四月になって俺は二年生、透にぃは三年生に進級した。透にぃのクラスは三年一組。階段から近くてラッキーだ。俺も二年一組で階段からは近いけれど、不幸なことにまた園崎と同じクラスになってしまった。おまけに担任はまた早瀬だ。運の無さを嘆いてリストカットした。
「また切っちゃった。情けないな、ほんと」
「そんなことないよ。辛かったなら仕方ないよ」
透にぃはいつも欲しい言葉をくれた。そして、俺が辛い時は手首の傷痕を撫でてくれる。その瞬間だけは、過去の傷も全部なかったことになるような気がした。
「最近お前ら似てきたよなー」
沢井先輩は今年も透にぃと同じクラスらしい。ある日いつものように一緒にご飯を食べていると沢井先輩に突然話しかけられた。
「お前ら兄弟みてえ」
「本当ですか?」
嬉しくてついにやけてしまった。
「うんうん、仕草とか似てきた」
「嬉しい、ありがとうございます」
透にぃの友達から最上級の賛辞をもらった。
「どっちが兄貴かわかんねーけどな。どっちかっつーと、透ちゃんが妹?」
「へ? どこからどう見ても透にぃがお兄ちゃんじゃないですか」
別に先輩に口答えをするつもりはなかった。思ったことがつい口をついただけ。先輩の言っている言葉の意味がよく分からなかったから。
「透ちゃんはロリだから妹役だろ」
ロリというスラングの意味は知っている。しかし、その言葉と透にぃのイメージが結びつかなかった。透にぃは誰よりも男らしくて、誰よりも大人だったから。
俺のことを助けてくれた世界一かっこいいヒーローだったから。大人になんてなりたくないけれど、それでも時が止まらないのなら透にぃのような大人の男になりたいと思っていたから。
「だって透にぃ大人だし、俺が知ってる人の中で一番男らしいし」
そう言った瞬間、透にぃと目が合った。透にぃの目が星みたいにキラキラしている。美しいと思った。
「かっこよくて、しっかりしてるし、頭いいし、男の中の男って感じだし……」
透にぃのことを語り出すと止まらなくなる。
「えー? お前幻覚見えてない? だって、透ちゃん身長何センチよ?」
透にぃはその質問には答えなかった。俺は俺で透にぃの瞳があまりにも綺麗だったから見とれてしまっていた。透にぃと目が合った。黙ったまま見つめ合っていた。
「教室で二人の世界入るなよー」
その言葉も崩れて溶けていく。世界が無音になった。このまま2人だけの世界に行けたらいいのに。
透にぃはあまり自分のことについて話さないけれど知っていることが3つある。
1つ目は頭がいいと言うこと。この間貼りだされた学年末テストの結果は堂々のダントツ1位。全教科満点だった。
2つ目は東京からの転校生だと言うこと。3年生のトイレを使っていると、色々な噂話が耳に入る。透にぃは東京の超名門進学校・月ヶ岡中学から2年生の2学期の終わり頃に転校してきたらしい。偏差値75の学校出身と聞いて、異次元の頭の良さの理由が分かった。
噂話と言えば、透にぃがモテそうだとも話していたから少しモヤっとした気持ちになった。もしかしたら東京に彼女がいるのかな。透にぃはかっこいいから、いてもおかしくない。しかし、月ヶ岡が男子校だと聞いて安心した。
3つ目はアニメ、漫画、ゲームに詳しいこと。
「潤くんは好きなゲームとかある?」
一緒に遊ぶような友達がいなかったから、対戦系のゲームはやったことがない。そこで実況配信で見たことがあるゲームを挙げる。
「それ、最新作が六月に出るよ。僕買う予定だからうちで一緒に遊ぼう」
友達の家に行くなんて当然初めてだ。六月が待ち遠しくて仕方ない。未来に希望を持ったのは初めてだった。
六月にはずっと恐れていた林間学校があるけれど、そんな不安も忘れられた。
五月の終わり頃、トイレである噂話を聞いた。
「透ちゃんの志望校、神原高校だってさ」
「大阪の? やばっ、レベチじゃん」
透にぃが大阪の高校を受験する。頭が真っ白になった。その日はずっと上の空だった。本人にも確認できなかった。
家に帰ってからスマホで「大阪 神原高校」と検索する。寮のある私立高校で、偏差値は70。月ヶ岡には劣るが、全国トップクラスの高校だ。
