セス様は寡黙な方だった。必要最低限どころか、必要なことすら話さない。
 一人でいることを好み、夜な夜な娼館に繰り出す兵士たちから離れ、いつも何かを大切そうに握りしめ夜空を見上げていた。
 私が近づくと素早く隠されてしまうもの。私はそれが何か知りたくて、努力の末にようやく知る方法を見つけ出した。
 自分からは飲まないが、勧めると口をつける酒。それが引き結ばれたのセス様の口を、滑らかにすると気がついたのだ。

※※※※※

 戦の最前線、国境の街「ホライン」が死の街ならば、国境一つ手前の街「ヘイヴン」は醜猥さを下劣で包んだような貪汚(たんお)の街と言えた。
 手当を惜しまれ肉壁としても使えなくなった兵士。壊れるまで犯され身体さえ売れなくなった娼婦。安売りされた偽りの愛で結実した不用品(子供)
 死の救済も得られなかった者達が、最期に行き着く街。それがヘイヴンだった。
 表通りでは悲鳴と怨嗟が絶えず、月明かりもまばらな裏通りには、見捨てられた子供達が身を寄せ合っている。汚泥に塗れながら、弱者がより弱者から奪いとることで、刹那の命を繋ぐ街。
 青みがかった暗藍の髪と瞳を持つ少年は「セス」という、異国の響きだけを持ってここに生み落とされた。
 父の顔も母の名前も知らないのは、特段珍しいことでもない。名さえ持たずにいる者の方が、よほど多かったから。
 表通りと裏通りのちょうど境界線で、セスは兵士崩れの薄汚い男にしこたま蹴られていた。
 運悪く盗みがバレたからだった。盗み損ねた腐りかけの一切れのパンの代償は、狭い路地裏の壁に血痕が飛び散るほどの激しい殴打だった。
 身を丸める生存本能のなせる姿勢すら、取れなくなるほど痛めつけられ、ようやく男は飽きて去っていく。セスは呻き声すら上げられず、その場に打ち捨てられていた。

「……大丈夫?」

 怯え切った糸より細い声が、セスの頭上で響いた。ヘイヴンの街には似つかわしくない、気遣いが滲む声をセスは幻聴だと思った。その考えを否定するように、

「立てる……?」

 声はもう一度セスの鼓膜を震わせた。セスは酷く痛む身体を寝返らせ、声の元を探した。腫れあがってうまく開かない瞼をこじ開け、声の正体に視線を巡らせる。
 月明かりを背にして、セスを覗き込んでいる少女に思わず呼吸が止まった。
 月明かりを束ねた紫銀の髪。星灯りを宿した紫藍の瞳。襤褸を巻き付け、垢と埃に薄汚れていてさえ、息を呑むほど美しい少女。
 目を開けたセスに、少女はホッとしたように笑った。小さく微笑み、骨と皮ばかりに痩せた手のひらを差し出す。その手には半分踏み潰され、泥のついたオレンジが載っていた。

「一緒に食べよう?」
 
 かけられた言葉をセスはうまく理解できなかった。一度として与えられたことのないものだったから。盗み損ねた食料よりも希少で、何か尊いものが差し出されていることは本能的に理解できた。
 どくりと心臓が鼓動を打ち鳴らす。肋骨を叩く鼓動が全身を震わせ、己の心臓が今動き生きていることを思い出した。
 鼓動に呼応し流れ出した血液に、全身が熱を帯びる。熱が灯った身体は体温を取り戻し、全身の血管が痛むほど巡る血潮が、今この身に流れていることを自覚した。
 ぐらりと視界が歪んで、喉をせり上がってくる奔流が目頭をひどく熱くする。自分が揺れる感情を持つ「人」であることを蘇らせる。

「……あり、がとう」

 無意識に零れ落ちた言葉は、一度も音になったことがなかったもの。頬を焼きながら熱い涙が伝い落ちる。突き上げるような衝動が湧き上がり、セスは身体を胎児のように丸めて蹲った。
 生まれて初めて流す涙に伴う、激しくのたうつような感情。セスはそれに翻弄されながらむせび泣いた。そして理解した。自分が人であることを。己の生まれてきた意味を。

「大丈夫……?」

 悲痛な慟哭に声を枯らし震えて丸まるセスが、救いを求めるように伸ばした手を少女が握った。
 己が人であることすら思うこともせず、獣のようにただ生きてきたセス。
 骨と皮ばかりに痩せていても、今度はいつありつけるか分からない糧を、誰かと分け合いたいと願うほど孤独な少女。
 見捨てられた命達が月明かりにも怯えて潜む掃き溜めで、二人は互いの運命に出会った。生きる理由を、この瞬間に手に入れた。

