冬がオレに手を差し伸べている。
 味気なかった秋の空に、スポイト一滴の冷たさが落ちたように。息をするのすら忘れてしまいそうだった羊雲が、どこかに過ぎ去ってしまうように。
 人気のない屋上、グラウンドの声すら届かないようなそこは、オレにとって小さな箱庭のはずだった。逃げるように作ったはずのその場所は、他でもないオレ以外の息遣いが存在しない空間だった。
 そのはず、だったのに。
「あれ、もしかして先客がいたか?」
 じっと、オレを見て離そうとしない視線がそこにはある。
 そいつは本当に、冬が服を着ているようだった。
 真っ白な髪も、日焼けを知らないと言わんばかりの肌も。同じ高等部一年生だとわかる深緑色のスリッパはそんな冬には不釣り合いで、存在を主張する。
 冬がそこに、紛れもないオレの前に立っていた。
「……ここ、立ち入り禁止札かけてあったはずだけど」
「それはお互い様だろ、あれは全生徒に向けたものだ」
 掴みどころのないその感情が見えないような表情に、返す言葉をなくしてしまう。こいつの言う通り、立ち入り禁止の札はオレにも向けられたものでもある。それはオレだって、じゅうぶんわかっていた。わかっているからこそ、オレは目線を逸らして肩を落とす。手にずっと持っていた『それ』を握り直して、息を深く吐く。
 誰かがくるのは、少しだけ予想外だった。
 けれどもこいつはオレにそれ以上踏み込もうとせず、ただじっとしばらくの間こちらを見ている。それが逆に、オレにとっては都合が良かった。
 黙々と、目の前に広がる白い世界へ色を落としていく。感情と言葉をぶつけるように、見たくなかった世界を吐き出すように。
 そんな時間が、しばらく過ぎた頃。
 ただ静かにオレを見ていたそいつが、突然興味を示したように顔を上げてこちらを覗き込んできた。なぜだか、無表情の奥底に驚いているのが見てわかる。
「……それ、なに?」
「それって……あぁ、これの事?」
 手に持ったのは、絵具だった。
 目の前にあるのはついさっきまで白かったキャンバスで、けれどもそこは既に色という色が散りばめられている。手に持っていたそれ……絵筆は、根元に流しきれていない色が混ざりあっている。
「油絵具、オレここで絵を描いているから」
「それは見ればわかるけど……どうして、そんなに」
「そんなに?」
「……色が、綺麗なんだろうか」
「は……」
 なにを言われているのか、わからなかった。
 時間をたっぷり使って、考えても理解できない。だから小さく首を振りながら、オレは目を細める。
「……見ても面白くないだろ、油絵なんて」
「そんな事はない、すごく心が豊かになる気分だ」
 ぴくりと、指先が跳ねた。
 これを見て、どうやって心が豊かになるのか。
 それを聞いていいのか、わからない。目は合わせないままで、オレは筆を止めてしまった。この冬のような存在が、つい気になったから。
 対するそいつと言えば、まだオレの絵を見ているらしい。覗き込むように見ていると思えば、嬉しそうに笑う声が少しだけ聞こえた。
「あぁ、俺にはない色だから」
「ない、色……?」
 色がないとは、どういう意味なのか。
 オレの辞書にはないその言葉に、オレは顔を上げてしまう。白い、どこまでも白い冬のような彼と初めて視線がぶつかった気がする。
 月のような、澄んだグレーアイ。
 吸い込まれそうで溺れてしまいそうな感覚が、その瞳にはあった。けど、彼の色はそれだけだった。
「すごく、綺麗だと思う」
 とても素直な言葉の並びがオレには見える。

 なのにどうして彼の言葉に、色が見えないのだろうか。

「っ……」
 はっと、息を飲んでしまう。
 初めて見る感覚だった。いつもなら『目に見えた言葉に色も見える』はずなのに、こいつの言葉は真っ白に見えた。ただ綺麗と書かれた、白い文字だけ。なにが起きているのかわからず、目を丸くする。
「……お世辞はいいよ、なにも思ってないくせに」
 自分でも、やけに棘のある言葉だったと思う。
 けれどもそいつは気にしていないのか、その言葉に対して機嫌を損ねる事なく言葉を続けてくる。
 あぁ、もしかしたらオレが気づかないだけで気分は害しているのかもしれない。それがわからないのは、ちょっとだけ調子が狂う。今まで見えていたものが、突然見えなくなった感覚だった。
「……違うんだ、思っていないわけじゃない。あぁけど、これがわかってしまうのか」
 一人言葉を口の中で転がしたそいつは、突然なにかを思ったように顔を上げた。その月のような双眸は、じっとオレを見て離そうとしない。揺れて、オレを瞳の中に閉じ込めているようだった。
「お前、名前は」
「え、オレはっ、遥斗、三組の相川遥斗」
「遥斗、ハルト……いい名前だ」
 そうやって褒めてくれた言葉にも、色はない。ただ白い、事実を並べたような言葉だ。それが、どうしてだろう。オレには、羨ましくも思えてしまう。
「なぁハルト、一つお願いがあるんだ」
 冬のようなそいつは感情が見えない作り笑いを貼り付けて、けれどもどこか感情的な言葉を投げつけてくる。
 きっかけは、理由はなんだったのだろうか。