俺が逆立ちしても入れない高校。今の学力では地元のトップ校ですら無理だ。だから、透にぃと同じ高校に行くのはどの道不可能で、その度合いが変わっただけ。ゼロなのは一緒。ゼロと大きな字で書かれているか小さな字で書かれているか、その程度の違いだけ。
それでも、地元のトップ校と大阪の寮制高校では距離が違いすぎる。来年は透にぃのいないこの学校に通わないといけないことは分かっているけれども、この町に透にぃがいれば、俺がピンチの時は絶対に助けてくれる。そう信じられたから。
だから、嫌なんだ。高校生になんてなりたくない。三年生になりたくない。大人になりたくない。
六月は楽しみだけど、三月は永遠に来なければいいのに。また、手首を切ってしまった。俺、どんな情緒してるんだよ。小さく自嘲した。
そんなこともあったけれど、待ちに待った六月がやってくる。この辺りは涼しい方だけれど、この時期になるとさすがに体育を長袖でやるのはきつい。後先考えずにリスカをしたせいで、それを隠すために暑くても長袖を着ないといけない。三時間目の体育で熱中症になりかけて保健室で休む羽目になった。
透にぃは保健室まで様子を見に来てくれて、昼休みには購買でゼリー飲料を買って差し入れしてくれた。優しい。頼りになる。大好き。
放課後は荷物を持って迎えに来てくれた。他愛もない話をしながら帰る。
「週末に前話してたゲーム出るよ。おばあちゃんに家がOKな日確認してみるね」
「やった! 俺いつでもOKだから! あっ、でもどうしよう。ゲームのハード持ってないや。五万くらいするよね? 俺今全財産二万くらいで」
「僕、コントローラー2つ持ってるから大丈夫だよ」
曲がり角に差し掛かったところで、透にぃが立ち止まる。
「潤くん、もう体調良くなった?」
「うん。もう大丈夫。心配かけてごめん」
「少し寄道できる?」
初めての寄道。そんなのどんな高熱だって吹っ飛ぶ。長袖のカーディガンを着て午後三時の街を歩くのだってへっちゃらだ。
透にぃはいつもと違う道を先導する。その先には服屋があった。中学生の財布にも優しい店だが、今日はお金を持ってきていない。最近また私服の丈が短くなったから、服を買いたかったのに。せっかくだから透にぃにコーディネートしてほしかったのに。こうなると分かっていたら全財産持ってきていた。
服だけでなく、帽子や小物などもたくさんあった。透にぃお目当ての小物コーナーに向かう。リストバンドがずらりと並んでいた。
「どれがいいかなって迷ってるんだよね」
「えー、どれが透にぃに似合うかな。透にぃ、かっこいいから何でも似合いそうだけど」
「潤くんだったらどれが欲しい?」
そう聞かれると迷う。実用性を考えると、濃い色がいい。傷口が開いて血が付いた時に目立つのが嫌だから。黒いリストバンドだけでもかなり種類があって、迷った末に青いストライプが入った黒地のものを指差した。
「じゃあ、これにするね」
後でもう一回来て、透にぃとおそろいのやつ買おうかな。さすがにそんなことしたら気持ち悪いかな。俺が考えている間に、透にぃはさっさと会計を済ませていた。
「はいっ、あげる」
「え?」
「誕生日、来週の木曜日だよね?」
状況を呑み込めずにいると、透にぃは俺の誕生日をピタリと言い当てた。
「何で知ってるの?」
「LINEのIDの数字見て、そうじゃないかなって思って」
透にぃは頭がいい。まるで探偵みたいだ。
「ってことで、潤くんにプレゼント。ちょっと早いけど誕生日おめでとう」
友達から誕生日プレゼント。初めてもらった。心がポカポカする。俺の頬を涙が伝った。
「潤くん? 大丈夫?」
「ごめん、泣いちゃって。俺、すっごい嬉しくて」
嬉し涙って本当にあるんだ。
「ありがと、透にぃ。一生大事にする」
「上着暑そうだし、もし今つけるの嫌じゃなかったらどう? そしたら、半袖で帰れるし。ごめんね、本当は当日に渡したかったんだけど、最近暑いし早く渡した方が良いなって思って前倒しにしちゃった」
俺の体を気遣ってくれた。やっぱり透にぃは俺の神様だ。
その後、少しだけ河原を一緒に散歩した。体調不良は吹っ飛んだので、一緒にいたいと頼み込んで寄道してもらった。今までずっと下を向いていたけど、透にぃのおかげで顔を上げることができた。青空が綺麗だった。風が涼しくて気持ちよかった。