 二人はその日から互いを頼りに生き始めた。初めて手に入れた温もりは、離れることに恐怖と怯えを伴った。
 裏通りの夜。セスは少女・レイラを抱きしめたまま目を閉じる。僅かな風の揺らめきにも即座に目を覚まし、鋭い警戒に身を縮ませる。
 腕の中のレイラを確認して抱きしめ直し、再び閉じ込めてまた目を閉じる。温もりに安堵して、痩せた小さな細い身体に不安を募らせる。もう互いをなしに、生きられると思えない。
 日が昇るとセスはボロ布れを丁寧にレイラに巻き付け、念入りにその姿を隠す。誰の目にも触れないように。不測の事態が起きないように。

「行かないで、セス……お願い、離れたくない……」
「……大丈夫、レイラ。必ず戻る」

 離れることを不安がるレイラを、セスは優しく押し留めた。どれほど離れがたくても、セスは決してレイラを「狩り」に連れて行くことはなかった。
 裏通りの一番奥。光の届かない一番安全なねぐらに、大切にしまいこみセスは立ち上がる。
 人であることを思い出したセスは、本能のままに生きていた時とは大きく変わった。もう失敗は許されなかったから。死ぬまで生きるのではなく、なんとしても生き延びるために。その理由を手に入れた。
 自分より弱い者を慎重に嗅ぎ分け、強い者を出し抜く手段に思考を巡らせる。
 死の街「ホライン」と違い「ヘイヴン」では、一瞬で生死は定まらない。隣合わせの悪意と絶望が、じわじわと殺しにくる。より狡猾に強かに、奪い、騙し、その日を生き延びる糧を得られる者だけが、生きることを許される場所。
 セスはなんでもできた。レイラを生かすために。レイラと生きるために。奪うことも騙すことも躊躇いはなかった。それがヘイヴンの日常だったから。レイラを見出したセスは、より躊躇がなくなった。

「あぁ……オレンジだ……」

 今食べねばその灯火を吹き消される者から、奪い取ったオレンジにセスは小さく笑みを浮かべる。
 レイラと分け合った思い出に心は弾んでも、奪いとったことに心は痛まない。力がないことが、騙されるのが悪。秩序の存在しないヘイヴンで、それがたった一つの不文律。

「坊主、パンをやろう」
「…………」

 セスが狩れる獲物が見つからない時は、身体を売ることも厭わなかった。
 珍しい色合いを宿し静謐に整ったセスの容姿は、欲を滾らせる男たちに淫心を抱かせるには十分だった。なんの面白味もない不快な時間を耐えれば、僅かながらの糧を得られる。セスが躊躇する理由はどこにもない。
 暗がりの路地での醜悪な排泄行為に、セスの身体も心も凪いだまま乱されない。瞼を閉じ薄汚い全てから視界を遮断し、眼裏にレイラの儚い月光のような姿を思い浮かべればよかった。
 衣擦れも不快に鼓膜を震わせる吐息にも、自分を呼ぶレイラの声で蓋をするだけでよかった。
 吐きかけられる言葉にも行われる行為にも、心にレイラを宿したセスを傷つけることはできない。セスの心も矜持もそこにはないから。
 大切なものは全部レイラに預けてある。セスにとっての勝利とはレイラと生きる今日で、敗北とはレイラのいない明日だから。

「……セス! 待ってた、セス!」

 戻ったセスに縋る体温。自分だけを呼ぶ声。心を満たす麗しい姿。今ここにレイラが生きている。持ち帰った今日を生きるための糧を分け合うこの瞬間、セスは確かに幸福だった。

※※※※※

 セスは自分の正確な年齢を知らなかった。だが、同じ年の子供より明らかに成長が早く、怪我からの回復も素早い。その体質はヘイヴンでの生存率を上げるものではあっただろうが、現実はそれ以上に過酷でもあった。

「……いたぞ! 回り込め!!」

 セスはレイラの手を引き、狭い路地を必死に走る。苦しげな息を吐きながら、レイラも必死にまろびながら足を動かした。
 薄暗い路地に響きわたる怒号に、子供達は怯えて息を潜めている。
 珍しいセスの色合い以上に、珍しいレイラの宿す色。レイラの儚げな美しい容姿は、ささやかすぎる二人の幸せを幾度も危機に陥れた。

