刻みつけるように二度、エイダは手記を読んだ。溢れる涙を何度も拭ながら、時々走る痛みに胸を押さえながら。
 ファイルを閉じると、ドッと溢れてきた涙にそのままに、ぼやける視界の先に青い紐を必死に探した。引くと同時にまるで待っていたかのように、扉の前で鍵を開ける音がする。
 扉が開いてレナルドの顔を見た途端、うねるような安堵にますます涙が溢れた。無意識に両手を広げたエイダに、レナルドはすぐに歩み寄り抱きしめてくれた。

「ううぅ……レナルドぉ……」

 身体を包む温もりに、堪えきれなくなった嗚咽を上げた。宥めるように頭を撫でながら、掬い上げるように囲い込んでくれる腕。暗く冷たい海の底に沈んでいくような悲しみが、触れる温もりに温められていく。
 確かな温かさに心が慰められるたびに、目の前の出来事のように感じていた悲しさは、もう取り戻せない過去を悼む寂しさへと変わっていく。

「……叶わなかった……」

 路地裏の少年の真実を知った時、守れていて欲しいとそう願った。幸せであって欲しかった。幸福で満たされていて欲しかった。いっそ戦神などではなく、路地裏の力のない少年のままの方が幸福だったのかもしれない。そんな風に思うことが苦しかった。

「幸せではなかった。エイダはそう思うのか?」
「……わからない」

 体温を分け合うように抱き合い、埋めた胸から響くレナルドの声にエイダは小さく答えた。
 幸福であって欲しかった。では何をもって幸福とするのか。これじゃないと否定したい結末は、どんな風に迎えていたら納得したのか。
 ほろほろと伝う涙を、レナルドの胸に染み込ませる。ぎゅっと宥めるように抱きしめてくれる腕に、目を閉じながらエイダは息を吐き出した。
 レイラはセスは、どんな思いだったのか。どんな気持ちだったのか。その答えはレイラとセスだけが知っている。どれだけ想いを巡らせても、エイダが出せるのはエイダの答えだけ。きっとそうして誰もが自分に答えを出していく。自分の幸福に、言動に、選択に、人生に。自分だけの答えを出していく。

「……レナルド、貴方はこの夜をどう乗り越えたの?」

 こんなに悲しくて辛くて寂しい。もどかしさが胸を掻きむしる夜を、誰の助けも借りられなかったレナルドは、どう乗り越えたのか。
 
「……未来に賭けたんだ」
「未来に?」
「そう、今その未来にいる。エイダ、もう眠れ。眠るまでそばにいるから。明日教えてやる。だから今はもう眠るんだ」
「うん……」

 明日の約束を当たり前のようにできる現在(いま)の、幸福を感じながらエイダは素直に頷くと目を閉じた。

※※※※※

 翌朝、エイダは部屋に籠城したりはしなかった。それでも重くのしかかるやるせなさに、言葉少なに食事を終える。晩年まで何が正解だったかに、想いを巡らせていたジャスパーの気持ちが理解できた。
 
「……エイダ、出かけないか?」
「出かけるってどこに?」
「外に。昨日言ったろう?」

 乗り気じゃないことがつい声音に出たエイダに、レナルドは苦笑しながら頬杖をついた。

「どう乗り越えたのかって。ミアに邪魔されて見せられなかった、君に見せたい景色がある。きっと気晴らしにもなるから」
「……わかった」
「着替えたら玄関で」
「うん……」

 着飾る気にもなれずエイダは、課外授業の時と同じパンツスタイルで部屋を出た。レナルドのエスコートで車に乗り込み、当然のようにレナルドがハンドルを握る。
 着いた先は農業区画の手前、ヘイヴンの街とヘイヴン本邸からもよく見える、石造りの尖塔だった。

「……ここは?」
「ジャスパーの建てた見張り台。この尖塔を基準にして、ヘイヴン本邸の私有地の区画分けがされてる。立ち入りの権限は、お祖父様と僕だけが持ってる」
「……入っていいの?」
「ああ」

 鍵を開けて軋む鉄扉を開けて中に入る。こまめに管理されているのか、埃っぽさもカビ臭さもなかった。見張り台というには広めので、ヘイヴンの街のどこからでも見える尖塔だけあって、特に気に留めていなかったが立派な作りだった。
 階段を上がっていくと、途中踊り場と扉が見えてくる。扉の先は小部屋になっているのだと、容易に想像できた。