透にぃのくれたリストバンドがあれば、この先どんな辛いことがあっても生きていける。そう思いながらリストバンドをつけた。これがあれば離れていても透にぃが傍にいてくれる気がする。
家に帰った後も、リストバンドを見ては顔がにやけてしまう。今週はずっとリストバンドを見ては顔が綻ぶ毎日を送った。そのたびに透にぃの顔が浮かんで、少しドキドキした。
どぎつい悪口を言われても、林間学校の部屋が園崎一派と同室になっても、たまたま見えた透にぃの進路希望調査票に神原高校と書いてあっても大丈夫。
手首は切らなかった。せっかくもらったリストバンドが汚れてしまうのが嫌だったから。ずっとやめられなかったリスカをやめられた。きっともう俺は大丈夫だ。
月曜朝、教室に入ると、かつてないほど教室の空気が悪かった。週末、園崎たちが所属するサッカー部が市の大会で異例の速さで負けたらしい。機嫌の悪い園崎たちを刺激しないようにみんな大人しくしている。
十分休みに透にぃの教室に行くと謝られた。
「ごめんね、今日一緒に帰れない。ちょっと進路のことで先生に呼び出されてて」
「分かった。先帰るね」
遠くの高校を受験するとなると色々あるのだろう。でも、俺はもう大丈夫。
放課後、帰ろうとすると園崎たちに囲まれた。
「最近調子乗ってんじゃねえの?」
反射的に目をつぶった。直接殴られなくとも、机を蹴り倒して威圧されただけで、何も言えなくなる。透にぃと出会って、少しは強くなれたと勘違いしていた。でも、結局俺の本質はいじめられっ子のままだった。
「沢井先輩に取り入ってたみたいだけどさあ、あの人もう引退したから俺らに口出ししてくることなくなったから、わかるよな」
怖い。息が出来ない。助けて、透にぃ。
「こういうの似合うと思ってんの? 身の程を知れよ」
そう言ったかと思うと、いきなり腕を押さえつけられた。リストバンドを剝ぎ取られる。
「嫌だっ、返せよ!」
今までで一番大きな声を出した。取り返そうと手を伸ばすと、両腕を別の奴等に一本ずつ掴まれて身動きが取れなくなる。
「返せ! お前ら、何がしたいんだよっ!」
少し背が伸びたところで、結局俺よりガタイのいい運動部の奴等に敵うわけがない。
「てか、春野の手首やばくね? リスカとかメンヘラじゃん」
気づかれた。明日には学年中に言いふらされる。でも、そんなことより今はリストバンドを取り返さないといけない。
「うげ~汚え~血ついたかもしれないんですけど~」
園崎が汚いものを持つように指の先でリストバンドの端をつまんでいる。やめろ、俺の世界を冒涜するな。
「返せよ!」
「お前さあ、人に物を頼むときは態度ってものがあるんじゃねえの?」
園崎に低い声ですごまれる。
「返してください」
悔しい。こんなやつらのせいで泣きたくない。なのに涙が止まらない。
「返してください。お願いします。大切なものなんです」
「よしっ、じゃあ俺は優しいから売ってやるよ」
園崎がにやりと笑った。
「二万円持って、明日の放課後俺んち来いよ。林間学校前にじっくり親睦深めようぜ」
二万円。俺がギリギリ払えそうな絶妙なライン。もしかしたら先週透にぃと話していた時に園崎も近くにいたのかもしれない。
だとしても、何でこんなえげつないこと思いつくんだよ。今までお金を要求されたことはなかった。何で考えうる限り一番残酷な方法で俺のこと追い詰めるんだよ。
「こんなのずっと持ってたら病気になりそうだから、明後日には捨てちゃうかもなあ。水曜、燃えるゴミの日だし」
そう言い残すと園崎たちは帰っていった。
助けて透にぃ。駄目だ。一生大切にすると言った誕生日プレゼントを、誕生日を迎える前になくすなんて人として終わってる。絶対知られたくない。透にぃのことは探さずに家に帰った。今だけは会いたくなかった。
家に帰って貯金箱をひっくり返した。全財産19237円。明日の昼食代五百円を足しても三百円足りない。詰んだ。
視界にカッターが入る。今死ねば、不注意でリストバンドを盗られたと透にぃにバレることはない。林間学校にも行かなくていいし、来年透にぃのいないこの地獄に通い続ける必要もない。手首を切る。一瞬痛みを感じたけれど、普段ほど痛みを感じなかった。強く殴られたわけではないのに、今日やられたことの方がずっと痛かった。
