クローバーが君の夏を結ぶから



 星野鈴夏とは、同じ念ノ丘(ねんのおか)中学の陸上部であり、クラスメイトでもあった。

 透き通るようなショートヘアーと、ツンと澄ました切れ長の瞳。
 モデルのようにすらりとのびた長い脚。会話では、非常に落ち着いた知的な話し方をする。
 そのどこか冷めたような雰囲気と、文武両道であっけらかんと良い結果を残す様子から、いっけんクールそうに見えるが、その実は明るく人当たりが良かった。
 休み時間には文庫本を読んだり、廊下でイヤホンをつけてひとりでいることが多いが、誰かが話しかけると笑顔で気さくに応じる。
 一年の夏には、ショートヘアーが入学したばかりの時よりも短くなっていて、本人は髪を切りすぎたと言っていたが、その後伸ばしてはいないようだったから、以来少し短めにするようになったらしい。
 陸上部でも、彼女は大会で予選突破の実力があるほどの選手だった。
 それから、文武両道と言ったように、鈴夏は頭も良かった。
 僕は中学最初の中間試験で、なんの間違いか学年三位に食い込んでしまった。たまたま試験問題の相性が良かっただけだった。いっぽうの鈴夏は学年四位で、僕のすぐ後ろにつけていた。
 クラス内順位はそれぞれ一位、二位だったようで、それ以来よく鈴夏にライバル視されていた。 
 具体的には、いつか席替えで隣の席になった時、彼女の得意な英語や数学の答案返却で、僕の点数を越えるたびにこちらの答案をちらりと見て、「よし」と小さくガッツポーズをしていたこととか。
 ちなみに僕は二回目のテスト以後、彼女に勝ったことはない。
 僕の成績は一時期クラス十四位まで落ち続けたいっぽう、彼女はその後ずっと学年全体で三位以内をキープしていた。
 それから、彼女のショートヘアーの横顔はいつも迷いのない表情をしていて。明るく、常に友達に囲まれていた。
 僕とは違って、光だけを受けて育ってきたような人間だった。
 性格が良くて、陸上も強くて、頭の良さも本物。その上、かわいいと来て。当然彼女は男子の評判になっていて、女子の中心でもあった。
 僕はというと、そんなあまりにも輝かしい才色兼備さに、無意識のうちに彼女を避けていた。たぶん、ちょっと気を抜けば一瞬で好きになっていた。
 鈴夏にはよく休み時間に楽しそうに話している男子がいて、彼女はそのうち彼と交際するのだろうなと密かに予想していたときもあった。
 そんなこともあり、僕は彼女を好きにならないように自らの気持ちをコントロールした。
 いや、コントロールできたつもりでいた。彼女を避けることで、不思議にも自分の気持ちをごまかせる気がした。
 自分は光輝く彼女とは正反対の人間である気がしていた。
 男子の中心メンバーにいつのまにかカウントされていて、いつも誰かが話しかけてくれた。
 だが、僕は常に彼らの顔色をうかがっていた。
 カラオケに誘われて華やかに盛り上がるよりも、一人になれる時間のほうが好きだった。
 本来の僕は中心よりも端にいたい人間だった。
 クラスの良心のような扱いを受けていたが、本来の僕は、厭世的な皮肉屋で、臆病者。
 陰口を言われていやしないかといつも内心ではビクビクしていたし、そのうえ無意識のうちに人の悪いところばかりが目についてしまう人間だった。
 だから、この性格のことを誰かが「優しい」とかなんとか誤解して言うたびに、それは偽りなんだ、仮面なんだ、と叫びたい気持ちになった。
 いつかクラスの誰かに言われたこと。
『加澤くんは人の陰口を言わないところが良い』
違う。たしかに、話が陰口になるとできるだけ黙っていた。けど、それは僕が優しいのではなく、あとでしっぺ返しを食らうのが嫌だっただけだ。
 陰口はよくないから、という理由でそうしていたのではなく、恐れていただけ。
 だから、いつかそんな心のなかを見透かされるのではないかと想像して、恐ろしかった。失望されるのが怖かった。
 そんな偽りで塗装したような人格。
 だから、たとえ一瞬でもクラスの皆といるのが楽しくても、一人になった瞬間、その全てが虚しくなる。
