向かったのは先輩の教室だった。
「僕のジャージ貸してあげたいんだけど、絶対サイズ合わないから、僕の友達に借りて来るね」
人望がある人なのだろう。神楽坂先輩経由だと快く貸してもらえた。男子更衣室で学ランを脱ぎ、シャツのボタンを外したところで手が止まる。どうしよう、脱げない。
「ごめんなさい……あんまり見られたくなくて」
「あっ、ごめんね。気が利かなかったね」
たぶん、言葉を間違えた。助けてくれた人に対して、たぶん失礼な言い方をしてしまった。
「違くて……グロいから、見たらたぶん嫌な気持ちになっちゃうから」
必死で言い訳をする。
「リストカット……?」
ドクン、と心臓が鳴った。ずばり言い当てられたから。
「え、何で」
「とりあえず、早く着替えなよ。僕後ろ向いてるから。そのままじゃ寒いでしょ?」
先輩に促され、濡れた服を脱いで、借りたタオルで身体を拭いて沢井先輩という人から借りたジャージを着る。
「あの、終わりました、ありがとうございます」
色々と気が動転していて、お礼を言うのが遅れていた。本当に全部情けない。こういうところがダメなんだと思う。
「昼休みがどうのこうのって言いかけてたから、心配で様子見に来ちゃった。ごめんね、もうちょっと早く来てあげられれば良かったね。僕こんなだし、頼りないと思うけど、春野くんの力になりたいな」
何で、見ず知らずの俺に優しくしてくれるの。気づけば今までのことを全部話していた。
小学校の時から園崎たちにいじめられていること。今考えると最初の頃はまだマシで、年々エスカレートしていること。親に話したけど学校でのトラブルなんていくらでもあるからと不登校を許してくれなかったこと。先生が頼りにならないこと。秋ごろに園崎に酷いことをされた日に死のうとして突発的に手首を切ったこと。思ったより切り傷が痛くてそれに比べたらその日されたことが大したことじゃなかったような気がしたこと。一瞬だけでも現実から逃げられるような気がしてリストカットがやめられなくなったこと。
最後の方はボロ泣きして、語尾をちゃんとですます調にするのも忘れていた。
「辛かったね、話してくれてありがとう」
俺の神様はどこまでも俺の欲しい言葉をくれた。ジャージの袖をまくられる。グロテスクな手首を見ても先輩は引かなかった。瘡蓋と古傷でめちゃくちゃになった手首を撫でられる。
「グロいなんて思わないよ。辛かったよね。痛かったよね」
先輩に撫でられるたび、心の奥の奥までズタズタにされた傷も全部痛みが引いていく気がした。
「先輩のおかげで痛くなくなった。先輩、ありがと……俺、助けてもらったの本当に初めてだった。ハンカチ貸してくれたの、すごく嬉しかった」
痛みを癒されたことで冷静になり、口調が失礼なものになっていることに気づく。慌てて訂正した。
「間違えた、ありがとうございます。ごめんなさい、また失礼なことしちゃって」
「敬語じゃなくていいよ」
先輩が微笑む。
「ほら、先輩と仲いいってアピールしておけば、少しは牽制になるでしょ? あと、園崎くんが何部か知らないけど、どの部活にも友達いるから、その子たちからも言ってもらうよ」
優しい。こんなに優しくされたら、つい甘えてしまう。
「ありがと。じゃあ、透にぃって呼んでもいい?」
子供の世界に基本的に大人は介入しない。しかし、子供の世界にも絶対の秩序があった。園崎は俺以外の子を標的にしたこともあった。しかし、すぐにやめた。その子が魔法の呪文を唱えたからだ。
「兄ちゃんに言いつけてやる」
子供の世界の絶対的なリーダーはクラスの支配者ではない。上級生だ。兄は下級生の世界に介入することが許された存在だ。子供の世界の秩序を乱す悪い子も従う存在。安全な世界に連れて行ってくれるピーターパン。それが“お兄ちゃん”だ。一人っ子の俺にそんな存在はいなかった。
「俺、先輩みたいにかっこいいお兄ちゃんがほしかった」
先輩みたいなお兄ちゃんがいればいじめられなかったと思う。
「うん、いいよ。なんか弟が出来たみたいで嬉しいな」
先輩、改め透にぃは俺に微笑みかけてくれた。その笑顔があまりにかっこよくて、ドキッとした。
「透にぃ、もう一個だけお願い聞いてもらってもいい?」
早速、図々しくも新しい呼び方で呼ぶ。心臓がうるさい。緊張する。もしこの先好きな子ができたりして告白することがあるとしたら、これくらいドキドキするんだろうなと思った。
「俺のことも下の名前で呼んでください。俺、下の名前潤って言います」
一世一代の告白のようなお願い。怖くて目を合わせられなかった。永遠にも感じられるような一瞬の後、透にぃが口を開く。
「いいよ、潤くん。今日から僕たち、友達だ」
生まれて初めて友達が出来た記念日。俺は今日のことを一生忘れない。