「俺に、色を教えてくれないか?」

 冬が、どこまでも白に愛された彼が、オレに手を伸ばしたのはどうしてなのだろうか。

 ***

 それが人と違うと気づいたのは、もう幼稚園をとっくに卒業して小学校に上がってからの話だった。
 みんなが同じだと思っていた見えているものは、オレだけ違っていた。
 言葉は文字になって、色を付けていつだって俺の目の前に並んでいるのも。その色や言葉の形が感情によって大きく異なってくる事も。
 これが『共感覚』と呼ばれるものだと理解できたのはそこから更に高学年になってからの話で、それまでは気づく事すらなく嘘つきだと言われる事も少なくなかったのは記憶に新しい。
 オレにとっては、その程度の話だ。
 それなのに目の前のこいつは、冷たく白い文字とは裏腹に感情的に悲しそうな表情を顔に貼り付けている。
「そんな辛気臭い反応するなって、もう慣れた事だから」
「しかし、ハルトは嘘をついたわけじゃ」
「いいって……まだ会ってすぐのゆきやが、オレより傷ついてどうすんだよ」
 ゆきや、山城幸也。
 それがこいつの、冬が服を着た存在の名前らしい。
 腹の底でなにを考えているのかわからないこいつは、名乗りも早々にオレの横に座りながら話を聞いてくれていた。
「にしても、お前オレの話聞いて信じてくれんのか?」
「もちろんだ、ここで嘘を言ったところでハルトにはメリットがないからな」
「メリットって、お前なぁ」
 この少しの間でわかった話だが、どうやらこのゆきやと言う存在はかなり真面目な奴らしい。オレにはないその感覚が、見ていて少しだが面白いと思えた。
「それにハルト、俺としてはハルトが……ほんの少しだけ羨ましいと思えるんだ」
「羨ましい……?」
 突拍子もない言葉に、つい目を丸くした。
 羨ましいなんて、今の話でどうしてそう思ったのだろうか。
「だって俺は、ハルトとは真逆だから」
 ポツリと、少しだけ寂しそうにゆきやは言葉を零した。
「……俺、感情が読みにくいってよく言われるんだけど」
「あっ、それは……わかりにくくは、ないだろ」
 なんで今、隠しちゃったんだろうか。
 自分でも、わからなかった。
 ただ喉の奥につっかえた言葉は顔を出そうとせず、ただその場に居座っている。そんなオレを見て、なにかを察したのか。ゆきやは小さく首を横に振りながら、なにやら言葉を選んでいるようにまた笑っている。
「いやハルト、隠さなくていい……もしかしてだが、お前の目にオレの言葉は無感情に見えたんじゃないか?」
「っ……気づいていたのか」
「あぁ、俺の事は俺が一番わかっている……とても、嫌なくらいに」
 一呼吸だけ、なにかを考えるように開ける。
 それはとても短いものだったはずなのに、ずいぶんと長く感じた。時間が止まってしまったと錯覚するほどに、長い時間だった。
「ハルトの世界に色がたくさんあるように、俺の世界に色がないんだ」
「……色が、ない」
 正直、オレからすると考えられなかった。
 当たり前のように散りばめられたその存在が、どこにもないなんて。そんな事は、想像するのが難しい。
 けれどもゆきやの目を見ると嘘はついていない様子で、その悲しさの中にある真剣な表情に喉を鳴らした。
「色がないとは言っても、そこまで困った事はない。生まれた時からの事であって、そもそも気にした事があまりないから……ただその事が原因で、俺は感情もわからないんだ。真っ白な世界で、その色を見る喜びがわからない。感情を込める行為も、もう俺にはわからないから」
 だから、こいつの言葉は白かったのか。
 ようやく繋がった話に、オレはなるほど、と思わず言葉を落としてしまう。確かに、こいつは今まで見てきた言葉のなによりも白かった。何色にも染まっていない言葉と文字は、最初なにを見ているのかわからないくらいだったから。こんな事は、真っ白な文字を見るのは初めてだった。
 けど、それはオレだけじゃなかったらしい。
「本当に、初めてだったんだ」
 ゆきやは少しだけ意味深に、言葉を続ける。
「ハルトの描いた絵には、色があった。初めて見た、美しい色だった……だから思ったんだ、ハルトなら俺に色を教えてくれるんじゃないかと」
 悲痛にも聞こえる言葉に、なにかを言い返せるほどオレは器用じゃない。じっと、すがるようなゆきやをオレは見つめる事しかできない。
「どうだろうかハルト……俺に、色を見せてはくれないだろうか?」
 丁寧にお伺いを立てられて、そこまで言われて断られると思っているのか。
 こいつは面白いなと思いつつ言葉にはしないで、オレは少しだけわざとらしく肩を落とした。
「……いいだろうかもなにも、毎日放課後ここにお前もこればいいだろ」
 少し、つっけんどんな態度になったかもしれない。
 言葉を失敗したかもと一瞬後悔したがゆきやにはそこまで気にするものでもなかったらしく、あの乏しい表情筋を動かして嬉しそうにオレを見ていた。
「それは、いいのか……?」
「だめって言ってもくるだろ、どうせ」
 だから、きたければ勝手にこればいいのに。
 そんな程度で言った言葉だったけど、こいつはどう思ったのだろう。最初は驚いたような表情をしていたが、すぐに目を細めて嬉しそうにしていた。確かに感情は読みにくいって思うけど、オレにとってはじゅうぶん言いたい事は伝わってくる。
「ありがとうハルト、それではお言葉に甘えて明日から顔を出させてもらう」
「だから、固くならなくていいって」
「しかし、それくらいに俺は楽しみなんだ……色が見えるのが、とても楽しい」
「そんなにか……?」
「あぁ……とても、とても楽しみだ」
 噛み締めるように、ゆきやはまた言葉を落としている。

