聞いていいのか、わからない。目は合わせないままで、オレは筆を止めてしまった。この冬のような存在が、つい気になったから。
対するそいつと言えば、まだオレの絵を見ているらしい。覗き込むように見ていると思えば、嬉しそうに笑う声が少しだけ聞こえた。
「あぁ、俺にはない色だから」
「ない、色……?」
色がないとは、どういう意味なのか。
オレの辞書にはないその言葉に、オレは顔を上げてしまう。白い、どこまでも白い冬のような彼と初めて視線がぶつかった気がする。
月のような、澄んだグレーアイ。
吸い込まれそうで溺れてしまいそうな感覚が、その瞳にはあった。けど、彼の色はそれだけだった。
「すごく、綺麗だと思う」
とても素直な言葉の並びがオレには見える。
なのにどうして彼の言葉に、色が見えないのだろうか。
「っ……」
はっと、息を飲んでしまう。
初めて見る感覚だった。いつもなら『目に見えた言葉に色も見える』はずなのに、こいつの言葉は真っ白に見えた。ただ綺麗と書かれた、白い文字だけ。なにが起きているのかわからず、目を丸くする。
「……お世辞はいいよ、なにも思ってないくせに」
自分でも、やけに棘のある言葉だったと思う。
けれどもそいつは気にしていないのか、その言葉に対して機嫌を損ねる事なく言葉を続けてくる。
あぁ、もしかしたらオレが気づかないだけで気分は害しているのかもしれない。それがわからないのは、ちょっとだけ調子が狂う。今まで見えていたものが、突然見えなくなった感覚だった。
「……違うんだ、思っていないわけじゃない。あぁけど、これがわかってしまうのか」
一人言葉を口の中で転がしたそいつは、突然なにかを思ったように顔を上げた。その月のような双眸は、じっとオレを見て離そうとしない。揺れて、オレを瞳の中に閉じ込めているようだった。
「お前、名前は」
「え、オレはっ、遥斗、三組の相川遥斗」
「遥斗、ハルト……いい名前だ」
そうやって褒めてくれた言葉にも、色はない。ただ白い、事実を並べたような言葉だ。それが、どうしてだろう。オレには、羨ましくも思えてしまう。
「なぁハルト、一つお願いがあるんだ」
冬のようなそいつは感情が見えない作り笑いを貼り付けて、けれどもどこか感情的な言葉を投げつけてくる。
きっかけは、理由はなんだったのだろうか。
「俺に、色を教えてくれないか?」
冬が、どこまでも白に愛された彼が、オレに手を伸ばしたのはどうしてなのだろうか。
味気なかった秋の空に、スポイト一滴の冷たさが落ちたように。息をするのすら忘れてしまいそうだった羊雲が、どこかに過ぎ去ってしまうように。
人気のない屋上、グラウンドの声すら届かないようなそこは、オレにとって小さな箱庭のはずだった。逃げるように作ったはずのその場所は、他でもないオレ以外の息遣いが存在しない空間だった。
そのはず、だったのに。
「あれ、もしかして先客がいたか?」
じっと、オレを見て離そうとしない視線がそこにはある。
そいつは本当に、冬が服を着ているようだった。
真っ白な髪も、日焼けを知らないと言わんばかりの肌も。同じ高等部一年生だとわかる深緑色のスリッパはそんな冬には不釣り合いで、存在を主張する。
冬がそこに、紛れもないオレの前に立っていた。
「……ここ、立ち入り禁止札かけてあったはずだけど」
「それはお互い様だろ、あれは全生徒に向けたものだ」
掴みどころのないその感情が見えないような表情に、返す言葉をなくしてしまう。こいつの言う通り、立ち入り禁止の札はオレにも向けられたものでもある。それはオレだって、じゅうぶんわかっていた。わかっているからこそ、オレは目線を逸らして肩を落とす。手にずっと持っていた『それ』を握り直して、息を深く吐く。
誰かがくるのは、少しだけ予想外だった。
