昼休み、彼氏に会いにいく理緒の付き添いで、三年生の教室がある三階へ行った。
彼氏と楽しそうに話している理緒を廊下の隅っこで待っていると、
「あれ、菜摘じゃん」
大ちゃんが教室から出てきた。
理緒の彼氏は大ちゃんと同じ専門科で、教室が隣同士なのだ。タイミングがよければ会えるかもしれないと期待してついてきたことは誰にも言えない。
「菜摘、なんか最近大変らしいじゃん。植木が言ってた」
「べつに大丈夫だよ。気にしてないし。ていうか、大ちゃんこそ大変そうじゃん。山岸くんの連絡先教えてってさっきも言われたよ」
冷やかすように言うと、大ちゃんは「そういうの困るんだけど」と眉をひそめた。
同じ高校に入って気付いたことがある。大ちゃんは他人に興味を示さない。
遊んだことのある由貴の名前すら覚えていなかったし、理緒や麻衣子だって何度も会っているのに、未だに名前を覚えていない。極度に人の顔と名前を覚えるのが苦手なのかと思っていたけれど、もはやそんな次元じゃなかった。
大ちゃんはたぶん、そもそも覚えようとしていない。まるで興味を持っていない。
大ちゃんのパーソナルスペースは驚くほど狭かった。
だけど──私のことはすぐに覚えてくれた。
「俺が彼女以外に連絡取る女は、菜摘だけだからって言っといて」
私が聞きたいのは、言わせたいのはそういうこと。たとえ友達だろうとなんだろうと、そこに恋愛感情がないとしても、私は大ちゃんにとって特別な存在なのだと思わせてほしかった。
どんどん計算高く、卑怯になっていく。
せめて大ちゃんといる時だけは、純粋な気持ちでいたいのに。
教室移動があると言った大ちゃんを見送り、ちょうど彼氏と話し終えた理緒が迎えに来て、一緒に階段を下りていく。
「菜摘、山岸さんと話してたでしょ」
「ん? うん」
「だから顔赤いのー?」
階段を踏み外した。とっさに手すりを掴み、すんでのところで転落を防ぐ。
「顔赤い!? 嘘でしょ!?」
「ほんとだよ。真っ赤。亮介には内緒にしといてあげる」
語尾にハートをつけたような甘い声音で理緒が言った。
動揺を隠せなかった。まだ大ちゃんのことが好きだと、理緒にばれてしまったわけで。
大ちゃんのことはもう好きじゃないっぽい、と大嘘の宣言をして、その直後に亮介という彼氏ができたのだ。なのに実はまだ大ちゃんのことが好きだなんて、軽蔑されてしまっただろうか。
私の心配とは裏腹に、理緒は怒っている様子もなくにっこり笑って、出会った頃より長くなった髪と短いスカートをふわりと揺らしながら、階段をリズミカルに下りていく。
「……理緒」
怖い。
だけど、もしかしたら私は、ずっと誰かに話したかったのかもしれない。
心の奥底で渦巻いている靄を、どこかに吐き出したかったのかもしれない。
「ん? なに?」
こんなこと誰にも言えないと思っていた。
だけど、どうせばれてしまったのなら。
この矛盾ばかりでどうしようもない心の内を、理緒に、すべて話してしまおうか。
「あのね、私、本当は──」
「菜摘!」
言いかけた時、階段に亮介の怒声が響いた。振り向けば、もはや当然のように亮介が立っていた。
やばい。今の話聞かれてた──?
「どこ行ってたんだよ。電話も出ねえし」
「亮介、待って! 菜摘は理緒についてきてくれただけだよ!」
「理緒、大丈夫だから。先に戻ってて」
「だってほんとに理緒が……」
「いいから。ごめんね」
もう一度「大丈夫だから」と繰り返すと、理緒は心配そうな顔をしながらも教室へ戻っていった。
スマホを見れば、不在着信が五件ある。たかが昼休みにかける量じゃない。
「なに? なんか用?」
「どこ行ってたかって訊いてんだよ!」
「私の勝手じゃん。なんでいちいち怒られなきゃいけないの? 休み時間まで拘束されたくないんだけど」
そう吐き捨てて亮介の横を通ろうとした時、腕を強く掴まれた。
「ふざけんなよ」
「こっちの台詞だよ。いい加減にして。そんな睨まれたってべつに怖くないから」
私たちの喧嘩を中断させたのは、授業開始を知らせる鐘だった。
舌打ちした亮介の腕を振りほどき、教室へ戻った。
どれだけ怒られても怒鳴られても、私は怖くもなんともなかった。
今怖いのはふたつだけ。
いつか限界が来るということと、壊れていく環境。それだけ。