「ああ〜~!」

なんて日だ。

「クッッソが!」

俺は今、先日の模試の結果を見て愕然としている。

それはそれは散々で、思わず目を覆いたくなる痛い結果となった。

「マジかよ……」

第一希望の大学はE判定、第二希望、第三希望はD判定。

情けないことに、合格ラインは程遠い。このままでは浪人確定だ。

「なあ、真護(しんご)。法学部以外じゃダメなん?」

俺と同い年くらいの、マモルって名前の男の幽霊が言った。

そう、幽霊だ。嘘のような本当の話。
俺はある日突然、この幽霊に取り憑かれたのだ。

「ダメなんだよ、それじゃ」
「ふーん」

いつからだったかは具体的には覚えていない。多分ここ3ヶ月くらい、盆すぎたあたりだったと思う。夏期講習に通い始めて数日経ったか経たないかくらいの時だった。

夏期講習だけじゃ足りなくて、オープンキャンパスや公開講座に参加したり、法律学の本を買い漁ったり、ネットで効率の良い学習方法を検索しまくったりしてみたけど、思ったほど結果は出なかった。
俺が法学部を目指す理由は、ただ一つ。

「どうしても、許せないやつがいるんだ」
「は? それだけ?」
「それだけだけど。何か?」
「いや、無謀だなと思って」

幽霊のお前に何がわかる。まあ、幽霊は進路とか考えなくてもいいもんな。

「うるさいな。無謀だろうが目的は一つなんだから、選択肢は少ないほうがいいだろ」
「いや、お前の場合はもう少し視野広げたほうがいいと思うぞ」
「嫌だね。受験まであと半年はあるし、次こそ合格ラインに入れるようにやるだけだ」
「うわ、お前それ本気で言ってる? オレは受験なんて経験したことないけど、そんなの俺ですら危機感覚えるよ」

マモルは好き放題言ってくれる。幽霊のくせに、いちいち説教じみた発言が多くてなんだかイライラしてきた。
「それでも! 俺は……法学部に行きたいんだ。行かないと、ダメなんだ」

俺はどうしても法学部に行きたかった。その理由は、兄の事故死だった。



俺は、小学一年生の時に両親から衝撃的な話を聞いた。俺が母に「お兄ちゃんが欲しい」と言った瞬間、母が泣き崩れたのがきっかけだった。

俺には5歳上の兄がいた事は知っていた。だが、兄が亡くなった理由まではまだ聞かされていなかった。
「本当ならもう少しお前が大きくなってから話そうと思っていたんだが」と父が前置きし、俺に初めてその話をした。

兄は母と買い物に出かけた帰りに事故に遭ったこと。
当時母は俺を妊娠しており、運悪く飲酒で居眠りした運転手のトラックが暴走して母の方に突っ込んできて……幼い兄が咄嗟に母を突き飛ばし、母と俺を庇って轢かれたこと。
母は倒れた衝撃で破水し、緊急帝王切開となり俺が生まれたこと。

しかも、その酔っ払った運転手はトラックを乗り捨ててそのまま逃亡したという。当然すぐに捕まって檻に入ったらしいが、刑期が明けたら出てくるらしい、と。



俺は理解できなかった。人を殺しておいて、謝罪も何もなく刑期が明けたら元通りの生活ができるなんて。命を奪われたものはもう二度と戻ってこないというのに。

どんなに重い罪を犯したとしても、法律というものがある以上、法律以上のもので裁くことはできないのが悔しかった。

法の壁は厚く、異常に高い。だったら法律のプロを目指そう。そしていつか兄を殺した重罪人と顔を合わせることがあれば、法の下で徹底的に追い詰めてやる。

復讐、のような感情が俺の中にあることは否めないが、この先大切な人を失って苦しむ人の救いになるようなことがしたいという思いも同居していた。

「許せないやつのために、なりたくもない仕事に就くつもりなのか?」
「別に、なりたくないわけじゃないし」
マモルに言われて俺はハッとした。

仮にもし、兄の事故死がなかったら、俺は法学部に行こうなんて思わなかったんじゃないのか。

「お前が何のために法学部に行こうとしてるか知らないけどさ、復讐のためならやめとけ。絶対後悔するから」
追い打ちをかけるようにマモルが言った。

「俺は、兄ちゃんを殺したやつを絶対許さない。ああいうやつに苦しめられる人の思いが少しでも報われるように、俺は法律のプロになるって決めたんだ」
俺だって、プライドってものがある。バカなりに考えて考えて、がむしゃらにやれるだけのことをやってきているつもりだ。

