ジャスパーと歴代当主とその伴侶が眠る、霊廟内部は外気に比べてひんやりとしていた。地下へと続く階段を降り、最深部の小さなドーム上になっている中央石碑に、花を添え挨拶を済ませる。
 再び地上への階段を登り無事霊廟から出ると、陽光の日差しの暖かさにエイダはホッと息をついた。

「……中、寒すぎない? 絶対ジャスパーがいるわよ……」

 いくら何でも寒すぎる。ジャスパーどころか歴代のヘイヴン当主たちも、化けて出てきていたかもしれない。両腕を抱え込んで、ブルリと身体を震わせたエイダに、レナルドは片眉を跳ね上げた。

「そうかもな。言っただろ? ソムヌスの森を見張ってるって」

 恐々と霊廟を振り返ったエイダの表情に、レナルドは表情を苦笑に溶かした。

「……ごめん、冗談だ。この辺は水脈が豊富で、霊廟は地下だろ? だから内部はいつもあれくらい冷えてるんだ」
「それにしたって寒すぎよ。絶対住んでるわ!」
「エイダ……君、オカルトに弱いんだな……」

 科学的根拠を提示しても、頑固にオカルト説を主張するエイダに、レナルドは呆れたように肩をすくめた。

「じゃあ、住んでるとしてそれは別に問題ないだろ? 霊廟なんだし。それに許可を得て、きちんと挨拶をした。つまり何の問題もないということだ」
「中がすごく寒かったのは、私が気に入らなくて怒ってるからかも……」
「……エイダ……むしろいつもよりは冷えてなかったよ……」
「でも……」
「僕の選んだ婚約者に、いくらご先祖たちでも文句は言わせない」
「万が一化けて出てきたら……」
「あり得ないよ。そんなに怖いならなら行くのはやめておくか? 僕だけ行ってくるよ」

 やれやれと首を振るレナルドに、エイダは憤然と瞳を怒らせた。
 
「いやよ! 行くなら私も行くわ!」
「……それは一緒なら呪われてもいいとかそういう……」
「挨拶したのに行かないほうが呪われそうじゃない!」
「……そっちかよ」
「問題ある? いっぺんに呪われるなんて愚の骨頂じゃない。片方は呪いを回避して、呪いを解く方法を探すほうが賢明でしょ?」
「ははっ。確かに。実に君らしい。君なら僕が呪われたら解いてくれそうだ」
「ええ、期待しておいて。同僚にオカルトを専門に扱ってる記者がいるの」
「……君が怖がりになったのは、そいつのせいだろ……」

 眉尻を下げたレナルドが、ソムヌスの森の入り口に視線を巡らせた。鬱蒼と茂る木々は近くで見ると、覆い被さってくるような錯覚を覚える。

「怖いなら、本当に待っていてもいいぞ」
「いいえ、一緒に行くわ」

 ソムヌスの森に向き合って、エイダは頷いた。怖い、とは思わなかった。好奇心が疼くのとも違う。罪悪感はあった。眠りを妨げてしまいそうで。それでも会いに行きたい気持ちが勝る。レナルドと一緒にこの地を守っていく誓いを、二人の前で改めて伝えたかった。