 どうして、あの時あんなにはしゃいだのだろう。
 どうして、あの時、優しいねと言われたのだろう。
 どうして、あの時声をかけてくれたのだろう。
 どうして、もっと声をかけるべき人がいるのに、僕なのだろう。
 本当の自分は、ただ薄っぺらいだけなのに。偽りなのに。
 周りが僕だと思い込んでいる、そのほとんどが、空っぽなのに。
 いつか、見せかけの自分と醜悪な本心との調和が壊れて、心が狂ってしまうのではないかと、ずっと恐れてもいた。
 そんな僕に、鈴夏はいつかの部活動の時、「私、結人くんの実は腹黒い感じがとても気に入ってるんだ」と言ったことがある。
 その時側にいた彼女の友達の一人が、「アンタ加澤くんに失礼すぎでしょ。こんな聖人君子に何言ってんの」と心にもないことを言ってフォローしたが、僕は鈴夏の言葉になんだか不思議な安心感をおぼえていた。
 そのことは、鈴夏を強く意識するきっかけとなった。
 僕と鈴夏との関係が動いたのは二年生になってから。
 それは、ある日の美術の授業でのこと。進級したばかりのときだった。
 その時期にあった出来事と言えば、鈴夏と休み時間によく話していた男子が、鈴夏に友達でいたいからとフラれたことだったと思う。
 僕は美術の時間は憂鬱だった。テーマによってはまったくと言っていいくらいアイデアが浮かばなくなる。
 つくりたいものが何も浮かばないことが多々あり、スケッチブックを白紙や書きかけで出したり、工作の時は、授業が終わる十分前に適当なパーツを適当に組み合わせて「やっと思い付いたけど間に合わなかった」風を装ったりした。
 当然、小学校の時から図工・美術は真ん中より下の評価を貰っていた。
 しかも、担当の先生は実際に作品を発表しているクリエイティブな人で、そのためか課題には一風変わったものが多く、よく僕を悩ませた。
 なかでも頭を抱えた課題が、サイコロのアートだった。
 それは、大きさが牛乳パックの半分ほどある、正八面体の大きなサイコロだった。
 トランプのダイヤというか、ひし形の少し不思議なかたちをしていて、三角形の面が八つある謎のオブジェ。
 普通の八面ダイスと違うのは、面に数字が何も書いていなく、真っ白だということだった。
 先生の説明によるとそれは小物入れらしく、真ん中で横半分にパカリと開いた。
 中は婚約指輪のケースのように赤い布が張られた空洞で、そこに物を入れられる。
 この小物入れは一から製作する方法もあるらしいが、授業時間の問題で、キットを人数ぶん購入したとのこと。
 そのため、僕たち生徒がする主な作業は、白紙のサイコロに絵を描くという簡単なものだった。
 八つの面に描く絵はあらかじめ指定されていた。
 自分の夢、趣味、得意なこと、好きな作品のキャラクターなど、そうしたものを八種類、絵にして色鉛筆で書き込む。
 その中に、『大切な友達』を描く面があった。
 僕は他の面をどうにかして作ったが、この面だけは授業の最後まで描くことができなかった。
 大切な友達。
 話し相手はいる。休み時間に男子の誰かが僕の席にやってくる、あるいは僕が声をかけると機嫌でも悪くない限り気さくに応じてくれる。
 それなのに見つからなかったのだ。『大切な友達』の面に描きたい相手が。
 適当に描けばいい話かもしれない。でも、そんなことをすれば、大切な友達としてあつかったことは嘘になる。悩みすぎかもしれない。でも、僕にはどうしてもそれが出来なかった。
 授業終了までに描くことができず、その一面を下にして提出用の机へと並べ、描かないままにしていたことを秘密にしていた。
 その後、やっぱり何か描かなければと思い直し、放課後、すぐに教室を抜け出し、陸上の練習が始まる前に美術室へと忍び込んだ。
 よく話すな、と思うクラスメイトはいたので、彼の似顔絵をこっそり、無謀にも五分で仕上げるつもりだった。そしてそれは当然、偽りを描くことでもあった。
「……結人くん、だよね――。何してるのさ?」
 僕が色鉛筆を持って美術室の机の自分の作品に近づくと、すぐ後ろから声をかけられた。
「あ……」