「……ここ、ジャスパーが敷地への侵入者を監視するために建てたの……?」
「正解」

 建てられた位置、階層ごとに設けられている小部屋の向きからの推測に、レナルドはくすくす笑いながら頷いた。

「セスの受け取った褒賞が噂になっていたらしい。ヘイヴン家は昔から不法侵入者と戦ってきた」
「そしてあの過剰な防衛網を作り上げたのね。ヘイヴン家は見張り塔が多すぎるわ……」
「そうぜざる得ないほど、不届きものが絶えなかったのさ」

 エイダの呆れた声に、レナルドは肩をすくめてみせた。
 セスは宝物庫を空にする勢いで財物を根こそぎ奪い取ってきた。当時は宝石などより食料の方がよっぽど価値が高かったが、飢饉が終息すればその財物を狙うものがいてもおかしくない。

「……戦神の命懸けの功績に対する褒賞なのに。セスにだけ権利があるわ……」

 最もセスはそんなものを望んではいなかったけれど。憤慨にぶつぶつ垂れ流しながら、エイダは階段を上がりきる。尖塔の最上階に広がる景色に、エイダは息を飲んだ。

「すごい……」

 本邸の見張り台より近くに、ヘイヴンの街が一望でき視線を巡らせれば、ソムヌスの山裾が見える。

「隣国との国境はあっちで、王都への凱旋はあの門の向こうだった。銀行の裏手の建物が見えるか? 今は博物館になってるが、傭兵団の定宿があった」
「……そう。当時の面影はどれくらいあるのかしら」
「ほとんどない。銀行を中心にジャスパーが、区画整理を計画したんだ。利便性より本邸に繋がる道は煩雑にしつつ、見張りやすい作りにしたみたいだ。できるだけヘイヴンの街並みが以前とは違うようにしている。裏通りなんかは完全にぶっ壊してた。ジャスパーの息子の代で区画整理は完成してる」
「そう……なんとなくそうした理由がわかる気がするわ……」

 侵入者を防ぐ目的だけでなく、敬愛する戦神・セスの凄惨な過去の面影を消してしまいたかったのかもしれない。確かにヘイヴンでの、過酷な幼少期が戦神たり得る素質を育んだ。だが、知らずにいていい過酷さでもあった。知らないままで問題のない凄惨さ。未来において歴史に名を残す武人となれるとして、誰がそれを望んだだろうか。
 もしも幼少期の環境が良ければ、生まれつき体の弱かったレイラも、もっと長く生きられたかもしれない。

「……泣いている僕に、お祖父様がここにいつでも来ていいと許可をくれた。僕は手記を終えるたびに、この景色を見に来ていた」
「うん……」

 通り抜ける風に攫われた髪を耳にかけ、眼下に広がる近くて遠く映る景色を見つめた。

「……子供の頃、ヘイヴンだからできて当然。ヘイヴンの癖にそんなこともできない。そう言われるたびに、辻芸人の歌い上げるセスの物語を聴きに行った。胸のすくような英雄譚に焦がれて、自分まで強くなれる気がしてた。当主候補になって周りはセスとジャスパーに、さほど興味を抱いていないと知った。死に物狂いで努力したよ。そんな奴らに任せられないって」
「そうね、貴方がヘイヴンの当主に相応しい……」
「最終候補になって、手記を目の前にしたときは手が震えた。そのあとは別の意味で震えることになるんだけどね」
「ふふっ……」

 エイダが思わず笑みをこぼす。辛くなるたびに聞きに行くほど、戦神の英雄譚に憧れていたなら衝撃は大きかっただろう。知っていると思っていた事実とは違う歴史に、横っ面をビンタされ続ける内容なのだから。戦神・セスに妻がいたことなどきっと、誰も知らない。

「幼少期を知ってここで、ジャスパーが街をぶっ壊したことに快哉をあげたよ。戦神・セスの凱旋した門すら残っていないことに、寂寞を掻き立てられた。どんなに祈っても願っても、二人にオレンジを届けられないことが辛かった……この監視塔を建てた理由が分かって、ヘイヴンの一族として守り続ける誇らしさを知った。でも僕はいつもここで一人だった」

