今日もたくさんの人間が、目の前で死んでいった。
 セス様が大剣を一振りすれば、簡単に五人程度は一気に薙ぎ払われる。二人目までは血飛沫を上げ、三人目ぐらいからは殴打に骨を軋ませながら吹っ飛び、後続を巻き添えにする。
 手にしているのは聖剣かと疑ったこともあったが、そんなことはなかった。
 粗悪な量産品で切れ味などほとんどない。単に圧倒的な力で振り抜かれる、速度の乗った鉄の刃が肉と骨を断ち、速度が落ちる三人目からは撲殺に切り替わっているだけだった。
 当然セス様には武器に頓着も愛着もなく、持ち主がいなくなったものを拾い奪って使い捨てていた。生まれ持った純粋な力が、セス様の持つ剣を聖剣と疑わせるだけだった。
 これほどの武力。セス様が傭兵として参戦し、すぐに頭角を現していたのは幸運だったと言える。瞬く間に轟いたその武勲を、正当に評価したのも僥倖だ。そうでなければ蹂躙されていたのは、自分たちだったのだから。
 使い捨てる武器と同じ程度には、セス様に愛国心など存在していない。敵に回してはいけない。正常に作動した指揮官の生存本能が、十分な報酬と食料を用意させた。
 セス様を満足させる報酬を提示できた者が、戦場の神を得て、生き残る。それが国境線の戦のルール。用意するのは繊細で美しい装飾品か布。そして食料。できるならオレンジがいい。そして可能な限り短い契約期間。戦況が佳境を迎えようとも、セス様は契約期日が満了すれば延長は一切受け付けない。
 セス様との契約を勝ち取っても運用を間違えれば、その先に待つのは敗北だ。セス様は契約期日には非常に厳格だったから。

※※※※※

 ヘイヴンの街から程近い「黒い森」。二人がたどり着いた森は、不気味なほど静まり返っている。
 藪を払いながら泥土に苦労しつつ奥へ進む。分け入るほど暗く深くなる森。人はおろか生き物の気配さえない。怯えるレイラの手をとって、セスは導かれるようにより険しくなる高台に向かって奥へと進んだ。
 高度が上がるほどぬかるみが減り、多少は陽射しも届き始める。肩で息をするレイラを、セスが振り返った。

「レイラ、もう少し歩けるか?」
「うん」
 
 セスが差し出した手を掴み、レイラは頷いた。手を握ってレイラを引き上げ、森の奥へと視線を巡らせる。もっと奥に。誰も来ないところに。
 レイラを気遣い休憩を挟みながら、セスはさらに森の奥を目指した。
 生き物さえ寄り付かない森も怖くはない。セスとレイラの気配だけが、この森では生きている。それがひどく心地良かった。
 隔絶された世界に二人だけ。進むほど薄れていく他人の気配は、信じられるものが互いだけの二人にとって、どこよりも安全に思えた。
 やがて登りきったのか、緩やかな登り坂は下りに変わる。少し下った先でぽっかりと空が見える拓けた空間が現れた。周囲には倒れた木が重なり苔むしている。削り取られたように剥き出しになっている岩肌からは、湧水が染み出していた。
 ひどく疲れたようなレイラが、その湧き水を飲もうと伸ばした手を、セスは優しく押し留める。

「レイラ、待て」

 セスが湧水を手で掬い、匂いを確かめ飲み下す。小さく頷くと場所を譲って、レイラが喉を潤すのを優しく見つめる。
 レイラが湧水を飲む間に、セスは視線を周囲に巡らせた。
 削られたように倒木が並ぶ空間の先は、また鬱蒼と木々が立ち並ぶ森。染み出している湧水は緩い傾斜に沿って流れ、大きくえぐれた窪みに溜まって小規模の泉を作り、その先で小さな川となって下流へと流れ出している。
 高度が上がるほど岩が姿を表す粘土地帯で、湧き水が絶えず染み出し緩くなっていた地盤が、地滑りを起こしてできただろう空間。
 陰鬱な魔の森の様相を呈する場所にあって、空が見える空間はそれだけで特別さを感じさせた。まるで砂漠にあって突如現れたオアシスのような、魔の森の聖域のように思わせた。

「……水もある」
「セス?」

 痩せ細った身体で歩き通しだったレイラは、座り込んだまま呟くセスを見上げた。

「レイラ、ここから動くなよ」
「うん……」
「すぐに戻る」
「……わかった」

 疲れ切っているレイラを残し、セスはぽっかりと拓けた空間から木立に向かった。藪をかき分けて少し進むと、小山のような地面の隆起を見つける。セスはそこで足をとめた。
 かすかに聞こえる音に、ほんのわずかな違和感を感じた。セスは慎重に藪をかき分けると、回り込むように隆起した地面の辺りを調べ始める。

「空洞……?」
 
 小山のような盛り上がりに、小さくできた隙間を見つけ、セスは眉根を寄せる。改めて眺めると小山ではなく、重なった倒木の上に岩と土がかぶさってできたものだとわかった。
 セスは地べたに這い、その隙間の中を覗き込む。手を差し入れると、奥は思ったよりも広い空洞になっている。周辺を慎重に手で掻いて隙間を広げると、セスは身体をにじり入れた。中は分厚く積もった土と岩が、倒木に支えられていて、思った以上に頑丈そうだった。真っ暗な空洞を念入りに手で確かめる。

