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 校庭からは、サッカーボールが蹴られる音、野球のバッドが球を打つ音。男女の笑い声。さまざまな音が、入り乱れていた。教室の窓からは、夕焼けが見え始め空の様子が変わろうとしていた。


 私は当然、部活などには入っていない。授業が終わると帰るだけだった。
 この日は日直で、誰もいない教室に残り、日誌を書いていた。

 窓の外を眺めると、額に汗をかきながら部活に励んでいる生徒たちが目に映る。


「楽しそう……青春していていいな」

 鬼の子の私は当然のように、イベントごとには不参加だった。
 高校生活、特に印象に残る記憶はない。
 それでいいと思い続けていたが、心の奥底には憧れが眠っていたらしい。心の声が漏れていた。


 教室のドアが開く音が耳に届く。窓の外を見ていた視線を入り口に向けると、そこにいたのは綱くんだった。
 誰もいない教室で、当然のように私の前の席に座るので、私の方が身構えて変に緊張してしまう。

 至近距離に、誰かがいることは初めてのことだった。ただ前後の席に座っているだけなのに、心拍数が速くなる。ちらりと綱くんを見ると、横顔も綺麗で見惚れてしまいそうになった。

 

「――見過ぎだろ」

 呟く綱くんの声で我に返った。と同時に見ていたことがバレていて、恥ずかしさで顔がみるみる赤く染まっていく。

「なあー、質問していい?」
「う、うん」
「父ちゃんと母ちゃん、どっちが鬼なの?」

 予想外の質問に、呆気に取られてしまった。興味津々とでもいうように目に光が放たれている。


「えっと?」
「お前って鬼の子なんだろ? 両親のどっちが鬼なのかなって。……やっぱりさ、強いの?」
「ふっ」

 少し前のめりで聞いてくるものだから、思わず吹き出してしまった。
 
「なんだよ、何が面白かった?」
「ご、ごめん。『強いの?』なんて、少年漫画の主人公みたいなこと聞かれるとは思わなくて。私のお父さんとお母さんは人間だよ」
「じゃあ、鬼の子じゃねぇじゃん」

 少し残念そうにしているように見えたのは気のせいだろうか。綱くんは、不思議そうに首を傾げていた。

「私の先祖が鬼と子供作ったって言われてる。……だから、鬼の子なんだよ。私は」

 視線をひしひしと感じた。綱くんは私の顔を真正面からまじまじと見つめている。
 気まずくて視線を逸らすが、それでもずっと見られているのを感じる。

「な、なに?」

 真正面で、綺麗な顔にジーッと顔を見られるのは、どうしたって緊張してしまう。手に汗が吹き出てくる。

「鬼の血を引いてるってことだろ? でも、全然鬼っぽいところないなって」
「……あるよ」
「どこ?」
「……」
 
 一瞬迷ったが、綱くんには見せても大丈夫な気がした。耳にかけられたマスクの紐を外す。隠していた口元が露わになる。そして、私はニーッと歯を見せるように笑ってみせた。

「鬼歯って言うんだけど……」
「それ、八重歯だろ?」
「え、」
「え?」

 幼いころから、鋭く顔を出す歯が、鬼歯だと教えられてきた。「鬼の証拠だから、鬼歯を見せて笑うな」とも言われ続けた。なのに、綱くんは、これを八重歯だと言い張る。その目は真剣そのもので、冗談で言っているようには感じない。

「え、でも、鬼歯は鬼の子にしかないから、笑うなって」
「俺にも八重歯あるけどな」

 そう言うと、綱くんは、ニーッと笑って歯を見せた。まじまじと見ると、確かに私と似た鬼歯っぽいのが見える。

「え、それ、八重歯って言うの? 鬼の子以外にもいるの?」
「八重歯がいる奴なんて、かなりいると思うけどな?」
「そ、そうなんだ……」
「鬼歯も八重歯も同じじゃね? 俺は自分のチャームポイントだと思ってるし」

 私は鬼の子の証拠である鬼歯が、嫌で嫌で仕方なかった。その鬼歯と似たような八重歯をもち、チャームポイントだと言い張る綱くん。

「八重歯を鬼歯なんていう奴、初めてだな」
「昔から家族に鬼の子だから、鬼歯があるんだって言われ続けてきたから。八重歯っていう別名があるのも知らなかった」
「友達とかに教えてもらわなかったのか?」
「と、友達なんて、出来たことないから……」
「は。一人も?」
「う、うん」
「人生で友達が一人もいない奴初めて見た。そんなやついるんだ」

 言葉の棘がチクチクと痛い。きっと嫌味で言ってるのではない。目を見開いて驚いたかと思えば、今は関心するように頷いている。コロコロ変わる表情が純粋な反応だと物語っている。
 