 慌てて振り返ると、そこには鈴夏が立っていた。
「いや、違うよ、これは……」
 自分の隠していた本質を鈴夏に見られたような気がして、僕は無意識にあとずさっていた。
 次の瞬間、何かが床に落ちる音。
「……あっ」
 あとずさった際に肘が当たってしまい、その反動で僕のサイコロが床の上に転がった。
 八面体はまっすぐに転がると、鈴夏の足元へと近づく。
「あれっ?」
 まっさらな面に気づいた彼女の声。
 僕のサイコロは彼女の視線の先で、よりにもよって真っ白なままの『大切な友達』の面が上を向いて止まった。
「……これは、その、ええと……」
 僕は言葉に詰まる。
 鈴夏は落ちたサイコロをヒョイと持ち上げると、何も描かれていない面をじっと見つめた。
 彼女はサイコロを手に取ったまま、絵が描かれた他の面を軽く見回し、それから再び白紙の面を見つめる。
「ねえ、結人くん、これ――」
「ち、違うよ! これはそう、うん。空白が僕の美学なの、ほら、無駄なものを排除した禅の精神とかよく言うじゃん!」
 頭の中も真っ白になった僕の口からは、とっさに出てきた意味不明な言い訳が飛び出す。
 鈴夏はあわてふためく僕を気にせずに言った。
「結人くんのサイコロ、少しさびしいようだね。この私で良かったら、代わりに何か描いてあげよう。私、絵は得意なほうだから」
 鈴夏の言葉に、僕はなんとか平静を取り戻して答えた。
「……『大切な友達』の面を? でも、そんなことしたら鈴夏さんの絵だってことが一瞬でわかるよ」
 僕の言葉に、鈴夏は一瞬考えてから言い直した。
「じゃあさ」
 鈴夏は机のほうへと歩み、僕にサイコロを渡すと奥から別の八面ダイスを持ち上げた。
「――二人で一緒に描く?」
と鈴夏は冗談っぽく笑う。
 それは、鈴夏自身のサイコロだった。彼女の作品を見て、僕は驚いた。
 絵柄もイラストの中身も違う二つのサイコロに、たった一つだけ、同じ面。
 鈴夏の『大切な友達』の面は、白紙だった。
 それから鈴夏はため息をついて窓の外、野球部の声出しが始まったグラウンドのほうを見る。
「大切な友達って、何なんだろうね。私には本心でそう思える人は一人もいないし、嘘で誰かを描くのは失礼な気がする」
「!」
 その言葉に、僕は彼女の横顔を焼き付けるように見つめた。
 僕と同じことを考えていた人がいたなんて。
そして、それが鈴夏だということに驚いた。
 鈴夏は大切な友達の存在で悩むようには見えなかった。彼女はいつも仲間に囲まれていて楽しそうだった。
 鈴夏は投球練習の始まったグラウンドから目をそらした。
「異性として好きになれなくて、代わりに『大切な友達だよ』って言うしか無かった。
 クラスの皆もそう。仲良くしてる分、言わないといけないときがある。
 けど、私は誰かを傷つけないための嘘すら、良心が痛まずには吐くことができないみたい」
 マウンドに上るピッチャーは、鈴夏と休み時間によく話していた男子だった。
「――なんてね。こうやって思う自分自身も偽善者みたいで、さらに嫌になる」
 思えばこの時、僕は今まで完璧に見えていた彼女の、誰も知らない不器用さを初めて見つめていた。
「前から思ってた。私と結人くん、結構似てる」
 鈴夏は手を伸ばすと、再び自分のサイコロを差し出して見せた。
 それから、僕が右手で持つサイコロの白紙の面の上に、自分の未完成の面を手のひらごと重ねた。
「――だから、もしここに描くのが結人くんなら、この面をきちんと埋められる気がする」
 そう言って、彼女は改めて提案する。
「――良かったら、描いてもらえない? その――、お互いのイラストを」
 その週の日曜日、僕と鈴夏は歌扇野の図書館を訪れた。
 入ったのは、ロビーにある休憩スペース。その中でも、二人一組の長机が並ぶ一角だった。
 長机の前で、僕と鈴夏はそれぞれ椅子を引いて向かい合っていた。
「大丈夫、先生には後で、『できなかったから家で仕上げた』と言えば良いし。私も一緒に出しに行くから」
 鈴夏の提案で、未完のサイコロは美術室からそれぞれ持ち帰ってきていた。先生には、月曜日に朝一で提出することにしたのだ。