 ゆきやの笑った顔は、どんな色よりも綺麗だと思ったのに。
 けれどもそれを言うのは野暮な気がして、オレはそんなゆきやに笑う事しかできなかった。

 ***

 感情と色がわからない相手に色を教えるという行為に、意味はあるのだろうか。
 そんな不安を抱きながら迎えたオレだったけど、その不安は少し間違っていたらしい。
「……ゆきや、それでいいのかよ」
「あぁ、俺はハルトが絵を描いている姿を見せてもらえれば問題ない」
 昨日と同じように屋上へやってきたゆきやは、オレを見つけるなり少しだけ離れた場所に座りこちらを見ているだけだった。絵を描いている姿を見られるのはなんだか恥ずかしかったけど、これもオレが引き受けた事だ。文句は言っていられないと、普段通り置かれていた筆を手に取った。これでは、不安は不安でもオレが上手く描けるかの方が大きくなってしまっている。
「オレを見ても、面白い事はないからな」
「なにを、俺にはじゅうぶんすぎるくらいだ」
 パレットに置かれた色を混ぜて、ゆっくりとキャンバスへ乗せていく。掬った色はどれも鮮やかで、それに気づいたのかゆきやは興味津々に顔を覗かせていた。
「なんだか、昨日と色が違うように見えるけど」
「今日のは水彩だからな、昨日のは油絵」
 水面に色を落としていくように、筆先でキャンバスを撫でていく。あらかじめ下描きと水張りがされていたそれに乗せる色はどれも実物とは程遠いもので、けれども確かにオレの目で見たものだった。
 これが、オレの見ている世界だから。
 オレの知っている世界を、ただ乗せていく。それだけの行為をしばらくしていたところで、ふとゆきやがなにかを思ったのか顔を上げていた。
「ハルトは、いつもここで絵を描いているのか?」
「まぁな」
「美術部の個展とかが近いのか?」
「いや、オレ帰宅部だよ」
「帰宅部……なら、なぜこんなにも絵を」
「これが……オレの感情を吐き出す事ができる唯一の行為だからだ」
 これだけが、オレの逃げ道だから。
 最後の言葉は飲み込んで、また色を落としていく。
 目の前に広がるのは、間違いなくオレの見ている風景だ。けれどもそれはあくまでもオレの話であって、きっと他人の見えている色とは違う。オレだけが知っている、孤独な色。
「オレの色は、誰にも理解されないから」
 つい、自虐的に笑ってしまった。
 他の人がわからない色を、こいつがわかるはずない。
 こいつは真っ白な存在で、オレの色とは無縁だから。
 そのはずなのに、ゆきやは少しむっとした表情を貼り付けると、立ち上がりながらオレの方へゆっくりと近づいてきた。部活動の声すら届かない屋上で、オレの息遣いとゆきやの足音だけがやけに大きく聞こえた。
「けど俺は、そうは思わない」
 はっきり、言い切るように。オレの絵を見ながら、ゆきやはなぜだか嬉しそうに目を細めていた。
「俺は綺麗だと思うけどな、ハルトの色」
 そんな、思ってもいないだろう事を。
 ゆきやの方へ目を向けると案の定その言葉に色はなくて、油絵具を乗せる前のキャンバスにも似ていた。まっさらで、綺麗で眩しくて。なにものにも染まっていないその空間が、オレにはなぜだか羨ましいと思えてしまう。羨ましいなんてそんな、こいつに会うまで考えた事もなかったのに。
「お前、思ってもないだろ」
「いや……多分、ちゃんと思っている」
「なんでそんなに曖昧なんだよ」
 面白くて、つい頬が緩んだ。なんだよそれ、変な奴。
「自分でもわからなかったんだ……けど、恐らく思っている。こんなにも心が穏やかになる事は、今までなかったから」
「心が穏やかなのかオレにはわからないけど……まぁ、それならよかった」
 オレもそんな事を言われたのは初めてだから。
 どこか恥ずかしいとすら思えて、けど言葉にはせず目線を落とした。使い古したパレットにはたくさんの色が混じりあっていて、一人で重ねていた色達が散らばっている。
「……なぁゆきや。オレが、嘘つきって言われてた話は昨日したよな」
「……あぁ」
「だかっ、辛気臭い顔するなって……まぁその時にさ、本当にきっかけなんだけど絵で表現したんだ。オレが見てるのはこんな世界って……まぁ結局小学生になるまで信じてはもらえなかったけど、それからだな。自分の見ている世界を唯一共有できる方法は絵なんだって、そう思ったのは」
 だからオレは、部活とかではなく一人で絵を描いている。
 誰のためでもない、ただオレという存在を証明するためにする行為。繰り返してきたはずの形は、これから先も続いていくはずだ。
「これはオレにとって、ただの手段にすぎなかった。この悲しさと孤独を吐き出す、理解されない世界を形にする行為……ただそれだけだったけど、お前に綺麗って言われるとまぁやってて悪くなったって思えるんだ」
 証明の手段だった絵に、誰かに見られるという行為が増えた。言葉にすれば、ただそれだけの話なのかもしれない。けれどもオレにとってそれは大きなきっかけで、少しだけ浮き足立っている自覚もある。
 オレの世界は、綺麗なのか。
 オレの見ているものは、間違っていないのか。
 誰かの言葉で、それが肯定されている気分だった。他でもない、ゆきやの言葉で。
「……ゆきやは、なんで屋上にきたんだ?」
 もし昨日、ゆきやがここにこなければ。
 きっとオレは、ずっと無意味に絵を描き続けていただけかもしれない。そう思うとゆきやがここにきた理由を知りたくて、ついそんな言葉を投げつける。
「んー……もしかしたら、ハルトと同じだったのかもしれない」
「オレと?」
 なんだよ、それ。
「逃げたかったんだ、この真っ白な世界から」
「っ……」
 真っ白な、世界。
 それは一体、どんな物なのだろうか。
 言葉の色も、感情もない。ゆきやにオレの世界が想像できないように、オレだってゆきやの世界を知る方法はない。ただきっと、キャンバスのような白い世界なんだろうなって、そんな簡単な事しかオレには想像できなかった。
「あぁけど、この屋上で俺はちゃんと逃げる事ができた」
 深刻に考えはじめてしまったオレとは真逆で、ゆきやの声はどこか弾んでいる。
「立ち入り禁止札の向こうには、色があったから……俺の知らない色が乗せられたキャンバスと、ハルトがそこにいた……だからハルト、俺に色を教えてくれてありがとう」
「……役に立ったなら、まぁいいけど」
 お礼を言いたいのは、オレの方なのに。
 この行為に意味をつくってくれて、オレを見つけてくれてありがとうと。
 誰にも気づかれず逃げ込んでいた屋上でオレを見つけてくれて、ありがとうと。
 気恥ずかしくて言葉にできないそれらは飲み込んで、目の前の堅物真面目に笑ってやる。
「……じゃあ、オレちょっと気分がいいからリクエスト聞くぞ。何色がみたい?」
「いいのか? じゃあ、そうだな……春が見たい」
「春……?」
「あぁ、春だ。ハルトの見る春が、俺は見たい」
「お前、一応言っとくけど秋だぞ今」
「わかっている……だから、春が近づいてからでいい。春は暖かい色だと、昔聞いた事がある。そんな春の色を、俺は見たい」
 また難しく抽象的な事を言うと、そう思った。
 けど、聞いてやったのはオレだ。それに、こいつにいろんな景色を見せてやりたいとは思っているから。
「……わかった、ちょっと時間くれ。必ず描く、約束だ」
「あぁ、ありがとうハルト」

