掛川くんは月ヶ岡のアニメ同好会の同級生だった。彼はロリコンを自称していて、好きなキャラクターも大体小さくて可愛い女の子だった。かくいう僕も綺麗なお姉さんキャラクターよりは可愛くてふわふわした女の子の方が好きで、推しキャラクターは大体被った。萌え語りをしているうちにどんどん仲良くなって、二年生で同じクラスになった時は嬉しかった。僕がクラス委員に立候補したら副委員に立候補して手伝ってくれる優しい子だった。
「だって、透ちゃんは俺の彼女だもんね」
 クラス、部活、委員会。そのどれもを共有していた彼はみんなの前で僕を彼女として扱うようになった。嫌だった。女顔もアニメ声も低身長も全部コンプレックスだったから、そういう扱いをされるのが一番嫌だった。
 でも、みんな僕のことを女の子扱いしていたし、クラスでのあだ名も“ロリ”だったから、掛川くんにだけ嫌だと言うのは少し気が引けた。みんなも彼も悪気があるわけではなかったから。男子校だったから、“恋人ごっこ”を冗談でやっている人たちは他にもいたし、普通のことだと思っていた。

 二学期くらいになると僕は教室で浮き始めた。お昼ごはんに誘うと「掛川と食べたら?」ってやんわり断られたり、よく遊んでいたメンバーから遊びに誘われなくなったりとかそれくらい。話しかけて無視されることもない。悪口を言われたわけでもない。ただ、僕に向けられる視線が少し冷ややかなものに変わった気がした。
 掛川くんとの距離はむしろ縮まった。会うたびに抱きつかれて、「透ちゃん今日も可愛い」とか「大好き」とか言われて。
 込み入った話も打ち明けてくれた。掛川くんはあまり親御さんと仲が良くないらしい。少し精神不安定で心配になるところもあるけれど、人懐っこくて純粋で、まっすぐな子だった。

 秋、部室でふたりきりになったとき、いつもみたいに抱きつかれた。
「ねえ、透ちゃん。俺本気だよ」
 声に熱がこもっていた。制服の中に手を入れられそうになった。
「嫌だ、やめて」
 僕は咄嗟に掛川くんを突き飛ばした。怖い。親友に対して一瞬でもそう思ってしまった。掛川くんは酷く傷ついた顔で呆然としていた。
「ごめんね」
 僕の謝罪に耳を傾けることなく、掛川くんは帰ってしまった。

 一晩悩んだ。僕はどうするべきだったのか。考えれば考えるほど楽しかった思い出が浮かんで来て、このまま絶交なんて嫌だと思った。
「昨日は突き飛ばしてごめんね」
 翌日、僕は誠心誠意謝った。
「いいよ、俺、透ちゃんのこと本気で好きだから。三次元だと透ちゃんが俺の初恋」
 今まで僕が目を背けてきた恋という単語をはっきりと言われた。
「ごめんね。掛川くんは大事な友達だけど、恋人にはなれない。今まで通り友達でいたい。本当にごめんね」
 しばらくの沈黙のあと、掛川くんは呟いた。
「そっか、じゃあ死ぬ」
 目の前が真っ暗になった。
「何で? そんなのおかしいって! 死なないでよ。僕、掛川くんが死んだら嫌だよ」
 僕は掛川くんの腕を掴んで制止した。
「じゃあ、俺と付き合ってよ!」
 掛川くんはその手を掴み返して、そのまま僕を壁際まで追い詰めた。怖かったけれど、僕は主張した。
「それはできないけど、掛川くんは大事な友達だから死んだら悲しい」
「ほら、俺と付き合うくらいなら俺が死んだ方が良いって思ってるんだろ?」
 僕が伝えた友情は一蹴される。
「そうじゃないけど……」
「透ちゃん、俺のこと嫌いだもんね」
「嫌いじゃないよ! 何で信じてくれないの……」
「じゃあさ、嘘でもいいから好きって言ってよ」
 僕は固まってしまった。心臓も肺も全部が異常を起こして立っているのがやっとだった。
「好きって、友達同士でも言うだろ。嫌いじゃないなら言ってよ。そしたら死なないし、突き飛ばしたことも許してあげる」
 僕はあの時どうすべきだったのか、未だに正解が分からない。
「すき……」
 僕が答えると、掛川くんはいつもの笑顔を向けて僕に抱き着いた。今度は服の中に手を入れるようなそぶりは見せずただただ強く抱きしめられた。
「俺もだーいすき!」
 死なないでくれた。だから、僕はあの時正解を選べたと思っていた。