 ソムヌスの森を背に、ヘイヴンの街並みにレナルドは目を細めた。シュッツの誓いと同じ、深い青の瞳が陽光に美しく煌めいている。

「……だから未来に賭けることにしたんだ。この景色を一緒に見守り、守るために共に戦い、隠された歴史を語り合える人が隣にいる未来があることに。押し流された歴史はどんなに願っても変えられない。そのやるせなさも寂しさも、隣で笑う人の温もりに慰められるそんな未来を。いつかその瞬間も歴史になる寂しさも、共に生きる幸せで輝かせてくれる。あの二人のように手を取り合って生きる喜びを、見出せる誰かに出会う未来がくることに僕は賭けたんだ」

 ヘイヴンの街並みから、レナルドがエイダに振り返る。陽光を背に銀にも見えるプラチナブロンドを風に靡かせて、泣きたくなるほど綺麗に笑った。その笑みにエイダの胸が熱く震える。
 
「そして出会えた。あの日の僕が、求めていた君に。エイダ・クラソンに出会えた未来に辿り着いた」
「レナルド……」

 エイダの涙の伝う頬に、レナルドがそっと手を伸ばした。何度も襲ってきた吹き荒れる感情の渦。そこからいつもエイダを救ってくれた温もりに引き寄せられる。エイダもその温もりをしっかりと抱きしめた。今生きて共に在ることを確かめるように。

「エイダ・クラソン。君と生涯を共に生きていきたい。手を取り合って。寄り添いあって。君を誰よりも愛する権利を僕に与えてくれないか?」
「……うん、うん。はい。貴方と生きるわ。レナルド・ヘイヴン。貴方と共に。生涯にわたる、尊敬と愛を持って……」

 押し流された時の中で今この時、手を取らなかったことを後悔しないように。
 エイダはしっかりと頷き、ぎゅっとレナルドの温もりを抱きしめる。いつか眠りにつくときに、レナルドと共に歩んだ歴史を胸に抱いて目を閉じる。その未来をエイダは今、選び取った。
 壮大に広がる変わり続けるヘイヴンの街並みと、ひっそりと歴史を抱いて時を止めて在り続けるソムヌスの森。その狭間に建つヘイヴンを見つめ続けた尖塔で、エイダとレナルドの唇がゆっくりと重なった。
 重なる温もりが、今生きていることを実感させる。今この時さえもいつか過去になる寂寞を越えて、生きる幸福を胸に湧き上がらせる。こんな瞬間を重ねて、この先の未来をレナルドと共に生きていくのだ。

「ふふっ……」
「エイダ?」
「ねぇ、レナルド。貴方、手記を終えてから口説くって言ってなかった?」
「あぁ、そうだったな。でも手記は次が最後だし、仕方なくないか? 勇敢で聡明。おまけに美人。早めに確保しないと誰かに盗られる。「冒険なくして何も得られぬ」「意志あるところに道もあり」「善を行うのに考え込んではならぬ」。ヘイヴン家の信条なんだ。クラソンの家名とじゃじゃ馬の評判に、ライバルが怖気付いてるうちに掠め取っておくべきだろ?」
「貴方じゃないんだから、そんな人いないわよ……」
「はいはい。とにかくもう君は僕のものだ。キスだってしたんだし」

 機嫌よく覗き込んでくるレナルドに、エイダは赤くなった顔を背けた。

「……これだから狸一族は……あー……」

 照れ隠しでつぶやいた自分の憎まれ口に、エイダはハタと動きを止めて顔を歪めた。

「今度はなんだ?」
「……まんまと古狸の思惑通りになったなって……」
「ああ、お祖父様の見る目は確かだったが、僕もそれに関しては思うところがある」
「一泡吹かせたいわ!」
「ははっ。ゆっくり考えればいい。手記も最後が残ってる。僕は全面的に未来の妻の味方をするよ」
「その言葉、忘れないでね!」
「もちろんさ。手記はどうする?」
「帰ったらすぐ読むわ!」
「そうか、無理してないか?」
「全然! 貴方のお陰でね。古狸が帰ってくる前に全部読みたいの」
「わかったよ、辛くなったら僕を呼べ」
「もちろんそうするわ」

 微笑みを交わし合って、隠された歴史が眠る街、ヘイヴンを見渡す。この街を守り続けるレナルドと共に生きていくのだ。自然と繋がった手を握り合って、尖塔の階段を降り始める。最後の手記を読むために。全てを知るために。自分が何をすべきか。エイダ・クラソンとして何ができるのか。その答えを出すために。