「なんで? なんで友達できないの?」
「なんでって……鬼の子だからだよ」
「そんなことで? 鬼の子だからって、それだけで友達できないのかよ」

 その言葉は心に響いた。鬼の子のことを「そんなこと」なんていう人は、この町にはいなかった。

 鬼の子だと聞いても、変わらずに話しかけてくれる。
 平然と私の前の席に座り、身体を近づけて話しかけてくる綱くんは、鬼の子ということが気にならないのだろうか。今まで避けられ続ける人生だった私は、綱くんの行動にうろたえてしまう。


「『そんなこと』なんて初めて言われたよ」
「鬼の子って言われても、見た目は全く恐ろしくないしな。俺には、ただの女子にしか見えないけど」

 ――ただの女子。
 綱くんが放つ言葉の一つ一つが、私の心に浸透していく。鬼の子に産まれ、後ろ指をさされる人生で、普通の子になりたかった私には、泣きたくなるくらい嬉しい言葉だった。

 どうして綱くんの言葉は、こんなにも私の心に届くのだろう。
 どうして綱くんの言葉は、こんなにも嬉しいのだろう。


「鬼の子のことを『そんなこと』って言ってくれてありがとう。そんな風に言ってくれたのは、綱くんだけだよ」
「もっと鬼っぽくツノとか生えてたりしたら、『おっ!鬼だ!』ってなるけどな」

 軽い気持ちで言ったであろうその言葉は心に重くのしかかる。私の頭には小さな角が生えているからだ。ふわふわの髪の毛のおかげで、小さいツノが隠れているので、綱くんは見えていないのだろう。

 ツノが生えていることを普通に伝えればいいのに、喉まで出かかった言葉が出てこない。
 知られたら、もう話してもらえないかもしれない。もう、笑顔を向けてもらえないかもしれない。
 そんな考えが頭を(よぎ)って言えなかった。

 綱くんには拒絶されくない。心の奥底でそう思っていたんだ。
 鬼の子と怖がらずに接してくれたことが、自分で思っていた以上に嬉しかったことに気づいた。

 「どうした?」

 顔は俯いて視線を合わそうとしない私の顔も覗き込んできた。近くで見ても怖いくらい綺麗な顔をしていて、直視出来ない。思わず目を背ける。

「俺、なんか失礼なこと言った? けっこう無神経って言われたりするんだよな。ごめん。悪気は全くない」

 黙り込む私を心配して、両手を合わせて謝っている。私自身の気持ちの問題で、綱くんは全く悪くないのに。意を決して口を開いた。

「あ、あの、私、ツノ生えてます!」

 思っていたよりも意気込んでしまい、口から出た声は二人の空間には場違いなくらい大声だった。綱くんは驚いたようで口をぽかんと開けて固まっている。普段誰とも喋らない私は、声のボリュームの加減も調整できないらしい。どうしても挙動不審になってしまう。いきなり黙るし、いきなり大声で話し出す。完全に変人だ。

「くくっ。なんでそんなに、言い切ったの? しかも大声で……くくっ」
「いや、思いのほか大声になっちゃって……」

 しどろもどろで答えている私に風が吹いた。髪の毛がさらりと揺れる。
 いや、風ではない。綱くんの手が髪の毛をさらっとなぞったのだ。

「本当だ。想像より小さいな」

 髪の毛をさらりとなぞり、ツノが露わになる。鬼の子のツノを見ても、怖がる素振りを微塵も見せず、からりと笑った。今まで私に自ら触れる人に出会ったことはない。なぜ彼は鬼の子と知っても、鬼のツノを見ても、怖がらないのだろう。
 彼に拒絶されなくて、ほっとすると同時に胸の奥があたたかくなるのを感じた。

 しかし、もう一つ問題がある。綱くんは今日転校してきたので、鬼の子の呪いを知らない。
 「鬼の子に接吻されたモノを死ぬ」
 一番伝えなければならないことをまだ言えていない。

 向き合ってくれる彼に呪いのことを伝えなければいけない。
 頭では分かっているのに、感情が邪魔をして言葉が出てこない。

 死ぬかもしれない。そんな呪いの事を知ったら、避けるのが当然だ。今までもずっとそうだった。私が綱くんの立場ならそうする。
 今までと違うのは、孤独しか知らなかったのに、人と話す楽しさを知ってしまった。呪いのことを話して、この幸福が終わってしまうと考えたら、胸が押しつぶされたように苦しい。