 白い文字に、ゆきやのキャンバスに少しだけ桃色が落とされたような気がした。
 本当に、ちょっとだけそんな気がした。
 雪に春が落ちたように、そう思えた。

 ***

「ゆきやって、そういえば何組だよ」
 そんな日が何日か続いた頃の休憩、ふとオレは売店で買った炭酸飲料を片手にそんな事を聞いた。
「俺……?」
「他に誰がいるんだよ、そもそもここにくるのはオレ達くらいだろ」
「まぁ確かに、それはそうだな」
 オレの横でお茶を喉へ流し込んだゆきやは、なにかをごまかすように目を伏せていた。これも、ここ最近見てわかるようになった挙動だ。
「うーん、何組だろうね」
「おい、ごまかすな」
 放課後を一緒に過ごすようになって、ゆきやの事は色々わかってきたつもりだ。
 たとえば、スナック菓子はあまり好きじゃない事。
 たとえば、運動音痴だけど頭がいいって事。
 たとえば、真面目と言うよりは感情が薄く色を知らないから言葉に裏がないってだけの事。
 たとえば、本人は気づいていないけど無意識に優しい笑みを向けてくる事も。
 この屋上で、どれも知った事だ。
「そうだな、俺は一年生だ」
「それは知ってんだよ、スリッパの色同じだろ」
「ははっ、確かにそうだね。ちなみにハルトの隣のクラスだ、一年二組」
「えっ、廊下で会った事ないけど」
「あまり教室には行かないからな」
「それってなんで、あっ……」
 ちょっとだけ、わかってしまった気がする。
 冬が服を着たこいつは、嫌でも目立つ。
 それはきっと、いい意味でも悪い意味でも。
 オレだって、最初会った時は驚いたし人間の目はすべてが好意的になるわけではない。もしそれが理由なのならと考えると、胸が鷲掴みにされたような息苦しさがオレにはあった。
 言葉にせずそんな事を考えていたはずなのに、ゆきやは首をこてんとかしげたと思えばハルト、とオレの事を呼ぶ。
「多分、ハルトの考えている事は半分正解」
「……そんなにオレ、顔に出てたか?」
「だいぶん、けど半分は不正解」
 表情は変わらなくても、なんだか楽しそうなのはわかる。多分だけどこいつは、感情を知らないのではない。感情がただ、少しだけわからなくなっているだけだ。
「元々俺はあまり運動とかが得意ではない……加えて色素が薄い事が相まって身体も弱いから、よく保健室にいるんだ。そちらの方が、変な目で見られないからな。それにあそこは、元々白い。色を羨ましくならないから好都合だ」
 淡々と話すゆきやは、まるで他人事のようだ。自分の事なのになにを言っているのだと思ったが、本当に本人からすればそれだけの話らしい。
「……けど、屋上にはきたんだな」
 つい、からかうように言葉を投げた。
 それにゆきやは少しだけ指先を揺らすと、すぐに強く頷く。
「あぁ、言ったはずだ……俺は、白い世界から逃げたかったと。逃げて、逃げた先にハルトの色に出会えた」
「っ……」
 ちょっとだけ、ほんの少しだけ。
 ここ最近だがこいつの感情が、よく目に見えるような気がした。
 本人に聞いてもそこまで気にしていないようで、としかしたらオレの勘違いなのかもしれない。それとも、こいつが気づいていないだけか。
 どちらにせよ目に見えてわかるようになったこいつの表情は見ていて面白く、つい時間を忘れて見てしまう事が増えたと思う。
「……ルト、ハルト?」
「え、あ、なにっ」
「なにって、ハルトが話を振ったんだろ、俺は何組だって」
「あ、えっと……そうだった、な」
 柔らかく春のような笑った顔と言葉達から見えるのは桃色と黄色で、心地よかった。混ざりあっていない、純粋な色。まだ薄いそれはあのキャンバスのように真っ白だった文字に、水張りした一面に水彩を落としたように広がっている。鮮やかに、こいつの感情を表すように柔らかく広がっていく。
「っ……」
 綺麗だなんて、ついそう思った。
 ゆきやはオレの描く世界を綺麗だなんて言ったけど、それはお互い様だと思っている。それどころか、オレの見ている世界よりゆきやの世界は美しい。どれも最初とは違う、ここにきてから変わったゆきや自身の感情達。
 これに本人が気づくのは、いつになるのだろうか。
「……そうだ、それがいい」
「ハルト?」
 顔を上げたオレを不思議そうに見るゆきやに、ずいと顔を近づける。
「ゆきや、この前のリクエスト、春の絵。多分すぐ描けるかもしれねぇ」
「それは、本当か……?」
「あぁ、もちろんだ」
 自分でも、ずいぶんと声が弾んでいる自覚はあった。
 ゆきやも同じで、乏しい表情筋は嬉しそうだとわかった。
「ならその絵を、俺は楽しみにしている」
「あぁ、もちろんだ」
 描くと言った以上、半端なものは描きたくないから。
 空になったペットボトルを捨てに行くゆきやの背中を眺めながら、気合を入れるように頬を軽く叩いた。
「……なんか、ゆきやの奴」