「あぁっ!」
「レイラ!」

 足をもつれさせたレイラが倒れ、セスが慌てて駆け寄る。必死に手を引こうとするセスだったが、どう見てもレイラに立ち上がる体力は残っていなかった。意を決して担ぎ上げようとしたセスの手を、レイラは押し留める。

「逃げて。私を置いていって」
「レイラ……お願いだ……レイラ……」

 背後に迫る忙しない足音に、レイラは震えながら懸命に笑みを浮かべてセスを促す。セスだけなら逃げ切れる。大人たちの目的はレイラ。もう一度レイラはセスを促した。

「逃げて。セスだけでも。お願い……」

 レイラの懇願にセスは膝をつき、涙を浮かべて首を振る。置いてなどいけない。レイラこそがセスが生きる意味。セスはすぐそこに迫った足音の先を睨み、レイラに微笑みかけると全身で隠すように覆い被さった。

「セス……! だめ、逃げて! セス!」
「くそ……! このガキ、動きやしねぇ……!!」

 きつくレイラを抱きしめたセスを、引きがそうとする男たちの怒号を響く。罵声が暴力に変わるのはすぐだった。

「セス……! やめて! セスが死んじゃう! やめてよ……やめて……セス……」

 覆い被さったセスを通じて伝わる振動から、暴行の激しさが伝わってくる。視界を塞がれているレイラが、セスの身体から聞こえる不吉な音に恐怖し泣き叫ぶ。晒される暴力よりも、セスを傷つけられることがレイラの心を引き裂いた。

「レイラ……大丈夫だ……俺が守る……レイラ……」
「セス……セス……」

 奥歯を軋らせながらセスが、安心させるようにレイラに吹き込む。ボロボロと泣きながら、セスにしがみつくレイラ。
 先に根を上げたのは暴漢達だった。

「……チッ! くそ……! 引き剥がせねぇ……!」
「もう行こうぜ、面倒だ。もっと簡単に捕まえられるのにしよう」
 
 しっかりと固く抱き合いどれだけ蹴り付けても、離れようとしない二人に舌打ちすると散っていく。腹いせに吐きかけられた唾がセスを穢し、裏通りに静寂が戻る。

「セス……? セス……! お願い……返事をして……セス……」
「大丈夫……レイラ……大丈夫だ……」

 朦朧とするセスが繰り返す声に、レイラは細く声を上げて泣き出した。
 月明かりも届かないすえた匂いの立ち込める路地に、レイラの悲愴な祈りに似たか細い嗚咽が響いた。

「レイ、ラ……」
「セス……セス……!」

 しばらく気を失っていたセスが漏らした呟きに、レイラは必死に呼びかける。その声に励まされるようにして、セスがゆっくりと身体を寝返らせる。呻きを上げたセスにレイラは取りすがった。あちこち腫れ上がり、血が出ている。でもできることは何もない。

「セス……セスゥ……」
「大、丈夫」

 涙を流すレイラに手を伸ばしその涙を拭いながら、セスは守れたことに満足げに笑みを浮かべた。ますます涙をこぼすレイラを撫でてやりながら、セスはゆっくりと身体を起こした。

「レイラ……行こう……」
「……どこに?」

 優しく髪を撫でるセスに、レイラは潤んだ瞳を向けた。温もりを持ち合って寄り添い、ささやかな幸せを互いに分け合いながら生きる。息を潜めていても過酷な現実は二人を簡単に見つけ出し、いとも容易く壊しにかかる。どこにも安全な場所はない。救いは差し伸べられない。それでも、

「行こう……」
 
 涙を拭って顔を上げたレイラが、躊躇いなくセスの手を取る。どこにでも行く。セスが望むのなら。
 ふらつくセスをレイラが懸命に支えながら、二人は立ち上がりあてもなく歩き出す。
 ささやかに思える二人の願いは、この時代にあって叶えることは奇跡なのかもしれない。神に祈ることすら知らない二人は、互いの鼓動に安堵して、その鼓動が止まる時に怯えていた。
 ここではないどこか遠くへ。生きる意味を奪われないために。何度もそうして生き延びながら、二人が辿り着いたのは「黒の森」だった。
 鬱蒼と茂る木々に囲まれ、昼でさえ日の光が届かない深い森。
 藪は深く泥濘に足を取られるこの森には、生き物はおろか果樹さえ実らない。寄りつくもののいない深い森が、二人が最後に行き着いた場所だった。