どうか明日が来ませんように。そう願いながら眠りに落ちた。
「また切っちゃった。情けないな、ほんと」
「そんなことないよ。辛かったなら仕方ないよ」
透にぃはいつも欲しい言葉をくれた。そして、俺が辛い時は手首の傷痕を撫でてくれる。その瞬間だけは、過去の傷も全部なかったことになるような気がした。
「最近お前ら似てきたよなー」
沢井先輩は今年も透にぃと同じクラスらしい。ある日いつものように一緒にご飯を食べていると沢井先輩に突然話しかけられた。
「お前ら兄弟みてえ」
「本当ですか?」
嬉しくてついにやけてしまった。
「うんうん、仕草とか似てきた」
「嬉しい、ありがとうございます」
透にぃの友達から最上級の賛辞をもらった。
「どっちが兄貴かわかんねーけどな。どっちかっつーと、透ちゃんが妹?」
「へ? どこからどう見ても透にぃがお兄ちゃんじゃないですか」
別に先輩に口答えをするつもりはなかった。思ったことがつい口をついただけ。先輩の言っている言葉の意味がよく分からなかったから。
「透ちゃんはロリだから妹役だろ」
ロリというスラングの意味は知っている。しかし、その言葉と透にぃのイメージが結びつかなかった。透にぃは誰よりも男らしくて、誰よりも大人だったから。
俺のことを助けてくれた世界一かっこいいヒーローだったから。大人になんてなりたくないけれど、それでも時が止まらないのなら透にぃのような大人の男になりたいと思っていたから。
「だって透にぃ大人だし、俺が知ってる人の中で一番男らしいし」
そう言った瞬間、透にぃと目が合った。透にぃの目が星みたいにキラキラしている。美しいと思った。
「かっこよくて、しっかりしてるし、頭いいし、男の中の男って感じだし……」
透にぃのことを語り出すと止まらなくなる。
「えー? お前幻覚見えてない? だって、透ちゃん身長何センチよ?」
透にぃはその質問には答えなかった。俺は俺で透にぃの瞳があまりにも綺麗だったから見とれてしまっていた。透にぃと目が合った。黙ったまま見つめ合っていた。
「教室で二人の世界入るなよー」
その言葉も崩れて溶けていく。世界が無音になった。このまま2人だけの世界に行けたらいいのに。
透にぃはあまり自分のことについて話さないけれど知っていることが3つある。
1つ目は頭がいいと言うこと。この間貼りだされた学年末テストの結果は堂々のダントツ1位。全教科満点だった。
2つ目は東京からの転校生だと言うこと。3年生のトイレを使っていると、色々な噂話が耳に入る。透にぃは東京の超名門進学校・月ヶ岡中学から2年生の2学期の終わり頃に転校してきたらしい。偏差値75の学校出身と聞いて、異次元の頭の良さの理由が分かった。
噂話と言えば、透にぃがモテそうだとも話していたから少しモヤっとした気持ちになった。もしかしたら東京に彼女がいるのかな。透にぃはかっこいいから、いてもおかしくない。しかし、月ヶ岡が男子校だと聞いて安心した。
3つ目はアニメ、漫画、ゲームに詳しいこと。
「潤くんは好きなゲームとかある?」
一緒に遊ぶような友達がいなかったから、対戦系のゲームはやったことがない。そこで実況配信で見たことがあるゲームを挙げる。
「それ、最新作が六月に出るよ。僕買う予定だからうちで一緒に遊ぼう」
友達の家に行くなんて当然初めてだ。六月が待ち遠しくて仕方ない。未来に希望を持ったのは初めてだった。
六月にはずっと恐れていた林間学校があるけれど、そんな不安も忘れられた。
五月の終わり頃、トイレである噂話を聞いた。
「透ちゃんの志望校、神原高校だってさ」
「大阪の? やばっ、レベチじゃん」
透にぃが大阪の高校を受験する。頭が真っ白になった。その日はずっと上の空だった。本人にも確認できなかった。
家に帰ってからスマホで「大阪 神原高校」と検索する。寮のある私立高校で、偏差値は70。月ヶ岡には劣るが、全国トップクラスの高校だ。
俺が逆立ちしても入れない高校。今の学力では地元のトップ校ですら無理だ。だから、透にぃと同じ高校に行くのはどの道不可能で、その度合いが変わっただけ。ゼロなのは一緒。ゼロと大きな字で書かれているか小さな字で書かれているか、その程度の違いだけ。