 彼女は「その前に準備運動」と言って、自前のスケッチブックに即興でイラストを描いてみせた。
「名前はどうしよう。――おふとんねこ、でいっか」
 彼女が今さっき考えたというオリジナルキャラクターだった。布団と猫が合体したようなキャラで、顔文字のような目を閉じて幸せそうに眠る謎の小動物。
 お店でファンシーグッズとして売ってる癒しキャラ達と並んでも、なんら遜色のないデザインだった。
「絵が好きなの?」
「うん。意外?」
 答えながら、嬉々として描いたばかりのキャラクターを見せる彼女に僕はドキリとした。
「じゃあ、そろそろ。結人くん、こっち向いてて」
「うん」
 鈴夏は右手に鉛筆、左手に自分のサイコロを持ち、スケッチを描きはじめる。
「あ、もし今の僕の顔、変になってたらごめんね」
「ううん、いつも通りだから大丈夫。私こそデフォルメして漫画のキャラ風にするからそのつもりで」
「いや、むしろ省略してくれたほうがいろいろと安心だよ。ところで、漫画っていうと、意識してる作品とかはあるの?」
「うん。『白百百《しらもも》高校《こうこう》凸凹《でこぼこ》カルテット』っていう少女漫画。
 もともとは見よう見まねでキャラを描いてみたのが始まりでさ。
 内容は、個性的な学生のキャラ達がボランティア部を設立して、まちや学校のトラブルを勝手に解決したり、時には余計ややこしくしちゃったりするコメディー漫画」
「え、余計にややこしくなっちゃうの?」
「うん。でもむしろ、これどうなるんだろ、っていうようなひどい事件でも、最後にはボランティア部の皆が綺麗に解決してくれるから、安心して楽しめる。
 少女漫画だけど男子のファンも多いから、結人くんも楽しく読めるかもしれない」
「へえ。今調べてみたけど、すごく面白そうだね」
 僕が携帯で片手間に検索すると、ネットニュースの記事がヒットした。
 『白百百高校凸凹カルテット』、通称シラコーは最近完結したとのこと。
 ラストで続編を匂わせる終わり方をしたため、続きを期待するファン達の間で盛り上がっているらしい。
 それから鈴夏は、スケッチを続けながらシラコーの良さを存分に話してくれた。
「――ふふふ、興味を持ってもらうことには成功したみたいだ」
 鈴夏は鉛筆を置くと、おもむろに、つくったような低い声と口調でつぶやいた。
 よくわからないけれどとても楽しそうで、僕は思わずクスリと笑った。
「なに今の」
「あはは、私シラコーのオタクだからネットでも結構語ってて。今のは結人くんに興味を持ってもらえた喜びが漏れただけ……っていうか、さっき、本当に興味持ってくれたの?」
「ああ。シラコーの話してる時の鈴夏さん、すごく生き生きしてたから。つい読んでみたくなった」
 鈴夏さん。僕たちの中学は同じ名字が多かったせいか、単なるクラスメイト同士でも、そんな不思議な呼び方が普通だった。 
 絵の話、とりわけシラコーの話をする間の鈴夏はとても輝いていて。
 嘘まみれの僕もこの輝きの側にいれば、もしかしたら偽らない自分でいられるかもしれない、そんなエネルギーを彼女からは感じた。
 僕はこの時、きっとこれが、彼女の偽らない本来の姿なんだと、確信した。
 あの美術室での、『本当の友達』の話を聞いた後では、なおさらだった。
 鈴夏の漫画風のスケッチが終わり、今度は僕がサイコロの大切な友達の面を描きはじめた。
 正面に向き直って僕を見る彼女は、絵に描くにはあまりにもまぶしすぎた。
 僕はどうしていいか分からず、彼女の頬のあたりから線を引いていったが、あまりにもおそれ多くて次の段階に進むことが出来ない。
「僕は絵が下手だから難しいや。横顔のスケッチでも良い?」
 苦渋の決断に、鈴夏は笑って答えた。
「良いよ、結人くん」
 ホッとした。美術の授業をその場しのぎでやってきた僕ごときが、自分の拙い画力で彼女の可愛い顔を写そうだなんて、あまりにもおこがましい気がしたのだ。
 そしてさらにおこがましいのだけど、僕は鈴夏の横顔のスケッチだけは誰にも負ける自信が無かった。