 初めて会った時よりも、ずいぶんと感情がわかりやすくなったと思う。
 本人はまだ自覚がないらしくても、横で見ているオレがそう思うんだ。こいつに色を教えるたびに、あの白い言葉のキャンバスは感情を覚えているように見えた。
 オレが悲しい色の絵を描いた時は、少しだけ嫌そうな顔をしていた。
 オレが好きな食べ物をテーマに描いた時は、言葉や顔には出ていなくてもなんだかそわそわしているように見えた。
 オレが花火の絵を描いた時は、驚いたように目を見開いていた。
 こいつの知らなかった世界が、オレの描いた絵で色になっていく。あの冬のような存在が、少しずつ雪解けをしているように思えた。
「あとは、どんな色を……」
 そこでふと、言葉が詰まってしまう。
 ある事に、とんでもない過ちに気づいてしまったから。
 こいつは、そもそも色を知らない。オレのキャンバスだけに広がる色が認識できて、これが今時点でこいつに取って唯一の色だった。なのに、それなのにオレは。オレの見ている色ばかりをこいつに教えている。この共感覚で目に写った世界だけを、こいつに見せてしまっている。それはつまり、ゆきやが本物の色を知らない事に繋がってしまう。
 はたして、その色がゆきやの見たかった色なのだろうか。オレの色を見せて、それはただオレの自己満足になっているのではないだろうか。
「……これで、オレは」
 これで、本当にいいのか?
 オレがこいつに……こんなにも真っ白な存在に、色をつけて本当にいいのか?
 突然押し寄せた不安の答えは誰も教えてくれず、ただ蒼い空に吸い込まれていくだけだ。

 ***

 スランプ、という言葉が一番正しいのだろうか。
 春を表現するのは、こんなにも難しかったのか。
 言葉にできない感情に掻き回されて、オレは深く息を吐いた。
 筆を握って、じっとキャンバスを見つめる。真っ白なそれはゆきやの言葉のようで、なぜだか躊躇をしている自分がいた。今までなかった感情に、他でもないオレが驚いている。
 誰かをなんて、考えた事もなかった。
 だって、この世界はオレだけが見えている色だから。それをただ絵にしているだけで、誰かの影響になるなんて思った事もない。そのはずなのに、言葉は出てこなくてなにも思いつかない。
 原因がわからない中で、オレはまた目を伏せてしまう。
「ハルト? どうしたんだ?」
「あぁえっと、いや、少し悩んだというか」
 心配そうにオレを見るゆきやにごまかすように笑うと、ゆきやはふうん、と言うだけでそれ以上は聞いてこなかった。相変わらず腹の底はなにを考えているのかいまいちわからない。
「……春の、絵」
 春は、どんな色だっただろうか。
 それはわかっているはずなのに、筆へ色を乗せる事をためらってしまう。白を汚してしまうような、そんな気がしたから。そんな事、いつもと同じはずなのに。
「ところでハルト、今回の下描きはどんな」
「うわ、だめまだ見るな!」
 覗き込んでこようとするゆきやから逃げるように、キャンバスを咄嗟に手で隠した。
「だめなのか」
「えっと、その、ちゃんと描いたら見せるからもう少し待ってくれ!」
 少し声が上ずった気がしたけど、そんな事を気にしている余裕はない。
 ついわざとらしく隠してしまったけど、ゆきやは気にしていないらしい。少しだけ首はかしげていたけど、すぐに興味をなくしたようにそうか、とだけ小さく呟いていた。
 どうしよう、今までは感情のままに色を乗せる事ができていたのに、それができない。理由がわからなくて、ぐるぐると頭の中で意味を持たない言葉や思考が回っていくだけだ。
「……冬が終わったら、春がくる」
 白い世界を溶かした先に、春がくる。
 それはひどく喜ばしい事なのに、どうしてこうも苦しいのだろうか。
 なにかを汚してしまうような言葉にできない感覚に、顔をしかめる。
「……ハルト、体調でも悪いのか」
「ちがっ……ちょっと、描きたい構図が多くて。だって春だし」
「そうか……春というのは、そんなにも鮮やかなのか」
 なら楽しみだなと笑ったその言葉が、余計に胸を締め付けてきた。
 この世界を見せて、ゆきやはどう思うのだろう。
 元々感情や色を知りたいと言っていたこいつにとって、なにかを感じるのはきっと喜ばしい事なのかもしれない。けどそれで、オレがこの白い言葉を汚してしまうような事になったら。もう白に戻せないそれに、オレはどうやって責任を取るのだろうか。
 考えれば考えるほど浅くなる呼吸の中で、オレはとうとう持ち上げていた筆を下ろしてしまう。
「……なぁゆきや、ちゃんと描くからやっぱり少し時間をくれないか?」
「あぁもちろん……とても楽しみにしている」
 疑う事のない、真っ白な純粋な言葉が目の前に浮かんでいる。
 それを見てしまうとチクリと、また胸が痛んだ。
 気づかれないように笑顔を取り繕いながら、小さく頷く。けどごめんな、ゆきや。