 もう少し、もう少しだけ。綱くんと話をしたい。
 普通の人にとっては日常である、放課後にクラスメイトと談笑する事が、私にとっては特別だったから。

 顔を上げて彼を見ると、微笑んで視線を合わせてくれる。私と目が合うと罰が悪そうに目を逸らされるのが当たり前だった。彼の普通に接してくれる対応が心の底から嬉しい。優しくしてくれる彼だからこそ、隠したくなかった。ごくんと生唾を呑み決意を固めて、ゆっくり口を開いた。

「綱くん、鬼の子の私に優しくしてくれてありがとう」
「優しくなんてしたか?」
「うん、こうして話してくれるのも、私には特別なことなんだ」
「ふーん。だったら、明日も話せばいいじゃん」
「……もう、私とは話さない方がいいと思う」
「なんで?」
「わ、私……呪われてるんだ。みんなに嫌われているのも、呪いの力が大きいの」
「……呪いって?」
「私に接吻された者は死ぬ」

 「死ぬ」その言葉は重い。返答はなく、心が押しつぶされてしまいそうな沈黙が流れる。怖くて綱くんの顔を見られない。反応が怖くてぎゅっと目を瞑った。目を閉じて視界が真っ暗の中、静寂は破られない。

 この無言が彼の答えだと思った。
 当然だ。殺されてしまうリスクを背負ってまで、私と話す理由など、いくら探しても見つからないだろう。

 心が諦めると同時に、ガタッと椅子を引く音が鼓膜に届く。
 このまま教室を出ていくのだろう。そう思っていた。
 
 暗闇の中、両手に今までに感じたことのないあたたかい温もりを感じる。慣れないぬくもりに瞼を開けると、綱くんは私の両手を握っていた。一瞬なにが起きているのか理解できなかった。

「手は触れても死なないみたいだな」

 優しい声にハッと我に返った。手を握られているという事実を頭が理解すると、握られていた手を勢いよく払った。途端に恥ずかしくなり頬は真っ赤に染まる。

「て、て、て、手! 手!」

 あたたかい温もりと、肌に触れた感触の余韻がまだ少し残る。
 突然、手を握られた驚きと恥ずかしさで頭がパニック寸前だった。完全に語彙力を失い、責め立てることも出来ない。

「綱くん! 手! 私を握った手大丈夫?」

 パニックの次に不安が一気に押し寄せてきた。私の手を握っ彼のた手に異常が出ないか。前のめりで確認する。

「……手繋ぎはセーフ! ほら!」

 したり顔で手のひらを広げて見せてくれている。綱くんの手に何も異常が出なくて心の底からホッとして思わず大きなため息が漏れた。

 鬼王家に古くから伝わる書物に記された鬼の子の呪い。
 しかし、それは遥か昔のもので、令和の現在、真相を知る者は生きていない。呪いの詳細を知る手立てがなかった。なので、私自身もいつ、どのタイミングで呪いが発動するか分からないのだ。

 私が触れたら、鬼の子の呪いで殺してしまうのではないかと、誰かに触れることさえ怖くて出来なかった。
 それ故に、父と母でさえ、子供の私の手を握ったことはない。

 子供なら、当たり前のように親と手を繋ぐ。その日常を経験したことがなかった。誰かと手を繋いだことなど、人生で一度もなかったのだ。

 それなのに、こんなに簡単に。
 普通の人の手を握るように、意図も簡単に鬼の子の手を握るなんて……。

 目の前の景色が涙で滲んでいく。自分でも感情のコントロールが出来ない。気づくと私の目からは大粒の涙が溢れ出ていた。決壊したダムが溢れ出るように涙が止まることはなかった。

 涙で滲んだ景色に映る綱くんの顔は、怖いくらいに綺麗だった。

「おい? どうした?」

 私の目から止めどなく流れ出る涙を見て、なんだか焦っているように見える。
 何故私が、泣いてるのか分からない。といった表情で困惑している。

 今日転校してきた初対面のクラスメイトの前で泣きたいわけでなはい。ただ、止めることが出来ない。
 初めて知った。嬉しい気持ちが頂点に達すると、涙が出てくるということを。
 嬉しくて涙を流したのは、初めての経験だった。


「こ、これは、嬉し涙だから」
「それって良いこと? 俺が何か泣かせるようなこと言ったのかと思ったじゃん……」
「うん、綱くんのせいだよ!」
 
 生まれて初めて手を握られた。
 鬼の子の呪いを恐れずに、たくさん話を聞いてくれた。

 嬉しくて、溢れる涙が止まらない。
 頬を伝う涙が、こんなにもあたたかいのは初めてだった。

 この気持ちが少しでも伝わるように、頬を伝い涙を拭いながら、これでもかというほど笑ってみせた。
 綱くんといると、無くしていた感情が豊かになる。