「ほんの少しだけ、挨拶だけさせてもらおう……」

 眠りを妨げない、ほんのわずかな時間だけ。エイダに振り返って小さく笑ったレナルドに、同じ気持ちを抱いていると感じて嬉しくなった。エイダは頷いてソムヌスの森に足を踏み入れた。
 深い藪と足を取られるぬかるみに苦戦しながら、エイダとレナルドは一歩一歩先を目指した。手記で目にしたソムヌスの森は、その描写に違えはない。
 ヘイヴン市街地からも距離のある、ソムヌスの森とこの悪路。毎日ここを通ったセスが強靭な肉体を、どうやって手に入れたか理由がわかった気がした。そして鬱蒼と覆い茂る葉に遮られ昼間でも暗いこの森で、セスの帰りを待つレイラの孤独を思うと胸が締め付けられた。
 暗く物音さえなく静まり返った森に、レナルドとエイダの荒い呼吸だけが響く。本当にこの空間だけを切り取ったかのように、外界と隔絶されたような気分になる。
 一心に足を動かして、急に差し込んだ光に視界が眩む。薄暗い森を抜け、そこだけぽっかりと空が覗く、小さな泉がある空間。確かに聖域のように感じた。空の下の一歩手前で立ち止まり、エイダとレナルドは無言でその場所を見つめた。二人が見つけた安息の地。
 二人の喉を潤した湧水。セスの帰りを待ち侘び、月明かりの下で泥化粧を落とした泉。少ない糧を分け合い、二人が寄り添いあって過ごした場所。
 怒りのままにヘイヴンの街並みを、跡形もなく作り替えたジャスパーが、少しの手も加えなかったここには温もりは消えても、二人の気配が残っている気がした。この先に足を踏み入れること呼吸をすることさえも、かすかに残る二人の気配を消してしまうようで、躊躇われた。
 静かに振り返ったレナルドが小さく頷き、手を差し出してくる。その手をエイダはそっと握った。口を開かないレナルドも、きっと同じ気持ちなのだとわかった。
 意を決して一歩踏み出す。空が遮られていない空間の、陽が暖めたふわりとした空気が身体を包む。まるで迎え入れられたように感じた。
 レナルドに導かれ、木立の影に隠れるように建てられた墓標の前に立つ。物言わぬ墓標を見つめると、万感の思いが込み上げた。祈りにも似た寂寞、願いにも似た思慕。優しく吹き抜ける風が、胸に留まりきれずに溢れ出した涙を攫っていく。
 静寂に守られるこの場所にふさわしく、レナルドは誓いを口にする代わりに真っ赤な目で墓標を見つめ、静かにその前にかがみ込んだ。手にはオレンジ。あの日の二人に渡したいと願った果実を墓標の前にそっと置く。それだけで自分達が抱く思いの、全てが伝わる気がした。
 
『……腹は満たされずとも、心は満たされていた。文字は知らなくとも、愛は知っていた。レイラがいてくれたから』

 この森で孤独に耐え続けたレイラが、たった一人のための英雄であろうとした戦神・セスが、今安らかでありますように。墓標に刻まれているのはただ一言。一人、セスを見送ったジャスパーが、ナイフで一心に刻んだ墓標。

 戦神、この地に眠る――

 物言わぬ墓標が二つ寄り添う、静寂に包まれたこの地の眠りが、微睡むように優しいものであることをエイダは心から願った。

※※※※※
 
 ヘイヴン駅前で先に降り、レナルドが車を止めてくるのを待つ間、エイダは噴水そばのベンチに腰を下ろす。今日も辻芸人たちが、陽光の下戦神・セスの武勇を讃えている。
 
『その身の丈は六フィート(百九十センチ)、鋼の如き頑強な体躯に大剣を握った偉丈夫は、一太刀のうちに()の兵を打ち滅ぼした。かの二太刀の終わりには、大地は血の雨で濡れそぼる。祖国のために戦場を嵐の如く駆け抜けて、ついには()の軍をたった一人で討ち果たす。祖国と故郷を守護してみせた、戦場の英雄は今もその名を轟かす。戦神その名をセスという。セスという』

 ヘイヴンでは定番だという歌に耳を傾けながら、エイダはクスリと笑みをこぼした。

(惜しいわね……一万七千よ……)

 微妙に調整されている数字にエイダは、小さく独り言をこぼす。語呂的に二万がちょうどいいかもしれない。

「ヘイヴンに戻ってきた時には、正解の数字に辿り着いているかしら……?」

 首都から戻る理由がまた一つ増えた。ヘイヴンに着いたばかりの頃、こんな気持ちになるとは思っていなかった。今は見上げる空さえも美しく見える。

「エイダ、お待たせ……」
「ふふっ……もう、そんな顔しないでよ。貴方も準備ができたらすぐに来るんでしょ?」

 朝からずっと捨てられた子犬のような顔をしているレナルドに、エイダはたまらず苦笑を漏らした。

「そうだけど……君は平気そうだな。僕は少しも離れていたくないのに……」
「すぐ会えるでしょ?」

 エイダは今日、首都に戻る。拗ねたようにエイダの荷物を掴んだレナルドと、肩を並べて歩き出す。

「……君はどうせワクワクしてるんだろ?」
「ふふふっ」

 記者・エイダとして、クラソン家のエイダ・クラソンとして何ができるか。それを探しに行く。手に入れに行く。この旅立ちは新しい門出であり、挑戦でもある。心が湧き立たないわけがない。