 嘘だよ、嘘なんだ。
 本当はもう、なにを描くべきなのかわかっている。
 わかっているはずなのに、この筆を進める事ができない。
 情けないなと、自虐的に笑う事しかできないオレがひどく惨めでしかないんだ。

 ***

「ハルト、最近俺の事避けている?」
 あからさまなくらい、肩が揺れてしまった。
 なにを言われているのかとブリキのおもちゃよろしく首をゆきやの方へ向けると、あの無表情が珍しく不服そうな顔を貼り付けている。どこかわざとらしい顔だなとは思ったけど、多分こいつなりでオレに伝えようとしているんだと思う。
「別に、避けてないだろ」
 放課後の、人気がなくなった廊下。
 偶然顔を合わせたオレに、ゆきやは視線が合うなりずかずかと近づいてきた。
 月の双眸がじっとオレを見ていて、身体が思うように動かない。
「だってほら、屋上だって一緒に行くし」
「一緒に行っても、目が合わないのはなぜだ」
「オレだって、絵に集中しているし」
「最近筆の進みがよくないのは知っている」
「っ……その、ちょっと考えているというか」
「あれだけ感情に乗せて絵を描くハルトからは、想像しにくい言葉だ」
 こいつ、オレの事をよく見ている。
 ここまできてしまうと一周回って恥ずかしいと思ってしまうけど、そんな事も言っていられない。なんとかごまかそうと言葉を選んでも、それをゆきやは遮るように言葉を続けてきた。
「なにかもし、俺がハルトの気分を害するような行為をしたならば謝りたい……」
「ちげっ、そんなんじゃないって」
「なら、どうして避けるんだ」
 鋭い、裏のないまっすぐな言葉だった。
 けど、言えるわけがないだろう。この絵を描く行為が、もしかしたらお前の白さを汚すかもしれないって。それをなぜか躊躇っているオレがいるなんて、他でもないお前に言えるわけがない。
 なんとか言葉を絞り出そうとしても、上手い返しが見つからない。きっといつものオレなら適当にはぐらかす事ができるのに、それすらもできなかった。情けないくらいに、自分の眉が垂れ下がっているのがわかる。
「いや、オレは本当に……わ、わりっ、先行く!」
 若干無理やりだったとはわかりつつ、ゆきやの手を振りほどく。そのまま無我夢中で背中を向けて、オレはよそ見する事なく廊下を走り出した。
「ハルトっ!」
 遠くで、ゆきやの声が聞こえる。
 あぁ、やってしまった。拒絶をしてしまった。
 それがどんな意味なのか、オレだってわかっている。先に行くなんて言ったけど、もう二度ときてくれないのかもしれない。そんな不安を抱えながらも、オレは走る事しかできなかった。すべてから、逃げている気分だった。
 廊下の途中、階段を上がりながら浅い呼吸を繰り返す。
 衝動的に逃げたはずなのに、足は迷う事なく進んで行く。だってそこが、オレの逃げ場所だから。この色と言葉と形で溢れかえった世界からの、唯一の逃げ場所。
 立ち入り禁止のウェルカムボードを軽々と飛び越えて、ドアを強く開ける。横に隠すように置いてある用具に手をかけて、深く息を吐いた。あれから、下描きまではなんとか終わらせた。けれどもそこへ色を乗せる行為はやはり怖いと思えてしまい、上手く筆を持つ事ができない。
 情けなくて惨めで、けれどもなぜだか安心感がある。
 あいつを汚さなくていいんだと、そう思っているオレがいる。
「……あぁそうか」
 わかってしまった。
「オレは、そうか」
 オレはきっと、怖かったんだ。
 ゆきやがゆきやの色ではなくなってしまう気がして、オレの色になってしまう気がして。
 あの誰も足を踏み入れていない雪のような存在を自分で汚す行為が、きっとたまらなく怖かったんだ。
「……とは言っても、あいつもさすがに、ここにはもう」
「ハルト」
「っ……」
 ここにはもう、こないだろう。
 そんな言葉は、ものの数秒で消えてしまう。だってその声は、今まさに考えていた存在のものだったから。
「やはりここにいたか、ハルト」
「ゆき、や」
 慌てた様子で顔を出したゆきやは、肩で息をしながらも嬉しそうにオレを見ている。
「お前、そんな運動得意じゃないって」
「得意ではなくても走る事はできる……ハルトほど、体力があるわけじゃないがな」
 申し訳なさそうに笑った顔を見て、また胸が締め付けられる感覚があった。オレのせいで、こいつを走らせてしまった。
「ハルト、なぜさっきはあんな……ん?」
 なにかに気づいた様子で、ゆきやはこちらを覗き込んでくる。それがなにをしているのか、今のオレにはすぐに理解できなかった。できなくて、反応に遅れてしまう。
「下描き、できていたのか」
「あ、いやそれは、おいゆきや!」
「見てもいいだろ、俺のリクエスト、だし……」
 驚いたような仕草をしたゆきやは、すぐに頬を緩ませて嬉しそうにこちらを見る。
「これは、俺なのか? ……すごい、そっくりだ!」