「……セス! セス!」

 不安そうなレイラの声がセスを探すのを捉え、セスは慌てて空洞から這い出した。

「レイラ!」
「セス!」
「待っていろと言っただろう?」
「でも……セスがいないと……」

 縋るようにレイラがセスに抱きついた。離れるのを不安がるレイラに愛おしさが募る。レイラの体温を優しく抱きしめ、セスはレイラに言い聞かせた。

「大丈夫、レイラのそばにいる」
「セス……セス……約束よ。ずっとそばにいてね……」
「そばにいる」

 不安そうに瞳を潤ませるレイラの頬を撫で、手を繋いで湖へ向かって歩き出す。

「レイラ、空洞を見つけた。そこを……」
「あっ……!!」

 倒木に足をとられたレイラがバランスを崩し、泥土のぬかるみに倒れ込んだ。

「レイラ……!!」

 慌てて駆け寄って助け起こすセスは、顔を上げたレイラを見つめて手を止めた。

「セス……?」

 助け起こそうと伸びていたセスの手が止まり、泥のついたレイラを凝視する。戸惑うレイラの声に、セスはレイラが倒れ込んだぬかるみに手を伸ばした。粘土質で粒子の細かい泥は、セスの手を抵抗なく奥へと沈める。

「セス? どうかしたの?」

 灰色の泥を掬い取り手触りと匂いを確かめるセスに、レイラは首を傾げた。やっと顔を上げたセスは、掬い取った泥を手にしたまま、レイラにゆっくりと手を伸ばした。

「セス……? 何を……」
「レイラ、目を閉じて」

 囁くようにセスは呟くと、泥を掬い取ってレイラの肌に髪にそっと触れる。
 その度に灰色の泥が、レイラを薄く覆う。差し込むわずかな日差しに照らされる、儚く美しいレイラ。セスの心臓を動かし、血を巡らせ、人にしてくれる愛しいレイラ。
 大切な大切な綺麗なレイラにセスが泥を掬い髪に触れるたびに、月明かりの髪が白茶けてくすんでいく。
 恍惚として泥をレイラに塗り込めていくセスを、レイラは抵抗せずに受け入れた。セスが嬉しそうだったから。丁寧に優しく泥を塗り込むセスの手つきに、レイラは目を閉じ身を任せる。
 白い肌に月明かりの髪に、セスは優しく触れ丁寧に泥を薄く纏わせていく。ゆっくりと隠れていく、セスの大切なレイラの美貌。

「……ああ、レイラ。目を開けて……」

 セスの手が止まり、レイラがゆっくりと目を開ける。顔、首筋、髪、足、腕。服から出ている肌に、隙間なく泥を塗りつけたセスは、満足そうに笑みを浮かべた。

「……隠せた」
「何を?」
「レイラを。こうしてずっと隠しておこう」
「ずっと?」
「そうだ……俺がいない間はずっと」
「……隠したら、そしたらもう追いかけられなくなる?」

 そのせいでセスがレイラを庇って殴られたりしなくなるだろうか。問いかけるレイラの眼差しに、セスが瞳を蕩けるように細める。
 
「ああ、大丈夫だ」

 レイラはセスをじっと見つめ、安心したように頷いた。
 泥まみれのレイラに、セスは安堵のため息をついた。ずっと隠しておける。白茶けたレイラの姿は、この上なくセスを満たした。泥を塗り込めるたびに、レイラが自分のものになっていくように感じた。
 この世で最も美しいものを、汚して隠す。その本来の美しさはセスだけが知っている。セスだけが本当の価値を知っている。
 人も生き物もいない暗く陰鬱な森の奥深くに、泥で汚した美しいレイラを隠しておこう。誰も見つけないように。誰も奪わないように。誰も触れないように。
 
「おいで、レイラ……」
「うん」

 差し出した手を取って、レイラは嬉しそうに笑みを浮かべて歩き出した。
 セスは見つけた空洞を掘り進め、空間を広げたそこをねぐらに決めた。
 糧を得る狩りに向かう前、セスはレイラに丁寧に丁寧に泥化粧を纏わせる。月明かりのような紫銀の髪も、白く抜けるような柔らかい肌も、泥に白茶けてその輝きを隠せるように。自分がそばを離れる間、誰かにかすめ取られることがないように。

「セス……私も行きたい……」
「ダメだ、レイラ。ここで俺を待つんだ」
 
 唯一隠せない星屑を宿した紫藍の瞳に言い聞かせ、セスは掘り広げた空洞にレイラを隠す。

「レイラ、ここを絶対に出るな」
「うん……」
「大丈夫、必ず戻る。すぐに帰るから……」
「セス……」
 
 空洞の入り口を藪で隠し、セスは毎日険しい道のりを街へと駆けた。森の入口に痕跡ができないように、用心深くルートを変えて。
 糧を持ち帰り泉に身体を浸し互いの身体を清めると、セスだけが知るレイラの本当の姿が月明かりに浮かび上がる。この瞬間のためにセスはなんでもできた。この瞬間のために生きた。全ての憂いはレイラが消してくれる。

「レイラ、キレイだ」
「セス……」

 冷たい湖に浸り月光を頼りに抱き合う二人は、互いの体温に寄り添い合う。
 二人の他に生きるもののない黒い森。その腕に抱かれて、ようやく二人に安らかな眠りが訪れた。