「……セスみたいだな」

 唸るように呟いたレナルドに、エイダは笑い出した。

「それなら貴方がレイラね」

 迷いなくレイラとの未来のために全てを賭けて駆け出したセスと、そんなセスを信じてその心を守り続けたレイラ。

「……首都の方が良くなったりしないよな」
「そんな心配いらないわ……」
 
 歴史と現在が混在する街並み、生きることを謳歌する活気ある住民たち。エイダの人生を変えた、歴史の真実が眠る街。そして、

「……すぐに行くから、ちゃんと僕を待っていてくれよ」
「当たり前じゃない」

 銀にも見える涼やかなプラチナブロンドと、知性が煌めく深い青の瞳の繊細な美貌を、レナルドが不安そうに顰めて見せる。この先の未来を共に生きる人と出会った街。短い滞在でヘイヴンはエイダをどれだけ魅了したか。もう古狸に煮湯を飲まされ、ミアにマウントを取られたことさえ愛おしく思える。

「……覚えてるか? 手記の全文を読みたいって、君が言ってたこと」
「え、うん……何よ、やっぱり方法があったんじゃない」
「読みたいか?」
「もちろん!」
「なら、僕の妻になるしかない。当主だけが全文の権限を持っている。当主判断で、伴侶には開示できる。だから僕が行くまでちゃんと……」

 ふふんと胸を逸らしたレナルドに、エイダは目を丸めぎゅっと抱きついた。手記全文を餌に交渉する子狸の姿が愛おしくて。そんな餌など必要ないのに。そうまで待っていてくれるかと心配する心が可愛くて。

「……そんなの必要ないわ。ちゃんと待ってる。私だって離れているのは寂しい。だから早く来て」
「……じゃあ、別に全文はいらないな?」
「それは読むわ!」

 即座に顔を上げたエイダに、レナルドも噴き出した。笑い転げていた唇が、自然と引き合う。離れ難い温もりを抱きしめ合って、レナルドがそっと囁く。

「すぐに行くよ」
「うん、待ってる」

 列車の出発を知らせるベルが鳴り響く。離しがたい温もりをそっと手放して、エイダは列車へと乗り込む。不意に湧き上がってきた、引き裂かれるような寂しさはあえて笑顔で塗りつぶした。すぐ会える。だから大丈夫。
 朧げに浮かぶ首都でするべきこと。それは単純な道のりではきっとない。でも隣にあり続ける温もりが、何度でも奮い立たせてくれる。思い出させてくれる。なぜ立ち向かうのかを。
 走り出した列車を追うレナルドに、エイダは必死に笑みを浮かべ続けた。その姿が見えなくなると、クシャリと顔を歪ませた。ほんの僅かの別れでもこんなにも寂しい。
 エイダは滲んだ涙を拭うと、個室の窓を開けた。遠ざかっていくヘイヴンの街並みに、しばしの別れを告げる。

「……すぐに帰ってくるわ」

 伝説の英雄、戦神・セスの墓所を探す過去を辿る旅は、現在(いま)に生きるエイダの背中を押した。未来へと。
 エイダ・クラソンにしかできないことを見つけて。いつか眠りにつく時、自分が紡ぐささやかな歴史に胸を張れる未来へと。

「消えるのではなく、繋がっていくのね……」
 
 今目の前を流れ去っていく景色のように、大河に押し流されるように見えていても。歴史に消えるのではなく、その先の歴史へと緩やかに繋がっていく物語を、エイダは今、生きている。