夏休み前まではわいわいと賑やかだったこの教室も、あっという間に受験一色になっていた。
 ただでさえ雪国では貴重な短い夏だというのに、夏休みが終わると同時に早くも終わりを迎えてしまったらしい。

菜摘(なつみ)さ、髪黒くしなよ。もうすぐ受験なんだから」

 昼休み。トイレの鏡の前で、いつも行動を共にする伊織(いおり)が、ショートカットの髪をコームで丁寧にとかしながら言った。

 私より十センチも背が高い伊織を見上げ、受験生とは思えないほど明るく染まった自分の髪を指先でつまんでみる。
 長期連休明けは、休み中に羽目を外して染めた髪色のまま登校する子で溢れるのが恒例だったのに、今やこんな髪色なのは学年で私だけだった。

「願書の写真撮る時に黒スプレーで染める」
「馬鹿。願書以外にも内申とかいろいろあるでしょ」
「私立行くって言ってるじゃん。べつに内申とかどうでもいいし」

 私が受験する予定の高校は、市内で一番偏差値の低い私立高校。決して評判がいいとは言えないところだけれど、とりあえず高校生になれるならなんでもいい。勉強が大の苦手な私にとって、その高校はもってこいだった。

「確かに名前書けば入れるようなとこだけどさ。菜摘にはあんな高校似合わないよ」

 コームを小花柄のポーチにしまい、代わりに取り出したフルーツ系のリップを塗る伊織は、誰もが認める学年一の優等生だ。
 テストの成績は常に首位をキープしていて、生徒会長を務めていて、おまけに美人で女の子らしくて人望も厚くて、まさに才色兼備。これは親友としての過大評価じゃなく、伊織のことを知っている誰もが口を揃えてそう言うだろう。
 テストの成績がほぼ学年最下位で、校則を守らずに先生に怒られてばかりの私とは正反対である。

「菜摘はやればできる子なんだから。気持ちの問題じゃん」
「うん。まあ、気が向いたらね」

 その〝気持ち〟はどこから湧いてくるのだろう。
 伊織をはじめ仲のいい友達は、みんな将来の夢を持っていた。教師に保育士に看護師に、医者や弁護士なんて子もいる。まだ中学生だというのに、どうしてそんなに立派な夢を抱けて、ひたむきに頑張れるのだろう。
 私には将来の夢どころか、特技も趣味もなにもない。だから、行きたい高校なんてあるわけがなかった。

 廊下へ出ても伊織の説教が止まらず、そろそろ反撃を開始しようとしたところで、

「そうだよ。私立行くなんて話違うじゃん」

 突然後ろから肩を叩かれた。振り向くと、幼稚園からの幼なじみである隆志(たかし)が立っていた。伊織と同じく、ひねくれ者の私に付き合ってくれる大切な親友だ。
 説教が倍になるのはごめんだから、窓側の最後列にある自席へダッシュで向かう。椅子を引いて腰を下ろすと、余裕で追いかけてきた隆志が続けた。

「一緒の高校行くって約束しただろ」

 二年生になってすぐの頃、確かにそう約束した。もちろん覚えているし、その時は本気でそう思っていた。

 隆志の志望校は、市内では中間くらいの偏差値である南高。
 伊織は市内トップの進学校を志望しているから確実に離れるし、他の子たちもそれぞれの夢に向かって最短ルートとなる高校を志望している。つまり私と同じレベルの高校に行くような女の子がひとりもいないのだ。

 そんな中で隆志と同じ高校に進学できたら、私だって嬉しいし安心する。だけど私の成績じゃ、そんな普通レベルの公立高校すら合格は危うい。

「だって、入れるかわかんないし」
「わかんないから頑張るんだよ。やる前から諦めんなよ」
「そうだよ。あたし勉強教えるし、一緒に頑張ろうよ」

 私の進路だというのに、どうしてこんなに張り切っているのか。
 私は今が大事で、精いっぱいで、将来なんて遠い未来のことまで考えられない。
 そんな私にとって、ふたりは──周りのみんなは、とても眩しい存在だった。

 いつまでも将来を見据えられないのは、子供なのは、私だけなのだろうか。隆志なんて中学に入ったばかりの頃は私より背が低かったのに、今は見上げるくらいになっていて、なんだか取り残された気分になる。

「来月、南高の体験入学あるから一緒に行くぞ」
「気が向いたらね」
「絶対向かないでしょ! いいから行きなよ。隆志、ちゃんと連れてってね」
「わかったよもう……」

 ふたりに気圧されて、渋々頷いた。