死ねなかった。深く切れば死ねると思ったけれど、躊躇ってしまった。永遠に来なければいいのにと思っていた明日が来てしまった。
 どうせ逃げられない。これからも戦い続けるしかない。でも、一人じゃ戦えない。林間学校を戦い抜くための心の支えがほしい。取り戻さなきゃいけない。机の中に広げた全財産を、財布の中に突っ込んだ。

 朝一で透にぃの教室を訪れて、頭を下げる。開口一番に切り出した。
「透にぃ、一生のお願い。明日絶対返すから三百円貸して」
「いいけど、なんで?」
 大丈夫。ちゃんと理由は考えてきた。
「ノート切らしてるの忘れてたから」
「どの教科?」
 ドキッとする。何で今日に限ってそんなに突っ込むの。咄嗟に思いついた教科を言った。
「えっと、英語」
「何時間目?」
 間違えた。やり直したい。今日英語の授業はない。でも、透にぃが俺の時間割まで完璧に覚えているとも思えない。
「3時間目だから、今のうちに借りたいかなって」
 3時間目の国語は自習だ。教科書を取りに来る必要がないから帳尻は合う。
「潤くんのクラスって英語誰だっけ」
 この質問は正直に答えて大丈夫だ。
「吉村先生! ノート提出あるからちゃんとノート取らないといけなくてさ」
「……そっか。分かった」
 透にぃは自分の財布から百円玉を三枚取り出すと手渡ししてくれた。明日返すあて
があるとはいえ、透にぃからお金を騙し取ることに酷く罪悪感を覚えた。
 大丈夫。バレていない。うまくやれば、ちゃんと明日からも友達でいられる。

 昼休み、ご飯がないことを不審に思われないように言い訳をする。
「さっき早弁したんだ」 
 ご飯代があったとしても、どうせ食事なんて喉を通らない。
「そう……。ところで、今日の放課後、うち来る? この間話したと思うけど、ゲーム買ったから」
 透にぃが誘ってくれた。嬉しいはずなのに喜べない。何でよりにもよって今日なんだろう。
「ごめん、今日用事あって」
「そっか」
 透にぃはそう呟くと、預けていた俺の鞄を掴んで立ち上がる。
「ちょっと、来てくれる?」
 心なしか透にぃの声が低く聞こえた。

 連れていかれたのは更衣室だった。透にぃが鍵を閉める。不穏な空気を感じたけれど、大丈夫。完璧にごまかせているはずだ。
「購買のノート、いくらだった?」
 透にぃの質問に頭が真っ白になった。
「百十円だから三百円もいらないんだよ」
 俺が答えられずにいると、透にぃが答えを言う。どうしよう。大丈夫、二冊買ったって言えば……。
「英語のノート勝手に見ちゃった。ごめんね。ページ、結構余ってたね」
 どうしよう全部見破られている。
「3時間目、僕のクラスが吉村先生の英語なんだ。何で嘘ついたの?」
 透にぃの顔が見られない、絶対に怒っている。
「お金入れる時にもお財布の中身見えちゃった。お札いっぱい入ってたよね」
「ごめんなさい! お願い、嫌いにならないで!」
 最低だ。この世で一番裏切ってはいけない人に対して詐欺を働いた。こんなだからいじめられるんだろうな。先生も俺が悪いって言ってた気がする。
 苦しい。息が出来ない。このまま死ねたらいいのに。そしたら、もう苦しまなくて済むのに。
「いつから?」
「何が?」
「お金、取られてるよね?」
 何で分かるの。何で断定口調なの。もう頭の中がぐちゃぐちゃになった。泣くしかできなかった。
「ごめんね、僕の言い方怖かったよね。怒ってないよ。今日暑いのにカーディガン着てるし、様子変だったから心配でつい、強い言い方しちゃった」
 違う。絶対に透にぃは悪くない。必死で息を整えて全てを話す。
「リストバンド取られた……大切にするって言ったのに、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ、潤くんは何も悪くないからね」
 頭を撫でられる。初めて会った日と同じハンカチで涙を拭いてくれた。優しい、こんな優しい人を心配させて、何をしていたんだろう。無理矢理口角をあげて、大丈夫だと言い張る。大丈夫、今日自分で何とかする。
「でも、大丈夫だから。二万円払ったら返すって言われたから。だから、今日放課後家まで来いって言われてて、だから、今日ちゃんと返ってくるから。あと、透にぃに借りたお金も明日のお昼代で返せるからさ」
「馬鹿! 何考えてんの!」
 透にぃが初めて声を荒げた。
「敵の本拠地に行くなんて自殺行為だよ。もっと自分を大切にしなよ」
 分かってる。お金を払うだけで済むわけがない。でも、そこに行かないと返してもらえない。
「二万円払ったら、本当に返してもらえると思ってる? 絶対エスカレートするよ。次は五万、その次は十万って」
 ぐうの音も出ないほどの正論だ。大泣きして「返して」なんて懇願した。せっかく握ったあんなに分かりやすい弱みを園崎が手放すわけがない。
「また買ってあげるから。諦めよ、ね」
「嫌だ……初めてだったんだ。友達に誕生日プレゼント貰うの」
「だから、友達の僕がまた買ってあげるって言ってんじゃん。今日の放課後また行こう。それに、高校入ったら僕バイトするつもりだから、十個でも二十個でも買ってあげるから」
 そういう問題じゃない。あの日透にぃにもらったプレゼントは世界で一つだ。もらったばかりのリストバンドをつけて一緒に生まれて初めての寄道をした思い出は、他のものでは代替できない。透にぃと出会ってから、今が人生で一番幸せだと思う瞬間が何度もあった。その最高潮の日にもらった大切なものが奪われたら、この先一生幸せな未来は来ない気がする。
「もう嫌だ……死にたい」
 久しぶりに死にたいと発言した気がする。うずくまって、顔を伏せる。こんな情けない顔、これ以上見られたくない。
「死んじゃダメだよ」
 透にぃが背中をさすってくれる。でも、もう無理。これ以上頑張れない。
「無理。だってもう学校行きたくない。林間学校で何されるか分かんないし、透にぃは三月には大阪行っちゃうし、そしたら俺どうやって生きて行けばいいの。もう疲れた」
 本当はとっくの昔に限界だった。
「助けて、透にぃ」
 子供みたいに泣きじゃくった。
「死ぬくらいならさ、一緒に逃げよっか」
 真面目で、男らしくて、大人な透にぃの口から「逃げる」という言葉が出た。大人たちはみんな「逃げるな」って言うのに。驚いて顔を上げた。
「三十六計逃げるにしかず、だよ」
 そこには、神様がいた。