「そりゃ、お前をモデルにしたわけだし……」
 オレにとっての今近くにある春は、紛れもないゆきやだと思った。
 だからと描いた下描きまではよかったが、そこから先塗るかと言われればオレの中で話は別だった。
「しかしなぜ、ここまで描き込まれているなら色塗りを」
「……わかんねぇんだよ、もう」
「……わからない?」
 恐る恐る落とした、小さい言葉。
 それを聞き逃さなかったゆきやは、言葉の意味が理解できないと言いたげにオウムのような復唱をしてきた。けど、この感情を誰よりも今理解したいのはオレの方だ。
「お前に色を教えてやるって、最初はそんな感覚だった……けど、ゆきやと過ごしているとわからなくなったんだ。色を教えるだって思っていたオレの中に、お前に色を教えるのが怖いと思っているオレもいるんだ」
 もうここまでくると、暴露以外の何物でもない。
 堰き止めていた言葉は波のように溢れていて、頭は止めろと叫んでいるのに心を押さえつける方法はどこにもなかった。
「お前はこんなに白くて綺麗で、言葉だって裏がない……裏がないと言うよりは、感情の関係で裏を知らないだけかもだけど。それでも、それがオレにはわからなくて、怖いんだ……」
「怖い?」
「何色も知らない存在に、初めて色を乗せる。その行為が、どんなものなのか」
 もう戻せないのは、オレが一番よくわかっている。
 オレの手にいるパレットは、どれももう白を忘れてしまっている。一度染まった色は、洗っても落ちる事がない。最初からその色だったと言いたげに、その場所にずっと居座り続けるんだ。
 オレはそれを、他でもないゆきやにやろうとしている。
 その事に気づいてしまった時、思ったのは純粋な恐怖だった。
 この色を、嘘つきと言われた色達をゆきやに乗せていく。色を知らない純粋無垢な白色に、オレだけの色が乗せられてしまう。それがどうなるのか、ゆきやはわかっているのだろうか。
「ハルト……」
「オレが見ているのは、結局誰にも共有できないんだ。絵にしたところで、嘘つきって呼ばれたり誰かの色を塗りつぶしちまう……なら、それならいっその事、オレの中で消してしまう方がいいんだ」
「それは、それだけはだめだ……こんな綺麗な世界を」
「勘違いだろ、お前にとって初めての色がこれだから、きっとそう見えるだけで」
「俺が、綺麗だと思ったんだ」
 はっきりと言葉を投げつけてきたゆきやに、迷いはなかった。どこまでもまっすぐで、裏がなくて。オレなんかよりも芯の通った声で、淀みなく言われる。これじゃ、返す言葉が見つからない。
 どう言い返すべきなのか、どう言えばいいのか。
 ぐるぐる回っていく言葉はどれもせいかいじゃなくて、不自然なくらい言葉に間が空いてしまった。
 多分、ゆきやもそれに気づいたのだろう。
 感情はわからなくても、ここでの言葉選びをこいつはわかっているから。ハルト、とゆきやの呼ぶ声が鼓膜を揺らす。
「いいんだ、それで」
 ゆきやの言葉はいつもと同じはずなのに、どこか暖かかった。
「それは、他でもない俺の望んだ話だ。今まで色を知らなかった俺が、ハルトのキャンバス越しに色を見る事ができた……それならば、俺にとっての色は紛れもなくハルトだ。だから、俺がハルトの色を見たいと思っている」
「……けど」
「けどではない、のだが……案外ハルトは、頑固なんだな」
 少しだけ、わざとらしく考える仕草。
 ううん、と小さく唸ったと思えば、声とは裏腹に無感情は表情で首をかしげていた。
「あぁ、そうだ」
「そうだって、なにが」
「わかった、じゃあ俺からお願いって形にするのはどうだ」
「……?」
 いまいち、言いたい事がピンとこない。
 けど、ピンとこなくても嫌な予感はしていた。だってゆきやの表情が、それを物語っているから。感情がわからなくても、色がわからなくてもこいつを見ていれば考えている事はわかってしまう。やめろ、やめてくれ。それを言わないでくれ。
 何度願っても、言葉にならない。まるで、オレが求めているようで。
「ハルト、俺を色で染めてくれ」
 少しだけぎこちなく笑ったそれは、きっとこいつがオレといた中で導き出した一番の表情だろう。笑顔とそれから、どこまでも優しく残酷な言葉。
 優しくて獰猛な、呪いの言葉だと思った。
「……なに言ってるか、わかってんのか」
「あぁ、もし色がわかる日がきたとしても……それは、その時だ。けれどもハルトの色は、ハルトからしか教えてもらえない。ならば、オレにその色を全部教えてくれ。だって俺は、何色も知らない存在なのだろ?」
「おまっ……言う事言うよな」
 感情がわからないからこそ、ストレートに言う方法しか知らないのかもしれない。
 けど、ここまで言われてはオレだってどうにかできるわけじゃない。オレに頑固なんて言ったけど、本当の頑固者は引き下がらなかったゆきやの方だ。