「僕のジャージ貸してあげたいんだけど、絶対サイズ合わないから、僕の友達に借りて来るね」
人望がある人なのだろう。神楽坂先輩経由だと快く貸してもらえた。男子更衣室で学ランを脱ぎ、シャツのボタンを外したところで手が止まる。どうしよう、脱げない。
「ごめんなさい……あんまり見られたくなくて」
「あっ、ごめんね。気が利かなかったね」
たぶん、言葉を間違えた。助けてくれた人に対して、たぶん失礼な言い方をしてしまった。
「違くて……グロいから、見たらたぶん嫌な気持ちになっちゃうから」
必死で言い訳をする。
「リストカット……?」
ドクン、と心臓が鳴った。ずばり言い当てられたから。
「え、何で」
「とりあえず、早く着替えなよ。僕後ろ向いてるから。そのままじゃ寒いでしょ?」
先輩に促され、濡れた服を脱いで、借りたタオルで身体を拭いて沢井先輩という人から借りたジャージを着る。
「あの、終わりました、ありがとうございます」
色々と気が動転していて、お礼を言うのが遅れていた。本当に全部情けない。こういうところがダメなんだと思う。
「昼休みがどうのこうのって言いかけてたから、心配で様子見に来ちゃった。ごめんね、もうちょっと早く来てあげられれば良かったね。僕こんなだし、頼りないと思うけど、春野くんの力になりたいな」
何で、見ず知らずの俺に優しくしてくれるの。気づけば今までのことを全部話していた。
小学校の時から園崎たちにいじめられていること。今考えると最初の頃はまだマシで、年々エスカレートしていること。親に話したけど学校でのトラブルなんていくらでもあるからと不登校を許してくれなかったこと。先生が頼りにならないこと。秋ごろに園崎に酷いことをされた日に死のうとして突発的に手首を切ったこと。思ったより切り傷が痛くてそれに比べたらその日されたことが大したことじゃなかったような気がしたこと。一瞬だけでも現実から逃げられるような気がしてリストカットがやめられなくなったこと。
最後の方はボロ泣きして、語尾をちゃんとですます調にするのも忘れていた。
「辛かったね、話してくれてありがとう」
俺の神様はどこまでも俺の欲しい言葉をくれた。ジャージの袖をまくられる。グロテスクな手首を見ても先輩は引かなかった。瘡蓋と古傷でめちゃくちゃになった手首を撫でられる。
「グロいなんて思わないよ。辛かったよね。痛かったよね」
先輩に撫でられるたび、心の奥の奥までズタズタにされた傷も全部痛みが引いていく気がした。
「先輩のおかげで痛くなくなった。先輩、ありがと……俺、助けてもらったの本当に初めてだった。ハンカチ貸してくれたの、すごく嬉しかった」
痛みを癒されたことで冷静になり、口調が失礼なものになっていることに気づく。慌てて訂正した。
「間違えた、ありがとうございます。ごめんなさい、また失礼なことしちゃって」
「敬語じゃなくていいよ」
先輩が微笑む。
「ほら、先輩と仲いいってアピールしておけば、少しは牽制になるでしょ? あと、園崎くんが何部か知らないけど、どの部活にも友達いるから、その子たちからも言ってもらうよ」
優しい。こんなに優しくされたら、つい甘えてしまう。
「ありがと。じゃあ、透にぃって呼んでもいい?」
子供の世界に基本的に大人は介入しない。しかし、子供の世界にも絶対の秩序があった。園崎は俺以外の子を標的にしたこともあった。しかし、すぐにやめた。その子が魔法の呪文を唱えたからだ。
「兄ちゃんに言いつけてやる」
子供の世界の絶対的なリーダーはクラスの支配者ではない。上級生だ。兄は下級生の世界に介入することが許された存在だ。子供の世界の秩序を乱す悪い子も従う存在。安全な世界に連れて行ってくれるピーターパン。それが“お兄ちゃん”だ。一人っ子の俺にそんな存在はいなかった。
「俺、先輩みたいにかっこいいお兄ちゃんがほしかった」
先輩みたいなお兄ちゃんがいればいじめられなかったと思う。
「うん、いいよ。なんか弟が出来たみたいで嬉しいな」
先輩、改め透にぃは俺に微笑みかけてくれた。その笑顔があまりにかっこよくて、ドキッとした。
「透にぃ、もう一個だけお願い聞いてもらってもいい?」
早速、図々しくも新しい呼び方で呼ぶ。心臓がうるさい。緊張する。もしこの先好きな子ができたりして告白することがあるとしたら、これくらいドキドキするんだろうなと思った。
「俺のことも下の名前で呼んでください。俺、下の名前潤って言います」
一世一代の告白のようなお願い。怖くて目を合わせられなかった。永遠にも感じられるような一瞬の後、透にぃが口を開く。
「いいよ、潤くん。今日から僕たち、友達だ」
生まれて初めて友達が出来た記念日。俺は今日のことを一生忘れない。