千景とふたり、秘密基地で過ごす時間は、とても楽しかった。
ゲームがあるわけでも、珍しいおもちゃがあるわけでもない。けれど彼は穏やかな雰囲気で接しやすく、僕の退屈な話も楽しそうに聞いてくれる。
小屋の周りの風景は相変わらず幻想的で飽きずに見ることが出来たし、自分達だけの秘密基地に居るのだという特別感がとても良かった。
千景は出会ったばかりだというのに、生まれた時から一緒に居たような、不思議と落ち着く空気を纏っている。
学校で過ごすより、家で過ごすより、ずっと心安らぐ幸せなひと時。
窓際に置いてある時計の針は、きっと数倍速で動いているに違いない。
朝ごはんを食べてからこっそりおばあちゃんの家を出て、昼ごはんの時間に一旦戻って、その後夜ごはんまで脱け出す。
そんな生活をしていたけれど、ご飯を食べにだけ戻る僕を、特に誰も気にしなかった。
寧ろ、ようやくこっちでの友達が出来たのだろうと微笑ましそうに見てくるので、その次の日からは堂々と家を出ることにした。
もちろん、森に入る姿だけは見られないよう注意して。
「なんだ夏夜、やっと友達出来たのか!?」
「う、うん……」
「そうか、そうか、よかったなぁ。今日は祝杯だ!」
「いや、お父さんいつも飲んでるじゃん」
そうしてあっという間に三日経ち、四日目を迎えた。ここに居られる期間の、折り返し地点だ。
その間千景はいつも、そんな風にこまめに行き来する僕より先に秘密基地に居た。ひょっとすると、ご飯も食べに帰らずに、ずっとここにいるのかもしれない。
「千景は、家に帰らなくて大丈夫なの?」
「うん。うるさく言う人は居ないし、食糧はちゃんと持ち込んでるから」
「へえ……用意周到だ」
「夏夜こそ、秋菜さんや冬悟さんに何か言われない?」
「あ、お父さんのことも知ってるんだ? とりあえず、今のところ森に入ってるのはバレてないから平気」
「そう……」
おばあちゃんから「友達と遊ぶのはいいけど、森には熊が出るから入らないようにね」なんて言われたけれど、熊なんて見掛けなかった。
そもそもそんなに危険な森なら、その近くにおばあちゃん家があったり、こんな小屋があるわけないのだ。
「でも、友達が出来たっていうのは、伝えたよ。……その、僕たち、友達でいいんだよね?」
「ふふ、もちろん。夏夜はボクの友達」
改めて口にするのはとても緊張したけれど、すぐに肯定してくれた千景に、胸を撫で下ろす。
友達。その響きを噛み締めるように、僕は勢いよくハンモックに飛び乗った。
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「今日は何して遊ぶ?」
「んー、本も大分読んだし、ここにあるおもちゃも遊んだし、ハンモックは……昨日壊しちゃったけど直せたし……あ、そうだ、千景さ、勉強得意?」
「勉強?」
「どうせ暇だろうからって、おばあちゃん家に夏休みの宿題持ってきてるんだ。手伝ってよ!」
「わかった。役に立てるかはわからないけど、お昼ごはん食べたら持っておいで」
「やった、ありがとう!」
そうして午前中は読みかけだった本を読んで過ごし、午後からは夏休みの宿題をすることにした。
夏休みに入ってすぐこの村に来て、それからずっと千景と居るから、宿題は手付かずなのだ。
「それじゃあ、また一時間くらいしたら宿題持ってくる!」
「うん、待ってるよ」
おばあちゃんの家に戻り、昼ごはんの冷やし中華をすぐに平らげ、デザートにと出された冷えたさくらんぼ。
いくつかこっそりティッシュにくるんで、千景に持っていくことにした。
「それじゃあ、友達と宿題してくる」
「おや、なっちゃんはえらいねぇ。頑張っておいで」
「うん」
おばあちゃんの見送りと、相変わらずお酒を飲んでいるお父さんの声を聞きながら、僕は駆け足で通い慣れた森へと向かった。
もうここに来て五日目だ。少しでも足が速くなれば、少しでも長くあの場所に居られるのにと、重い足を動かしながらつい考えてしまう。