つもりだから、結果が伴わない。そんなのは百も承知だ。
それでも。

「あいつが檻から出てくる……」
そう思うだけで虫酸が走る。
何度出ようが、罪は消えない。出てきたからって、その罪を帳消しにされるようなことがあったらたまったものじゃない。

「なあ、真護」
「何だよ」
「お前、今幸せか?」
「は? 幸せなわけないだろ」
「そうか」
マモルはそれ以上何も言わなかった。

ちょっと強く言い過ぎたか?
「もう寝るから」
俺は部屋の明かりを消してベッドに横になった。

月明かりがカーテンの隙間から差し込む。
透き通ったマモルの体が宙に浮いているのが見えた。
マモルはどこか悲しげに瞳を揺らす。

俺は思い切って聞いてみた。
「マモル、あのさ」
マモルが俺に視線だけ合わせる。
「お前はさ、何で死んだの?」

「……」
マモルは沈黙したまま視線を床に落とした。
しまった、失言だったか。

「あ、悪い。言いたくないならいいんだ」
「事故だよ」
「え?」

マモルも、か。事故って聞くたびに胸が苦しくなる。

無念だったろうな。


「飲酒運転のトラックが俺に突っ込んできてさ。しかも寝てやがったのよ、そいつ」
「え……」

これは偶然か?

「オレまだチビでさ。母ちゃんと買い物に行った帰りだったんだけど、『オレもうすぐ兄ちゃんになるんだ!』って道行く人に会うたびにはしゃいで。母ちゃん、でっかい腹抱えながら笑ってたっけなあ」

ちょっと待て。
どういうことだ?

「そしたらトラックの野郎。オレらの方に突っ込んで来やがって。そんでオレは咄嗟に母ちゃんを突き飛ばしたんだ」

その続きは、聞かなくても想像がついた。というか、確信に変わった。

だけど、俺はマモルの言葉を待った。

その続きを、是非ともマモルの口から聞きたかったからだ。
いや、聞かなきゃいけないような気がした。

マモルは続けた。
「守らなきゃって思ったんだ。せめて母ちゃんと、これから生まれてくる弟のことだけは……」

マモルは泣いていた。

「母ちゃんと弟を守ることができたなら、それはそれでよかった。助けた事自体は後悔していない。でも、オレ、本当は……生きて……弟に会いたかったよ……」

嘘だろ。

こんな偶然あるものか。
確信に変わったとはいえ、正直今でも信じられない。

「マモル……お前、まさか」
気がつけば、俺も泣いていた。

「真護……お前が生きていてくれて、よかった」
「マモ――」
「悪い、オレもう行かないとだわ。じゃあな」
マモルが消えていく。

「ま、待ってくれ! マ……」
兄ちゃん、と呼ぼうとして、俺は言い淀む。

――真護。
「……」

――オレの分まで、人生楽しんでくれ。

声だけになったマモルが言った。

「……ざけんな」

――お前はまだこっちに来るなよ。とりあえず法学部は考え直した方がいい。

最後まで余計なことを。
俺はあんたのために……

――本当に自分のためになる選択をしろ。他人の存在に自分の人生を委ねるな。

――お前は、お前の進みたい道を選べ。それがお前の進むべき道だ。


俺は兄ちゃんのためといいながら、自分の復讐心を正義と混同し、法学部を目指す自分に酔っていただけなのか。

――お前の幸せは、その先にあるはずだから。

じゃあな、と言ってマモルは消えた。

その日以来、マモルは姿を現さなかった。





「母ちゃん」
「あら、真護。どうしたの?」
翌朝、俺は学校に向かう前に、台所にいた母に尋ねてみた。
「俺の兄ちゃんって、どんなやつだった?」
唐突な質問に一瞬困惑の様子が窺えたが、母は俺に言った。