けれどもこいつはオレにそれ以上踏み込もうとせず、ただじっとしばらくの間こちらを見ている。それが逆に、オレにとっては都合が良かった。
黙々と、目の前に広がる白い世界へ色を落としていく。感情と言葉をぶつけるように、見たくなかった世界を吐き出すように。
そんな時間が、しばらく過ぎた頃。
ただ静かにオレを見ていたそいつが、突然興味を示したように顔を上げてこちらを覗き込んできた。なぜだか、無表情の奥底に驚いているのが見てわかる。
「……それ、なに?」
「それって……あぁ、これの事?」
手に持ったのは、絵具だった。
目の前にあるのはついさっきまで白かったキャンバスで、けれどもそこは既に色という色が散りばめられている。手に持っていたそれ……絵筆は、根元に流しきれていない色が混ざりあっている。
「油絵具、オレここで絵を描いているから」
「それは見ればわかるけど……どうして、そんなに」
「そんなに?」
「……色が、綺麗なんだろうか」
「は……」
なにを言われているのか、わからなかった。
時間をたっぷり使って、考えても理解できない。だから小さく首を振りながら、オレは目を細める。
「……見ても面白くないだろ、油絵なんて」
「そんな事はない、すごく心が豊かになる気分だ」
ぴくりと、指先が跳ねた。
これを見て、どうやって心が豊かになるのか。
それを聞いていいのか、わからない。目は合わせないままで、オレは筆を止めてしまった。この冬のような存在が、つい気になったから。
対するそいつと言えば、まだオレの絵を見ているらしい。覗き込むように見ていると思えば、嬉しそうに笑う声が少しだけ聞こえた。
「あぁ、俺にはない色だから」
「ない、色……?」
色がないとは、どういう意味なのか。
オレの辞書にはないその言葉に、オレは顔を上げてしまう。白い、どこまでも白い冬のような彼と初めて視線がぶつかった気がする。
月のような、澄んだグレーアイ。
吸い込まれそうで溺れてしまいそうな感覚が、その瞳にはあった。けど、彼の色はそれだけだった。
「すごく、綺麗だと思う」
とても素直な言葉の並びがオレには見える。
なのにどうして彼の言葉に、色が見えないのだろうか。
「っ……」
はっと、息を飲んでしまう。
初めて見る感覚だった。いつもなら『目に見えた言葉に色も見える』はずなのに、こいつの言葉は真っ白に見えた。ただ綺麗と書かれた、白い文字だけ。なにが起きているのかわからず、目を丸くする。
「……お世辞はいいよ、なにも思ってないくせに」
自分でも、やけに棘のある言葉だったと思う。
けれどもそいつは気にしていないのか、その言葉に対して機嫌を損ねる事なく言葉を続けてくる。
あぁ、もしかしたらオレが気づかないだけで気分は害しているのかもしれない。それがわからないのは、ちょっとだけ調子が狂う。今まで見えていたものが、突然見えなくなった感覚だった。
「……違うんだ、思っていないわけじゃない。あぁけど、これがわかってしまうのか」
一人言葉を口の中で転がしたそいつは、突然なにかを思ったように顔を上げた。その月のような双眸は、じっとオレを見て離そうとしない。揺れて、オレを瞳の中に閉じ込めているようだった。
「お前、名前は」
「え、オレはっ、遥斗、三組の相川遥斗」
「遥斗、ハルト……いい名前だ」
そうやって褒めてくれた言葉にも、色はない。ただ白い、事実を並べたような言葉だ。それが、どうしてだろう。オレには、羨ましくも思えてしまう。
「なぁハルト、一つお願いがあるんだ」
冬のようなそいつは感情が見えない作り笑いを貼り付けて、けれどもどこか感情的な言葉を投げつけてくる。
きっかけは、理由はなんだったのだろうか。
「俺に、色を教えてくれないか?」
冬が、どこまでも白に愛された彼が、オレに手を伸ばしたのはどうしてなのだろうか。