学校では、駆けっこはビリだった。五年生の運動会、僕のせいでクラスリレーに負けた時は、居たたまれなくて吐き気がした。
勉強も出来なくて、テスト順位も成績も、下から数えた方が早い。僕がクラスの平均点を下げている。
合唱コンクールも、あまりに歌が下手くそで一人だけ口パクを指示されたし、学芸会では台詞のない木の役だった。
何の取り柄もなくて、いじめとまではいかないけれど、夏休みに遊ぶ友達一人居ない、みじめな日々。
もしも千景が同じ学校だったなら、僕の日常はもっと素敵なものだったに違いない。
けれど、もしも千景が同じ学校だったなら、こんな風に二人で過ごせはしなかっただろう。
千景は人当たりがよくて、博識で、性格もよくて、見た目も綺麗だから、きっと人気者になる。
僕は、僕のだめっぷりを知っているクラスメイトの前では、つい萎縮してしまう。
クラスや班単位で何かやる時には、リレーや合唱の時のように足を引っ張らないかと緊張して、生きていてごめんなさいとすら感じてしまう。
あの日咄嗟に九十度の綺麗なお辞儀が出来たのも、そんな心理のあらわれだ。
だから、僕の学校での姿を知らない千景の前でのびのびと過ごせるこの時間は、なおさら特別だった。
この森の、この秘密基地だからこその特別な関係を、僕は壊したくなかった。
「千景、ただいま!」
「おかえり、夏夜。早かったね?」
「本当? へへ、走ってきたんだ」
「暑かったろう、まずは涼んでから宿題にしようね」
首が動く度カタカタと音の鳴る小さな扇風機の真ん前を陣取って、僕は声を出して宇宙人の真似をする。そんな僕を見て、千景は笑った。
「ふふ、夏夜は声がまっすぐだから、そうやって震わせるとまた違う魅力があるね」
「声を、震わせる?」
「そう、ビブラートっていうのかな。歌う時とかにすると、きっと上手く聴こえるよ」
「えっ」
ちょうど森を駆け抜けながら合唱コンクールの苦い思い出を振り返っていたから、少しぎょっとする。歌の話題はいけない。
僕は話を逸らそうとするけれど、千景はそう言うなり、綺麗な響きのワンフレーズを聴かせてくれた。
知らない曲だったけれど、狭い小屋に歌声が染み入るような、不思議な感覚だった。
「……ほら、こんな風に」
「すごい……千景、歌が上手いんだね」
「ありがとう、夏夜でも出来るようになるよ。教えようか?」
「……! うん!」
人前で歌うのはやっぱり抵抗があったけれど、そんなのすぐに忘れるくらい、千景は教え方が上手かった。
こんな田舎に居なければ、彼はきっと有名歌手にも有名トレーナーにもなれるだろう。
そして数時間で、僕の歌声は随分と変わった。これなら、今年の合唱コンクールでは口パクをせずに済むかもしれない。
「やっぱり良くなったね。夏夜は声がいいんだから、もっと自信を持つといい」
「……ありがとう。僕、何にも出来なくて自信なかったんだけど、千景が褒めてくれるなら、上手くやれそうな気がする」
「なら良かった。夏夜は何も出来ないわけじゃないよ、ただ自信がないんだ。……ほら、ボクと初めて会った時も、萎縮していたし」
「あれは誰でもそうなる……」
「あはは。……と、そうだ。宿題をするんだったね、テキストは持ってきた?」
「あ、うん!」
一人用の小さな木の机に、椅子をくっつけて隣合って座った僕たちは、一緒になってテキストを覗き込む。
狭い暑いと笑いながら、やっぱり千景は教えるのが上手かった。
少し年上に見えた彼は、やはり僕の宿題程度の勉強は余裕で出来るようで、家庭教師さながらわからない部分を丁寧に教えてくれる。
歌に、勉強に、人とのコミュニケーション。自信のない部分を次々克服させてくれる存在に、憧れと共に、こんな風になりたいと感じる。
そうすれば、この夏が終わっても、堂々と彼の傍に居られる気がした。
僕はテキストを解きながら、ちらりと横目に千景の顔を覗き見る。
古い木の匂いと、夏の温度と、僕達だけの小さな世界。こんな時間が、ずっと続けばいいのにと思った。
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