それでも、地元のトップ校と大阪の寮制高校では距離が違いすぎる。来年は透にぃのいないこの学校に通わないといけないことは分かっているけれども、この町に透にぃがいれば、俺がピンチの時は絶対に助けてくれる。そう信じられたから。
だから、嫌なんだ。高校生になんてなりたくない。三年生になりたくない。大人になりたくない。
六月は楽しみだけど、三月は永遠に来なければいいのに。また、手首を切ってしまった。俺、どんな情緒してるんだよ。小さく自嘲した。
そんなこともあったけれど、待ちに待った六月がやってくる。この辺りは涼しい方だけれど、この時期になるとさすがに体育を長袖でやるのはきつい。後先考えずにリスカをしたせいで、それを隠すために暑くても長袖を着ないといけない。三時間目の体育で熱中症になりかけて保健室で休む羽目になった。
透にぃは保健室まで様子を見に来てくれて、昼休みには購買でゼリー飲料を買って差し入れしてくれた。優しい。頼りになる。大好き。
放課後は荷物を持って迎えに来てくれた。他愛もない話をしながら帰る。
「週末に前話してたゲーム出るよ。おばあちゃんに家がOKな日確認してみるね」
「やった! 俺いつでもOKだから! あっ、でもどうしよう。ゲームのハード持ってないや。五万くらいするよね? 俺今全財産二万くらいで」
「僕、コントローラー2つ持ってるから大丈夫だよ」
曲がり角に差し掛かったところで、透にぃが立ち止まる。
「潤くん、もう体調良くなった?」
「うん。もう大丈夫。心配かけてごめん」
「少し寄道できる?」
初めての寄道。そんなのどんな高熱だって吹っ飛ぶ。長袖のカーディガンを着て午後三時の街を歩くのだってへっちゃらだ。
透にぃはいつもと違う道を先導する。その先には服屋があった。中学生の財布にも優しい店だが、今日はお金を持ってきていない。最近また私服の丈が短くなったから、服を買いたかったのに。せっかくだから透にぃにコーディネートしてほしかったのに。こうなると分かっていたら全財産持ってきていた。
服だけでなく、帽子や小物などもたくさんあった。透にぃお目当ての小物コーナーに向かう。リストバンドがずらりと並んでいた。
「どれがいいかなって迷ってるんだよね」
「えー、どれが透にぃに似合うかな。透にぃ、かっこいいから何でも似合いそうだけど」
「潤くんだったらどれが欲しい?」
そう聞かれると迷う。実用性を考えると、濃い色がいい。傷口が開いて血が付いた時に目立つのが嫌だから。黒いリストバンドだけでもかなり種類があって、迷った末に青いストライプが入った黒地のものを指差した。
「じゃあ、これにするね」
後でもう一回来て、透にぃとおそろいのやつ買おうかな。さすがにそんなことしたら気持ち悪いかな。俺が考えている間に、透にぃはさっさと会計を済ませていた。
「はいっ、あげる」
「え?」
「誕生日、来週の木曜日だよね?」
状況を呑み込めずにいると、透にぃは俺の誕生日をピタリと言い当てた。
「何で知ってるの?」
「LINEのIDの数字見て、そうじゃないかなって思って」
透にぃは頭がいい。まるで探偵みたいだ。
「ってことで、潤くんにプレゼント。ちょっと早いけど誕生日おめでとう」
友達から誕生日プレゼント。初めてもらった。心がポカポカする。俺の頬を涙が伝った。
「潤くん? 大丈夫?」
「ごめん、泣いちゃって。俺、すっごい嬉しくて」
嬉し涙って本当にあるんだ。
「ありがと、透にぃ。一生大事にする」
「上着暑そうだし、もし今つけるの嫌じゃなかったらどう? そしたら、半袖で帰れるし。ごめんね、本当は当日に渡したかったんだけど、最近暑いし早く渡した方が良いなって思って前倒しにしちゃった」
俺の体を気遣ってくれた。やっぱり透にぃは俺の神様だ。
その後、少しだけ河原を一緒に散歩した。体調不良は吹っ飛んだので、一緒にいたいと頼み込んで寄道してもらった。今までずっと下を向いていたけど、透にぃのおかげで顔を上げることができた。青空が綺麗だった。風が涼しくて気持ちよかった。
透にぃのくれたリストバンドがあれば、この先どんな辛いことがあっても生きていける。そう思いながらリストバンドをつけた。これがあれば離れていても透にぃが傍にいてくれる気がする。