 鈴夏の明るくて前向きな性格をよく表す、希望へと向かって今にも舞い上がりそうな、きらきらしたショートヘアーの横顔。
 かすかに揺れる短い髪のうしろで、窓から差す陽の光が首すじの切り揃えたラインを儚げに強調している。
「――できた」
 小さなサイコロの面に彼女を描くため、鉛筆を四回も削った。
 渾身の一作にして会心の一撃。
 ガッツポーズとともに顔を上げた僕は鈴夏に「気合い入れて書き込みすぎ」と笑われた。
「このままじゃ未提出になるし、折角だから先生のところに持って行こ」

 翌日の朝、僕たちはサイコロを提出しに行った。
 先生はすでに美術室にいて、床にブルーシートを広げて次の授業の準備をしていた。
 灰色の長い髪の毛が特徴的で、眼鏡の下の目つきがいつも穏やかな男性だった。
 先生はお互いの似顔絵を描きあった『大切な友達』の面について直接何か言うことはなかったが、僕たちのサイコロを提出用の机の上に置くとこう言った。
「学生生活は一度きりです。常に進路のことを考えて行動するのもたしかに大切ですが、今この瞬間を出し惜しみせずに駆け抜けることの方が大切だと、私は思います」
 全教科ばっちりの鈴夏と、美術からっきしの僕。
しっかり者の優等生が、落ちこぼれの世話を焼いているようにも見える組み合わせ。
 それを見て、内申(ないしん)を気にして提出しにきたと思われたのか、それとも僕たちのようすに何かを思って言ったのか。それは未だにわからない。
 二年生に進級したばかりの四月の出来事だった。

「…………」
 蓋をするように、八面ダイスを、再び引き出しの中におしこめる。
 もう外は真っ暗だ。
 そっとカーテンを閉めると、机の上でスマホが振動した。メールだ。
 中身をチェックして、その差出人に僕は驚いた。
『加澤くんへ、お願いがあります』
――松野、瑞夏。
 松野から送られてきたそのメールを目の前にして、僕の胸中には様々な感情が複雑に絡み合って渦を巻いている。
 稲田先生の件で空港に行く途中、孝慈のすすめで連絡用にと教えあっていたメールアドレス。
 SNSを一切利用しない松野が持つ、クラスメイトとの数少ない接続。
 松野瑞夏の名前でリストに登録したアドレスから届いたのは、こんな文面だった。
『前々から、加澤くんとは個人的に話がしたいと思っていました。
もし加澤くんが良ければ、今度グループワークとは関係なく、街でも歩きながら話がしたいのですが……どうでしょうか?』
 僕は自室でひとり、衝撃を隠せなかった。
 松野とふたりで、デート?
 彼女は押しても引いても興味を示してくれなさそうな、典型的なおとなしい子。少なくともぼくにはそう見える。
 だけど、こんな垂直落下の絶叫マシンのような進展があっていいものか。
 落ち着かない頭の中を必死にまとめながら、今は彼女のメールに一刻も早く答えが出したかった。
『喜んで!』と素直な気持ちを打ち込んで、すぐに消し直す。もっとさりげなく書かなければ……。
 結局、返信に価する文面ができたのは、それから数十分後だった。
 翌日の午前十時、松野は駅前にあるバスターミナルで待っていた。
 バスに乗れば郊外のショッピングモールなどに行けるが、今回はあくまでも待ち合わせ場所だった。
 松野がメールのやりとりで提案してきたのは、商店街の通りだった。地元テレビで紹介されたクレープの店があるらしい。
 僕はターミナルのベンチ前で彼女の後ろ姿を発見する。
「ごめん。もしかして、待った?」
「ううん、わたしも今さっき来て、ちょうどいい座り場所を見繕ってたとこ」
 そう言った松野だけど、今のは絶対に待っててくれた時の台詞だ。
 すぐに、ドラマとかでよくあるやり取りをお互い無意識にしてしまった気がして、気恥ずかしくなった。
 胸の鼓動が全身にじんわりと染み込んでいく。僕はつとめて平静を装い、言った。
「そうなんだ……えっと、まだ早いけどどうしよう、行こうか?」
 一応僕がリードしなければいけない気がしていたためか、つい急かすような言い方をしてしまった。
「……うん」
「クレープ屋さん?」