「……そうねえ。とても素直で、人懐っこい子だったわ」
「他には?」
「まだ幼かったから何とも言えないけど。正義感が強くて、大切なものを守るために自分の身を呈して行動できる、勇敢な子だった」
「……そうか」
「それよりどうしたのよ、急にお兄ちゃんのこと話すなんて」
「いや、それがさ……」
俺は言いかけてやめた。

どうやらマモルは、俺にしか見えなかったようだった。
それとも、あれは夢だったのだろうか。

「あ、やっぱなんでもないわ」
「何よ、それ」
「ちなみになんだけど」
俺は一番気になってたことを聞いてみた。
「兄ちゃんの名前って、何ていうんだっけ?」

母は冷蔵庫の脇にくっついたホワイトボードに、“護”と書いた。
「え……」

(まもる)よ」

マモルは、やっぱり俺の兄ちゃんだった。
「あなたの名前にも、入ってるでしょ?」
「あ……」

確かに入っていた。俺の名前の一部は、兄ちゃんだったのだとこの日母に言われて初めて気づいた。

「親のエゴかもしれないけど、母さんはね。お兄ちゃんのこと、忘れたくなかった。今度こそ、大切なものを護れるように……あなたにはお兄ちゃんの分まで、自分を大切にしながら生きていてほしいから」

マモルが兄ちゃんでよかった。
兄ちゃんが“護”で、本当によかった。

「あなたにお兄ちゃんへの思いを託すのは重荷じゃないかって思ったこともあった。それでも、あなたのお兄ちゃんは、命がけで母さんと真護を護ってくれたから。それだけは、どうか忘れないでいてあげて」

何だよそれ。
兄ちゃん、めちゃくちゃカッコよすぎんだろ。
「忘れるかよ。自慢の兄ちゃんじゃないか」
マモルがこの世を去った日に、俺が生まれた。

「そういえば、今日は真護の誕生日だったわね」
18になった俺。マモルのあの姿は、もし生きていたら見られたかもしれない兄ちゃんの姿だったのだろうか。

「俺、そろそろ行くわ」
俺は学校へ向かう。
でも、今日はちょっと寄り道をする予定だ。
そこへ行けば、またマモルに会えそうな気がするから。

「兄ちゃん」

俺の誕生日は、毎年ここから始まる。
花も線香も何も持たずに行くのは、俺がここに来てるって両親に知られるのが嫌だからだ。
嫌というか、気恥ずかしいというか。
まあ、難しい年頃だからというべきだろうか。

マモルに会えるかもと思って今日来てみたが、もうマモルには二度と会えないのだろうなと何となく感じていた。

俺が成人したからだろうか。

マモルは突然現れて、突然消えた。

霊感のない俺がまさか幽霊に憑かれるとは思いもしなかったけど。

もしかしたら俺の進路選択を懸念した兄ちゃんが、俺のことを導いてくれようとしてたのかもしれない。

だから、あんなこと聞いたのか。




「なあ、真護。お前、今幸せか?」




それに対して、俺は何て答えた?


今思うと、後悔しかない。

嘘でもいいから、「幸せだ」って言えばよかったのだろうか。

兄ちゃんを殺したやつを許すことはできない。
でも、命がけで母ちゃんと俺を護ってくれた兄ちゃんのことは、何年経っても誇らしく思う。

「ありがとう」

誕生日は、親に感謝する日だって言う人もいるけど。

俺は両親以上に、兄に感謝している。

兄がいなければ、俺はこの世に生まれてくることができなかった。
産んだのは母ちゃんだけど、その母ちゃんの命を護ったのは間違いなく兄ちゃんだ。

わずか5歳の子どもができる所業じゃない。

兄ちゃんの命を奪ったやつのことは未だに許せない。それでも、兄ちゃんが俺を護ってくれたという事実があるだけで、十分だった。

さて、俺の進路については……。

「法学部……か」


法学部にこだわる理由が、徐々に不鮮明になっていく。

「自分のためになる選択、ね」

無理はしない。

兄が護ってくれたこの命で、俺にできることを考えよう。

犯人を憎むことより、俺が笑って過ごせる時間のほうが大切だ。

兄もきっと、それを望んでいるはず。

「マモル……」

たとえこの先もう姿が見えなくなっても。



俺の中には、マモル(兄ちゃん)がいる。


強くて優しい、自慢の兄が。

〈完〉