数日後の朝、寝坊した私は授業の開始時刻からだいぶ遅れて学校に向かっていた。
この時間帯のバスは好き。
通勤・通学ラッシュはとうに過ぎているおかげで好きな席に座れるし、人が少なくて静かだから無心になれるし、外の景色をぼんやりと見ていられる。いつも慌ただしく騒がしい朝の風景とは打って変わって、ゆったりと流れる時間は心地よかった。日々の喧騒もサイトでの誹謗中傷も、この瞬間だけは忘れられる。
バスを降りると、ちらちらと雪が降っていた。白い足跡をつけながら、誰もいない道をひとりで優雅に歩く。ちょうど歩行者信号が赤に変わったから、すぐ横にある地下歩道の階段を下りた。
「菜摘?」
後ろから聞こえた、振り向かなくてもわかる声。
まさかここで会うと思っていなかった私の心臓は大きく跳ねた。
「大ちゃん」
振り向くと、大ちゃんは「おはよ」と微笑んだ。
学校来たんだ──。
「遅刻?」
「うん。大ちゃんも?」
「一時間目、集会なんだよ。体育館寒いからさ」
「それ遅刻じゃなくてサボりじゃん」
「菜摘もじゃん」
「私はただの寝坊」
「大して変わんないだろ」
笑って、大ちゃんが歩き出した。私も隣に並んで歩いた。
地下歩道の空間に、ふたりぶんの足音が響く。
「大ちゃん、最近あんまり学校来てないよね」
事情があるのかもしれないし、触れていいだろうかと悩みはしたものの、気になってしまって他の話題が浮かばない。
「んー……まあね。単位足りてるから大丈夫だよ」
「……そっか」
予想通りの答えだった。
やっぱり大ちゃんはなにも言ってくれない。そんなの私が求めている答えじゃないことくらい、きっとわかっているはずなのに。これ以上は訊かないで、という無言のサインに思える。たぶんそうなのだろうけど。
「あ、就活は? もう終わってるの?」
「まあね。親父の会社に入るだけだから、就活は特にしてないけど」
そういえば、家がお金持ちだと言っていた。社長さんだったのか。
すごいね、と言葉を紡ぐことができなかったのは、いつか見た大ちゃんと同じ顔をしていたからだ。無表情で遠くを見つめる、喜怒哀楽のどれなのかわからない、色のない昏い瞳。
「……そ、か」
近くにいられているんじゃないかと思っても、どうしても一定の距離まで近付くと壁を作られてしまう。パーソナルスペースに入れてもらっているなんて、大ちゃんにとって私は特別だなんて、私の勘違いでしかないのだと思い知らされる。
出会った頃から私たちの距離は変わっていない。もしかしたら、あの頃よりずっと遠くなってしまったのかもしれない。訊きたいことはいくらでもあるのに、もっと近付きたいと何度でも思うのに、大ちゃんの分厚い壁をぶち壊す勇気も度胸も、私にはなかった。
「心配してくれてありがと」
口をつぐんで俯いた私の頭を包むように、大ちゃんの大きな手が乗る。
すると大ちゃんは、もうすぐ出口なのに突然立ち止まった。
「髪、伸びたね」
頭に乗せていた手をするりと滑らせて私の髪をすくった。