「……うん、密かに気になってたから」
 答える松野はいつもより声が弾んでいる気がした。
 その様子に、僕は彼女とメールを交換したばかりの時、孝慈に言われたことを思い出す。
『同級生だった立場から一つだけ言わせてもらうと、松野は心を開いた相手とは比較的しゃべるようになるタイプ』
 孝慈に言われたことがしばらく頭の片隅にあったためか、商店街まで歩くあいだ、話題は孝慈のことになった。
 聞けば、孝慈は歌扇野からはずっと離れた、瀬奈《せな》中学というところのバスケ部だったらしい。
 そういえば松野は、孝慈と中学が一緒だと言っていた。つまり松野も瀬奈中学出身。
 孝慈が中学の途中でバスケを辞めたことについて、何か知らないだろうか。僕が聞くと、
「わたしにもわからない。ただ、バスケ部で暴力沙汰があったらしくて、孝慈くんが辞めたのもその時期だった」
返ってきたのはそんな不穏な返答だった。
「コージとその事件と、何か関係があるの?」
「わからない。不確かな憶測で決めつけるわけにもいかないし」と松野は言った。
「そうだよね」
 孝慈のことは非常に気になるが、松野はそれ以上は知らないようだ。
 商店街の間には様々なものがあった。
 小さな神社に、お土産屋。ドラッグストアのチェーン店ができていたのは今まで気づかなかった。
 ここもグループワークの題材に使えるかもしれないなどと、頭の中はついそちらを思い出してしまう。
 やがて到着したレンガの家風の外装。クレープ屋にはちょっとした行列ができていた。
「並んじゃう?」
「うん」
「僕、行列は苦手だからこういう店は避けちゃうなあ。なんかいかにも流行って感じで」
「わたしも。本当はテレビでやる前から行きたかったんだけど、なんかその直後に行くとミーハーすぎるかなって、行きたいけど変なプライド張ってて、だんだん悔しくなって」
「わかるよ、僕も音楽聴くときとか、同じようなことになる。ちょっとマイナーなバンドが好きだから、有名になったりすると変な意地張っちゃって」
「……え、何のバンドが好きなの?」松野が言った。
「『Base Ball Bear』ってバンド」
 僕が答えると、松野は無言で「おお」と両手を合わせた。どこか嬉しそうだった。
「あ、そのバンドの曲、わたしもちょっと知ってるよ。МV見たことある。一時停止して何の本か見てたっけ」
「おお、松野も知ってたんだ。女の子が文庫本読んでるんだよね。たしか、夏目漱石の『こころ』」
「え、そうだったんだ! わたし、結局わからなかったよ。でも、良いよね。夏らしくて、なんか懐かしい気持ちになって」
「うん、夏だよね。あ、そういや本持ってるМVまだあった」
「え、知りたいな」
 松野と話が合ったのは、普通の女の子と話が合うことよりもずっと嬉しかった。
 他愛もない会話とともにクレープの行列に並びながら、そういえば、と別の話になる。
 教師の不祥事が相次いでいるという話を、最近聞いた。
 大人って、どうしてあんなに見ていてもどかしいんだろう。
 僕は高校生の力の無さ、未熟さがとても悔しい。
 でも、未熟なりに、大人に勝てないなりにいまを全力で生き抜くしかないんだ。でも、その全力も、ほんとうに意味があるんだろうかと、悩んでいた。
 僕は自分の未熟さがずっと嫌で、早く大人になりたいってよく思ってた。思って、自分を攻め立て奮い立たせるための、がむしゃらな原動力にしてきた。
 だけど、最近思うようになったのだ。大人って、そんなにすごいものなんだろうか、と。
 進路のことだってそうだ。何かが変わるかもしれないと思い、いろいろあって腐っていた自分を奮い立たせて、進学校である歌扇野高校に入ったこと。
 けれども、自分の夢、大人になってからどうしたい、ということが高校生の今、いくら悩んでも見つからない。
「自分をなんとかしたくて頑張ってるのに、前に進んでる感じがしない。変わりたいのに変われない自分が悔しい。必死に答えを探し続けているのに、どうしても見つからない。
 それら全部がもどかしくて、たまらないんだ」
「その気持ちわかるよ、加澤くん」