「……オレさ、多分ゆきやが羨ましかったんだ」
 だから、そんな言葉にほんの少しの恨みを込める。オレを呪ったように、オレだってゆきやの事を呪ってやる。
「何色にも染まっていない言葉を持ったゆきやが、羨ましかった」
「それは」
「ゆきやがそれで悩んでいるのは知っている……けどさ、一度色がついたらこういうのって、なかなか取れないんだよ」
 言葉だって絵具だって、どちらも同じだ。
 色がついたら、それはけっして落ちる事がない。
 一度言われた言葉は、心から落ちる事がない。
 感情も色も、根本にあるものは結局一緒なんだ。
「この言葉や色で、オレはこれからお前という存在を書き換えて殺すかもしれない……けどそれがお前の望んだ事なら、それは共犯だ」
 言い聞かせるように、言葉を選んだ。だって、全部本当だから。今からオレは、お前を殺す。手を差し伸べてくれた冬を、オレの色で殺してしまう。それをいいんだと言うのなら、それはゆきやだって共犯だ。
「だからこれは、最終通告だ……本当に、いいんだな」
 確かめるように、呪うように言葉を繰り返す。
「これでも本当に、色を教えてもいいのか?」
「なんだよ、いまさらだな……この白を、ハルトに殺してほしい」
 あまりにも熱烈で強烈で、物騒な誘い文句だ。
「俺は、ハルトに色を教えてほしいんだ。あの綺麗な世界を見ているハルトと、同じ世界を見たい……理由はそれだけじゃ、足りないだろうか?」
「お前、本当にさぁ……」
 よくそんな、かっこつけた事を言えるよな。
 ふざけて笑いながらも、それ以上胸を締め付けられる感覚はなかった。むしろ軽くて、今ならなんだって描けそうな気がする。
 落ち着くために呼吸を整えて、少しだけ目を伏せる。そのままもう一度瞼を持ち上げて、俺はキャンパスとイーゼルを並べ椅子を二つ引っ張り出す。
「ゆきや、そこ座って」
「俺が、なのか?」
「当然だろ、春を教えてやるんだから」
 キャンバスを挟んで、向い合うようにゆきやを座らせた。
「春の色、知りたいんだろ?」
「……あぁ、もちろん。ハルトが見ている、春の色を俺は知りたい」
 やけに強調するように言った言葉が、少し面白かった。
 そんなゆきやに笑いかけて、オレは絵筆を握りしめる。
「よし、とびっきりの春を見せてやるよ」
「じゃあ、未来の巨匠に全部お任せしよう」
「あぁ、任せろ!」
 ちょっとだけ買いかぶった言い方に笑い返して、絵具をキャンバスへ乗せていく。
 白だった世界が、少しずつ色をまとう。オレの見ている世界と同じ、鮮やかな世界を。
 なんだか、雪の上を歩いている時に似た気分だった。まだ誰も足を踏み入れていない、白い銀世界。
 オレ達の知っている雪よりも軽いそれは、一歩踏む事に足跡を残していく。オレが白いキャンバスに絵を描くように、一度踏んだら消えない足跡。
 そう考えれば、このキャンバスだって冬だ。
 ゆきやと同じ、なにも知らない純粋な冬。
「今からオレ、冬に色を付けるんだ」
「冬……俺のリクエストは春だが」
「あぁいいんだって細かい事は、そこで待ってろ」
 そうだ、こいつは冬だ。
 なにも混じる事のない、白く世界を知らない冬。この冬が溶けた先にある春の色はなんだろうと、そう考えてしまう。
 けどもしかしたらオレは、もう見ているのかもしれない。
 真っ白な言葉の文字に見える薄い色は、きっとこいつの感情達だから。
 なら、汚すなんて言葉ではない。オレがこの白色を溶かしてしまうのだと。そう考えると見方は自然と変わる気がした。
「……ハルト」
「なんだよ、今集中してるからあとで」
「俺に色を付けてくれて、ありがとう」
「っ……」
 こいつはこれから先も、オレに何度も感謝をするんだろう。
 けどそれはちょっとだけ違うんだと、オレは思っている。
「……だって、救ってくれたのはお前だろ」
 冬の先に、春はあるから。
 それは冬を消してしまう悲しい事だけど、きっと冷たい世界はいつか溶けるから。
 あの日、一人で屋上にいた時。
 オレに手を差し伸べて孤独を溶かしてくれたのは、間違いなく目の前の冬だった。
 服を着た冬は、今日も暖かな目でオレを見ている。
 この白さをいつか殺してしまうのも、もしかすると悪くないのかもしれない。その時こいつの言葉は何色になるのか、どんな形が見えるのか。
 そんな近い未来に思いを馳せながら、またオレはキャンバスへ絵具を乗せた。
 
 もうすぐ冬だ、羊雲が過ぎ去った後の、冷たい冬。
 そんな冬は、ひどく寒いはずなのに暖かいと思えてしまう。
 二人だけの世界で、誰も邪魔しない音と言葉から切り離された屋上で。
 あの時手を差し伸べてきた冬は無感情のまま、けれども嬉しそうにしながら春に殺されるのを待っていた。

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