「好きって言ってよ」
「すき」
 友達として、好き。大丈夫。これは友達の範疇。掛川くんが自殺をほのめかす度に自分に言い聞かせた。
「可愛い。さすが俺の彼女」
 僕の心がガリガリと削られていく。
「ねえ、今日親いないんだけど泊まりに来ない? 透ちゃん来てくれないと俺寂しくて死んじゃう」
 ある日僕の中で何かが切れた。僕も一応生物学上は男だから、彼の言っている言葉の意味くらいは分かった。
「無理……。もう無理。ごめん、本当に無理」
 僕は泣きながら家に帰った。掛川くんの顔は見られなかった。家に帰った後、彼が死んでしまうかもしれないと怖くなった。「ごめんなさい」「死なないで」そう連絡すると電話がかかってきた。死なないでほしいと一晩かけて伝えた。

 翌朝掛川くんを学校で見かけて本気でほっとした。一時間目は自習で、みんな大騒ぎしていたから一番後ろの席で僕たちが何を話していても周りには聞こえていなかったと思う。
 掛川くんはカッターを持ってきていた。それをちらつかせながら僕に言う。
「透ちゃん、ラストチャンス。みんなの前でキスして、俺たち付き合ってますって宣言してよ。そしたら、死ぬのやめる」
 息が出来なかった。絞り出すように、やめて、と一言だけ伝えた。
「選んでよ、俺に死んでほしいか生きてほしいか」
「生きて」
「じゃあ、十秒待つね。俺のこと、殺さないでね。信じてるよ」
 掛川くんは手首にカッターを当てたままカウントダウンを始めた。キスするだけ。冗談でしている人たちだっている。でも、どうしても僕はその一線を超えられなかった。
 非力な僕には何もできない。力づくで止めようとしたってきっと振り払われる。それでも、僕は手を伸ばさずにはいられなかった。
 僕は結局彼を止められなかった。彼は手首を切った。真っ赤な血しぶきをあげて、掛川くんは倒れた。教室のざわめき。救急車の音。僕も過呼吸を起こして保健室に運ばれた。

 僕が救えなかった掛川くんを現代医療は救ってくれた。かなり深く切ったけれど、掛川くんは無事だった。僕の制服には掛川くんの血がついていて、それが僕を責めているように感じて学校に行けなくなった。
 目を覚ました掛川くんは先生と話をしたらしい。僕の家にも先生が来た。掛川くんの証言はこうだったらしい。
「神楽坂くんにいじめられていました。セクシャリティを打ち明けたら、俺と付き合う気もないのに好きって言って揶揄われました。無理、って人格全否定するような言葉を何度も言われました。暴力も受けました。俺のこと突き飛ばして、汚い物を見るような目で見られました。死ねって言われて、辛くなって気づいたら手首を切っていました」
 「死ね」なんて言ってない。それは絶対言ってない。でも、最後のキスを拒否したのは掛川くんにとっては「死ね」と言われたのと同じだったのだろう。
 いじめはいじめられた側がどう感じるかだ。時系列に多少相違はあるけれど、彼がそう感じたのなら彼の中ではそれが真実なのだと思う。僕は自分を無実だとは到底言えなかった。実際に僕は彼に消えない傷を残したのだから。

「彼女になってくれたら、証言撤回する。ひどいことされても、まだ透ちゃんのこと好きだから」
 掛川くんからの連絡を見てほっとした。交換条件が掛川くんの命から僕の進退に変わったから。停学処分でも退学処分でも甘んじて受け入れようと思った。もう僕は彼に関わるべきではない。連絡は無視した。

 僕は断罪されなかった。あとから親に聞いた話だけれど、掛川くんと同じ塾出身だった人による、彼が小学校時代に女子に対して行ったストーカー行為についての証言。僕と親しくしていると掛川くんが無言の圧力をかけてきたというクラスメイトの証言。これらによって掛川くんの発言は信憑性がないと判断されたらしい。ただ、これも掛川くんから見たらいじめっ子がクラスメイトに自分に有利な証言をさせているように見えるのだろう。

 自分のことは元々嫌いだったけれど、益々大嫌いになった。全部嫌になって学校をやめた。掛川くんとは家が近かったから、二度と会うべきではないと思った。だから、中学卒業までは祖母の家にお世話になることにした。家族は家族で、日に日に憔悴していく僕を心配したのか、掛川くんからの報復を恐れたのかは分からないけれど、安全な場所への避難と言う形で僕の決断を尊重してくれた。

 ひとつだけこの話に救いがあるとするならば、僕が掛川くんの初恋の相手だと言うのは嘘だということ。僕がずたずたにして踏み躙った彼の気持ちが初恋ではなかったことでほんの少しだけ罪が軽くなったような気がした。いずれにせよ、許されることではないけれど。

 大人になんてなりたくなかった。誰も大人になんてならないでほしかった。恋なんて知らない子供のままでいられたらよかったのに。誰も恋を知らない子供だけの世界に行きたい。そしたら、僕は人を傷つけずに済んだのに。

「人殺し」
 手首を切る直前、彼が呟いたその言葉が今も耳にこびりついて離れない。