家に帰った後も、リストバンドを見ては顔がにやけてしまう。今週はずっとリストバンドを見ては顔が綻ぶ毎日を送った。そのたびに透にぃの顔が浮かんで、少しドキドキした。
どぎつい悪口を言われても、林間学校の部屋が園崎一派と同室になっても、たまたま見えた透にぃの進路希望調査票に神原高校と書いてあっても大丈夫。
手首は切らなかった。せっかくもらったリストバンドが汚れてしまうのが嫌だったから。ずっとやめられなかったリスカをやめられた。きっともう俺は大丈夫だ。
月曜朝、教室に入ると、かつてないほど教室の空気が悪かった。週末、園崎たちが所属するサッカー部が市の大会で異例の速さで負けたらしい。機嫌の悪い園崎たちを刺激しないようにみんな大人しくしている。
十分休みに透にぃの教室に行くと謝られた。
「ごめんね、今日一緒に帰れない。ちょっと進路のことで先生に呼び出されてて」
「分かった。先帰るね」
遠くの高校を受験するとなると色々あるのだろう。でも、俺はもう大丈夫。
放課後、帰ろうとすると園崎たちに囲まれた。
「最近調子乗ってんじゃねえの?」
反射的に目をつぶった。直接殴られなくとも、机を蹴り倒して威圧されただけで、何も言えなくなる。透にぃと出会って、少しは強くなれたと勘違いしていた。でも、結局俺の本質はいじめられっ子のままだった。
「沢井先輩に取り入ってたみたいだけどさあ、あの人もう引退したから俺らに口出ししてくることなくなったから、わかるよな」
怖い。息が出来ない。助けて、透にぃ。
「こういうの似合うと思ってんの? 身の程を知れよ」
そう言ったかと思うと、いきなり腕を押さえつけられた。リストバンドを剝ぎ取られる。
「嫌だっ、返せよ!」
今までで一番大きな声を出した。取り返そうと手を伸ばすと、両腕を別の奴等に一本ずつ掴まれて身動きが取れなくなる。
「返せ! お前ら、何がしたいんだよっ!」
少し背が伸びたところで、結局俺よりガタイのいい運動部の奴等に敵うわけがない。
「てか、春野の手首やばくね? リスカとかメンヘラじゃん」
気づかれた。明日には学年中に言いふらされる。でも、そんなことより今はリストバンドを取り返さないといけない。
「うげ~汚え~血ついたかもしれないんですけど~」
園崎が汚いものを持つように指の先でリストバンドの端をつまんでいる。やめろ、俺の世界を冒涜するな。
「返せよ!」
「お前さあ、人に物を頼むときは態度ってものがあるんじゃねえの?」
園崎に低い声ですごまれる。
「返してください」
悔しい。こんなやつらのせいで泣きたくない。なのに涙が止まらない。
「返してください。お願いします。大切なものなんです」
「よしっ、じゃあ俺は優しいから売ってやるよ」
園崎がにやりと笑った。
「二万円持って、明日の放課後俺んち来いよ。林間学校前にじっくり親睦深めようぜ」
二万円。俺がギリギリ払えそうな絶妙なライン。もしかしたら先週透にぃと話していた時に園崎も近くにいたのかもしれない。
だとしても、何でこんなえげつないこと思いつくんだよ。今までお金を要求されたことはなかった。何で考えうる限り一番残酷な方法で俺のこと追い詰めるんだよ。
「こんなのずっと持ってたら病気になりそうだから、明後日には捨てちゃうかもなあ。水曜、燃えるゴミの日だし」
そう言い残すと園崎たちは帰っていった。
助けて透にぃ。駄目だ。一生大切にすると言った誕生日プレゼントを、誕生日を迎える前になくすなんて人として終わってる。絶対知られたくない。透にぃのことは探さずに家に帰った。今だけは会いたくなかった。
家に帰って貯金箱をひっくり返した。全財産19237円。明日の昼食代五百円を足しても三百円足りない。詰んだ。
視界にカッターが入る。今死ねば、不注意でリストバンドを盗られたと透にぃにバレることはない。林間学校にも行かなくていいし、来年透にぃのいないこの地獄に通い続ける必要もない。手首を切る。一瞬痛みを感じたけれど、普段ほど痛みを感じなかった。強く殴られたわけではないのに、今日やられたことの方がずっと痛かった。
どうか明日が来ませんように。そう願いながら眠りに落ちた。